十二月三十日(木曜日)午後五時
「この事件で最後まで俺を悩ませたのは、坂下祐樹という人物が、狡猾なのか、間ぬけなのか、判断できなかったことだ。愚者をよそおった頭脳明晰な人間は、世の中にはいくらでもいる。医学部研修生の坂下祐樹――。しかし、調べれば調べるほどやつの行動は、およそ狡猾な人物が取る行動ではないように思えてくる。
そこで、俺は考え直してみた。電話をかけた人物は、やはり、美原詩織本人であると再度仮定をしてみた。すると、美原詩織以外の人間が今回の犯行をおこなえば、誰もが確固たるアリバイを工作できないことに気づいた」
「検死の死亡推定時刻によって、アリバイが左右されるからよね」
青葉がポツリと呟いた。
「すなわち、今回の登場人物の中で、犯行を支配できる唯一の人物は美原詩織なのだ。それでは、彼女の動機は何だろう? おそらく、坂下祐樹への復讐だ。思いこんだらそれだけに固執してしまう性格。かつて、坂下祐樹に交際を拒まれたときに、彼女のプライドはズタズタに傷ついたのだと思う。彼女はみずから命を失う代償に、坂下祐樹を社会から抹殺しようと試みたんだ」
「まさか……、詩織姉さんはまだ若いのに……」
「検死の報告では、彼女の体内から薬物は検出されていない。しかし、かわりに彼女の体内から転移した癌細胞が見つかったんだ。これで、俺はこの推理に確信を持つことができた。彼女は自分の不治の病を認識していたからこそ、命を犠牲にして復讐するという大胆な犯行を決断できたのかもしれない」
「そんなことが……。だって、電話で呼び出した坂下祐樹が予定どおりやってきても、雪の上に都合よく足跡を残してくれる保障はないじゃない!」
青葉は涙ぐんでいた。
「そうだよね。それでも、彼女は大雪が降る日をひたすら待った。そして、雪が積もった早朝にかねてからの計画を実行した。まず、彼女はテニスコートから坂下のアパートに電話をかける。坂下祐樹を現場に誘いだすように仕向けると、美原詩織は人生最後の舞台となるテニスコートにやってきた。彼女がコート内をわざわざ迂回して歩いた理由は、自殺した後で、駆けつけた坂下が踏みそうなルートに、自分の足跡が重ならないように気づかったからだと思う。自分と坂下の足跡が錯綜してはっきりと残らなければ、彼女の計画は支障をきたすからだ。最後に、敷地の中央まで移動した美原詩織は、用意した剃刀でみずからの喉を切った!」
恭助は青葉の顔色をうかがいながら、さらに、説明を続けた。
「お人よしの坂下祐樹は、まんまと彼女の描いたシナリオどおりの行動をとった。これで俺が気にかけていたすべてが説明された。つまり、犯行が雪の積もったテニスコートを選んで行われた理由――、シーズンオフの人通りが途絶えたテニスコートは、今回の犯行の舞台にうってつけだったに違いない。坂下祐樹へかけた電話の目的。美原詩織が足跡を残す際に、わざわざ迂回した理由――」
「ちょっと待ってよ。詩織姉さんが自殺したのなら、凶器の剃刀はどうなってしまったの?」
最後の望みを託すように、青葉が訊ねた。
「凶器を犯人が持ち去った真の目的は、自殺の可能性を否定するためであり、その真犯人は美原詩織ご本人だ。ここまでヒントを出せば、もうわかっただろう?
さて、空っぽのショルダーバックの中にはいったい何が入っていたのだろうか?」
恭助から逆に問いかけられた青葉は、あきらめたようにため息をつくと、小声で返答した。大好きだった美原詩織が人生の幕切れを迎えようとも隠し通そうとした事件の核心となる最後の一片を……。
「それは、空を飛べる生き物――。つまり、鳥……ね」
「そう。実に単純なトリックさ。凶器となる剃刀には、取っ手に穴を開けておいて紐をゆわえておく。その紐の反対側は鳥の足に結びつけた。ショルダーバックの中に鳥を閉じ込めて、剃刀と紐の一部は外に出しておく。みずからの喉を切った後で、残りの力を振り絞って、詩織はショルダーバックから鳥を逃がしたんだ。鳥はそのまま飛び立って、凶器は現場から消滅した」
「もし、逃がした鳥がフェンスにとまったりすれば、凶器はその下におちちゃうかもね」
「そうだね。それはそれでしかたないと思っていたんじゃないかな?」
少し歯切れが悪そうに、恭助が答えた。
「坂下祐樹はどうなったの?」
「昨日、釈放したよ。真相は知らせずにね。そのほうが、やつには幸せだろう」
「真相は公開されちゃうの?」
「そのつもりはないよ。もちろん、報告書は警察に残るけど、真相は永遠に闇の中ってわけだ。青葉には……、ええと、優等生には、こっそり教えちゃったけどね……」
ここで、恭助はハッと何かに気づいて、恥ずかしそうに青葉から眼をそらした。すると、ナンバーワン優等生である瑠璃垣青葉が、恭助をじっと見つめて、嬉しそうに微笑み返した。
「やっと、私の名前を呼んでくれたわね……」
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