敗残の女兵士は毒を纏う。 3
結論から言えば、結果は痛み分けだった。
谷田部は出世の可能性と便利だった右腕を失い、私は部下とキャリアに見合った仕事を失った。
原嶋が上手く立ち回り、時間中の隙間時間に資料整理を行ってくれていたお陰で、私へのお咎めは勝手に決算書類の管理を行ったことのみとなった。
原嶋は本当に完璧な黒子だった。
僅かな綻びも許さないその姿勢に、彼の本質が透けて見える。
目的のためには清濁併せ呑むとしても、基本的に原嶋は正義感が強く、バランス感覚に優れている。
ありとあらゆるものを上手く回すための勘所をしっかり押さえているのは、流石としか言いようがない。
本当に優秀な人間とはこういうものかと、原嶋を見ていると時折この私も舌を巻く。
私は営業管理から異動になって、退職まで内部統制室の預りとなった。
「児玉室長。短い間になると思いますが、よろしくお願いします」
「生田さんにはやってもらいたい仕事があるので、よろしくお願いしますね」
如何にも人畜無害を絵に描いたような児玉室長は、ニコリと人好きのする柔和な笑みを浮かべて、肉付きの良い大きな手を差し出した。
「私のような敗残兵が何の役に立てるか分かりませんが」
その手をしっかりと握り、真っ直ぐに強い視線を送る。
「いやいや。勉強はしていますが、本社の経理体制にも明るい生田さんが来てくれて心強いです。私はどうにも設計馬鹿でイカンです」
カラカラと軽やかな笑い声を上げて謙遜する児玉室長の気負いのない様子に、肩に入っていた力が抜ける。
「頼りにしていますよ」
そう言った児玉室長の目に、人畜無害な見掛けを裏切る鋭い光が一瞬過ぎる。
流石、この人も伏魔殿の住人といったところか。一癖も二癖もありそうで、実に良い。
私も応えるように、獲物を狩る者の笑みを浮かべた。
心の中で、異邦の空へと旅立った元部下を思う。
心残りを振り切り、真っ直ぐに前だけを見据えて去って行った後ろ姿をそっと見送った私の行動は、気付く者がいれば傍目にはストーカーじみて見えただろう。
でも、間違ってもそんな感情ではない。
原嶋には原嶋の、私には私のやることがあるというだけのことだ。もう会えないという訳でなし、ただ、無事に旅立った姿を見ておきたかった。
我ながら感傷的なことだ。この私も、歳をとったということだろう。
原嶋が加えられたプロジェクトは、彼のキャリアにとって諸刃の剣になるだろう。
前任のお馬鹿がヘマをやらかして客先の信用を損なっている、大きなマイナスから巻き返さなければならない案件だ。
それでも私は信じている。あの男なら、何の危なげもなく事態を好転させ、必ずや大きな成果を引っ提げて戻って来るだろうと。
あれは私が育て上げた最高の部下なのだから。
今回は物の道理が分かっている上司がいて、彼の是非にとのご指名だとの話だし、大丈夫だろう。
あの男は水を得た魚のように生き生きと泳ぎ回り、鮮やかな手並みで事を運んで大急ぎで戻って来るに違いない。
それまで私がやるべきことは、原嶋が憂いなく自分自身のことに専念出来るように彼のお姫様を陰ながらお守り申し上げることだろう。
分かっている。問題なんかない。
……はずだった。
それが、どうしてこうなった。
誤算は、私の想定以上にあのお嬢ちゃんがお花畑並のお人よしだったことと、あの子に目を付けた性悪女の行動力が並外れていたということだろう。
「生田さん! どういうことですか?!」
原嶋の取り乱し切った怒鳴り声が、スマホから雷鳴の如く轟いている。
声は裏返り、スピーカーは音が割れている。
あまりの音量に、耳鳴りがする。老人は労われと教わらなかったのか、この男は。
でも、今回のことは私の不注意が招いたことなのだから甘んじて受けるしかないだろう。
「こっちまで凄い噂が聞こえて来てるんですけど! 坂上さんが不倫で相手を嵌めて修羅場って二股で、後輩女子と不倫相手を辞めさせた悪女って何ですか?!」
分かったから落ち着け。国際電話まで掛けてきてそんな内容を電話口で喚くな、日本の恥だ。
「耳痛っいんだけど、原嶋馬鹿なのアンタ。日本語破綻してるわよ、取り敢えず落ち着いて話せないなら切るから、落ち着いたらまた掛け直してきなさい」
「俺は冷静です!」
「はい、ダウトー。そう言う奴で冷静な奴はいないから」
私の言葉に、電話口でわざとらしいほどの深いため息が聞こえる。
否。必死に頭に上った血の気を下げようとしている三十路男が一匹。
全く世話の焼ける。
まぁ、元はと言えば私が抜かったせいだが、それは綺麗に棚の上に片付けてしまうに限る。
知らないと言ったら知らない。そんな不都合なことなんて。
図太さは社会人にとってはある意味美徳だ。
硝子の心なんてセンチメンタルは十代で卒業すべきだ。この歳でそんなふざけた事を言っていたら可愛そうを通り越して気色悪いだけだ。
「で。説明してもらいましょうか、客観的な事実ってヤツを」
深呼吸1回で見事立ち直った無駄に打たれ強い男に、こちらがため息をつきたくなる。
誤魔化されてはくれなかったか。説明しなければならないのは分かり切っていたけれど、少しだけバツが悪い。
「アンタの耳に入る前に、言うつもりだったんだけどね。結論から言うと、彼女は潔白よ。全くのとばっちりの巻き込まれ状態だから安心しなさい」
私の言葉の後に、僅かな沈黙。
「ふぅん」
いかにも軽い相槌を装った感嘆詞に、私は蛇口を捻ったように冷や汗が背筋を伝うのを感じた。
どうしよう、本気で震えるわこれ。
常よりも低い、地を這う調子の声色。
地雷が踏み抜かれたのは間違いなかった。
「じゃあ、遠慮は要らないよね」
何気なく呟かれた声を耳が拾った瞬間、一方的に電話が切られた。
いつの間にか渾身の力でスマホを握りしめていたらしく、固まってしまった指を解しながらスマホをテーブルに置いて、私は行儀悪くテーブルに突っ伏した。
「あー、こりゃ死んだな」
無駄に優秀な男の逆鱗に触れた馬鹿なセクハラ親父とその相手の尻軽小娘の、冥福を祈りつつ。
私は確実に暴走するであろう部下のアシストをする為に、そっと席を立った。
人を呪えば穴2つ。人を陥れても同じこと。
自業自得だ。
思わず興が乗って放り投げたコーヒーの缶は、小気味良い音を立ててゴミ箱に吸い込まれるように入る。
「ゴミはちゃんと捨てないと、ね」
テーブルに映り込んだ私の顔は、お世辞にも綺麗な笑顔など浮かべていなくて。
獰猛で凶悪な、悪役そのものの笑みを浮かべた顔に自分自身の表情ながら年甲斐もなくワクワクした。




