前編
リーディア・アーレンフェルトが、アルブレヒト・ヴァイセンローデと婚約したのは、十六歳の春だった。
アーレンフェルト伯爵家の末娘であるリーディアには、二人の兄がいた。家督は長兄が継ぐことが決まっており、ヴァイセンローデ公爵家の嫡男との婚約は、家格の上でも申し分のない縁談だった。
祖母や叔母たちは口々に「これ以上ないご縁だわ」と喜び、使用人たちは廊下ですれ違うたびに祝福の言葉をかけてくれた。
リーディア自身も、その幸運を疑ったことはなかった。
アルブレヒトは、誰もが認める優秀な青年だった。
月光を溶かしたような銀の髪に、青灰色の瞳。日の加減によって、その瞳は淡い水色にも、冷たい灰色にも見えた。整った顔立ちは人混みの向こうにいても一目で分かるほどで、王立学院では魔術理論、政治学、歴史、法学のいずれでも上位の成績を収め、剣術にも秀でていた。教師たちは彼を模範的な生徒と評し、同級生たちは彼の意見に一目置いた。
何より、彼は「理性的な人」として知られていた。
感情に流されない。声を荒らげない。筋道を立てて話す。どんな出来事にも原因があり、それを突き止めれば問題は解決できる――それがアルブレヒトの信条だった。
婚約が正式に決まったその夜、ヴァイセンローデ公爵家では両家の家族を招いたささやかな晩餐会が開かれた。
長い食卓には銀の燭台が並び、磨き上げられたグラスが炎を映してきらめいていた。公爵夫妻とリーディアの両親は、これから両家が親族となることを喜び、終始和やかに言葉を交わしていた。食事を終え、両親たちが食後酒を楽しみ始めたころ、アルブレヒトがリーディアを庭園へ誘った。
屋敷を出ると、晩餐室の明かりは背後の窓から柔らかく庭へこぼれていた。小径の両脇には庭園灯が点々と続き、夜露をまとった薔薇の葉が月光を細かく弾いている。空気はまだ春の冷たさを残していた。リーディアは肩に掛けた薄いショールを押さえながら、隣を歩く婚約者の横顔をそっと盗み見た。
「僕は、すべてのことには理由があると思っている」
不意に、アルブレヒトが言った。月光を浴びた横顔には迷いがなかった。まるで世界には必ず正しい答えがあり、自分はその答えへ至る道筋を知っているのだと信じているような、静かな確信があった。
「人が何かをするなら、そこには必ず理由がある。気分や勢いだけで物事を決める人間は信用できない」
「そうですね」
リーディアは素直に頷いた。彼女にも、その考えは心地よく響いた。
父は温厚な人だったが、少々優柔不断なところがあった。母は優しい人ではあったものの、時折、理由も分からないままひどく機嫌を損ねることがあった。幼いころ、何か自分が悪いことをしたのだろうか、知らないうちに母を怒らせたのだろうか、そう思いながら閉ざされた母の寝室の扉を見つめたことが何度もある。何が悪かったのか分からないまま誰かの不機嫌に怯えることを、リーディアは子どものころから苦手としていた。だからこそ、理由を言葉にしてくれる人は、安心できる人に思えた。
「だから僕たちは、何かあったら話し合おう」
アルブレヒトが微笑む。その笑顔は、絵姿にして残しておきたいほど美しかった。
「互いにきちんと理由を説明する。相手が納得するまで、逃げずに話す。そういう夫婦になりたい」
その言葉を、リーディアは誠実さの表れだと思った。怒鳴ったり、物に当たったり、黙り込んで相手を困らせたりする男性より、ずっといい。何か問題が起きても、二人で言葉を尽くせば分かり合える。この人となら、母の不機嫌の理由を探して暗い廊下で身を縮めていた幼い日のような思いをすることもないだろう。そう考えると、胸の奥に柔らかな温かさが満ちた。
「私もそう思います」
リーディアは微笑んだ。夜風が薔薇の香りを運んでくる。この香りと、この夜と、この幸福な気持ちを、いつまでも覚えていよう。そう思った。
そのときのリーディアには、アルブレヒトの言葉の中に、ほんのわずかな違和感すら見つけることができなかった。
むしろ、それを誠実さなのだと信じていた。
♢
最初の違和感は、本当に些細なものだった。
婚約から三か月ほど経った、初夏の休日。
リーディアは、アルブレヒトに渡す予定だった刺繍入りのハンカチを持っていくのを忘れてしまった。朝は家庭教師との授業があり、その後は母と社交儀礼の確認をし、昼食後には領地から届いた陳情書について父から説明を受けた。侍女にハンカチを用意してもらったところまでは覚えていたのだが、次々と別のことに気を取られているうちに、すっかり頭から抜け落ちてしまったのだ。
「あら、ごめんなさい」
待ち合わせ場所で思い出して、リーディアは謝った。
「今度は必ず持ってきます」
アルブレヒトは怒らなかった。眉をひそめることさえなかった。ただ、不思議そうに尋ねた。
「どうして忘れたの?」
「え?」
「ハンカチ」
「ああ……本当にごめんなさい。うっかりしていて」
「謝罪じゃなくて、理由を聞いているんだ」
穏やかな口調だった。責めるような声音ではなかったから、リーディアも素直に考えた。
「今日は朝から予定が多かったので、それで頭から抜けてしまったのかもしれません」
「予定が多いと、なぜ忘れるの?」
「……え?」
「君は普段、予定が多くても忘れ物なんてしないだろう?」
「そうですけど」
「じゃあ、今日だけ忘れた理由は別にあるんじゃない?」
リーディアは困った。
「特に思いつきません」
「自分のことなのに?」
胸の奥を、小さな針で刺されたような気がした。自分のしたことなのに理由が分からない。それは、自分がいい加減な人間だからなのだろうか。けれどアルブレヒトは怒っていない。ただ純粋に疑問に思っているだけのように見える。だからこそ、リーディアは自分の側に問題があるような気がしてしまった。
「本当に分からないのです」
「分からないでは困るな」
「では、次からは忘れないように気をつけます」
「どうやって?」
「侍女に確認してもらうようにします」
「自分でできる方法は?」
「予定表に書くとか……」
「今まで書いていなかったのはなぜ?」
そこから、話は一時間近く続いた。窓の外の光が白から金色へ、やがて橙へと変わっていく。リーディアは何度も答えた。なぜ忘れたのか。どうすれば防げるのか。なぜ今までそうしなかったのか。では次はどうするのか。一つ答えると、その答えの中から新しい「なぜ」が生まれる。底なしの井戸の中へ石を落とし続けているような気持ちだった。
「もう、この話は終わりにしませんか」
とうとうリーディアが言った。
アルブレヒトが首を傾げる。
「なぜ?」
「少し疲れました」
「何に?」
「……この話にです」
「でも、まだ原因がはっきりしていない」
「原因?」
「君が今日、なぜハンカチを忘れたのか」
リーディアは黙った。
「僕は責めているわけじゃないよ」
アルブレヒトは優しく言った。
「原因さえ分かれば、次から同じことは起きない。そうだろう?」
もっともなことを言っている。リーディアはそう思った。彼は自分を責めているのではない。自分たちのために問題をきちんと解決しようとしているだけなのだ。
帰りの馬車の中、窓の外を流れていく夕焼けを見ながら、リーディアは胸に残った妙な疲労感を押し込めた。これはきっと、彼の誠実さなのだ。そう思うことにした。
♢
けれど、それは一度では終わらなかった。
ある日の放課後、学院の談話室で、アルブレヒトが一冊の本を差し出した。
「これ、君が好きそうだと思って」
王国北部に残る古い伝承をまとめた本だった。以前、リーディアが授業の折に興味があると話したことを覚えていてくれたらしい。
「まあ、ありがとうございます」
リーディアは嬉しくなって本を受け取った。革張りの表紙を撫で、ぱらぱらと頁をめくる。
ところが、アルブレヒトはじっと彼女の顔を見ていた。
「……あまり嬉しくなかった?」
「え?」
「思ったより笑わなかったから」
「そんなことありません。嬉しいです」
「でも、前に僕が菓子を贈ったときは、もっと笑っていたよ」
リーディアは戸惑った。
「そうでしたか?」
「うん。今日は少し笑っただけだった」
「本当に嬉しいですよ」
「なら、なぜあまり笑わなかったの?」
「なぜ、と言われましても……」
「何か気に入らないところがあった?」
「ありません」
「興味がなくなった?」
「いいえ」
「それなら、どうして?」
リーディアは困って、自分の胸の内を探った。
嬉しかった。それは間違いない。ただ、どれほど嬉しかったのか、なぜその嬉しさが笑顔に十分表れなかったのかと聞かれても、答えようがなかった。
「……分かりません。たまたまではないでしょうか」
「たまたま?」
アルブレヒトがわずかに眉を寄せた。
「感情に、たまたまということがあるのかな」
「……」
リーディアは俯いた。本の重みが、急に手のひらの中で意味を変えたような気がした。喜びを受け取っただけのはずなのに、その喜び方まで、正しかったかどうかを問われている。
「今度は、もっと分かりやすく喜んでみます」
その場しのぎの言葉だと、自分でも分かっていた。けれどアルブレヒトは、それで一応の納得を得たようだった。
また別の日。
「さっき、僕が話している途中で窓の外を見たね」
「鳥が飛んでいたので」
「なぜ鳥を見たの?」
「……目に入ったからです」
「僕の話、つまらなかった?」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいわけじゃない。理由を聞いているんだ」
リーディアは口をつぐんだ。ただ視線を動かしただけのことなのに、きちんと説明できない自分のほうが悪いような気がしてきた。
夜会では。
「さっき、リヒャルト殿との話には笑っていたね」
「え?」
「僕の話には笑わなかった」
「内容が違いますから」
「どう違うの?」
「リヒャルト殿のお話は、少し可笑しかったので」
「僕の話は可笑しくなかった?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
リーディアは言葉に詰まった。面白い話なら笑う。そうでなければ笑わない。ただそれだけのことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
そんなことが、少しずつ増えていった。
リーディアはいつしか、アルブレヒトの前で自分の一挙手一投足を意識するようになった。贈り物を受け取ったときの表情。視線の向き。誰と話し、誰に笑いかけたか。返事までの間。声の調子。ため息。沈黙。何気なくしたことにまで、理由を用意しておかなければならない気がした。
夜、寝台に入ってからも考えた。明日はアルブレヒトと会う。もし自分がぼんやりしていたら、なぜと聞かれるだろう。途中で黙ったら。返事が遅れたら。誰かと楽しそうに話したら。何と答えれば、彼は納得するのだろう。
そんなことを考えながら、翌日の会話を頭の中で何度も繰り返すうちに、眠りにつく時間は少しずつ遅くなった。皮肉なことに、眠れないせいで疲れやすくなり、疲れた様子を見せれば、今度はなぜ疲れているのかと聞かれた。
ある日の昼休み、リーディアは何気なく言った。
「今日はルイーゼたちと昼食を取ってもいいですか?」
「どうして?」
「昨日、今度一緒に食べようと話していたので」
「僕とは食べたくない?」
「そういう意味ではありません」
「なら、なぜ?」
「……たまには友人だけで食べたいと思っただけです」
「僕がいちゃいけない理由があるの?」
喉の奥に、小さな石を押し込まれたような息苦しさを覚えた。
いけない理由などない。ただ、今日は友人たちと一緒に食べたいと思った。それだけだった。けれど、それでは理由にならないのだろうか。
なぜ笑ったのか。なぜ黙ったのか。なぜ誰かと話したいと思ったのか。人は、自分がすることや感じることのすべてに、言葉にできる明確な理由を持っているのだろうか。
分からない。
でも――分からないでは困る。
アルブレヒトのその言葉を思い出すたび、「分からない」と答えることが、少しずつ怖くなっていった。
♢
秋のある日。リーディアは親しい令嬢たちの茶会に参加した。
久しぶりに、心から楽しい時間だった。新しく王都にできた菓子店の話。次の夜会に着ていくドレスの話。友人の兄に縁談が舞い込んだという話。学院での失敗談。くだらないことで笑った。笑いすぎて、頬が痛くなった。時計を見ることさえ忘れていた。
一時間ほど予定を過ぎて屋敷へ戻ったとき、馬車を降りたリーディアの胸には、まだ楽しかった余韻が残っていた。
玄関をくぐると、執事が近づいてきた。
「お嬢様。アルブレヒト様がお見えです」
「アルブレヒト様が?」
「はい。公爵夫人からのお届け物をお持ちくださったそうで、応接室でお待ちです」
そういえば、近いうちに公爵夫人が仕立屋から届いた生地見本を見せてくださると言っていた。わざわざアルブレヒトが届けてくれたらしい。
リーディアは急いで応接室へ向かった。
「お待たせして申し訳ありません」
扉を開けると、長椅子に腰掛けていたアルブレヒトが顔を上げた。
「随分遅かったね」
その一言で、先ほどまで胸に残っていた温かなものが、すっと冷えていった。
「ごめんなさい。話が弾んでしまって」
「何の話?」
「いろいろです」
「具体的には?」
胸が沈む。
「ルイーゼの新しいドレスとか、ローザのお兄様の婚約とか……」
「それだけで一時間も遅れたの?」
「それだけではありません」
「じゃあ、何がそんなに楽しかったの?」
「みんなでいろいろ話して、笑って……」
「何が面白かったの?」
「ローザの話とか……」
「どんな?」
「お兄様が、婚約者の前では別人みたいに格好をつけるそうで」
「それのどこが面白かったの?」
リーディアは言葉に詰まった。
どこが、と言われても困る。ローザの話し方がおかしくて、その場にいた皆が笑って、自分もつられて笑った。ただそれだけだった。
「……その場では面白かったのです」
「なぜ?」
一つ答えるたび、楽しかった記憶が少しずつ形を失っていく。さっきまではただ面白かっただけなのに、なぜ笑ったのかと問われるうち、自分が笑ったことそのものが悪いことだったような気さえしてきた。
花束から一本ずつ花を抜き、さらに花弁を一枚ずつ千切って、「どこが美しかったのか説明して」と迫られているようだった。
「もう疲れました」
とうとうリーディアは言った。
「今日はこのくらいにしませんか」
「なぜ?」
「だから、疲れたからです」
「何に?」
「……この話にです」
「でも、まだ分からない」
「何がですか?」
「なぜ一時間も遅れるほど話に夢中になったのか」
リーディアは息を吐いた。
「明日では駄目ですか」
「なぜ明日?」
「もう遅いですし……」
「明日になったら、今日のことを正確に思い出せなくなるかもしれない」
「私はもう、話したくありません」
「なぜ?」
リーディアは答えなかった。
「ほら」
アルブレヒトが困ったように息をつく。
「君がちゃんと説明してくれないから、話が終わらないんだ」
その言葉に、胸の中で何かが引っかかった。
――話が終わらないのは、私のせいなの?
リーディアは立ち上がった。
「もう自室へ戻ります」
けれど、アルブレヒトも立ち上がった。
「待って。まだ話は終わっていない」
「一人にしてください」
「だから、なぜ一人になりたいの?」
「疲れたからです」
「何に?」
まただ。
胸の奥から、何かがせり上がった。
「アルブレヒト様との会話にです」
初めて、はっきり言った。
アルブレヒトの顔が強張った。
「それは僕が悪いということ?」
「そういう意味では……」
「じゃあ、どういう意味?」
リーディアは目を閉じたくなった。答えれば、その答えを問われる。説明すれば、説明の理由を求められる。否定すれば、何が違うのか聞かれる。どこまで歩いても出口の見えない迷路だった。
アルブレヒトが帰ったのは、それから一時間近く経ってからだった。
その夜、寝台に横たわっても、リーディアはなかなか眠れなかった。闇の中で目を閉じると、
――なぜ?
アルブレヒトの声が聞こえる気がした。
♢
それから数日後。
「最近、顔色が悪いわよ」
学院の談話室で、友人のルイーゼが言った。
「そう?」
「眠れてる?」
「……あまり」
「何かあった?」
肩が強張った。何が。いつから。どうして。誰のせいで。何を感じているのか。答えなければ。筋の通った説明をしなければ。自分でも分からないなら、考えなければ。頭の中で反射的に答えを探していることに気づき、リーディアはますます苦しくなった。
けれどルイーゼは、紅茶を一口飲むと、あっさり言った。
「まあ、言いたくなければいいけど」
リーディアは顔を上げた。
「……聞かないの?」
「何を?」
「何があったのか」
「話したいなら聞くわよ」
「でも、話したくないと言ったら?」
「聞かない」
「なぜ?」
思わず、自分から尋ねていた。ルイーゼがきょとんとした。
「あなたが話したくないんでしょう?」
「でも……気にならないの?」
「気にはなるわよ」
「なら……」
「気になることと、あなたに答えさせる権利があることは別でしょう?」
リーディアは言葉を失った。
「……分からない、と言っても?」
「何が?」
「自分でも、何があったのか分からない、と」
「分からないなら、分からないんじゃない?」
あまりにも簡単だった。
「自分のことなのに?」
「自分のことだからって、全部分かるわけじゃないでしょう」
その瞬間、リーディアの目から涙がこぼれた。
「え……?」
ルイーゼが慌てて身を乗り出した。
リーディアは頬に触れた。指先が濡れている。
「ご、ごめんなさい」
「ちょっと、謝らなくていいわよ。どうしたの?」
「どうして泣いたのか、自分でも……」
「……いいわ、無理に話さなくて」
ルイーゼはそれ以上、何も尋ねなかった。ただ、テーブルの上へ手を伸ばして、リーディアの手の甲にそっと重ねた。温かかった。それだけだった。
どうして泣いたの。なぜそんなに辛いの。いつからなの。何があったの。何一つ聞かれなかった。理由を探さなくていい。答えを作らなくていい。分からないままでいい。そのことが、どうしてこんなにも楽なのか。リーディアには分からなかった。けれど今度は、その「分からない」を説明する必要もなかった。
♢
冬の夜会で、リーディアはマティアス・ヴァイセンローデと初めて言葉を交わした。アルブレヒトの従兄で、二十二歳。王国騎士団に所属する青年だった。
黒髪に深い青の瞳。アルブレヒトほど華やかな美貌ではないが、背が高く、騎士服の上からでも分かるほど鍛えられている。それでいて、纏う空気は静かだった。幼いころから、アルブレヒトとは兄弟同然に育ったという。
「アルブレヒトとはうまくいってる?」
何気なく聞かれ、リーディアは反射的に答えた。
「ええ。とても誠実な方です。何かあれば、きちんと話し合おうとしてくださいます」
口にした瞬間、自分の声がひどく平板に聞こえた。マティアスが何とも言えない顔をした。
「……何ですか?」
「いや、君まで『なぜ』を始めるのか」
一瞬、意味が分からなかった。だがマティアスは苦笑した。
「アルブレヒトは昔からそうなんだ」
「昔から?」
「子どものころ、友人があいつの玩具を落として壊したことがあった。もちろん相手は謝った。でも、それで終わらなかった」
マティアスは指を折った。
「なぜ持った。なぜ片手で持った。なぜそこで歩いた。なぜ落とした。落とした瞬間何を考えていた。次はどうするつもりだ。延々とな」
「でも……それは理由を知りたいからでは?」
「本人はそう思ってるよ」
「本人は?」
「そこが厄介なんだ」
マティアスは窓の外へ目を向けた。雪が静かに舞っている。
「アルブレヒトは、自分を理性的な人間だと思っている。だから自分が不快になっても、『僕は怒っている』とは考えない。『問題が起きたから原因を確認している』と思う」
リーディアは黙った。
「でも実際には、自分が納得するまで相手に答え続けさせる」
「……」
「相手が『分からない』と言ったら、『自分のことなのに』と」
「もう話したくないと言ったら……『なぜ』と」
「だろうな」
リーディアは自分の指先を見つめた。
「では……私は、どうすればいいのでしょう」
「君が、あいつを納得させる必要はない」
「え?」
「答えたなら、それで終わりにしていい。あいつが納得するまで付き合う必要はないんだ」
「でも、アルブレヒト様が納得できなかったら?」
「それはアルブレヒトの問題だ」
リーディアは顔を上げた。
「納得できないままでも?」
「そうだ。分からないことを、分からないままにしておくことだってある」
「でも、理由が分からないままでは……」
マティアスは肩をすくめた。
「人間は魔術式じゃない。全部書き出せば、必ず答えが出るわけじゃない」
「……」
「本人にだって、自分がなぜそうしたのか分からないことはある」
リーディアは黙った。
「理由を聞かれたら、人は何か答えようとする」
「はい」
「『疲れていたからかな』『考え事をしていたからかな』ってな。でも、それが本当に理由かどうかは本人にも分からないかもしれない」
「……はい」
「そこで『本当に?』『それだけ?』『ほかには?』『それは理由にならない』と繰り返されたら?」
リーディアは考えた。
「……別の理由を探します」
「そう」
「相手が納得するまで」
「ああ」
指先が冷たくなった。覚えがありすぎた。アルブレヒトに聞かれるたび、自分の中を探した。なければ、作った。たぶん、こうだったのかもしれない。もしかしたら、あれが嫌だったのかもしれない。違うと言われれば、また別の理由を探す。そうしているうちに、自分自身でさえ、最初に何を感じていたのか分からなくなった。
「『なぜ』という言葉は便利だ」
マティアスが言った。
「質問の形をしているから、答えないほうが悪いように見える」
リーディアは彼を見る。
「でも、相手が出した答えを受け取るつもりがないなら、もう質問じゃない」
「では、何なのです?」
マティアスは少し考えてから言った。
「裁判かな」
「裁判?」
「質問するほうが裁判官。答えるほうが被告人。裁判官が納得する答えを言うまで審理は終わらない」
その言葉が胸の底へ沈んだ。ゆっくりと、けれど確かに。なぜ、アルブレヒトと話していると、自分だけがあれほど疲れるのか。ようやく分かった気がした。
リーディアはずっと、対話をしていたのではなかった。被告席に座っていたのだ。
♢
夜会からの帰り道、リーディアとアルブレヒトは同じ馬車に揺られていた。しばらく無言で窓の外を眺めていたアルブレヒトが、ふいに口を開いた。
「マティアスと随分長く話していたね」
「はい」
「何を?」
「あなたのことです」
アルブレヒトの眉がわずかに動いた。
「僕の何を?」
リーディアは向かいに座る彼を見た。いつも説明するのは自分。問いを投げるのはアルブレヒト。答えを作るのは自分。そして、その答えが正しいかどうかを決めるのもアルブレヒト。
ならば一度だけ、立場を入れ替えてみよう。
「その前に、私から聞いてもよろしいですか?」
「何?」
「先月、観劇の約束を当日に取りやめましたね」
「ああ」
「お忙しかったから、と」
「そうだね」
「何があったのです?」
「仕事だよ」
「どんな?」
「そこまで説明する必要はないだろう」
「なぜです?」
「リーディア」
「私は理由を聞いているだけです」
アルブレヒトの顔が険しくなった。
「僕を問い詰めるのはやめてくれ」
「私は、あなたがいつもなさっていることをしているだけです」
「いい加減にしろ!」
鋭い声が、狭い車内に響いた。
リーディアはびくりと肩を震わせた。アルブレヒトが声を荒らげたのは、初めてだった。本人も驚いたらしい。一瞬、呆然としたあと、目を伏せる。
「……すまない」
「いいえ」
「僕は……」
「もう結構です」
「何が?」
リーディアは震えそうになる指を、掌の中へ握り込んだ。
「あなたが、説明する側になることを嫌がるのが分かりました」
「違う」
「では、なぜ怒ったのです?」
「……」
「自分のことなのに、分からないのですか?」
アルブレヒトが黙った。車輪が石畳を踏む音だけが、狭い車内に響いていた。
その顔を見た瞬間、胸の中にあった霧が、すっと晴れた。彼は、理由を求めていたのではない。少なくとも、それだけではない。自分が問う側で、相手が答える側であること。そして、自分が納得するまで相手は答え続けること。アルブレヒトは、それを当然だと思っていたのだ。
♢
それから、リーディアは意識してアルブレヒトを見るようになった。一度気づいてしまえば、今まで見落としていたものがいくらでも見えた。
彼が友人との約束を忘れた。
「別の予定と重なっていたんだ。仕方ない」
それで終わる。
使用人への指示を間違えた。
「向こうが勘違いしたんだろう」
それで終わる。
ところが、侍女が皿を一枚割ったとき――。
「なぜ落とした?」
「も、申し訳ございません。手が滑って……」
「なぜ滑った?」
「え……」
「手が滑った理由を聞いている」
「申し訳ありません」
「謝罪を聞いているんじゃない」
侍女は震えていた。
「もう十分ではありませんか」
リーディアが口を挟む。アルブレヒトは心外そうに眉を上げた。
「僕は彼女を責めていない」
「では何を?」
「原因を確認しているんだ。同じ失敗を繰り返さないために」
「原因が分からないこともあるのでは?」
「そんなはずはない」
迷いのない即答だった。
「すべてのことには理由がある」
リーディアは、その横顔を見つめた。
嘘をついているのではない。意地悪をしている自覚もない。本当に、心の底から信じているのだ。問題には原因がある。原因を特定すれば再発を防げる。筋は通っている。
けれど、人間は故障した魔道具ではない。部品を取り外して、どこが壊れたのか確かめれば済むものではない。疲れる理由が一つとは限らない。悲しい理由を本人が分かっていないこともある。原因が分かったからといって、失われた好意が元へ戻るわけでもない。何より、人には、説明しない自由がある。アルブレヒトには、その考えがないのだ。
♢
もう一つ、気づいたことがあった。
アルブレヒトは、何か問題が起きると、必ず過去へ戻ろうとする。なぜ起きたのか。どこで間違えたのか。何が原因だったのか。誰が、なぜそうしたのか。
もちろん、原因を知ることが必要なときもある。けれど、それだけで問題が解決するわけではない。
大切なのは、そのあとどうするかではないのだろうか。
ある日、リーディアは思い切って、そのことを口にしてみた。
「先日の件ですが、これから先どうしましょう」
「何の話?」
「先日、私が待ち合わせに遅れたことです」
「ああ。だから、なぜ遅れたのかを――」
「それではなく」
初めて、彼の言葉を遮った。
「今後も、予定どおりにいかないことはあると思います。そのとき、お互い嫌な思いをしないためには、どうすればいいでしょう」
アルブレヒトは少し考えた。
「だから、まず今回の原因を――」
「原因はもう分かっています」
「でも、なぜそうなったのかをきちんと整理しなければ」
「私は、これからの話をしたいんです」
「原因が分からなければ対策できないだろう」
「では、あなたはどうしたらいいと思いますか?」
「僕が?」
「はい」
リーディアはまっすぐに彼を見た。
「私に答えを出させるのではなく、一緒に考えてください」
アルブレヒトは黙った。
長い沈黙だった。
窓の外では、庭師が冬枯れの枝を剪定している。乾いた枝が落ちる音が、ときおり静かな部屋まで届いた。
その音を聞きながら、リーディアはふと気づいた。
アルブレヒトは、「なぜ」と問うことには慣れている。
なぜ遅れた。なぜ忘れた。理由は何だ。どうしてそうした。
そう尋ねれば、考えるのは相手だ。理由を探すのも、答えを言葉にするのも相手だ。そしてアルブレヒトは、その答えが十分かどうかを判断する側にいられる。納得できる。できない。まだ足りない。違う。
けれど、「これからどうするか」と問われれば、そうはいかない。自分も考えなければならない。自分も案を出さなければならない。
二人の問題なら、解決する責任を、半分引き受けなければならないのだ。
アルブレヒトは、結局何も答えなかった。




