第10話 縛られた現実から逃れたい
オペラの音楽が鳴り響くフェリシア・リドマンの書斎で、険悪なムードが流れていた。本棚に詰め寄られたパトリックの髪をぐいっと持ち上げて、顔を押し付ける。感情的になると、いつも身体的苦痛と精神的苦痛を浴びることが多かった。婚約者と言えども、すでに公務に参加させられていることもあって、責任感が伴っていた。
「なんで、こんなことさせられているか分かるか?」
ギリギリと顔がフェリシアの手で本棚に押し付けられる。
「……ええ、私のせいですよね」
靡く髪が頬に纏わりつく。二時間もかけてセットしたヘアセットが台無しだ。
「当たり前だ。なんで、私が参加した馬術を大人しく見てられなかったんだ? あ?」
優しい声ではない。火がつくと悪魔にでもとりついたかのような仕草で攻め立てる。
「私は……あの場所にふさわしくないと感じたからです」
「ふさわしくないと? 婚約者であるが故に出席することが絶対だろう。なぜそれがわからない! 母上に私が叱られたんだぞ。たくさんの来賓者がいらっしゃっていた。未来の花嫁をお披露目しないのはおかしいだろうと注意も受けた。これがどういうことか分かっているのか!?」
「……そんな、お披露目は結婚式で十分じゃないですか。そもそも、来賓者の方々に紹介するなどと説明は受けておりません。予定外のことですよね?!」
「口答えするなぁぁああ!!」
フェリシアは、眉間にしわを寄せて、右手の甲でパトリックの右頬を叩いた。本棚に追い詰められていたパトリックは高級な絨毯の上に伏せた。体が震えて、言葉にもならない。これは一度や二度じゃない。母親にとがめられると決まって、八つ当たりをするのがフェリシアのやり方だ。自分で気持ちを消化できずに人にあたる男だった。
「無様が恰好だなぁ……叩かれてどんな気分だ? 贅沢だろう。私に叩かれるのだから。その頬の価値が上がるぞ、なぁ、パトリック!」
フェリシアは、屈んで再びパトリックの髪をぐいっと持ち上げて、顔を拝む。
「……クッ……」
「お? 歯向かうのか? いいのか。この私に歯向かっても。二度とその口が聞けなくなるぞ?」
「私はもう、貴女と口が聞けなくなっても構いません! 貴方とはこれ以上一緒にいることは不可能です!!!」
「なっ!? それはどういうことだ?!」
フェリシアは拍子抜けしたようで動揺を隠せずにいる。傷だらけのパトリックはキリリとフェリシアを睨みつけ、髪をつかんでいた手にがぶりと嚙みついた。
「痛っ!! な、何をする!」
体勢を崩したフェリシアの隙を見て、パトリックはすぐさま逃げ出した。ドレスをびりっと破いて、ぐちゃぐちゃになった髪を上の方にまとめ上げた。着飾ったドレスよりも髪の方が大事だと考えていたからだ。
フェリシアの爪で傷ついた頬を拭ったが、傷は消えることは無かった。契約を交わしたように一本の線を描いている。
駆け込んだトイレの鏡を見つめ、すぐにでも消したかった。何度も何度も冷たい水で顔を洗い流す。無駄な動きだと思っても、今は消したい過去を水で流したかった。
様子がおかしいことを聞きつけて、トイレに駆け込んだのはパトリックの侍女のソフィアだった。瞬時に状況を読んだ。
「……パトリック様、逃げましょう。私が手伝います。今すぐに、身を守る行動を」
「ソフィア。ありがとう、でも、私は貴女の命が心配だわ」
「こんな時に何をおっしゃっているのですか。私の命はパトリック様に捧げられるのなら、本望ですよ。さぁ、着替えましょう。このままでは目立ちますから」
「ソ、ソフィア。貴女って人は……恩に着るわ」
「ほら、お早く!」
侍女のソフィアは、パトリックを侍女が寝泊まりする部屋へと案内した。そこには侍女たちが着る服が集められているクローゼットがあった。
「まぁ、貴方達の着る服って全部、同じ服なのね。おしゃれなんて、できないじゃないの。王様に伝えて新しい服仕入れてもらうようにしましょう」
「パトリック様、今はそんなこと考えてはいけません。ここから出るんですよ。気にしないでください。今からパトリック様は侍女に変身するのですよ」
ソフィアはクローゼットの奥の方でパトリックの着るサイズを探した。これから出ようとするパトリックに王様と接することはできないはずだ。
「え?! 嘘、これ着るの。暖かそうだけど、似合うかしら」
「大丈夫です。皆が着れるようにたくさんのサイズを用意してくださいましたから」
「確かに毎日着るものはたくさん無いといけないわね。私が侍女って何だか面白い
わ」
ソフィアは目を点にして、手が止まる。口角を上げた。
「嫌がると思っていましたが、楽しそうで良かったです」
「かくれんぼしてるみたいじゃない? 絶対見つからないようにしなくちゃ」
やる気を見せるパトリックにソフィアも楽しくなってきた。
「絶対見つかりませんわ。顔を隠せる帽子もありますの。魔女のような羽織もあるのでご心配なく!」
「いいわね、いいわね。最高よ」
「一緒に行けないのが残念ですけどね……行けるなら行きたかった」
「確かに……でも、ソフィアを危険な目に遭わせられないわ。私が処刑されるなら、分かるけど貴方まで巻き込みたくないの。これは絶対に秘密よ」
「は、はい! 命を狙われたとしても私は平気ですよ。人生そんなものだって思ってますから。身寄りもないですし、誰も私が死んだことなど気にしません」
「私が気にする!!」
パトリックはソフィアを頭からぎゅっと抱きしめた。ソフィアはパトリックのあたたかさに涙が出そうになる。
パトリックは、侍女の恰好に着替えると、必要最小限の荷物をまとめてソフィアに見送られながら、裏の門口から外へ出ようとした。休憩から戻った門番が不思議そうにこちらを見る。
「こんな時間にどちらに行かれるのですか?」
「……買い物よ。ソフィアが発熱してお薬がないとダメと言うから」
「お薬ですか……シスターがいつも用意してくれると思いますが。それではいけないんでしょうか?」
「え、ええ……薬剤が足りないというのよ」
「はぁ、そうですか。夜は、危ないですから道中お気をつけて」
「ええ、ありがとう」
侍女に変装したパトリックは目深にかぶった帽子をさらに深くかぶった。門番に気づかれてしまったら、元も子もない。風が強く吹くお城の外をゆっくりと歩き出す。
パトリックにとってのその一歩は重く、明るい未来の希望だった。
東の空には大きな満月が光り輝いていた。




