敗残の女兵士は毒を纏う。 2
「で、裏取り資料は?」
「なかなか厄介ですね。実行は明らかに下田係長なんですよ。これを突き付けても、下田さんの首が飛ぶだけでしょうね。彼は奴の肝入りですから、間接的に奴にバツをつけることは出来てもそれ以上は難しいですね。これ以上の出世は阻めそうですが、それだけです」
「そう。下田の口を割らせるのも無理かしら?」
「無理でしょうね。下田の嫁は奴の妹です。こちらに奴を売って下田さんの得が何ひとつない」
「ん〜、手詰まりね」
クシャクシャと乱暴に髪を掻き回した私を、じっと感情の伺えない顔で原嶋が見ている。
今更息子ぐらいの年頃の男にトキメキなど感じないけれど、意味ありげな視線を向けられると余計に思考を掻き乱される気がして気に入らない。
「何よ」
「いえ。俺はともかく、これに生田さんにとってどんな意味があるのかなって思って」
「うん、あたしこういうこと興味なさそうだもんね?」
「はい……って、あ、そうじゃなくてですね。何というか、これってデトックスみたいなモンだと思うんですけど、それ以上に生田さんにとっては仇討ちなのかなって勝手に思っていて。や、違ってたらすみません」
チラチラとこちらの顔色を伺いながら、珍しく歯切れの悪い物言いをする部下に私は虚を突かれて一瞬言葉に詰まる。
次いで出てきた感想は、よく見てるなぁという感嘆だった。
「仇討ちかぁ。仇討ちねぇ。そうねぇ、そんなもんかしら」
行儀悪く肘をついた私の目の前で、アイスコーヒーのグラスの中の氷がカランと音を立てる。
この男は、本当に時々察しが良すぎて嫌になる。
敵に回る人間にはとことん容赦のない冷たさを発揮してありとあらゆる情を廃して臨むのに、懐に入れた人間の機微には感嘆するしかないレベルで気が回るのだ。
きっとこの男の特別になれた女は幸福に恵まれるか、とてつもなく不幸になるかどちらかだろう。
情が深く、繊細な反面でとても独占欲が強くその上行動力がある。
そういう意味では、少し彼女が気の毒だと思う。
そんなものは杞憂だったといずれ私は知ることになるのだが、この時点では少しだけ本気で彼女に同情した。
自分の心の内を暴かれることは、社会に長く揉まれ続けた人間にとってはある意味緊張を伴う。それは強制的に武装解除させられているようなものだから、当然の反射のようなものだ。
「生田さん?」
思わず零れ落ちた溜息に、気まずげな表情を浮かべる原嶋を見やる。
本当に、この男は。
「いざとなったら私を売って、アンタは何が何でも生き残りなさい。原嶋君なら、生き残りさえすればそこからいくらでも巻き返せるでしょう? その場合は、アンタが必ず仇を打ってよ。あたしの分まで」
ニヤリと歯を見せて笑う私の悪びれた表情に、原嶋がほんの一瞬苦いものを飲んだような表情をよぎらせた。
瞬きする間に消え失せたその表情に、ほんの少しの罪悪感を覚える。
それでも。私も、そういう沢山の後悔や心残りを押し付けられて生きてきたから、同情などしてやらない。
そんな小さな棘が刺さった程度の痛みなど無視して走り続けられなければ、魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿でのし上がることなど出来ないのだから。
ましてや相手は三十路の立派に可愛げのない部下であって、育成と庇護が必要なお嬢ちゃんではない。
だから、私は。
「何よ、弱音吐くんじゃないわよ。ついて来らんないなら、置いていくわよ」
自分の中にある感傷も弱音も全部無視して、喝を入れる。
強く、強く。私という壁がいなくなっても、自分自身が高く分厚く強靭な壁となっていけるように。
時に励まし、喝を入れ、気まぐれのようにほんの少し甘やかして。
育て上げた、可愛い部下。
この復讐劇は、この部下へ私が与える最後の試練でもある。
邪魔な害虫を退治して、最後には。
「原嶋。腹くくれよ!」
私はそう言って、鮮やかに笑う。
痛みも、傷も、勲章だと知らしめるために。
可愛げも女としての柔らかさも全てを捨ててがむしゃらにひたすらに戦ってきたから、私が残せるのはそんなものじゃない。
「何だっけ、そうそう。『俺の屍を越えていけ』だっけ?」
「ええ〜、人がしんみりしてるのにまさかのゲームネタですか? しかもそのネタ振り、かなり古いですよ」
ブツブツ文句を言いつつも笑っている原嶋の、心遣いに心底いい男っぷりだと思う。
こんな拙い誤魔化しにも騙されて流されてくれる、懐の深さは純粋に人として好ましいと思う。
「うっさいわね、良いじゃない。どうせババァよ。……そうね、遣り手婆って一部では言われてるらしいしね、否定はしないわ。私が使い倒すのはそこら辺のお嬢ちゃんじゃなくてアンタだけどね」
「ハイハイ。ひっどいなぁ、こんなに献身的な部下を捕まえてって、ぼやきでもすれば良いんですかね、俺としては」
ひとしきりどうでも良い雑談を喋り散らして、疲れた頭と心の曇りを払う。
ふと、会話が途切れた瞬間に目の前の男からスッと笑みが消える。
「じゃあ俺は、出来ることをしますか」
持って来た資料を素早く仕舞い込んで席を立とうとする原嶋の手の中から、素早く資料を奪い取る。
「生田さん?」
「これは没収。こっからはあたしの仕事。今回、アンタは黒子よ」
私の言葉に、鋭く息を吸う音がする。
何かを言い掛けて言うことが出来ずに、黙り込む。その表情がクシャリと歪んだ後、目を閉じて原嶋は深々と息を吐く。
「そうですか。それじゃ尚更、俺は華々しい花火の下準備をキッチリやらなきゃいけませんね。なんせ貴女の花道を飾る花火なんですから」
そう言って浮かべた笑顔は心底楽しげで、私は部下の成長に目を細めた。
もうコイツは1人でやっていける。
私がいなくなっても、ドブ川のように濁りきった伏魔殿の中を、強かに泳ぎ切るだろう。
だから最後に、私は。
コイツに自分を切らせようと思う。
全ての闇を背負って、私はコイツのために踏まれてやろう。
この男は、私という存在を踏み台にして高く高く、私が阻まれたガラスの天井など軽く越えて遥か高みへ跳べる人間だ。
整った条件と才能と強運と、それを超える地道な努力。それが出来る人間だから。
「そうだね。楽しみにしてるよ」
私はニヤリと、実に太々しい笑みを顔に貼り付けてただひたすらに、祈るように願った。
この復讐劇と、目の前の眩い才気の成功を。




