第三話 自己紹介を始めようか
そして、その日はやってきた。スーツは整えたし、髭も剃った。今の俺は、かなりいけているはずだ。きっと、リディアが今の俺を見たら驚くだろう。どうしたの、その格好、かっこいいね、だなんて。……嫌になってくるな。リディアはそんな風に言わない。もっとこう、落ち着いていて、それでいて美しくて……。いや、今はこんなことをしている場合ではない。今日は研究所に初めて行く日。言ってしまえば初出勤。事前の知識を入れておいたから、新人研修は結構すぐ終わるはずだ。妙な期待感と高揚感のまま、郊外にある研究所へと足を運んだ。
道中、変な奴らに絡まれたが、奴らは俺を同類と見ると、出したナイフをしまって立ち去った。俺はそこまで流れものに見えたのか。こんなに身だしなみを整えているのに。ポケットから鏡のかけらを取り出して、自分の姿をチェックしてみると、確かに顔が圧倒的に暗かった。今にも倒れそうなぐらいには、顔が青黒い。肌は白いのに。
「……おお。」
ため息をつく力さえなく、そのままよろよろと道を進んだ。認識してしまうと、やっぱり気分は落ち込む。自分はこんなに落ちこぼれてますよ〜、って言われている気がする。考えすぎだろう。そうだ、考えすぎなんだ。俺は明るい方がいい。暗くてもいい事はないんだ。だろう、リディア?
背筋をピンと伸ばし、空を仰ぐ。そして顔面に鳥のフンが落ちてきた。最悪だ。この世界、死ね。
そうして、研究所にたどり着く。パンフレットに書いてあった場所と一致する。非統治区域、ドライ社近辺の……もういいか。周りの建物が一致する。ギチギチに詰まった下町みたいな光景だ。カラオケ、居酒屋、あとは洋服店。いろんな店が周囲にはある。そして、俺は研究所だろう白い建物らしき豆腐建築の前で、周囲をキョロキョロ見渡す白衣の女性に目を向けた。茶色がかった髪、小柄。あの時俺を勧誘したあの研究員、その人だった。
あちらも俺に気づいたのか、顔を輝かせて手を振ってきた。俺も手を振り返した。ここで、俺は重大な間違いに気づいた。研究所なんだから、白衣に決まってるじゃないか。俺はなんで真っ黒のスーツでやって来てしまったんだ。……いや、流石に制服は支給されるよな?今の俺の金で新しく買えとか言われたら即バックれるんだが。そんな大きな不安を胸に冷や汗を垂らしていると、その女性は俺へと歩み寄って来た。
「ちゃんと来てくれたんですね!……ちょっと不安でしたけど……。とにかく、早く入ってください!みんな待ってるんですよ!」
彼女は、嫌な妄想に背筋を凍らせている俺の服の裾を引っ掴み、ずりずりと引っ張る。ちょっとよろけつつも、自分の足で歩き始める俺。引かれるままに研究所の中へ足を踏み入れた。
そこはまるで別世界だった。明るいライトが点き、和気藹々とした空気が漂っている。そして、一番気になったのは、なぜか俺の名前が書かれたボードが、おそらく休憩室であろう場所にデカデカと掲げられていたことだった。そしてそこに、白衣を纏った多くの研究員が、ワクワク顔で待機していた。全員が全員そうではなかったが──一部関係なしに膨れっ面で指先をいじってたり、外を眺めながらタバコをふかしていたりする奴もいた──、大体は歓迎ムードなようだ。
「みんな〜!新人くんが来たよ!マティアスくん!」
俺を連れて来た女性がそう大声で伝えると、皆が湧き上がった。そして、奥にいた気だるげそうな男が、クラッカーを鳴らした。
「よーこそ、プロジェクトルーメンへ。よろしく、新人マティアス。」
これは本当に研究所なのか。ここは本当に、あの世界と同じなのか。頭の中で疑問が渦巻く。だが、彼から差し出された右手を、掴まないわけにはいかなかった。
「よろしくお願いします。新入りの、マティアスです。」
お気楽そうな彼の手を握って、お辞儀をした。彼も同様に、にへらと顔を崩しながらお辞儀をした。
「俺は、ヨハン。なんでも言ってくれよ〜。」
こうして俺の歓迎会は終わった。……早かった。いや、普通歓迎会なんてあるもんじゃないから、これだけでも十分おかしいのだが。そして、各自自己紹介タイムが始まった。
「はいはい!俺から行きます!自己紹介一番、酒とギャンブルならおまかせを、テオです!」
「研究員の挨拶じゃねえなぁ……自己紹介二番、劇物毒物取扱役、ケヴィンだ。」
「これに乗じて私も!コリンナです!研究所の電灯全部変えてます!」
騒がしかった。だが、楽しかった。なんで、こんな入社一日目の俺に良くしてくれるのか、わからなかった。それでも、やっぱり嬉しかった。
「あの……私の名前まだ言ってませんでしたよね?」
あのパンフレット配りの彼女が、俺のところへそっと近づいて来た。
「名前、エミールです…。良かったら……覚えておいてくださいね。」
そうして、彼女は去っていった。他の研究員たちと、仲良くおしゃべりをしている様子が見えた。
質問攻めに会う中、困惑しつつも、温かい気持ちになっている俺がいた。ここ、良い場所だな。そう思い始めていた。楽しい時間はあっという間に過ぎる。窓から空を見上げれば、月が出ていた。そろそろ帰る時間だな、とは思ったが、まだ何も仕事らしいことを何一つしていない。まだ帰る気にはなれなかった。そこで、地面に散らばった紙クズを片付けている、青髪の女性に質問をした。
「アルフォンスさん、仕事っていつ始まりますか?」
彼女は怪訝そうな顔をしながら、タバコを口から離した。
「明日。今日はこれでお開きだ。絶対また来いよ。」
ぶっきらぼうにそう言い放った彼女だったが、若干声に愉しみが混じっている気がした。
そういうことなので、俺はお礼を言って帰らせてもらった。
夜風が身に染みる。ふと、顔に冷たいものが垂れてきた気がした。拭うと、それは涙だった。なんで泣いているんだろうか、俺。抑えれない涕泣に自分自身でも驚いている。落ち着くために深呼吸をすれば、いつもより澄んでいる気がした。
「明日、絶対行かなきゃな……。ははっ……。」
いつもより、家があったかく迎えてくれた気がした。




