後編
決定的だったのは、その春だった。
婚約から二年。リーディアは十八歳になっていた。窓辺の木蓮が白い花を開き始めたころだった。
その日、リーディアはアルブレヒトと会う約束をしていた。けれど昼前、母が突然めまいを訴えて倒れた。幸い大事には至らなかったものの、医師が来るまでの間、リーディアは母のそばを離れなかった。
アルブレヒトには、母の体調が悪いため今日は会えない、と使いを出した。
夕方、母が眠ったあと、リーディアが自室へ戻ろうとしていると、侍女からアルブレヒトが訪ねてきたと告げられた。
母を心配して来てくれたのだと思った。だから、リーディアは彼を応接室へ通した。
「伯爵夫人の具合は?」
「もう落ち着きました。医師も、しばらく休めば大丈夫だろうと」
「そうか。それはよかった」
アルブレヒトは安堵したように頷いた。
「ところで、今日のことなんだけど」
「今日?」
「なぜ、君がずっと伯爵夫人についていたの?」
リーディアは一瞬、意味が分からなかった。
「……母が倒れたからです」
「それは分かっている。でも、医師が来てからも君がそばにいる必要はなかっただろう?」
「母が心細そうでしたから」
「侍女もいたんだろう?」
「いました」
「なら、任せることもできたんじゃないか?」
「……できたかもしれません」
「じゃあ、なぜそうしなかったの?」
まただ。
リーディアは膝の上で指を組んだ。
「母のそばにいたかったからです」
「なぜ?」
「なぜ、と言われても……母が心配だったからです」
「医師が大丈夫だと言ったあとも?」
「はい」
アルブレヒトはしばらく黙っていた。
「……本当に、それだけ?」
「え?」
「僕に会いたくなかったわけじゃないの?」
リーディアは目を瞬いた。
「違います」
「なら、どうして僕との約束を断ったの?」
「母が倒れたからです」
「それはもう聞いた。でも、医師は大丈夫だと言ったんだろう?」
「はい」
「それでも、僕に会うよりそばにいたかった?」
「……はい」
「なぜ?」
「分かりません。ただ、母のそばにいたかったのです」
「それだけで、僕との約束を断ったの?」
胸の奥で、何かが静かに切れた。
「今日はもう、お帰りください」
「なぜ?」
「話したくないからです」
「なぜ話したくないの?」
「説明したくありません」
アルブレヒトが眉をひそめた。
「それでは話し合いにならない」
「話し合いたくありません」
「だから、なぜ?」
リーディアは彼を見た。
「私は今、説明しないと言いました」
「婚約者に対して、それは無責任だろう」
「なぜです?」
「僕が不安になるからだ」
その言葉を聞いた瞬間、長いあいだ掴めずにいたものが、初めてはっきりと形を持った。
「……では」
リーディアは静かに尋ねた。
「あなたが不安になったら、その不安がなくなるまで、私は説明し続けなければならないのですか?」
「そういう言い方はおかしい」
「では、どう言えば正しいのです?」
「僕はただ、君のことを理解したいだけだ」
「私が『分からない』と言っても?」
「分かるまで考えればいい」
「私が『話したくない』と言っても?」
「なぜ話したくないのか説明すべきだ」
「私が『一人にしてほしい』と言っても?」
「突然そんなことを言われたら、理由を聞くのは当然だろう」
リーディアはゆっくりと息を吐いた。
「……やはり、そうなのですね」
「何が?」
「あなたにとって、私の『話したくない』は、答えではない」
「当然だ。それは話し合いを放棄しているだけだ」
「違います」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
「アルブレヒト様」
「何?」
「あなたは、話し合いたいのではありません」
「何を言っている?」
「自分が安心したいのです」
アルブレヒトの目が見開かれた。
「あなたは、分からない状態が嫌なのですね」
「誰だってそうだろう」
「いいえ」
「何?」
「分からないままにしておける人もいます」
「それは問題から逃げているだけだ」
「違います。分からないものを、分からないまま受け入れているのです」
「そんな無責任な――」
「あなたは不安になる」
リーディアは遮った。
「その不安を消すために、相手に理由を求める。答えが納得できなければ、もう一度聞く。違うと言う。また答えさせる」
「僕はそんな――」
「そして、自分が納得したときだけ、『話し合いが終わった』と思う」
アルブレヒトは黙った。
「私は何度も、終わりたいと言いました」
「それは君がちゃんと説明しないから――」
「ほら」
リーディアは静かに言った。
「結局、私が悪いのですね」
「違う」
「では、どうして?」
「……」
「答えられませんか?」
アルブレヒトが苛立ったように息を吐いた。
「君は今日、どうしたんだ」
「何がです?」
「さっきから、僕の言うことをいちいち問い返して」
「私は質問しているだけです」
「もう、そんなふうに問い詰めるのはやめてくれ」
その瞬間、リーディアは笑った。
乾いた笑いだった。
「私も、ずっとそう思っていました」
♢
その夜、リーディアは父の書斎を訪れた。
「お父様。お願いがあります」
机に向かっていた父が顔を上げた。窓の外はもう暗く、開け放った隙間から、春の夜の少し冷たい風が入り込んでいる。
「アルブレヒト様との婚約を、解消したいのです」
父はしばらく何も言わなかった。
「アルブレヒト殿が何かしたのか?」
「いいえ」
「ほかの令嬢と?」
「そういうことではありません」
「暴力を?」
「ありません」
父の眉間に深い皺が寄った。
「では、なぜ――」
その瞬間、リーディアの体が強張った。喉が締まる。また説明しなければならない。その反応が、もう体に染みついていた。
父はそこで言葉を止めた。
「……リーディア」
先ほどまでとは違う、静かな声だった。
「急がなくていい。最初から、ゆっくり話してくれ」
リーディアは目を見開いた。
「うまく説明できるか、分かりません」
「構わない」
「自分でも、何から話せばいいのか……」
「順番なんてどうでもいい。思いついたところからでいい」
父は椅子から立ち上がると、向かいの長椅子を示した。
「婚約を解消するなら、理由は聞かせてもらわなければならない。公爵家にも説明が必要だからな」
リーディアは小さく頷いた。
「はい」
「だが、今ここで、私が納得できるようにきれいに説明しろと言っているんじゃない」
その言葉に、胸が詰まった。
「言いたいことだけでいい。ゆっくり話しなさい」
「……それでも、聞いてくださるのですか」
「もちろんだ」
それだけだった。
たったそれだけで、涙があふれた。これまで張りつめていた何かが切れ、止めようとしても止まらなかった。
父は、なぜ泣く、何がそんなにつらかった、どうして今まで言わなかった――そう問い重ねることはしなかった。ただ娘の隣へ腰を下ろし、肩にそっと手を置いた。
開いた窓の向こうで、夜風に木の葉がかすかに揺れた。
その音を聞きながら、リーディアはしばらく泣いた。
♢
婚約解消の話し合いには、双方の家族が同席した。
リーディアが、
「婚約を解消したいと思っています」
そう告げると、アルブレヒトはすぐに言った。
「なぜ?」
予想していた。
「この関係を続けることが、私には難しいからです」
「難しい、では理由にならない」
「私にとっては理由です」
「僕は納得できない」
「そうでしょうね」
「なら、もっと説明してくれ」
「あなたが納得するかどうかとは別です。私の理由は、今お伝えしたとおりです」
「十分じゃない」
リーディアは彼を見た。
「何をもって、十分とするのですか?」
「僕が理解できるまでだ」
「つまり、あなたが納得するまで?」
「そうだ」
やはり、そうなのだ。アルブレヒト自身の口から、それがはっきりと示された。
リーディアは静かに頷いた。
「それです」
「何が?」
「私が婚約を解消したい理由です」
「……」
「あなたは、私が何を答えても、あなたが納得するまで終わらせない」
「それは当然だろう。二人のことなんだから、互いに納得するまで話すべきだ」
「なぜ当然なのです?」
「話し合いもせずに、一方が勝手に関係を終わらせていいわけがない」
「二人のことだからこそ、一人がもう続けられないと思った時点で、今までどおりの関係を続けることはできません」
「だから、その理由を――」
「もうお伝えしました」
「僕は納得していない!」
声が響いた。
かつて「感情に流されない人」だと思っていた男性が、二度目に声を荒らげた。
「だったら、まだ話は終わっていない!」
「いいえ」
リーディアは首を横に振った。
「終わっています」
「どうして!」
「あなたが納得しなくても、終わることはあるからです」
「そんな勝手な――」
「あなたはずっと、私に説明を求めました」
「当然だ」
「では、『もしかしたら自分の言い方がきつかったのではないか』『自分と話すことを苦しく感じているのではないか』と、考えてみたことはありますか?」
「何?」
「私に理由を尋ねるのではなく、自分でも考えてみようとしたことは?」
「それは……」
「ありませんでしたよね」
リーディアは続けた。
「あなたはいつも、『なぜ?』と聞くだけでした」
「質問することが悪いと言うのか?」
「いいえ」
「なら――」
「答えを出すことを、すべて私に任せていたことが問題なのです」
アルブレヒトが黙った。
「私は考える。自分の心の中を探す。説明する。あなたはそれを聞いて、『違う』『足りない』『納得できない』と判断する」
「……」
「私はいつも答える側で、あなたはその答えが正しいかどうかを決める側でした」
「そんなつもりはない」
「そうなのでしょうね」
リーディアは静かに答えた。
「そこが一番怖かったのです」
「怖い?」
「あなたは、自分が正しいことをしていると本気で信じているからです」
アルブレヒトの顔が強張った。
「話し合うことは正しい。原因を突き止めることは正しい。説明することは誠実。だから、それを拒む人間は逃げている。間違っている。無責任だ」
「僕はそこまで――」
「私が『疲れた』と言えば?」
彼は黙った。
「あなたは、『何に?』と聞きました」
「……」
「私が『分からない』と言えば?」
「リーディア」
「『自分のことなのに?』」
「……」
「『今日は終わりにしたい』と言えば?」
答えはない。
「『まだ僕が納得していない』」
誰も口を挟まなかった。双方の両親も、息を詰めるように二人を見ていた。
「アルブレヒト様」
リーディアは言った。
「相手には、黙る権利があります」
「婚約者同士でも?」
「はい」
「理解できない」
「理解できないままでも、構わないのではありませんか?」
「なぜ――」
そこまで言って、アルブレヒトは口を閉じた。初めて、自分が何を言おうとしたのか気づいたらしい。
リーディアは小さく笑った。
「それです」
♢
婚約は解消された。世間には「性格の不一致」とだけ発表された。
もちろん、何の痛手もなかったわけではない。公爵家との縁を失ったことで、アーレンフェルト家との取引を見直す商家もあった。社交界ではしばらく噂話が飛び交い、リーディアを「せっかくの玉の輿を自分から捨てた愚かな娘」と言う者もいた。
それでも、夜、寝台に入ったとき。明日、何を聞かれるだろうと考えなくていい。笑い方を気にしなくていい。視線の向きを意識しなくていい。
その静けさだけで、十分だった。
翌年、リーディアは父の名代として北部へ赴いた。
魔獣被害を受けた地域へ、アーレンフェルト伯爵家は以前から食糧や建築資材を送っていた。だが、被害の程度も必要なものも村ごとに違う。現地の状況を確かめ、今後の支援について話を聞くとともに、領地経営や復興の実務を学ぶため、しばらく北部に滞在することになった。
荒れた畑。崩れかけた石垣。春になっても冷たい風の吹く土地だった。それでも、働く人々の顔には、王都では見たことのない粘り強い明るさがあった。
リーディアは村々を回り、壊れた家屋の数を確かめ、農民たちから話を聞いた。足りないものを書き留め、すでに届いているものと照らし合わせる。領主や商人とも話し、何をどこから運ぶのが早いのかを考えた。
誰かに「なぜ」と問われて答えを探すのではない。目の前に困っている人がいて、そのために自分に何ができるのかを考える。忙しかったが、不思議と苦しくはなかった。
そこで、アルブレヒトの従兄であるマティアスと再会した。
北部騎士団の副団長として駐屯しているとは聞いていたが、実際にその姿を目にしたのは、北部での暮らしにも少し慣れてきたころだった。
砦の中庭を横切っていたリーディアは、騎士たちに指示を出している長身の青年に気づいた。黒髪に、深い青の瞳。冬の夜会で言葉を交わしたときと変わらない、静かな佇まいだった。ただ、礼装に身を包んでいたあの夜とは違い、今は使い込まれた騎士服をまとい、腰には剣を佩いている。
マティアスもすぐにこちらに気づいた。
「アーレンフェルト嬢?」
少し意外そうに目を見開いたあと、彼は笑った。
「北部へ来ていたのか」
「はい。しばらくこちらに滞在することになりました」
「そうか」
それだけの再会だった。
北部での仕事のこと。婚約を解消したあとのこと。今、何を思っているのか。聞こうと思えば、いくらでも聞けたはずだった。けれど、マティアスは何も尋ねなかった。必要な挨拶だけを交わすと、彼は仕事へ戻っていった。
そのことが、リーディアには不思議なくらい心地よかった。
それから、二人はたびたび顔を合わせるようになった。
復興途中の村へ向かう際、マティアスが護衛を率いて同行することもあった。砦へ戻れば、中庭で部下たちと剣を振るっている姿を見かけた。食堂で夕食の時間が重なることもあった。
最初のころ、交わす言葉は少なかった。
「今日は東の村か」
「はい」
「道が悪い。馬車が揺れるぞ」
「覚悟しておきます」
ある日は、
「雨になりそうだ」
「空は晴れていますけれど」
「山の向こうを見てみろ」
言われて目を凝らすと、遠くの峰に黒い雲がかかっていた。本当にその日の午後から雨になった。
そんな、どうということのない会話だった。
けれどマティアスと話していると、言葉の一つ一つに意味を求められることがなかった。返事が短くてもいい。少し考えてから答えてもいい。黙っていてもいい。
何より、会話には終わりがあった。話すことがなくなれば、ただ終わる。それがリーディアには、まだ少し不思議だった。
北部へ来てひと月ほど経ったころ、二人で砦へ戻る途中、道端に小さな青い花が咲いているのを見つけた。
「あ」
リーディアが足を止める。マティアスも止まった。
しばらく花を眺めてから、リーディアは歩き出した。
何も聞かれなかった。
「……珍しい花でしたね」
「ああ。この辺りじゃ、雪解けのあとに咲く」
「名前は?」
「知らない」
「ご存じないのですか?」
「花には詳しくない」
あまりにもあっさりした返事に、リーディアは笑った。マティアスがこちらを見る。
その瞬間、リーディアの身体がわずかに強張った。
――なぜ笑ったの?
もう聞かれるはずのない声が、頭の奥で蘇った。けれどマティアスは何も尋ねなかった。ただ少しだけ口元を緩めて、また歩き出した。リーディアもその隣を歩いた。
理由を説明しなくても、笑っていていい。そのことを、身体のほうが少しずつ覚え始めていた。
さらにひと月が過ぎた。
いつの間にか、二人は互いを家名ではなく名前で呼ぶようになっていた。どちらからそうしようと言い出したわけでもない。何度も顔を合わせ、同じ道を歩き、食事を共にするうちに、自然とそうなっていた。
復興は少しずつ進んでいた。崩れていた石垣は積み直され、畑には新しい芽が出始めた。リーディアもいつしか、砦の暮らしに馴染んでいた。
ある夕方、仕事を終えたリーディアは、マティアスと並んで城壁の上を歩いていた。
西の空が茜色に染まり、遠くの山々が黒い影になって連なっている。
「疲れてる?」
マティアスが聞いた。
「少し」
「そうか」
それだけだった。
リーディアは歩きながら、無意識に次の言葉を待った。
一歩。
二歩。
三歩。
けれど、何も続かなかった。何に疲れたのか。なぜ疲れたのか。今日は何をしていたのか。尋ねられない。ただ「疲れている」という自分の言葉が、そのまま受け取られている。
胸の奥に、静かな安堵が広がった。
説明しなくてもいい。分かってもらうために、自分の中を掘り返さなくてもいい。沈黙したまま歩いていても、隣にいる人は不機嫌にならない。
風が吹いた。
リーディアの髪が頬にかかる。耳にかけると、マティアスがふとこちらを見た。
「頑張ったな」
「え?」
「ここへ来たころは、ずっと肩に力が入っていた」
リーディアは目を瞬いた。
「そんなに分かりやすかったですか?」
「ああ」
マティアスは少し笑った。
「今は、だいぶ違う」
そう言われて、リーディアは自分の肩から力が抜けていることに気づいた。
「そうかもしれません」
マティアスは頷いた。それ以上、何も言わなかった。
二人はそのまま、夕暮れの城壁をゆっくりと歩いていく。
話すことがなくなれば、黙っていればいい。風の音を聞きながら、ただ誰かと並んで歩く。そんな時間を心地よいと思えるようになったことが、リーディアには少し嬉しかった。
♢
北部での任期が半年を過ぎたころ、ルイーゼから手紙が届いた。珍しく三枚もの便箋が入っていた。
『あなたが北部に行っている間に、王都では少々面白いことになっているのよ』
そんな書き出しだった。
アルブレヒトには、婚約解消からほどなくして新たな縁談が持ち込まれたという。相手は南部に広大な領地を持つ侯爵家の令嬢。物静かで穏やか、誰にでも礼儀正しい娘だと評判だった。
その婚約は、三か月で解消された。令嬢側からの申し出だったという。理由として本人が漏らしたという一言が、手紙には書かれていた。
『なぜ、が多すぎて、息ができなかった』
その言葉を読んだとき、リーディアの胸の奥に、かつての息苦しさがほんのわずか蘇った。
贈り物を受け取ったとき、なぜもっと喜ばなかったのか。夜会でほかの男性と話したとき、なぜあんなに楽しそうに笑ったのか。友人との茶会から帰るのが遅れれば、何の話をしていたのか、なぜそれほど話が弾んだのか。黙れば、なぜ黙るのか。疲れたと言えば、何に疲れたのか。話を終えようとすれば、なぜもう話したくないのか。
令嬢は三か月で耐えられなくなったらしい。
婚約解消を告げると、その後はアルブレヒトからの手紙にも面会の申し込みにも、一切応じなかったという。
リーディアは、そこで少しだけ感心した。
――答えなければ話は終わらない。
そのアルブレヒトの前提そのものを、その令嬢は受け入れなかったのだ。
二度目となれば、噂は止められなかった。ヴァイセンローデ公爵家の嫡男は、婚約者を問い詰めすぎる。そんな評判が、若い令嬢を持つ家々の間で静かに共有されていったという。夜会でアルブレヒトが近づいてくると、母親がさりげなく娘を別の場所へ誘う。縁談の話が出ても、娘本人が首を縦に振らない。
とうとう公爵も息子を呼び出した。そして、
『なぜ、二度も同じことになる』
そう問い詰めたという。
『なぜだ、アルブレヒト。お前は誰よりも理性的な男だったはずだ。なぜ二人の令嬢から、同じように婚約を解消される』
アルブレヒトは黙った。そして、ようやく答えたらしい。
『……分かりません』
『分からないでは困る。少しは自分で考えてみろ』
『分からないのです』
『自分のことなのに?』
そこまで読んで、リーディアは手紙を持つ手を止めた。
皮肉だとは思った。かつて自分が何度も浴びせられた言葉が、そのまま彼に返っている。けれど、不思議と痛快だとは思わなかった。笑いたいとも思わなかった。
ただ、今のアルブレヒトは、初めて身をもって知ったのかもしれない。自分のことでも、分からないものはある。答えろと言われても、答えられないことがある。何度問い詰められても、ない答えは出せない。それがどれほど苦しいことなのか。
彼は父に向かって言いたかったかもしれない。
――分からないものは、分からないのです。
――理由はいつも一つとは限らないのです。
――原因が分かったからといって、失ったものが戻るわけではないのです。
けれど、それは、かつて彼自身が誰の口からも受け取ろうとしなかった言葉だった。
手紙の最後にはこうあった。
『最近のアルブレヒト様は、夜会でも壁際にいることが多いそうよ。でも、これでいいのだと思うわ。誰も、あの方が納得するまで「なぜ」に答え続ける必要はないのだから』
リーディアは手紙を膝の上へ置いた。暖炉の火が揺れていた。
婚約した夜のことを思い出した。薔薇の香り。銀色の髪。あの、自信に満ちた声。
――僕は、すべてのことには理由があると思っている。
今でも、その言葉そのものは間違っていないのかもしれない。理由はあるのかもしれない。ただ、理由とは、他人から無理に差し出させるものではない。相手の胸の中を掘り返して、自分が納得できる形になるまで作り替えさせるものでもない。自分が苦しいなら、その苦しさを相手だけに解消させようとするのではなく、自分自身で抱えることも必要なのだ。
アルブレヒトがいつか、それに気づくのか、気づかないのか。リーディアには分からない。
けれど、分からないままでよかった。
もう、それは彼女が答えを探すべき問題ではなかった。
♢
それから二か月ほど経ち、北部では朝の草葉を白い霜が覆うようになった。
そんなある日、マティアスはリーディアに求婚した。
「俺と結婚してほしい」
派手な言葉はなかった。ただ、二人で何度も歩いた砦の城壁で、冷たい風に吹かれながら、マティアスはそう言った。
リーディアは、すぐには答えなかった。
「少し、時間をいただけますか?」
「もちろん」
「いつまでにお返事をすれば?」
「君が決めるまで」
それだけだった。
マティアスは急かさなかった。すぐに答えられない理由も、いつなら決められるのかも尋ねなかった。リーディアも、それ以上説明しなかった。
三日後。
朝の冷え込みで中庭の石畳がうっすらと白くなったころ、リーディアは城壁の上にマティアスの姿を見つけた。
「マティアス様」
振り返った彼のもとへ歩み寄る。
「お返事をしに来ました」
「ああ」
いつもと変わらない短い返事だった。けれど、マティアスの表情はわずかに硬く、傍らに下ろした手が静かに握られている。
リーディアは一度だけ息を吸った。
「私も、あなたと一緒に生きていきたいです」
一瞬、マティアスは何も言わなかった。やがて、握られていた手から力が抜け、その顔がゆっくりとほころんだ。
「ありがとう」
差し出された手を、リーディアは取った。温かかった。
なぜ、この人を好きになったのだろう。優しいから。安心できるから。自分を尊重してくれるから。一緒にいて息ができるから。
理由はいくつも並べられる。けれど、そのどれが決定的なものなのかは、リーディア自身にも分からなかった。もしかしたら、そのすべてかもしれない。どれでもないのかもしれない。
そして、それでよかった。
人の心は、魔術式ではない。原因を一つずつ並べれば、必ず同じ答えへ辿り着くものではない。
分からないことはある。言葉にならない気持ちもある。説明したくない日もある。納得できないまま、受け入れなければならないこともある。
それでも、人は一緒に生きていける。
いや。きっと、そういう余白を互いに許せるからこそ、一緒に生きていけるのだ。
リーディアは、ようやく知った。
問いかけることと、問い詰めることは違う。話し合うことと、相手を自分の納得する答えへ追い込むことも違う。
「なぜ?」という言葉は、ときに相手を知るための扉になる。
けれど、相手の答えを受け入れるつもりもなく、自分が納得するまで繰り返すのなら、それはもう質問ではない。
裁判の始まりを告げる言葉なのだ。
城壁の向こうには、冬を迎えようとする北部の大地が広がっていた。畑は収穫を終え、遠くの山々はうっすらと雪をかぶっている。春になれば、また畑に種が蒔かれる。雪がいつ解けるのか、どの種が芽を出すのか、どんな花が咲くのか。それはまだ誰にも分からない。
けれど、分からなくていい。
分からないものを、分からないまま待つことは、もう怖くなかった。
隣では、マティアスが何も言わずに立っている。
リーディアはその手を握ったまま、遠くの雪山を眺めた。
やがて来る春を、ただ楽しみに待ちながら。
〈完〉
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
SNSで、夫を「なぜ?」「どうして?」と激詰めしてしまう妻の話を見かけ、いろいろと考えさせられました。
「話し合うこと」と「自分が納得するまで相手に答えを求め続けること」は、似ているようで違うのかもしれない。
そんなことを考えながら、異世界恋愛のお話にしてみました。
少しでも「面白かった!」「読んでよかった!」と思っていただけましたら、
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