412 “弱虫”の帰還
第16章に関わる閑話です。
ダゲィ海溝。
ちょうど黄金大陸と幻想大陸の中間あたりの海洋の底に走る、巨大な大地の裂け目である。
その水深は、かつて栄華を誇った超古代魔導文明の人々ですらも、最深部へは到達できなかったほどに深い。
ましてや、技術力の衰えた現代の人類にとってしてみれば、このダゲィ海溝の奥底はまさに未知の世界だと言えよう。
さて、故に人類にはその実態がほとんど知られていないこのダゲィ海溝とは、一体どのような場所なのか......簡単に説明しよう。
まず、海溝の底に潜ってしまえば、当然日の光などは届かない。
だが、しかし、その実、驚くべきことではあるが。
ダゲィ海溝の底は、かなり明るい。
何故かと言えば、そこには発光するホヤが複数種類、大繁殖しているからだ。
海溝の底の砂地にも、反り立つ崖にも、びっしりと緑や黄色に発光するホヤがひしめいている。
さながらライトアップされた庭園の如く、美しく幻想的な世界が、そこには広がっているのだ。
そしてその、ホヤの光を求めて、プランクトンが集まる。
プランクトンを求めて、小魚が集まる。
小魚を求めて、大きな魚が集まる。
......豊かな生態系が、そこには形成されている。
そして、さらに。
その大きな魚を求めてこの海溝に集まり、いくつかの氏族に分かれて生活している、知恵ある海の巨大生物が存在している。
それが、大海蛇なのだ。
◇ ◇ ◇
「ピュル......」
さて、ダゲィ海溝の崖を掘り抜いて作った住処の中でとぐろを巻きながら、思わず悲し気な声を漏らした雌の大海蛇が、一匹。
彼女の名前は、ハユナギ。
緑色に艶めく鱗を持つ長い体の、大海蛇の基準からしてみれば、絶世の美女だ。
彼女は本来明るく活発で、どちらかと言えば少しわがままな性格の持ち主だった。
それなのに、ここ100年間......彼女の大きな瞳はいつも伏せられ、いつだってコポコポと、ため息をついている。
彼女の父は、彼女の属するズィ氏族の族長を長く務めた、偉大な大海蛇であった。
父は賢く、そして温和で優しかった。
これからもずっと、尊敬すべき父による統治は続き、ズィ氏族は繁栄を続ける。
100年前のハユナギは、そう信じて疑わなかった。
しかしそんな彼女の未来はあの日、突然の凶行により流された真っ赤な血によって、すっかり塗りつぶされてしまったのだ。
その凶行をなした雄の名前は、ゲジュグ。
真っ黒な鱗と巨大な筋肉、そしてそれと同じくらいの量のぜい肉を蓄えた、荒くれ者の大海蛇だ。
ゲジュグは一年に一度の宴の席で、配下の“見知らぬ”荒くれ大海蛇たちと共に突然ハユナギの父に襲いかかり、それを殺害!
ズィ氏族の支配者へと、成りあがったのだ!
彼と彼の配下たちの暴力は凄まじく、ズィ氏族は瞬く間に、恐怖によって支配されてしまった。
初めは反ゲジュグの立場をとっていた戦士たちも、命を惜しんですぐにゲジュグの軍門にくだった。
ただ......。
ただ、一匹だけ。
先代族長に恩義を感じていた、小さな一匹の“弱虫”だけが、最後までゲジュグに抵抗した。
しかしその末路は、哀れなものだった。
半殺しにされた彼は、ゲジュグの配下たちによって穏やかなダゲィ海溝から引きずり出され、まるでごみのように、どこぞへと捨てられた。
彼は、狩りも下手で体も小さかった。
しかも、あの傷だ。
もはや生きてはいまい。
「ピュル......」
最近ハユナギは、気づけば彼のことばかり、考えているのだ。
昔は......弱虫、弱虫と言って、いじめていた彼。
その尻尾すら、自切させ、献上させたことだってあった......。
そんな、幼馴染の、彼。
でも、ハユナギは彼に酷いことをしていたのに。
彼だけは、父のために。
そしてハユナギのために、怒ってくれた。
でもハユナギは、彼のために、何もしてやれなかったのだ。
ゲジュグの配下たちがゲラゲラと笑いながら彼を痛みつけるその様を、ただ恐怖に震えながら見ていることしか、できなかった。
彼の死には、自分にも責任がある。
だから、これは、罰なのだ。
今日、ハユナギは......ゲジュグの番となる。
◇ ◇ ◇
マリンスノー降りしきる、ダゲィ海溝の底。
その一角には、もともと群生していた発光ホヤに加えて、発光するクラゲ、発光するイカとタコ、発光する小魚、そして泳ぐタイプの発光するウミウシが集められ、幻想的を通り越してどこか悪趣味なまでのライトアップ空間が作り出されていた。
<<<グポポ......ようやく来たか、ハユナギよ。“夫”を待たせて......グポポ、悪い“妻”だ......!>>>
そこで待っていたのは、現ズィ氏族族長、ゲジュグである。
100年前と比べると数倍には肥え太った彼は、その相貌を醜く歪めながら、いやらしく笑った。
<<<............>>>
遅れてやってきたハユナギは、無言のまま発光ホヤ畑の上に、降りたった。
ちなみに今ゲジュグは、己のことを“夫”、そしてハユナギのことを“妻”と言ったが、それが正式に認められるのは、この後に行われる“番の儀”をこなした後である。
しかし、そのことを指摘できるものは、ズィ氏族には存在しない。
ズィ氏族はもはや、その全てを、ゲジュグによって支配されている。
<<<おお、おお!グポポ、ハユナギよ、お前はやはり、いつ見ても美しい!全く、この100年間!お前のことを番にできないもどかしさに苛まれ続けた、この100年間!このオレがどれだけ辛かったことか......わかるか、ハユナギよ!これほどまでに、己が大海蛇であることを、嘆いた100年はなかったのだ!>>>
そう言いながら、ゲジュグは長い舌をちろちろと動かし、ハユナギの顔をなめた。
ハユナギはじっと目をつぶり、その不快感を耐え忍ぶ。
<<<だがしかし、もう今日で我慢はおしまいだ!なあ、ハユナギ!これからは二人で、ずっとずっと、ずっとずっと!楽しく暮らしていこうなあ?ハユナギイイイイイーーーッ!!>>>
ゲジュグは、叫んだ。
そしてその太い尾で、ハユナギの顔を......思いきり、殴りつけた!
<<<あ、ぐッ......!?>>>
突然の暴力!
訳も分からずホヤ畑に打ちつけられるハユナギのことを、ゲジュグは何度も、何度も殴る!
<<<でもなああ!?お前、嫌だろおお!?お前も、嫌だろおお!?オレみたいな乱暴者が、番だなんてよおおおおおーーーッ!?お前も、オレのこと、嫌いなんだろおおおおおーーーッ!?>>>
<<<あ、う、痛いッ!痛い......痛い、やめてッ!?>>>
<<<だから、わかれよおおッ!?オレには、逆らえないってええッ!!敵わないってええッ!!従順になれよおおッ!!お前はああッ!!オレのおおッ!!妻なんだからああッ!!グポポポポポポーーーッ!!>>>
非道!
ゲジュグの仕打ちは、まさにその一言に尽きる!
しかし、そんな彼のことを止めることのできる大海蛇は、ズィ氏族の中には、もはや存在しない......!
<<<ああ、う、ぐうう......!>>>
ハユナギも、耐え忍ぶことしか、できない。
今ここで反抗的な態度をとれば、どうなるか。
わかりきっているからだ。
<<<グポポポポーーーッ!!グポポポポーーーッ!!>>>
ダゲィ海溝の底には、ゲジュグの哄笑だけが響き渡っている。
<<<ああ、誰か......>>>
ハユナギは願わずにはいられなかった。
そんな“誰か”など、いるはずもないと......心の中では、思っていても。
<<<誰か、助けて......!!>>>
そう、願わずには、いられなかった!
そして!
誰にも届かない......そう思われた、彼女の願いは!
“彼”に......確かに、届いたのだ!!
<<<【穿ち渦】!!>>>
その時。
ハユナギは、聞き覚えのある懐かしい......しかし、今聞こえるはずのない声を、聞いたのだ。
そして、次の瞬間!
<<<グポーーーッ!?>>>
ゲジュグの顔面に、渦を巻いた槍のような海流が直撃した!
その渦の槍の威力たるや凄まじく、ゲジュグはその巨体を吹き飛ばされ......ダゲィ海溝の崖へと、めりこんだ!
<<<え......!?>>>
ハユナギは、うっすらと目を開けた。
すると、そこにいたのは。
彼女をかばうように背を向けて、崖にめりこんだゲジュグと対峙していたのは。
深い青色と黒い縞模様の鱗を持つ、体が小さな、大海蛇は。
死んだと思っていた......彼女の、幼馴染だった!
ハユナギは、驚愕と歓喜をその声に乗せ、思わず彼の名を、叫んだ!
<<<ザラトプッ!?>>>
<<<ハユナギ......遅くなって、すまなかったっす......!>>>
ザラトプはハユナギの方をちらりと振り返り、その痛ましい姿を見て......昔、よく見せていた......情けない、泣きそうな表情を作った。
しかし、それも一瞬のことだ。
彼はすぐに、崖から抜け出したゲジュグに向き直り、この邪悪な大海蛇のことを睨みつけた。
そのザラトプの後姿は......小さかった。
他の大海蛇と比べると、明らかに小さい体躯なのだ。
ましてやゲジュグと比較するとなると、圧倒的に小さい。
しかし。
ハユナギには。
今のザラトプの後姿は。
何故だか......とてもとても、頼もしく思えた......!
<<<あああああああーーーッ!?なんだ、てめえええええーーーッ!?突然、何しやがるううううううーーーッ!?ぶっ殺すぞおおおおおおーーーッ!?>>>
激昂したゲジュグは、口から血を漂わせながら、全力で【威圧】を放った!
これまでズィ氏族の皆を、ひれ伏させてきた、恐るべき【威圧】だ!
だがしかし、ザラトプは動じない!
<<<なんだ、アンタ......そんなもんだったっすか?>>>
<<<あああッ!?>>>
ザラトプは、その瞳に闘志を燃やしながら!
<<<それなら、あのイカの方が!>>>
不敵に、笑みを浮かべ!
<<<あのエビの方が!>>>
体を、武者震いさせて!
<<<あのフジツボの方が!>>>
その全身に、己の魔力で操る海水をまとわせてから!
<<<何より......姉御の方が!!>>>
まっすぐ......ゲジュグに向かって、突撃を開始した!
<<<よっぽど......怖かったっすよーーーッ!!!>>>
ズィ氏族の未来を決める戦いが......幕を開けたのだ!!
次話に続......きません。




