どこからどこまでが友達か分からない病気
さてあの後すぐに教室に入り、朝のホームルームを終えて授業が始まった。今日は体育がないため非常に気が楽である。
一時間目の死ぬほど退屈な国語を八割方聞き流して、次の時間は地獄のように暇な数学の時間だ。
数学は隣のクラスと合同で行われ、成績が良いほうと悪いほうに分けられる。エリスと僕は同じクラスではあるのだが、エリスは数学が苦手で成績の良くないクラスに振り分けられており、僕は成績の良いクラスに振り分けられている。
そのため、この時間はエリスと僕で違う授業を受けることになる。……まあ、別にだからといっても何かあるってわけでもないんだけれど、数学の授業になると毎回エリスがこの世の終わりみたいな顔をするのが面白くて印象に残っている。
……物理はちゃんと高得点が取れるのになぜ数学ができないかは相当に謎である。
と、エリスとは別に授業を受ける以外に取り立てて特徴がないように感じられる数学であるが、実は一つだけ大きな特徴があるのだった。
「じゃあここまで隣の人に説明してみて下さい」
と先生が言う。それと同時に周りがにわかに騒がしくなる。
そう、この授業は理解を深めるという名目の元に「隣の人に説明をする時間」というのを設けられることが良くあるのだ。実際に、説明をしたというエピソードが印象に残って覚えが良くなっている印象があるため教え方としては正しいと僕は思っている。
だがしかし、当然人見知りがひどく、人と話すという事が日常の中にない僕はまともに隣の人と会話できず……。
などというようなことは実はなかったりする。
「……ねえ坂川。私、いまいちわからなかったから説明してもらってもいい?」
と、隣の女の子が積極的にこちらに分からないところを聞いてくるからだ。
「うん、どこがわからなかったの?」
「さっきベクトルがどうのこうのって言ってたでしょ? あそこのABってどこから持ってきたのって」
「ああ、それなら……」
教科書の図を指しながらできるだけ丁寧に説明をしていく。隣の彼女もうんうんと相槌を挟みながら説明を聞いてくれる。
「……だからそうやってABって言うベクトルを使ってやれば簡単に求められるんだと思うよ」
「なるほど。だからあんなベクトルが唐突に出てきたんだ。うん、分かった。さんきゅ」
そう言って、隣の席の彼女「霜切 楓」さんが僕にこやかに笑いかけてくる。釣られてこっちまで笑みがこぼれてしまいそうな屈託のない笑みだ。うん、うまく説明が出来たみたいでよかった。
そうやってちょうど僕が説明を終えたとき先生が再び声を上げる。
「大体、みんな説明できたみたいですね。ここの問題は入試でも良く出されるところで応用も利きやすいから覚えておくと便利ですよ。じゃあ、次の問題に行きましょう。次は……」
そしてまた先生が問題の板書を始める。僕はそれを写すとさっさとそれを解こうと手を動かす。
だが、ちょっと考えたらすぐに問題が解けてしまい、いわゆる「地獄のように暇な時間」が出来てしまった。
だから、ぼんやりと隣の席の霜切さんの事について考えを巡らせる事にしてみる。
霜切さんは隣のクラスの人で、そして去年も隣のクラスだった。だがお互いに面識は去年からあるのだ。
なぜかと言えば話は簡単で、この二クラス合同で行われる数学の授業が発端だった。
成績が良いほうのクラス数学は去年も今年も緋坂先生という人が担当している。そして先ほどそうだったように、毎回の授業で隣の人に説明するという事をやらせてくるわけだ。
説明することによる効果の良し悪しは置いておくが、当然、僕はそれに困らされるわけである。
そりゃ入学から二か月時点での学校に友達がエリス一人しか居なくて会話なんてほとんどしないような人間が、他の人とまともに会話なんてできるはずもない。
だから、最初は物凄く噛んで噛んで噛みまくった。
だが、隣の人はそんな僕に対して全く嫌な顔をすることはなく、反応を返したり、分からないところを聞いたりしてくれる優しい女の子だった。
そう、それこそが霜切さんなのだ。
そして、クラス替えや席順の変更があったのだが、これまた何の因果かなぜか数学の時に隣の席がずっと霜切さん。
クラス替えではもちろん自分の関与する余地はないし、席替えの時もくじびきで適当に席を決めているはずなのに、なぜか隣の席は霜切さんのまま。
運がいい……という表現が正しいかどうかは分からない。
しかし知らない人に話しかけるのが非常に苦手な僕としては、エリスという頼れる相手がいない中でいつも説明する相手が同じ人になるのは気が楽だ。
それに、霜切さんは話していて、本当に真剣に聞いてくれるのでこちらも説明し甲斐があって、実はその時間だけはこの授業が本当に楽しかったりする。
さて、そろそろ授業も終わりそうな時間になった。僕は緋坂先生が板書した部分と自分のノートを見比べて、自分の方に不足している記述を書き足す。そうしたときちょうど授業終了のチャイムが鳴る。
「……はい、じゃあここまでで今日は終わりですね。お疲れさまでした」
そういって緋坂先生が授業を締めると同時に教室全体に弛緩した空気が流れだし、みんな喋ったり自分の教室に帰ったりと思い思いの行動を始める。
僕もそんな例に漏れず、自分の教室である2‐Dに戻ろうと荷物を持つ。そんな時、隣の霜切さんから声が掛かる。
「また月曜」
僕はその声に気付き霜切さんの方を向いて答える。
「うん、じゃあまたね」
出会った当初こそこんな質問にも「え、えっと、う、うん」みたいなコミュニケーション能力皆無な返しをしていたが、それでも彼女は笑って「うん、それじゃ」と返してくれていた。
とにもかくにも霜切さんはいい人で、そのおかげで数学の時間は「地獄」そのものの苦しさを味わう時間から、「地獄のように暇な時間」くらいの緩い時間になっているわけだ。
実は彼女に関してはまだいくつか助けられた事があるんだけど、それについては長くなるのとちょっと恥ずかしいってことでまたいつか語りたい。