5-1話 彼方からの侵略者
意識を浮上させたのは、不快な電子音の断片だった。
脳の奥を針で刺されるような規則的なリズム。重い瞼を押し上げると、
「見慣れた、天井だ…」
低い天井。むき出しの配管。金属板の継ぎ目が不揃いに並び、鈍い銀色を放っている。
鼻を突くのは、鼻腔にこびりつくような消毒液の臭いと、重機から漏れ出た古いオイルの混じった、独特の脂っこい空気。
――あぁ、ここはシェルターだ。
あの神との戦いの果てに、俺はどこへ辿り着いたのか。
「……っ、げほっ」
肺に溜まった澱んだ空気を吐き出す。体が鉛のように重い。
「やっと起きたか! この大馬鹿者が!」
鼓膜を震わせる粗野な、だがどこか安堵の混じった声。
首だけを動かすと、そこには腕を組み、仁王立ちになったリヒターがいた。
いつもは皮肉げに歪んでいるその口元が、今日ばかりは隠しきれない喜びで僅かに震えている。
「リヒター……」
「二週間だぞ。丸二週間、お前は死体みたいに転がってたんだ。熱で脳味噌が沸騰したんじゃないかって、本気で心配したんだからな」
「二週間……?」
喉が焼け付くように乾いている。自分の声が、他人の、それもひどく老いさらばえた男のもののように掠れて響いた。
空白の十四日間。神を殴り倒し、可能性の海から現実へと這い戻ってきた代償にしては、安いものなのかもしれない。
だが、再会を噛みしめる時間は与えられなかった。
「そんなこと言ってる場合じゃねぇよ! ほら、立って!」
横から、細いが鋼のように強い力で腕を掴まれた。
強引にベッドから引きずり下ろされる。視界が火花を散らし、平衡感覚が狂う。
「おい、待て……落ち着けって……」
「いいから! 自分の目で確かめてみろ!」
グラスだ。
短く切り揃えられた髪、意志の強そうな鋭い目つき。
いつも冷静な彼女が、今はひどく取り乱している。俺を掴むその指先が、微かに、だがはっきりと震えているのが伝わってきた。
重い防圧扉が開く。
プシュッという排気音と共に、外の世界の空気が流れ込んできた。
次の瞬間――俺は、呼吸の仕方を忘れた。
「……なんだよ、あれは。悪い冗談か?」
外に出た俺の目に飛び込んできたのは、かつて見上げた「澄み渡る青空」でも、神が作った「完璧な壁紙」でもなかった。
空が、物理的に埋まっていた。
それは雲ではない。鳥の群れでもない。もちろん、夜を待つ星々でもない。
巨大な、形容しがたい“異形”が、空を覆い尽くすほど無数に滞空していた。
古い記録にある飛行船のようでもあり、けれど風を受ける帆も、爆音を立てる推進器も見当たらない。
巨大な生物の骨格を思わせる有機的な曲線と、マットな質感の未知の装甲が複雑に絡み合った、生理的な嫌悪感を催すデザイン。
それらは意志を持っているかのように、ゆっくりと、それでいて威圧的に――地上に生きる俺たちを見下ろしていた。
「突如として宇宙から現れ、そして一方的に牙を剥いてきた」
背後から、低く、重い声がした。
ショウだ。
元軍人のその顔は、もはや隠居した整備士のそれではない。完全に、最前線の戦場に立つ指揮官の顔に戻っていた。
「二日前だ。衛星軌道上に深刻なノイズが発生したと思ったら、次の瞬間にはあれが空を埋め尽くしていた。既存の通信網は一瞬で全滅。空軍の迎撃も試みられたが……ほぼ無意味だったよ。奴らは物理法則の埒外にいる」
「宇宙人……侵略者ってわけか。マジかよ……」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れ出した。
笑うしかない。
あの極限の戦い。
無数の「自分」を動員し、神という概念を殴り飛ばして。
バラバラになった世界線を強引に束ね直して。
地獄のような現実だろうが、冬子のいない世界だろうが、それでも俺は「俺たちの現実」を守るために戻ってきたんだ。
それなのに、ようやく辿り着いた先がこれか。
「ほんと……笑わせてくれるな」
俺は、首が痛くなるほど空を仰いだ。
巨大な異形が放つ不気味な発光が、網膜をチリチリと焼く。
「運命ってやつは、俺のことが相当嫌いらしいな。」
遠くの地平線付近で、地響きのような爆発音が響いた。
「市街地の一部がやられたな。これで三つ目の区画だ」
ショウが、忌々しげに吐き捨てる。
「奴らの攻撃は無差別じゃない。防衛拠点、エネルギー供給施設、そして市民が集まる大規模なシェルター。文明の急所を、正確に、精密に狙い撃ってきている」
「侵略……」
グラスが、震える声でその言葉をなぞった。
その言葉が、今の俺には妙にしっくり来た。
「神みたいな抽象的な存在じゃない。明確な殺意を持ち、こちらの命を、土地を、資源を奪いに来た敵」
分かりやすいじゃないか。
「いや……違うな」
俺は、震える足に力を込め、一歩前へと踏み出した。
「鋼……?」
グラスが、不安げに俺の横顔を覗き込む。
「これは、ただの侵略じゃない。これは“始まり”だ」
俺は自分自身に言い聞かせるように、言葉を紡ぐ。
「古い軍隊は消えたかもしれない。でも、あの神様が見下ろしていた“外”の世界は、まだ死んじゃいないんだ」
空に浮かぶ異形たちが、一斉に、同期したような拍動を始めた。
装甲の隙間から、禍々しい紫色の光が漏れ出す。
「次は――俺たちの番だ」
胸の奥で、何かが静かに、だが激しく燃え上がるのを感じた。
それは、かつて俺を突き動かしていた単なる怒りではない。
ましてや、死を待つ者の恐怖でもない。
冷徹なまでの、覚悟だ。
「ブライは? 動くのか」
俺は振り返り、リヒターの目を見据えた。
「ハッ、誰に言ってるんだ。我を誰だと思っていやがる」
リヒターが不敵に笑う。
「修復は終わっちゃおらんが、戦える状態には戻してある」
「ならいい。上等だ」
俺は、残った力を振り絞って右拳を強く握りしめた。
冬子は、もういない。
彼女を救えなかった後悔は、一生消えることはないだろう。
だが、彼女が最期に遺してくれた【理想】は、まだこの胸の中にある。
そして、この荒れ果てた地上には、守るべき不器用な仲間たちが、まだ息をして立っている。
「侵略者ども……。悪いが、俺は今、機嫌が最高に悪いんだ。まとめて蹴散らしてやるよ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
空の向こうから、未知の黒い影が地上へと降りてくる。
それが神の使いだろうが、外宇宙の尖兵だろうが、運命の化身だろうが、知ったことか。
――来るなら来い。
俺はもう、目を逸らさない。
絶望の先にしか見えない景色があるなら、それをこの目で拝んでやる。
たとえこの戦いの果てに、何一つ残らなかったとしても。
俺はブライXマキナへと歩き出す。
その足取りは、先ほどまでの重さを忘れ、羽が生えたように軽かった。
「鋼、行くぞ!」
ショウの号令が飛ぶ。
「あぁ……暴れようぜ」
荒廃した大地に、黒銀の咆哮が、今再び、轟こうとしていた。




