渋谷ダンジョン
翌朝。
俺は昨日発行されたばかりの探索者ライセンスを財布に入れ、渋谷ダンジョンの入口を訪れていた。
「……ここが」
目の前にあるのは、巨大な建物に囲まれるように存在する《ゲート》。黒とも青とも言えない光がゆっくりと渦を巻き、その前では装備を身につけた探索者たちが次々と入場していく。
配信では何度も見てきたのに、実際に目の前へ立つとまるで違う。あの向こうには魔物がいて、俺もそこへ入って戦う。
「……楽しみだな」
怖くないわけじゃないが、胸の奥から湧き立つワクワクがそれを掻き消していく。
受付を済ませ、俺は目の前で揺らめく《ゲート》をくぐった。
*
ゲートを抜けた瞬間、身体がわずかに浮き上がるような感覚に襲われた。ほんの一瞬のことだったが、次に視界が開けた時には、さっきまでの渋谷の街並みはどこにもない。
目の前に広がっていたのは、岩肌に囲まれた巨大な洞窟だった。天井は高く、ところどころに生えた淡い青色の苔が周囲を照らしている。人工的な照明がなくても、歩くには困らない程度の明るさがあった。
「本当に別世界だな……」
腰に差した初心者用の短剣へ手を伸ばす。防具も探索者向けの店で揃えた最低限のものだけだ。昨日まで普通の高校生だった俺が、今は武器を持ってダンジョンの中に立っている。まだ少し現実感がなかった。
その時、少し先の岩陰から何かが擦れるような音が聞こえた。
「……来たか」
俺は短剣を抜き、音のした方へ視線を向ける。岩陰から姿を現したのは、人間の膝ほどの高さしかない小さな魔物だった。
緑色の皮膚に細い手足。その手には、粗末な木の棒が握られている。
「ゴブリン……」
Gランクダンジョンの上層では、もっともよく遭遇する魔物の一つ。何度も映像で見たことがある。特徴も、基本的な戦い方も知っている。
それでも、実物を前にすると空気が変わった。
「ギィッ!」
ゴブリンがこちらに気づき、木の棒を振り上げる。俺は短剣を構えながら、自然と口元が緩むのを感じた。
「こいつが、俺の挑戦の始まりか」
次の瞬間、ゴブリンが地面を蹴った。振り下ろされた木の棒を、半歩横へ動いてかわす。
「っ……!」
目の前を棒が通り過ぎ、風を切る音が耳に届いた。映像で見るのと、実際に目の前で対峙するのとではやはりまるで違う。当たれば痛いし、場所が悪ければ大怪我だってするだろう。
けれど――見えないほど速くもなければ、避けられないほど鋭くもない。
攻撃を幾度かかわしたのち、体勢を崩したゴブリンへ踏み込み、握っていた短剣を振るう。
「はっ!」
刃がゴブリンの脇腹を浅く切り裂いた。
「ギャッ!」
甲高い悲鳴を上げながら、ゴブリンが数歩後ろへ下がる。俺もすぐには追わず、短剣を構え直す。心臓がうるさいくらいに脈打っている。
怖い。
しかしそれよりも、この緊張感に心躍る自分がいた。
「ギィィッ!」
脇腹を押さえながらも、ゴブリンは再びこちらへ向かってくるが、さっきより動きが荒い。痛みで焦っているのか、木の棒を大きく振りかぶった。
俺はその動きを見て、今度は先に踏み込む。振り下ろされるより早く懐へ入り、短剣を胸元へ突き出した。
「――っ!」
刃が深く沈む。ゴブリンの身体から力が抜け、そのまま俺にもたれかかるように崩れ落ちてくるのを見て、慌てて短剣を引き抜き、一歩下がる。
「……倒した」
自分の声が、思っていたより小さかった。目の前には、もう動かなくなったゴブリンが倒れている。
俺が初めて倒した魔物。その事実を実感するまで、ほんの数秒かかった。
しばらくゴブリンの死体を見つめていると、身体の奥にわずかな熱が広がるような感覚があった。
「これが……経験値か」
魔物を倒した際、その力の一部が討伐者へ還元される。知識としては知っていたが、実際に体験するのは当然初めてだ。
急にパワーアップしたわけではないが、確かに自分の中へ何かが蓄積されたような感覚が残っている。
俺は短剣についた血を払い、改めてダンジョンの奥へ視線を向けた。
「一匹目」
まだ始まったばかりだ。そう思うと、自然と次の魔物を探している自分がいた。
ゴブリンを解体し、魔石を取り出したあと、さらに奥へ進んでいく。しばらくすると、前方の岩陰から複数の物音が聞こえてきた。
足を止めて様子を窺っていると、現れたのは二匹のゴブリンだった。
「二匹か……」
一匹目を倒したばかりとはいえ、数が増えれば話は変わる。俺は短剣を構えたまま、すぐには近づかなかった。二匹の位置と距離を確認するが、同時に相手取るのはまだ早いと判断する。
「なら、一匹ずつだな」
こちらに気づいたゴブリンたちが声を上げるが、俺はその場で待たず、先に動いた。二匹のうち、わずかに前へ出ていた一匹へ向かって地面を蹴った。
狙った一匹との距離を一気に詰める。
「ギッ!?」
不意を突かれたゴブリンが慌てて木の棒を振り上げるが、振り下ろされる前に懐へ入り、短剣を腹へ突き立てる。
「ギャアッ!」
悲鳴を上げて崩れるゴブリン。だが、止まっている暇はなかった。
「ギィィ!」
すぐ横から、もう一匹が木の棒を振り抜いてくる。
「っ!」
短剣を引き抜くと同時に身体を捻り、ぎりぎりでそれをかわす。最初の一匹と戦った時より、身体が自然に動いていた。
空振りしたゴブリンの腕が伸びきった瞬間、その懐へ踏み込む。
「そこだ!」
短剣を横に振り抜いた。振り抜いた刃が、ゴブリンの胸元を深く切り裂く。
「ギッ――」
短い声を漏らし、その身体が地面へ崩れ落ちた。
「……ふぅ」
息を吐きながら周囲を確認する。二匹とも、もう動かない。初めて複数を相手にした割には、思っていたより落ち着いて戦えた。
そう思った、その直後だった。
「っ……?」
一匹目を倒した時とは比べものにならないほど強い熱が、身体の奥から一気に広がっていく。全身へ力が満ちていくような、不思議な感覚。
講習で聞いた説明が頭に浮かんだ。
「もしかして……レベルが上がったのか?」
熱は数秒ほどで収まったが、さっきまでとは明らかに身体の感覚が違う。短剣を握る手に少しだけ力が入りやすくなり、身体そのものが軽くなったように感じる。
「これが、レベルアップ……」
思わず自分の手を握ったり開いたりする。劇的な変化ではないが、確実にさっきまでの自分より強くなっている。
「……なるほど」
自然と笑みが浮かんだ。たった三匹。まだ探索を始めて、それほど時間も経っていない。それなのに、確実に強くなっていく感覚がある。
「これ、思ってたよりずっと楽しいな」
思わず笑みを浮かべながら、倒れた二匹のゴブリンへ視線を戻す。俺は解体用のナイフを取り出した。
二匹分の魔石を回収し、再び奥へ進む。レベルが上がったとはいえ、まだ一つ上がっただけだ。
どれほど変わったのかを確かめたいと思っていると、ちょうど前方の通路から一匹のゴブリンが姿を現した。
「ちょうどいいな」
「ギィッ!」
こちらを見つけたゴブリンが、木の棒を振り上げて駆けてくる。さっきまでと同じ相手。けれど、その動きが少し違って見えた。
「……遅い?」
実際にゴブリンが遅くなったわけではなく、俺の身体がさっきより速く動く。振り下ろされた木の棒を余裕を持ってかわし、そのまま一歩踏み込む。
短剣を握る腕に力を込め、ゴブリンの胸元へ突き出した。
「ギッ――!」
さっきよりも明らかに深く刃が入り、その一撃だけでゴブリンは地面へ崩れ落ちた。
「……すごいな」
たった一つレベルが上がっただけ。それなのに、戦ってみれば違いははっきりと分かった。
ゴブリンから短剣を引き抜き、その場で何度か軽く身体を動かしてみる。足も軽い。腕にもさっきまでより力が入る。
「レベルが一つ上がるだけで、こんなに変わるのか……」
思っていた以上だった。これを何度も繰り返していけば、自分はどこまで強くなれるのだろう。考えるだけで、胸の奥が熱くなる。
とはいえ、まだ俺は探索を始めたばかりのGランクだ。少し強くなった程度で無茶をするつもりはない。
倒したゴブリンを解体して魔石を回収すると、俺は周囲を警戒しながら再び奥へ歩き始めた。
それからは、時間を忘れるように探索を続けた。現れる魔物はゴブリンだけではない。半透明の身体を揺らしながら床を這うスライムや、中型犬ほどの大きさで、鋭い牙を剥きながら飛びかかってくるケイブウルフ。
最初こそ相手の動きを慎重に観察していたが、戦うたびに少しずつ身体が馴染んでいく。スライムは動きこそ遅いが、身体の中心にある核を正確に狙わなければ倒しきれない。ケイブウルフはゴブリンよりも速く、正面から噛みつかれれば危険だ。
それでも、一度動きを見れば対処できる。
「次」
魔石を回収し、また奥へ進む。ゴブリンを倒し、スライムを倒し、ケイブウルフを倒す。
気づけば、最初に感じていた緊張よりも、次に何が現れるのかという期待の方が大きくなっていた。
何度目かのレベルアップの感覚が身体を駆け抜けたあと、少し先に下へと続く緩やかな坂が見えた。
「……あれ?」
そこでようやく、俺は足を止めた。渋谷ダンジョンの一層目は、奥へ進んだ先にある坂を下ることで二層目へと繋がっている。
つまり、ここは一層目の終着地点だ。
「もうここまで来たのか……」
スマートフォンを取り出して時刻を確認し、思わず目を見開く。自分で思っていたより、ずっと長い時間が経っていた。
魔物を見つけては戦い、倒しては魔石を回収して、また次を探す。それを繰り返しているうちに、完全に時間の感覚を失っていたらしい。
「夢中になりすぎたな」
そう呟きながらも、不思議と疲労より充実感の方が大きかった。そして視線は、自然と目の前の坂の先へ向かっていた。
下へ続く坂をしばらく見つめたあと、俺は小さく息を吐いた。
「……今日はここまでにするか」
本音を言えば、この先が気になる。二層目にはどんな魔物がいて、一層目とどれくらい違うのか。今すぐ確かめてみたい気持ちはあった。
けれど、今日は初めての探索だ。装備も最低限しか揃えていないし、自分がどこまで戦えるのかもまだ完全には分かっていない。何より、時間も思っていた以上に経っている。
「続きは次でいい」
少し名残惜しさを感じながら、俺は坂に背を向けた。初探索としては十分すぎるほど戦った。
そう自分に言い聞かせ、来た道を引き返し始めた。
*
来た道を戻り、《ゲート》を抜ける。視界の先に渋谷の街並みが戻ってきた瞬間、ようやく今日の探索が終わったのだと実感した。
そのまま出口近くにある素材買取窓口へ向かい、リュックの中に溜まった魔石をカウンターへ並べていく。
「……結構あるな」
夢中で戦っていたせいか、自分でも思っていた以上の数になっていた。
査定を任せている間、俺は近くに設置されていた簡易ステータス測定端末へ向かう。ライセンスを読み込ませ、測定部分へ手を置くと、ほどなくして画面に現在の情報が表示された。
【天草 大河】
【レベル:6】
「六……」
朝ここへ来た時は、まだレベル1だった。たった一日。それだけで、自分は五つも上へ進んだ。
画面に表示された数字を見ていると、今日一日で感じた身体の変化が改めて実感へと変わっていく。
「……明日も来よう」
気づけば、そう呟いていた。
「天草さん、お待たせしました」
ステータス端末から離れたところで、買取窓口から名前を呼ばれた。カウンターへ戻ると、職員が査定結果の表示された端末をこちらへ向ける。
「本日の買取金額は、一万八千六百円になります。こちらでよろしいですか?」
「はい」
確認ボタンを押しながら、表示された金額をもう一度見る。
一万八千六百円。
決して大金ではない。それでも、自分でダンジョンへ潜り、魔物と戦って初めて稼いだ金だと思うと、数字以上の価値があるように感じた。
「探索者になったんだな……」
ライセンスと荷物を受け取り、外へ出る。
初めて魔物と戦い、初めてレベルが上がった。初めて魔石を持ち帰り、それを金に換えた。今日一日だけで、昨日までとはまるで違う経験をした。
そして何より――まだ強くなれる。
そう考えるだけで、明日が待ち遠しかった。
「明日は二層目だな」
そう呟き、俺は帰路についた。
【天草 大河】
【レベル:6】
【体力:16】
【筋力:17】
【耐久:15】
【敏捷:18】
【魔力:14】
【精神:19】
【常在スキル:――】
【発動スキル:《詠唱》】
【探索者ランク:G】




