5話:魔獣馬
小屋の中に、鍋や食器の軽い音が響いていた。
サンドロスがすでに起き、朝食と畑作業の合間で食べる軽食、そして昼食の準備を進めていた。
煮込みの匂いが部屋に広がり、暖炉の火が静かに燃えている。
その物音で、リサルとリーシャはほぼ同時に目を覚ました。
リサルはベッドの端で体を起こし、リーシャは隣で少し慌てた様子で上半身を起こした。
サンドロスは鍋をかき混ぜながら、振り返らずに言った。
「起きたなら顔洗ってこい。
リサル、リーシャに場所教えてやってくれ」
リサルは軽く伸びをして、ベッドから降りた。
「分かった。 リーシャ、着いてきて」
リーシャは少し緊張した面持ちで頷き、リサルの後について小屋の外にある洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗い、目を覚ませて、二人は再び小屋に戻った。
3人はテーブルを囲み、朝食を食べ始めた。
シンプルなパンとスープ、煮込んだ野菜。
リーシャは少しぎこちない手つきでスプーンを動かしながらスープを飲んだ...
「これが、サンドロスさんの味...昨日のもそうだけど、今日のも...美味しい...」
リサルが微笑みながらリーシャに言った
「サンドロスの料理、美味しいでしょ?私もびっくりしたからね」
食事が終わると、リサルはリーシャに農具の持ち方を簡単に教え、3人で外へ出た。
リーシャはリサルに教えられた通りに農具を手に持ち、朝の陽光の下で畑の方へ歩き始めた。
リサルとリーシャが二人で耕している間、サンドロスはその場を二人に任せて王から貰った馬の元へ行った。
馬は小屋の近くに繋がれており、朝の陽光を浴びて静かに立っていた。
サンドロスは馬の首を優しく撫でながら、人参やじゃがいも、キャベツが混ざったバケツを差し出した。
馬はすぐに頭を突っ込み、勢いよく食べ始めた。
大きな音を立てて咀嚼する様子に、サンドロスは小さく笑った。
昔、村に馬がいた。
老衰で亡くなったが、その時に使っていた馬小屋がまだ残っていた。
サンドロスはそれを思い出し、馬をそこに住まわせることにした。
馬はバケツの中身をあっという間に平らげ、満足げに鼻を鳴らした。
サンドロスは馬の頭をもう一度撫で、静かに呟いた。
「……これからはよろしくな」
畑の方では、リサルとリーシャがまだ耕しを続けていた。
サンドロスは馬小屋の扉を開け、馬を中へ導きながら、二人の姿を遠くから見つめた。
サンドロスがいない間に、リサルはリーシャに静かに聞いた。
「昔のサンドロスのこと……教えてくれる?」
リーシャは農具を握ったまま、少し遠い目をして答えた。
声は穏やかで、どこか懐かしさが混じっている。
「昔のサンドロスさんは、今とは全然違いました……
いつもでかい声で喋ってきたり……ご飯食べる時も横で忙しなくせっせとお世話してくれてました……
たまにうるさいと思うほどだったんです」
リサルは土を軽く掘りながら、静かに呟いた。
「今と真逆じゃない……」
リーシャは小さく頷き、農具を地面に刺したまま続けた。
「そうなんです。
でも、私の好きな景色にはいつもサンドロスさんがいたんです……
私の好きな記憶にもいて、サンドロスさんを好きだと認識したのは居なくなってすぐでした……
それから何十年もサンドロスさんを忘れれるわけもなく……
でも、こうして再会できたんです。
二度と会えないと思ってたのに……
だから私は無理を言ってここに来たんです」
リーシャの声は少し震え、青い瞳に涙が浮かんだ。
リサルは農作業を止め、リーシャの肩にそっと手を置いた。
「そう……だったのね」
二人はそのまま、朝の畑で静かに作業を続けた。
リーシャは農具を軽く地面に刺したまま、リサルの方を向いて目を輝かせた。
「リサルさんが知ってるサンドロスが知りたいです!」
リサルは少し驚いた顔で振り返った。
「私の?」
リーシャは頷き、恥ずかしそうに指を絡めながら続けた。
「はい! お父様から聞いております……サンドロスが500年前勇者をしてた時の魔王がリサルさんだって……その時のを聞きたくて」
リサルは土を軽く掘り返しながら、静かに答えた。
「あの時のサンドロス……あの時からもう強かったわね……でもそれくらいしか分からない……私と戦った時のサンドロス……すごく取り乱してたから」
その時、後ろから静かな足音が近づいてきた。
サンドロスが農具を肩に担いで歩いてくる。
「懐かしい話してるじゃねぇか」
リサルはびっくりして振り返り、銀髪を軽く揺らした。
「あっ……サンドロス……」
サンドロスは二人の間に立ち、軽く息を吐いた。
「取り乱してた……か。そう見えてたんだな、俺」
リサルは少し視線を落とし、静かに言った。
「あの時のサンドロス……知りたいかも……私……なんで、あんなことになってたのか。」
リーシャはサンドロスの顔をちらりと見て、頰を少し赤らめながら小さく頷いた。
朝の畑に、三人の静かな空気が流れた。
サンドロスは農具を地面に立て、静かに二人を見下ろした。
「知らなくてもいいことだってある」
リサルは土を握った手を止め、赤い瞳をまっすぐサンドロスに向けた。
「それでも知りたい……私が自分の罪を忘れたくないから」
サンドロスは少し間を置き、目を細めてから小さく頷いた。
「……分かった。少し長くなるが話そう。あの時の俺を」
リサルは農具を置き、静かに耳を傾けた。
彼女が知りたかったのは、あの時のサンドロス――涙を流しながら歯を食いしばり過ぎて口から血を流すほどの取り乱し方をした、サンドロスだった。
サンドロスは遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「俺は裕福な家庭に生まれた……」
幼い頃の記憶が、朝の畑に静かに蘇る。
サンドロスの母親の声が、優しく響く。
『あなたは賢いわね! 天才よ!』
父親の声が、誇らしげに続く。
『こんな子見た事ないぞ……将来大成するぞ! サンドロスは!』
サンドロスは幼い頃、周りの大人に引けを取らないほどの秀児だった。
学びの場で常に一番を取り、どんな問いにも的確に答え、期待は日増しに大きくなっていった。
そんな時、同じ学び場に居た男――シリウス。
その男は頭は良くなかったが、力を持て余していた。
どんな運動をしてもトップを取るのは当たり前で、誰もが彼の身体能力に驚嘆した。
シリウスと反比例しているように……
勉強しか取り柄のなかったサンドロスは運動はからっきしだった。
頭を使うサンドロスと、力を使うシリウス。
生まれも、過ごしてきた環境も違かったが、二人は自然と意気投合した。
理由なんてなかった。
なるべくしてなったかのように……二人は死ぬまでずっと一緒に居ると確信していた。
幼い頃の学び場で、二人はいつも一緒にいた。
サンドロスは小さく呟いた。
「俺も力があればな……」
シリウスは汗を拭いながら、照れくさそうに笑った。
「お前は頭がいいからいいじゃねぇか……俺馬鹿だから羨ましいよ。
力より頭の方が欲しいんだよ、俺は」
サンドロスの両親はシリウスとつるむことを拒んだ……あんな馬鹿と付き合えばお前も馬鹿になると言われ続けた……
俺はその言葉を無視しながらシリウスと学び場を卒業した。そのタイミングで両親が無理やり別の国に引っ越した。
シリウスと離れ離れになって、数年が経った頃……前いた国がリサルに滅ぼされたと聞き、シリウスが死んだと思い悲しんだ……
それから感情が無くなったかのように研究や発明に勤しんだ……世紀の発明を連発し、両親含め一生遊んで暮らせるほど稼いだが……心はぽっかりと空いたままだ。
その時、サンドロスの体に異変が……勇者因子が覚醒した……
リーシャは農具を握ったまま、息を飲んで聞き入っていた。
「勇者因子?」
リサルは静かに説明した。
「魔王因子と勇者因子ってのがあってね。
魔王因子は現魔王が譲渡するか死んだらランダムで誰かに譲渡される……
勇者因子は1000年に1度……人間の中で突如現れる因子で、魔王因子も勇者因子も、自身が持つ力を何倍にも引き上げてくれるって力があるの」
サンドロスは静かに頷き、言葉を続けた。
「勇者因子がこんな天才に現れるとは!
頭も良くて力もあるってすごいよな……
とか言われた。いざ戦ってみて分かった……そもそもの能力値が低すぎて使い物にならなかった……
両親は泣きながら悲しんだ。それから、宝の持ち腐れと罵られながら生きた……
そんなある日、街で買い出しをしてる時にシリウスと再会した。俺たちは大泣きしながら抱き合い、会えてなかった間の話をした……」
サンドロスは少し間を置き、声のトーンを落とした。
「シリウスは持ち前の力を使ってリサルを討伐するために動いていた……
その時のパーティがシリウス……ナージャス……サルバン……」
リサルは農具を止めて、赤い瞳を少し見開いた。
「待って……サルバンって、ギルド長?
そんな昔からってことは、あの人も魔人?」
サンドロスは静かに頷いた。
「そうだ。気づかなかったか?」
リサルは小さく息を吐き、銀髪を軽く耳にかけた。
「気づかなかった……あの人相当やるのね」
サンドロスはシリウスの話を大方聞き終えたところで立ち上がろうとした。
その時、シリウスに呼び止められた。
「待てよ……パーティーに入らないか?
お前の頭が欲しい……知恵を俺たちに使って欲しい」
シリウスは真剣な目で懇願してきた。
サンドロスは迷う必要すらなかった。
リサルを討伐する準備を着々と進めた。
勇者因子を持つ男がいたから、必然的に「勇者パーティー」と呼ばれていたが、サンドロスは不本意だった。
シリウスは気にしてないようだったが、ナージャスもサンドロスと同じく良く思ってなかったみたいだ……
国総出で討つ目標を掲げており、勇者パーティー筆頭で訓練をしていた。
途中でサードを拾い、最終的には5人で固まった。
リサル討伐日の前日の夜。
シリウスとナージャスができたようで、二人はサードとサルバン、そして俺に向かって楽しそうに惚気話を始めていた。
俺はその頃まだ酒に弱く、一人で撃沈して寝てしまった。
ふと目を覚ますと、部屋の明かりはまだついたままだった。
シリウスたちはまだ話し続けていて、聞き耳を立てるつもりはなかったが、声が自然と耳に入ってきた。
ナージャスが少し苛立った様子で言った。
「ねぇ、いつまであれ置いとくつもり? シリウス」
サルバンが軽く肩をすくめて返す。
「まぁいいじゃねぇか。なんでそんなにサンドロスの事嫌ってんだ?」
サードが穏やかにフォローする。
「そうですよ、なぜです?」
ナージャスは声を少し尖らせて続けた。
「だってさぁ、最初は私とシリウスだけのパーティーだったのに急に入ってきて……
名前を掻っ攫って注目の的じゃない……頭は良くても戦えないんじゃゴミじゃない……頭と金しかない男よ」
サルバンが苦笑しながらたしなめた。
「お前ちょっと言い過ぎだろ」
するとシリウスが勢いよく机を叩いた。
バンッという大きな音が部屋に響く。
「サンドロスは俺が連れてきたんだ……異論があるなら言ってもいい……が、俺の親友だ……貶すのはやめろ」
ナージャスは少し肩を縮めて謝った。
「ごめん、シリウス……」
そのまま不穏な空気が残ったまま、全員が眠りについた。
早朝からリサルとの全面戦争のため、国は慌ただしく動き始めていた。
準備が整い、いざ!となった時、リサル軍が先制攻撃をしてきた……
俺たちはリサル直属の幹部と激しい攻防戦を繰り広げた。
なんとか倒すことができたが、シリウスが重傷を負った。
ナージャスが回復魔法をかけ続け、なんとか息を繋いでいたが、いつ切れてもおかしくなかった。
ナージャスの体力だけが減っていく……
俺は隣で泣くことしかできなかった。
周りではサードとサルバンが必死に民を助け、戦っているのに、俺は何もできない。
自分の無能さに打ちひしがれ、闇が差し込んでいく。
そんな時、シリウスが俺に声をかけてきた……
「俺、考えててさ……俺のこの力をサンドロスが持ってたら……勇者因子を持ってるお前が持っていたらなら、とんでもない化け物が出来てたよなって、頭も良くて、なにも欠点がない、化け物に、」
サンドロスは声を震わせて叫んだ。
「もう喋るな! 大丈夫だ! 俺が何とかする、今までそうだったから、俺が、おれがぁ……!」
シリウスは弱々しく笑いながら続けた。
「もう無駄だよ、自分の死期くらい分かる……サンドロス……しっかり聞いてくれ……俺、1つ、希望を残してたんだよ。いざとなればやろうとしてたこと、サンドロスに力を譲渡する」
サンドロスは涙を流しながら首を振った。
「そんなこと、出来るわけないだろ?」
シリウスは苦しげに息を吐き、静かに言った。
「等価交換魔法……前言ったろ? お互いの求める物の価値が同等になれば強制的に交換される魔法だ……はぁ、俺……シリウス・ルミエルは……サンドロス・ギバンとの交換をする……」
その瞬間、光に包まれた。
少し前の会話が蘇る。
シリウスが神妙な面持ちでサンドロスと話す
「俺さ……あの時、お前と別れたあと疫病で妹も両親も死んじまった……金があれば助けられたんだってよ……サンドロスは……俺が欲しかったのも、全部もってるもんな……頭脳も、金も……俺、お前を尊敬してるんだ、どんな人間よりも、サンドロス……お前を」
シリウスが泣いてるサンドロスの襟を思いっきり掴む
「俺がサンドロスから貰いたいのは……金だ……富を、ルミエル一族に、譲渡してくれ!ほら、サンドロス……お前がずっと言ってた欲しいものを言うんだ」
サンドロスが歯を食いしばりながら涙を流し続ける……
サンドロス
「ちか、力が……欲しい……みんなを、守れる力が……」
そう言うと、力を欲するサンドロスと金を求めるシリウスの物の価値が同等となり、交換された……
シリウスが死んだ。
その瞬間、サンドロスが譲渡した富は、ルミエルの名を授かっているナージャスに渡る。
サンドロスは本物の勇者に成った。
自分の体からひしひしと伝わるシリウスの力が、痛い……苦しい……
だがサンドロスは泣いてる暇なんてない、そう言い聞かせ立ち上がり、歯を食いしばりながら戦線へと行く。
後ろでナージャスがシリウスに泣きついているのを尻目に、サンドロスはサルバンの元へ駆けつけた。
サルバンが苦戦していた敵を、いとも容易く葬り去る。
サルバンは目を丸くし、息を飲んだ。
「危ねぇぞ! サンドロ……ス……」
サンドロスは無言で敵の首を握りつぶし、血を払う。
体から溢れ出る力は、シリウスのものだった。
痛みと苦しみが全身を蝕むが、サンドロスは歯を食いしばり、ただ前を見据えた。
サルバンは呆然としながらも、すぐに戦闘態勢に戻った。
「なんだよ……お前、急に化け物みたいになってんじゃねぇか……」
サンドロスは短く答えた。
「シリウスの力だ……」
戦場はまだ続いていた。
サンドロスは痛みを堪え、血に塗れた拳を握り直した。
シリウスの力が、痛いほどに体を満たしていた。
サードも助け、周りの魔獣や魔人を一掃した後、何も言わず一人で魔王リサルの元へと歩き出した。
リサルの城にいる幹部も、全てが敵ではなかった……
シリウスの力が、サンドロスの勇者因子と共鳴しているからだ。
リサルがいる場所に着き、一晩中戦い、勝利した……
サンドロスは血と汗にまみれながら、リサルの前に立ち拳をあげた...
サンドロスの声は低く、震えていた。
「あの時の俺は……何も考えてなかったんだよ。ただリサルを、シリウスをあんな目に合わせたやつを殺すことしか、」
リサルは掠れた声で言った。
「ごめ、ごめんなさい……サンドロス……」
サンドロスは静かに近づき、リサルの頭を優しく撫でた。
微笑みながら、穏やかな声で言った。
「だから知らなくてもいいことだってあるだろ?
正直憎かったよ、リサルが……でも今は違う……俺の仲間だからな」
リサルは頭を撫でられるまま、静かに涙を流した。
サンドロスの手は温かく、500年の時を超えた優しさが、そこにあった。
リーシャが静かに言った。
「……私の先祖が……サンドロスさんの……」
サンドロスは少し体を伸ばしながら言う
「ルミエルには恩があったから、あの時から尽くしてきてたんだ……村を作り始めてこっちに集中するようになるまでな」
その時、村長がサンドロスに話しかけてきた。
二人はそのまま話しながら歩いていった……
リーシャは少し不安げにリサルの方を向いた。
「大丈夫ですか? リサルさん……私のせいで、」
リサルはリーシャの隣に座り直し、優しく微笑んだ。
「大丈夫……リーシャのせいじゃないわ……うんっ、私決めた。今後はサンドロスに尽くそうと思う、贖罪として……」
リーシャは目を少し潤ませながら、静かに頷いた。
「私も着いていきますよ……魔人じゃないので、短い命ですが、命尽きる日まで、一緒に、」
リサルは微笑みながらリーシャの頰を両手で優しく覆った。
「ありがと……頼りにしてるわ」
二人はそのまま、静かに寄り添うように座った。
その日の夜、小屋の中は暖炉の火が静かに揺れていた。
サンドロスはテーブルに座り、リサルに向かって静かに言った。
「お前の魔獣馬、そろそろ連れ戻そうと思うんだが、どうだ?」
リサルは目を少し見開き、嬉しそうに体を乗り出した。
「え? あの子迎えに行くの?」
サンドロスは軽く頷いた。
「あぁ、明日にでも行けるが、リーシャも行くだろ?」
リーシャはベッドの端から勢いよく立ち上がり、目を輝かせて答えた。
「いく!」
リサルは少し懐かしそうに微笑みながら呟いた。
「やっと、会えるのね……超早馬に……」
サンドロスはため息をつき、軽く頭を振った。
「その名前はやめないか?」
リサルは少し不満げに唇を尖らせた。
「なんで? いいじゃん超早馬」
リーシャは慌てて手を振り、フォローするように言った。
「やめましょう、それは……」
リサルは少し首を傾げて聞いた。
「じゃあなにがいいの?」
サンドロスは静かに立ち上がり、二人を見て言った。
「俺が決めとくよ」
小屋の中に、暖かい火の音と三人の穏やかな会話が響いていた。
リーシャは少し興奮した様子で、リサルと目を合わせ、二人で小さく笑い合った。
朝。
サンドロスは鼻歌を歌いながら王から貰った馬の手入れをしていた。
黒い馬の体を柔らかい布で丁寧に拭き、たてがみを梳き、蹄の汚れを落としていく。
鼻歌は低く穏やかな調子で、時折リズムを取るように手が動く。
馬はサンドロスの手にすっかり懐き、時々鼻を寄せて甘えるように息を吹きかけた。
リサルとリーシャは小屋の入り口からその様子を眺めていた。
リサルは少し微笑みながら、リーシャに小さく言った。
「珍しい……サンドロスが鼻歌なんて」
リーシャも目を細めて頷いた。
「本当に……なんだか楽しそう」
サンドロスは馬の首を軽く撫で、満足げに息を吐いた。
朝陽が彼の黒髪を照らし、穏やかな朝の光景が広がっていた。
リサルは馬の手入れをしているサンドロスの背中をぼんやりと見つめながら、ふと思い出した。
村長が言っていた言葉――
「サンドロスが帰ってくるや否や家に籠ってまだだ……ってボヤいているのじゃ」。
何も考えず、ただ素直に気になったまま、リサルはサンドロスに声をかけた。
「ねえ、サンドロス」
サンドロスは馬のたてがみを梳く手を止め、振り返った。
「ん?」
『君は神を見たことがあるか?』
リサルは少し首を傾げて、ストレートに聞いた。
「村長が言ってたんだけど……あなた、街から帰ってくるや否や家に籠って『まだだ』ってボヤいてるって……どういうこと?」
サンドロスは一瞬、手を止めた。
わずかに視線が泳ぐ。
馬の首を軽く撫でながら、静かに答えた。
「……ああ、あれか」
彼は少し間を置き、馬の背中を布で拭きながら続けた。
「街に行くのは、ただの買い物じゃない。
昔の……俺が失くしてしまったものを、見つけるため。
まだ見つからないから、『まだだ』って呟いてたってだけ」
リサルは少し目を細め、静かに聞き返した。
「失くしたもの……?」
サンドロスは馬のたてがみを軽く整えながら、淡々と答えた。
「昔の仲間……とか、仲間になるはずだった人だとか。
詳しくは今は言えないが……気にするな、」
リサルはサンドロスに静かに聞いた。
「失くしたもの……見つかった?」
サンドロスは馬の首を撫でる手を止め、ゆっくりとリサルの方を向いた。
青白い瞳が一瞬だけ柔らかくなった。
「……ああ、見つかったよ、もうあそこには行かなくてよくなった」
彼は静かに頷き、馬のたてがみをもう一度整えながら続けた。
「だから、もう大丈夫だ。
これからは……ゆっくりする」
リサルは少し目を細め、サンドロスの横顔を見つめた。
胸の奥で、ほんの少しだけ温かいものが広がるのを感じたが、それ以上は聞かなかった。
数十分後……
サンドロスの馬の手入れが終わり、彼は一旦小屋に戻った。
荷物をまとめ、馬車に積み終えると、リサルとリーシャを連れて出発の準備を整えた。
サンドロスはリーシャの手を優しく取り、ゆっくりと荷台の腰掛けに座らせた。
リーシャは少し緊張した様子で座り、青い髪を軽く耳にかけた。
リサルは荷台の反対側に座り、サンドロスは御者台に上がった。
手綱を握り、馬を軽く促すと、馬車はゆっくりと動き始めた。
サンドロスは前を向きながら、静かに言った。
「リサルの魔獣馬がいる街へ向かう。」
リーシャは荷台からサンドロスの背中を見つめ、小さく頷いた。
リサルは隣で静かに微笑み、馬車の揺れに身を任せた。
村の門をくぐり、三人を乗せた馬車は街へと向かう道を進み始めた。
朝の陽光が道を照らし、穏やかな旅の始まりだった。
半日後……
馬車は街の門をくぐり、賑やかな通りへと入った。
サンドロスは御者台から手綱を軽く引き、馬を止めた。
黒髪が風に揺れ、青白い瞳が街の景色を静かに見渡す。
「着いたぞ」
リサルは荷台から身を乗り出し、懐かしい街並みを眺めた。
リーシャも隣で目を輝かせ、周囲の喧騒に少し圧倒された様子で呟いた。
「すごい……私のところと全然違う……」
三人は馬車を近くの厩舎に預け、軽く街を探索することにした。
石畳の道を歩きながら、露店が並ぶ市場や、活気ある広場を巡る。
色鮮やかな布や、香辛料の匂い、呼び込みの声があちこちから聞こえてくる。
リサルは周囲の賑わいに目を細め、サンドロスに近づいて聞いた。
「この街って、今日何があるの?
すごいお祭りみたいじゃない?」
サンドロスは歩きながら、静かに答えた。
「今日は年に数回ある競売の日だ。
珍しい魔獣や高級な道具、魔法具なんかも出品される。
だから人が集まってる」
リーシャは少し興奮した様子で目を輝かせた。
「競売……初めて見るかも」
サンドロスは軽く頷き、二人の歩調に合わせながら続けた。
三人はそのまま、街の賑わいの中をゆっくりと歩き続けた。
競売の開催される広場の方へ向かいながら、今日の目的を胸に秘めていた。
リーシャはふとリサルに視線を向けて言った。
「リサルさんの魔獣馬ってもしかして競売にかけられてる?」
リサルは少し足を止め、赤い瞳を細めて答えた。
「可能性はあるわね……
あの子は昔から高値で取引されてたから、もし売りに出されてたら……競売に出てるかも」
サンドロスは二人の会話を聞きながら、静かに口を挟んだ。
「競売にかけられてるよ、今日の目玉の一つだ」
リーシャは目を丸くしてサンドロスを見上げた。
「え……知ってたんですか?」
サンドロスは軽く頷き、前を向いたまま続けた。
「まあな」
リサルはサンドロスの横顔をちらりと見て、小さく微笑んだ。
「やっぱり……あなたはちゃんと調べてるのね」
サンドロスは肩を軽くすくめ、競売会場の方向へ歩きを進めた。
「行こう。競売が始まる前に、ちゃんと確認しないと」
三人は競売の喧騒が近づく中、ゆっくりと足を進めていった。
広場に椅子が置かれており、前方に競売の会場があった。
大きなテントが張られ、舞台のような壇が設けられている。
周囲にはすでに多くの人が集まり、ざわめきが広がっていた。
高級な魔獣や珍しい魔法具、希少な素材などが今日の目玉として並ぶとあって、期待の熱気が感じられる。
サンドロスは広場を見渡し、静かに言った。
「ここだ。
競売はもうすぐ始まる」
サンドロスは二人を促し、適当な席を探して座った。
三人は競売の開始を待つ間、周囲の喧騒を静かに感じていた。
サンドロスが腕を組み、目を閉じていると、後ろの方で騒ぎが聞こえてきた。
豪華な身なりをした貴族であろう人間が、数人の従者を引き連れて大声で文句を言っている。
派手な帽子に宝石をちりばめた上着、指にはいくつもの指輪が光っていた。
「なんだこの席は! 私の指定席はもっと前のはずだろう!
こんな後ろの席で競売など見えるものか!
誰か責任者を呼べ!」
周囲の客が迷惑そうに振り返る中、貴族は従者に命じてさらに声を張り上げた。
「急げ! 私のために最前列を空けさせろ!」
サンドロスは目を閉じたまま、静かに息を吐いた。
リサルは隣で軽く眉を寄せ、リーシャは少し体を縮めて貴族の方を気にしていた。
競売の開始が近づく中、広場に少し不穏な空気が混じり始めた。
貴族はサンドロスの背中をじろりと見て、標的を定めたように悪態をつきながら歩み寄ってきた。
「なんだこの男は……偉そうに腕なんか組んで……
邪魔だ、どけ」
貴族は従者を従え、サンドロスの正面に立ちはだかった。
派手な帽子を指で押し上げ、鼻で笑うような態度で言った。
「どけって、私の咳だ。金持ちの席を後ろに回すとは、ギルドの運営も落ちたものだな」
サンドロスは目を閉じたまま、静かに腕を組んでいた。
黒髪が風に軽く揺れ、表情はほとんど変わらない。
貴族はさらに声を荒げ、サンドロスの肩を軽く突いた。
「聞こえなかったのか? 早く席を空けろと言っているんだ!」
サンドロスはゆっくりと目を開け、青白い瞳で貴族を静かに見つめた。
サンドロスは目を閉じたまま、静かに答えた。
「すまない、すぐどくよ」
貴族は鼻で笑い、苛立った声で言い返した。
「どくならさっさと退けよ。偉そうに構えてんじゃねぇ」
サンドロスは小さく息を吐き、立ち上がった。
リサルとリーシャもそれに続き、三人は広場の端っこの方に静かに移動した。
貴族は満足げに鼻を鳴らし、従者を引き連れて最前列の席に陣取った。
サンドロスは端の席に腰を下ろし、腕を組んで再び目を閉じた。
リサルは隣で軽くため息をつき、リーシャは少し不安げにサンドロスの横顔を見ていた。
数分後、広場に高い鐘の音が響き渡った。
ゴーン……ゴーン……
その音を合図に、散り散りだった人々が一斉に席に着き始めた。
ざわめきが徐々に収まり、期待と緊張が入り混じった空気が広場全体を包む。
競売が始まった。
壇上に司会者が上がり、声を張り上げた。
「本日の競売、開始いたします!
第一の目玉は……希少な魔獣『影翼の黒狼』!
開始価格は金貨50枚から!」
観客席からどよめきが上がり、手を挙げる者たちが現れ始めた。
サンドロスは腕を組んだまま静かに壇上を見つめ、リサルは少し身を乗り出して競売の様子を見守っていた。
リーシャは二人の間に座り、緊張した面持ちで目を輝かせている。
サンドロスは低く呟いた。
「……魔獣馬の出番はまだ先だな」
リサルは小さく頷き、静かに言った。
「うん……ちゃんと出てくるといいけど」
競売の声が、次々と広場に響いていく。
四つ商品が出たが、全部貴族が買った。
最初の影翼の黒狼から始まり、次々と高額な魔獣や希少な魔法具が競り落とされていくたび、壇上の司会者が声を張り上げた。
「落札! 金貨120枚! こちらの貴族様でございます!」
貴族は最前列の席から満足げに笑い、従者に命じて次々と支払いを済ませていた。
周囲の客からはため息や悔しそうな声が漏れ、広場に少しざわめきが広がる。
サンドロスは腕を組んだまま静かに壇上を見つめ、リサルは少し眉を寄せた。
リーシャは小さく呟いた。
「……あの貴族さん、全部買っちゃってる……」
競売の声が続き、広場の熱気が徐々に高まっていく。
司会者が壇上で声を張り上げ、最後の商品を発表した。
「そして本日の目玉、最後の商品です!」
厳重な檻に鎖を巻き付け、拘束された黒い魔獣馬が、満を持して登場した。
立派な体躯に艶やかな黒毛、鋭い目が会場を睨むように光る。
リサルの魔獣馬だった。
会場のボルテージは一気に最高潮に達した。
客席からどよめきと歓声が上がり、貴族も最前列でニヤッと笑みを浮かべた。
司会者が興奮した声で叫んだ。
「金貨100枚から始めます!」
その瞬間、会場が大きくざわめいた。
100枚からの開始は今日初めてで、それだけこの魔獣馬が珍しく、価値が高いことを物語っていた。
リサルは席から身を乗り出し、赤い瞳を大きく見開いた。
リーシャも息を飲んで魔獣馬を見つめ、サンドロスは腕を組んだまま静かに壇上を凝視していた。
競売の熱気が、広場全体を熱く包み込んでいた。
貴族が大きく手を挙げ、自信たっぷりに声を上げた。
「150!」
会場が一瞬静まり返った。
他の参加者たちがぞろぞろと黙り込み、悔しそうな顔や諦めた表情を浮かべていく。
150という高額に、多くの者がこれ以上追うのを諦めたようだった。
その静けさの中、サンドロスがゆっくりと片手を挙げた。
声は低く、しかし会場全体に響き渡る。
「300」
一瞬の沈黙の後、会場がどよめいた。
司会者は目を丸くし、声を張り上げた。
「300! 300が出ました!
他にございますか?」
貴族は振り返り、サンドロスを睨みつけた。
顔が少し引きつっている。
貴族は負けじと手を挙げ、声を張り上げた。
「さ、350!」
会場が再びざわめき、司会者が興奮気味に繰り返した。
「350! 350が出ました!」
サンドロスは静かに手を挙げ、落ち着いた声で言った。
「500」
その瞬間、会場が大きくどよめいた。
司会者は目を丸くし、声を震わせて叫んだ。
「500! 500が出ました!
他にございますか?」
貴族は振り返り、サンドロスを睨みつけた。
顔が引きつり、額に汗が浮かんでいる。
貴族が震えながら叫んだ。
「1000!!」
会場全員の息が止まったように静かになった。
その瞬間、どっと歓声が湧いた。
1000という大金は、3人の人間が遊んで暮らしても余るほどの額だった。
『君は神を見たことあるか?』
貴族の従者がおどおどと顔を青ざめさせている中、貴族本人はふんぞり返って満足げに胸を張っていた。
その中でサンドロスが小さくため息をついた。
「無駄な競り合いしてきやがって……すまんリーシャ、頼む」
リーシャはずっと分かってたかのように目を鋭くし、軽く頷いた。
少女は立ち上がり、はっきりとした声で言った。
「2000払いますわ」
会場が再び凍りついた。
司会者は目を大きく見開き、声が上ずった。
「2000……! 2000が出ました!
他にございますか!?」
貴族の顔から血の気が引いた。
従者たちは慌てて貴族の袖を引いているが、貴族は唇を震わせて立ち尽くしていた。
サンドロスは静かに腕を組み、リサルは隣で小さく微笑んだ。
リーシャは立ち上がったまま、堂々とした姿勢で壇上を見つめていた。
貴族が顔を真っ赤にして立ち上がり、声を荒げて喚いた。
「そんな額払えるわけがないだろ! そこらの凡人ごときが!!」
サンドロスは腕を組んだまま、静かにため息をついた。
「そこまであげなくても良かったんだがな」
リーシャは穏やかな笑みを浮かべ、はっきりとした声で答えた。
「こういうのは倍の額乗せた方がいいと思いまして」
リサルは隣で小さく微笑み、リーシャを見て言った。
「恐ろしい子ね」
会場は一瞬静まり返り、すぐにどよめきが広がった。
司会者は額に汗を浮かべながら、声を張り上げた。
「2000……他にございますか? 2000で落札となります!」
貴族は唇を震わせ、悔しげに席に座り直した。
従者たちが慌てて貴族をなだめている。
サンドロスは軽く肩をすくめ、リサルとリーシャに視線を向けた。
「これで決まりだな」
リーシャは少し頰を赤らめながら、静かに微笑んだ。
リサルは満足げに頷き、競売の終了を待った。
競売が終わり、ぞろぞろと人が散っていく中、貴族は競り落とした品を受け取るやいなや、顔を真っ赤にしてサンドロスの胸ぐらをつかもうとする勢いでズカズカと歩いてきた。
サンドロスはゆっくりと立ち上がった。
貴族はサンドロスの胸元に手を伸ばした、しかし届かず、背伸びするような格好でぴーぴーと甲高い声で喚いた。
「てめぇ! なんだその態度! ただの田舎者風情が、俺の邪魔をしやがって!
2000なんて大金、どこから出るんだよ! 詐欺だろ! ギルドに訴えてやる!」
貴族の従者たちが慌てて後ろから袖を引いているが、貴族は興奮で止まらない。
サンドロスは表情一つ変えず、静かに見下ろしたまま、低い声で言った。
「……何か用か?」
貴族はさらに声を上げ、指を突きつけた。
「用に決まってるだろ! お前みたいなのが俺の前に出てくるんじゃねぇ!
金なんか持ってるはずがない! どうせはったりだろ! 吐き出せ!」
リーシャは少し後ろに下がり、リサルは静かにサンドロスの横に立って貴族を冷ややかに見つめていた。
サンドロスは貴族を見下ろしたまま、静かに言った。
「だとよ、リーシャ姫」
貴族は一瞬、顔をしかめてリーシャの方を指差した。
「お前もだよ! 女! てめぇのせいでよ! リーシャって言うのか! だっせぇ名前……だせぇ……だ、リーシャ!? ルミエルの姫!?」
貴族の声が徐々に上ずり、目が大きく見開かれた。
顔から血の気が引いていくのがはっきりわかった。
従者たちが慌てて貴族の袖を引いているが、貴族は体を硬直させたまま、サンドロスとリーシャを交互に見つめている。
リーシャは少し後ろに下がりながらも、静かに貴族を見つめ返した。
リサルはサンドロスの横で腕を組み、冷ややかな視線を貴族に向けていた。
サンドロスは腕を組んだまま、淡々と続けた。
「そうだ。
ルミエルの姫だ。
何か問題でも?」
貴族の顔が青ざめ、口がぱくぱくと開閉する。




