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問い続ける婚約者  作者: 月光院ゆら


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2/2

後編

 決定的だったのは、その春だった。

 婚約から二年。リーディアは十八歳になっていた。窓辺の木蓮が白い花を開き始めたころだった。


 その日、リーディアはアルブレヒトと会う約束をしていた。けれど昼前、母が突然めまいを訴えて倒れた。幸い大事には至らなかったものの、医師が来るまでの間、リーディアは母のそばを離れなかった。

 アルブレヒトには、母の体調が悪いため今日は会えない、と使いを出した。

 夕方、母が眠ったあと、リーディアが自室へ戻ろうとしていると、侍女からアルブレヒトが訪ねてきたと告げられた。

 母を心配して来てくれたのだと思った。だから、リーディアは彼を応接室へ通した。


「伯爵夫人の具合は?」

「もう落ち着きました。医師も、しばらく休めば大丈夫だろうと」

「そうか。それはよかった」


 アルブレヒトは安堵したように頷いた。


「ところで、今日のことなんだけど」

「今日?」

「なぜ、君がずっと伯爵夫人についていたの?」


 リーディアは一瞬、意味が分からなかった。


「……母が倒れたからです」

「それは分かっている。でも、医師が来てからも君がそばにいる必要はなかっただろう?」

「母が心細そうでしたから」

「侍女もいたんだろう?」

「いました」

「なら、任せることもできたんじゃないか?」

「……できたかもしれません」

「じゃあ、なぜそうしなかったの?」


 まただ。

 リーディアは膝の上で指を組んだ。


「母のそばにいたかったからです」

「なぜ?」

「なぜ、と言われても……母が心配だったからです」

「医師が大丈夫だと言ったあとも?」

「はい」


 アルブレヒトはしばらく黙っていた。


「……本当に、それだけ?」

「え?」

「僕に会いたくなかったわけじゃないの?」


 リーディアは目を瞬いた。


「違います」

「なら、どうして僕との約束を断ったの?」

「母が倒れたからです」

「それはもう聞いた。でも、医師は大丈夫だと言ったんだろう?」

「はい」

「それでも、僕に会うよりそばにいたかった?」

「……はい」

「なぜ?」

「分かりません。ただ、母のそばにいたかったのです」

「それだけで、僕との約束を断ったの?」


 胸の奥で、何かが静かに切れた。


「今日はもう、お帰りください」

「なぜ?」

「話したくないからです」

「なぜ話したくないの?」

「説明したくありません」


 アルブレヒトが眉をひそめた。


「それでは話し合いにならない」

「話し合いたくありません」

「だから、なぜ?」


 リーディアは彼を見た。


「私は今、説明しないと言いました」

「婚約者に対して、それは無責任だろう」

「なぜです?」

「僕が不安になるからだ」


 その言葉を聞いた瞬間、長いあいだ掴めずにいたものが、初めてはっきりと形を持った。


「……では」


 リーディアは静かに尋ねた。


「あなたが不安になったら、その不安がなくなるまで、私は説明し続けなければならないのですか?」

「そういう言い方はおかしい」

「では、どう言えば正しいのです?」

「僕はただ、君のことを理解したいだけだ」

「私が『分からない』と言っても?」

「分かるまで考えればいい」

「私が『話したくない』と言っても?」

「なぜ話したくないのか説明すべきだ」

「私が『一人にしてほしい』と言っても?」

「突然そんなことを言われたら、理由を聞くのは当然だろう」


 リーディアはゆっくりと息を吐いた。


「……やはり、そうなのですね」

「何が?」

「あなたにとって、私の『話したくない』は、答えではない」

「当然だ。それは話し合いを放棄しているだけだ」

「違います」


 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。


「アルブレヒト様」

「何?」

「あなたは、話し合いたいのではありません」

「何を言っている?」

「自分が安心したいのです」


 アルブレヒトの目が見開かれた。


「あなたは、分からない状態が嫌なのですね」

「誰だってそうだろう」

「いいえ」

「何?」

「分からないままにしておける人もいます」

「それは問題から逃げているだけだ」

「違います。分からないものを、分からないまま受け入れているのです」

「そんな無責任な――」

「あなたは不安になる」


 リーディアは遮った。


「その不安を消すために、相手に理由を求める。答えが納得できなければ、もう一度聞く。違うと言う。また答えさせる」

「僕はそんな――」

「そして、自分が納得したときだけ、『話し合いが終わった』と思う」


 アルブレヒトは黙った。


「私は何度も、終わりたいと言いました」

「それは君がちゃんと説明しないから――」

「ほら」


 リーディアは静かに言った。


「結局、私が悪いのですね」

「違う」

「では、どうして?」

「……」

「答えられませんか?」


 アルブレヒトが苛立ったように息を吐いた。


「君は今日、どうしたんだ」

「何がです?」

「さっきから、僕の言うことをいちいち問い返して」

「私は質問しているだけです」

「もう、そんなふうに問い詰めるのはやめてくれ」


 その瞬間、リーディアは笑った。

 乾いた笑いだった。


「私も、ずっとそう思っていました」


 ♢


 その夜、リーディアは父の書斎を訪れた。


「お父様。お願いがあります」


 机に向かっていた父が顔を上げた。窓の外はもう暗く、開け放った隙間から、春の夜の少し冷たい風が入り込んでいる。


「アルブレヒト様との婚約を、解消したいのです」


 父はしばらく何も言わなかった。


「アルブレヒト殿が何かしたのか?」

「いいえ」

「ほかの令嬢と?」

「そういうことではありません」

「暴力を?」

「ありません」


 父の眉間に深い皺が寄った。


「では、なぜ――」


 その瞬間、リーディアの体が強張った。喉が締まる。また説明しなければならない。その反応が、もう体に染みついていた。

 父はそこで言葉を止めた。


「……リーディア」


 先ほどまでとは違う、静かな声だった。


「急がなくていい。最初から、ゆっくり話してくれ」


 リーディアは目を見開いた。


「うまく説明できるか、分かりません」

「構わない」

「自分でも、何から話せばいいのか……」

「順番なんてどうでもいい。思いついたところからでいい」


 父は椅子から立ち上がると、向かいの長椅子を示した。


「婚約を解消するなら、理由は聞かせてもらわなければならない。公爵家にも説明が必要だからな」


 リーディアは小さく頷いた。


「はい」

「だが、今ここで、私が納得できるようにきれいに説明しろと言っているんじゃない」


 その言葉に、胸が詰まった。


「言いたいことだけでいい。ゆっくり話しなさい」

「……それでも、聞いてくださるのですか」

「もちろんだ」


 それだけだった。

 たったそれだけで、涙があふれた。これまで張りつめていた何かが切れ、止めようとしても止まらなかった。

 父は、なぜ泣く、何がそんなにつらかった、どうして今まで言わなかった――そう問い重ねることはしなかった。ただ娘の隣へ腰を下ろし、肩にそっと手を置いた。


 開いた窓の向こうで、夜風に木の葉がかすかに揺れた。

 その音を聞きながら、リーディアはしばらく泣いた。


 ♢


 婚約解消の話し合いには、双方の家族が同席した。

 リーディアが、


「婚約を解消したいと思っています」


 そう告げると、アルブレヒトはすぐに言った。


「なぜ?」


 予想していた。


「この関係を続けることが、私には難しいからです」

「難しい、では理由にならない」

「私にとっては理由です」

「僕は納得できない」

「そうでしょうね」

「なら、もっと説明してくれ」

「あなたが納得するかどうかとは別です。私の理由は、今お伝えしたとおりです」

「十分じゃない」


 リーディアは彼を見た。


「何をもって、十分とするのですか?」

「僕が理解できるまでだ」

「つまり、あなたが納得するまで?」

「そうだ」


 やはり、そうなのだ。アルブレヒト自身の口から、それがはっきりと示された。

 リーディアは静かに頷いた。


「それです」

「何が?」

「私が婚約を解消したい理由です」

「……」

「あなたは、私が何を答えても、あなたが納得するまで終わらせない」

「それは当然だろう。二人のことなんだから、互いに納得するまで話すべきだ」

「なぜ当然なのです?」

「話し合いもせずに、一方が勝手に関係を終わらせていいわけがない」

「二人のことだからこそ、一人がもう続けられないと思った時点で、今までどおりの関係を続けることはできません」

「だから、その理由を――」

「もうお伝えしました」

「僕は納得していない!」


 声が響いた。

 かつて「感情に流されない人」だと思っていた男性が、二度目に声を荒らげた。


「だったら、まだ話は終わっていない!」

「いいえ」


 リーディアは首を横に振った。


「終わっています」

「どうして!」

「あなたが納得しなくても、終わることはあるからです」

「そんな勝手な――」

「あなたはずっと、私に説明を求めました」

「当然だ」

「では、『もしかしたら自分の言い方がきつかったのではないか』『自分と話すことを苦しく感じているのではないか』と、考えてみたことはありますか?」

「何?」

「私に理由を尋ねるのではなく、自分でも考えてみようとしたことは?」

「それは……」

「ありませんでしたよね」


 リーディアは続けた。


「あなたはいつも、『なぜ?』と聞くだけでした」

「質問することが悪いと言うのか?」

「いいえ」

「なら――」

「答えを出すことを、すべて私に任せていたことが問題なのです」


 アルブレヒトが黙った。


「私は考える。自分の心の中を探す。説明する。あなたはそれを聞いて、『違う』『足りない』『納得できない』と判断する」

「……」

「私はいつも答える側で、あなたはその答えが正しいかどうかを決める側でした」

「そんなつもりはない」

「そうなのでしょうね」


 リーディアは静かに答えた。


「そこが一番怖かったのです」

「怖い?」

「あなたは、自分が正しいことをしていると本気で信じているからです」


 アルブレヒトの顔が強張った。


「話し合うことは正しい。原因を突き止めることは正しい。説明することは誠実。だから、それを拒む人間は逃げている。間違っている。無責任だ」

「僕はそこまで――」

「私が『疲れた』と言えば?」


 彼は黙った。


「あなたは、『何に?』と聞きました」

「……」

「私が『分からない』と言えば?」

「リーディア」

「『自分のことなのに?』」

「……」

「『今日は終わりにしたい』と言えば?」


 答えはない。


「『まだ僕が納得していない』」


 誰も口を挟まなかった。双方の両親も、息を詰めるように二人を見ていた。


「アルブレヒト様」


 リーディアは言った。


「相手には、黙る権利があります」

「婚約者同士でも?」

「はい」

「理解できない」

「理解できないままでも、構わないのではありませんか?」

「なぜ――」


 そこまで言って、アルブレヒトは口を閉じた。初めて、自分が何を言おうとしたのか気づいたらしい。

 リーディアは小さく笑った。


「それです」


 ♢


 婚約は解消された。世間には「性格の不一致」とだけ発表された。


 もちろん、何の痛手もなかったわけではない。公爵家との縁を失ったことで、アーレンフェルト家との取引を見直す商家もあった。社交界ではしばらく噂話が飛び交い、リーディアを「せっかくの玉の輿を自分から捨てた愚かな娘」と言う者もいた。


 それでも、夜、寝台に入ったとき。明日、何を聞かれるだろうと考えなくていい。笑い方を気にしなくていい。視線の向きを意識しなくていい。

 その静けさだけで、十分だった。


 翌年、リーディアは父の名代として北部へ赴いた。

 魔獣被害を受けた地域へ、アーレンフェルト伯爵家は以前から食糧や建築資材を送っていた。だが、被害の程度も必要なものも村ごとに違う。現地の状況を確かめ、今後の支援について話を聞くとともに、領地経営や復興の実務を学ぶため、しばらく北部に滞在することになった。


 荒れた畑。崩れかけた石垣。春になっても冷たい風の吹く土地だった。それでも、働く人々の顔には、王都では見たことのない粘り強い明るさがあった。


 リーディアは村々を回り、壊れた家屋の数を確かめ、農民たちから話を聞いた。足りないものを書き留め、すでに届いているものと照らし合わせる。領主や商人とも話し、何をどこから運ぶのが早いのかを考えた。

 誰かに「なぜ」と問われて答えを探すのではない。目の前に困っている人がいて、そのために自分に何ができるのかを考える。忙しかったが、不思議と苦しくはなかった。


 そこで、アルブレヒトの従兄であるマティアスと再会した。

 北部騎士団の副団長として駐屯しているとは聞いていたが、実際にその姿を目にしたのは、北部での暮らしにも少し慣れてきたころだった。


 砦の中庭を横切っていたリーディアは、騎士たちに指示を出している長身の青年に気づいた。黒髪に、深い青の瞳。冬の夜会で言葉を交わしたときと変わらない、静かな佇まいだった。ただ、礼装に身を包んでいたあの夜とは違い、今は使い込まれた騎士服をまとい、腰には剣を佩いている。

 マティアスもすぐにこちらに気づいた。


「アーレンフェルト嬢?」


 少し意外そうに目を見開いたあと、彼は笑った。


「北部へ来ていたのか」

「はい。しばらくこちらに滞在することになりました」

「そうか」


 それだけの再会だった。

 北部での仕事のこと。婚約を解消したあとのこと。今、何を思っているのか。聞こうと思えば、いくらでも聞けたはずだった。けれど、マティアスは何も尋ねなかった。必要な挨拶だけを交わすと、彼は仕事へ戻っていった。

 そのことが、リーディアには不思議なくらい心地よかった。


 それから、二人はたびたび顔を合わせるようになった。

 復興途中の村へ向かう際、マティアスが護衛を率いて同行することもあった。砦へ戻れば、中庭で部下たちと剣を振るっている姿を見かけた。食堂で夕食の時間が重なることもあった。


 最初のころ、交わす言葉は少なかった。


「今日は東の村か」

「はい」

「道が悪い。馬車が揺れるぞ」

「覚悟しておきます」


 ある日は、


「雨になりそうだ」

「空は晴れていますけれど」

「山の向こうを見てみろ」


 言われて目を凝らすと、遠くの峰に黒い雲がかかっていた。本当にその日の午後から雨になった。

 そんな、どうということのない会話だった。

 けれどマティアスと話していると、言葉の一つ一つに意味を求められることがなかった。返事が短くてもいい。少し考えてから答えてもいい。黙っていてもいい。

 何より、会話には終わりがあった。話すことがなくなれば、ただ終わる。それがリーディアには、まだ少し不思議だった。


 北部へ来てひと月ほど経ったころ、二人で砦へ戻る途中、道端に小さな青い花が咲いているのを見つけた。


「あ」


 リーディアが足を止める。マティアスも止まった。

 しばらく花を眺めてから、リーディアは歩き出した。

 何も聞かれなかった。


「……珍しい花でしたね」

「ああ。この辺りじゃ、雪解けのあとに咲く」

「名前は?」

「知らない」

「ご存じないのですか?」

「花には詳しくない」


 あまりにもあっさりした返事に、リーディアは笑った。マティアスがこちらを見る。

 その瞬間、リーディアの身体がわずかに強張った。


 ――なぜ笑ったの?


 もう聞かれるはずのない声が、頭の奥で蘇った。けれどマティアスは何も尋ねなかった。ただ少しだけ口元を緩めて、また歩き出した。リーディアもその隣を歩いた。

 理由を説明しなくても、笑っていていい。そのことを、身体のほうが少しずつ覚え始めていた。


 さらにひと月が過ぎた。


 いつの間にか、二人は互いを家名ではなく名前で呼ぶようになっていた。どちらからそうしようと言い出したわけでもない。何度も顔を合わせ、同じ道を歩き、食事を共にするうちに、自然とそうなっていた。

 復興は少しずつ進んでいた。崩れていた石垣は積み直され、畑には新しい芽が出始めた。リーディアもいつしか、砦の暮らしに馴染んでいた。


 ある夕方、仕事を終えたリーディアは、マティアスと並んで城壁の上を歩いていた。

 西の空が茜色に染まり、遠くの山々が黒い影になって連なっている。


「疲れてる?」


 マティアスが聞いた。


「少し」

「そうか」


 それだけだった。

 リーディアは歩きながら、無意識に次の言葉を待った。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 けれど、何も続かなかった。何に疲れたのか。なぜ疲れたのか。今日は何をしていたのか。尋ねられない。ただ「疲れている」という自分の言葉が、そのまま受け取られている。

 胸の奥に、静かな安堵が広がった。

 説明しなくてもいい。分かってもらうために、自分の中を掘り返さなくてもいい。沈黙したまま歩いていても、隣にいる人は不機嫌にならない。


 風が吹いた。

 リーディアの髪が頬にかかる。耳にかけると、マティアスがふとこちらを見た。


「頑張ったな」

「え?」

「ここへ来たころは、ずっと肩に力が入っていた」


 リーディアは目を瞬いた。


「そんなに分かりやすかったですか?」

「ああ」


 マティアスは少し笑った。


「今は、だいぶ違う」


 そう言われて、リーディアは自分の肩から力が抜けていることに気づいた。


「そうかもしれません」


 マティアスは頷いた。それ以上、何も言わなかった。

 二人はそのまま、夕暮れの城壁をゆっくりと歩いていく。

 話すことがなくなれば、黙っていればいい。風の音を聞きながら、ただ誰かと並んで歩く。そんな時間を心地よいと思えるようになったことが、リーディアには少し嬉しかった。


 ♢


 北部での任期が半年を過ぎたころ、ルイーゼから手紙が届いた。珍しく三枚もの便箋が入っていた。


『あなたが北部に行っている間に、王都では少々面白いことになっているのよ』


 そんな書き出しだった。


 アルブレヒトには、婚約解消からほどなくして新たな縁談が持ち込まれたという。相手は南部に広大な領地を持つ侯爵家の令嬢。物静かで穏やか、誰にでも礼儀正しい娘だと評判だった。

 その婚約は、三か月で解消された。令嬢側からの申し出だったという。理由として本人が漏らしたという一言が、手紙には書かれていた。


『なぜ、が多すぎて、息ができなかった』


 その言葉を読んだとき、リーディアの胸の奥に、かつての息苦しさがほんのわずか蘇った。

 贈り物を受け取ったとき、なぜもっと喜ばなかったのか。夜会でほかの男性と話したとき、なぜあんなに楽しそうに笑ったのか。友人との茶会から帰るのが遅れれば、何の話をしていたのか、なぜそれほど話が弾んだのか。黙れば、なぜ黙るのか。疲れたと言えば、何に疲れたのか。話を終えようとすれば、なぜもう話したくないのか。


 令嬢は三か月で耐えられなくなったらしい。

 婚約解消を告げると、その後はアルブレヒトからの手紙にも面会の申し込みにも、一切応じなかったという。


 リーディアは、そこで少しだけ感心した。


 ――答えなければ話は終わらない。


 そのアルブレヒトの前提そのものを、その令嬢は受け入れなかったのだ。


 二度目となれば、噂は止められなかった。ヴァイセンローデ公爵家の嫡男は、婚約者を問い詰めすぎる。そんな評判が、若い令嬢を持つ家々の間で静かに共有されていったという。夜会でアルブレヒトが近づいてくると、母親がさりげなく娘を別の場所へ誘う。縁談の話が出ても、娘本人が首を縦に振らない。


 とうとう公爵も息子を呼び出した。そして、


『なぜ、二度も同じことになる』


 そう問い詰めたという。


『なぜだ、アルブレヒト。お前は誰よりも理性的な男だったはずだ。なぜ二人の令嬢から、同じように婚約を解消される』


 アルブレヒトは黙った。そして、ようやく答えたらしい。


『……分かりません』

『分からないでは困る。少しは自分で考えてみろ』

『分からないのです』

『自分のことなのに?』


 そこまで読んで、リーディアは手紙を持つ手を止めた。

 皮肉だとは思った。かつて自分が何度も浴びせられた言葉が、そのまま彼に返っている。けれど、不思議と痛快だとは思わなかった。笑いたいとも思わなかった。


 ただ、今のアルブレヒトは、初めて身をもって知ったのかもしれない。自分のことでも、分からないものはある。答えろと言われても、答えられないことがある。何度問い詰められても、ない答えは出せない。それがどれほど苦しいことなのか。


 彼は父に向かって言いたかったかもしれない。

 

 ――分からないものは、分からないのです。

 ――理由はいつも一つとは限らないのです。

 ――原因が分かったからといって、失ったものが戻るわけではないのです。

 

 けれど、それは、かつて彼自身が誰の口からも受け取ろうとしなかった言葉だった。


 手紙の最後にはこうあった。


『最近のアルブレヒト様は、夜会でも壁際にいることが多いそうよ。でも、これでいいのだと思うわ。誰も、あの方が納得するまで「なぜ」に答え続ける必要はないのだから』


 リーディアは手紙を膝の上へ置いた。暖炉の火が揺れていた。

 婚約した夜のことを思い出した。薔薇の香り。銀色の髪。あの、自信に満ちた声。


 ――僕は、すべてのことには理由があると思っている。


 今でも、その言葉そのものは間違っていないのかもしれない。理由はあるのかもしれない。ただ、理由とは、他人から無理に差し出させるものではない。相手の胸の中を掘り返して、自分が納得できる形になるまで作り替えさせるものでもない。自分が苦しいなら、その苦しさを相手だけに解消させようとするのではなく、自分自身で抱えることも必要なのだ。


 アルブレヒトがいつか、それに気づくのか、気づかないのか。リーディアには分からない。

 けれど、分からないままでよかった。

 もう、それは彼女が答えを探すべき問題ではなかった。


 ♢


 それから二か月ほど経ち、北部では朝の草葉を白い霜が覆うようになった。

 そんなある日、マティアスはリーディアに求婚した。


「俺と結婚してほしい」


 派手な言葉はなかった。ただ、二人で何度も歩いた砦の城壁で、冷たい風に吹かれながら、マティアスはそう言った。

 リーディアは、すぐには答えなかった。


「少し、時間をいただけますか?」

「もちろん」

「いつまでにお返事をすれば?」

「君が決めるまで」


 それだけだった。

 マティアスは急かさなかった。すぐに答えられない理由も、いつなら決められるのかも尋ねなかった。リーディアも、それ以上説明しなかった。


 三日後。


 朝の冷え込みで中庭の石畳がうっすらと白くなったころ、リーディアは城壁の上にマティアスの姿を見つけた。


「マティアス様」


 振り返った彼のもとへ歩み寄る。


「お返事をしに来ました」

「ああ」


 いつもと変わらない短い返事だった。けれど、マティアスの表情はわずかに硬く、傍らに下ろした手が静かに握られている。

 リーディアは一度だけ息を吸った。


「私も、あなたと一緒に生きていきたいです」


 一瞬、マティアスは何も言わなかった。やがて、握られていた手から力が抜け、その顔がゆっくりとほころんだ。


「ありがとう」


 差し出された手を、リーディアは取った。温かかった。

 なぜ、この人を好きになったのだろう。優しいから。安心できるから。自分を尊重してくれるから。一緒にいて息ができるから。

 理由はいくつも並べられる。けれど、そのどれが決定的なものなのかは、リーディア自身にも分からなかった。もしかしたら、そのすべてかもしれない。どれでもないのかもしれない。

 そして、それでよかった。


 人の心は、魔術式ではない。原因を一つずつ並べれば、必ず同じ答えへ辿り着くものではない。

 分からないことはある。言葉にならない気持ちもある。説明したくない日もある。納得できないまま、受け入れなければならないこともある。


 それでも、人は一緒に生きていける。

 いや。きっと、そういう余白を互いに許せるからこそ、一緒に生きていけるのだ。

 リーディアは、ようやく知った。


 問いかけることと、問い詰めることは違う。話し合うことと、相手を自分の納得する答えへ追い込むことも違う。

「なぜ?」という言葉は、ときに相手を知るための扉になる。

 けれど、相手の答えを受け入れるつもりもなく、自分が納得するまで繰り返すのなら、それはもう質問ではない。

 裁判の始まりを告げる言葉なのだ。


 城壁の向こうには、冬を迎えようとする北部の大地が広がっていた。畑は収穫を終え、遠くの山々はうっすらと雪をかぶっている。春になれば、また畑に種が蒔かれる。雪がいつ解けるのか、どの種が芽を出すのか、どんな花が咲くのか。それはまだ誰にも分からない。

 

 けれど、分からなくていい。

 分からないものを、分からないまま待つことは、もう怖くなかった。


 隣では、マティアスが何も言わずに立っている。

 リーディアはその手を握ったまま、遠くの雪山を眺めた。

 やがて来る春を、ただ楽しみに待ちながら。


〈完〉


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


SNSで、夫を「なぜ?」「どうして?」と激詰めしてしまう妻の話を見かけ、いろいろと考えさせられました。


「話し合うこと」と「自分が納得するまで相手に答えを求め続けること」は、似ているようで違うのかもしれない。

そんなことを考えながら、異世界恋愛のお話にしてみました。


少しでも「面白かった!」「読んでよかった!」と思っていただけましたら、

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皆さまからの応援が、次の作品を書く大きな励みになります。

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― 新着の感想 ―
幼児のなぜなぜ期さえ過ぎたら若干疲れるのに良い年した大人のなぜなぜは確かにそうなるよなぁ。
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