登校
本編3話+各視点4話の中編。
まだ肌寒さの残る朝。
閑静な住宅地の端にあるバス停には、今から職場や学校に向かう人々が集まっていた。
新生活が始まったばかりの、どこか慣れない浮ついた雰囲気の若い男女や学生が多い中。
やや小柄な制服を着た人物——宇城 鈴は、数日前に袖を通したばかりの大き目な制服を、煩わしそうにいじっていた。
ようやく落ち着いたのか、学生鞄からスマートフォンを取り出したリンは。
「……」
それとほぼ同時に、道路の曲がり角から乗るべきバスがやってきたのを見て、ため息をついて手のそれを懐に戻した。
バスが、それを必要とする人々の目の前で止まり、次々と乗り込んでいく。
自分もそれに続くべく、一歩を踏み出したリンの耳朶を、遠くからの聞き覚えのある声が打った。
ふと横に目を向けると、リンも歩いてきた歩道の先。
まだバス停から距離のある地点から、猛烈な勢いでこちらへ向かってくる人影が見えた。
その人影——同世代の中ではかなり大柄で、髪を短く切り揃えた男子学生は、朝早い時間の住宅地にも関わらず、こちらに向かって何かを叫んでいるようだったが。
「……」
リンはそれをしばらく眺めた後、無視してバスへと乗り込んだ。
何か抗議の叫びが聞こえた気がしたが、それは自分の知った事ではなかった。
「無視は酷いんじゃねぇかい、リンさんよぉ」
バスが発進する寸前、半ば閉じるドアを押しのける勢いで駆け込み乗車をしてきた迷惑な男子学生が、リンへと声をかけた。
運転手や乗客の数人からの呆れたような視線をものともせず。男子学生は涼しい顔でバス後方の席に座る鈴の横にどかりと座りつつ、無駄に白い歯を見せつけて挨拶した。
「おはよう、我が相棒」
「おはよう、ヤシ。それで、お前はいつになったら遅刻しないように朝起きられるようになるんだ?」
”ヤシ”と呼ばれた、朝からお騒がせな男子——八代 団十郎は、こちらを見ることもせずに、外の景色を眺めるリンに言葉を返す。
「しょうがねぇだろう、昨晩はそれどころじゃなかったんだからよ。ああ、それよりも聞いてくれよ、相棒!」
体をこちらに向け、身を乗り出してくるこの暑苦しい男に対し、リンは右手で頬杖を突きながら、空いている左手で顔を押しのける。
「朝から声がデカいんだよ。静かに話せ。あと顔も離せ。——どうしたんだよ」
「どうしたも!——こうしたもねぇよ、今、俺は16年の人生の中で、最大の危機を迎えてるんだよ……!」
一応、途中で声量を落としたヤシは、しかし焦ったような顔でリンに訴えた。
見てわかるように、いつも人様に迷惑をかけるか能天気に笑っているかのこの男。
そんな男にしては珍しく、そんな思い詰めたような様子に、リンは怪訝そうに顔を向けた。
「何だよ危機って」
その問いに対し、ヤシはおもむろに自らの顔を手のひらで覆いながら、頭を振って小さく告白した。
「俺、今、復讐されそうになってんだよっ……!」
朝から話題に出すには、随分と物騒な単語が飛び出したものだ。と、リンはそう思った。
「復讐ってお前。何が理由で、誰がお前に対して復讐しようとしてんだよ」
「……流石だな相棒。早速要点を掻い摘んで分かりやすく聞いてくれるとは、それでこそ俺の心の友だぜ」
「心の友だか相棒だか。忙しいなお前は」
尚、要点をまとめたのは、こうでもしないとこの男の話は前に進まないから。
さらに言えば、話を聞かないという態度をとったところで、この男はそんな事お構いなしで喋り続ける事を、リンは今までの経験則から学んでいた。
リンは小さくため息を吐く。
ここから学校までは約30分程。いつものこいつとの無駄話は、今日はいつもと違ったものになりそうだった。
そう思いながら、リンはヤシに先を促す。
それを受けて、極めて真剣な顔をしたヤシが語りだした。
「まず前提として——俺は常日頃から、『自分に逆らわない、従順な女を彼女にしたい』と思っていることは知っているな?」
「一生知らなくてよかったのに今知っちゃったんだけど?」
聞き始めてわずか数秒で後悔し始めたリンだったが、目の前のこの腐れ幼馴染——ヤシは、いつものようにこっちの事情なんて知らんぷりで話し始めた。
『自分に逆らわない、従順な彼女が欲しい』
そんな自身の欲望を認識し、はっきりとそれを叶えるべく行動を開始したのは、ヤシが地元にある西区小学校の6年生になったばかりの頃だった。
「嫌過ぎるだろそんな欲望持った小学生」
「ああ、しかもそれが自分の同級生だったとかヤバいよな」
「何で”他人事です”みたいに言えるのお前?」
しかし、この欲望を叶えるにはいくつもの障害が存在していた。
相手の性格、育っている周囲の環境、普段からの対人関係——それらの条件をクリアするような。ヤシにとっての理想の『従順さ』とは、口で言うのは容易いものの、実際に探してみるとまるで見つからなかったのだ。
『自分に逆らわない従順さ』とは、自分の意見を持たない、または自分の意思が極めて薄弱な存在でなければならず。
更に言えば、ヤシ以外からの影響を受けない、という前提も必要だった。
それを念頭にして、当時のヤシは、その条件に合致しそうな女子を探し回った。
しかし、同じクラスは勿論、他クラスや他学年までも手を広げて探したヤシだったが、そんな女子はまるで見つからなかった。
「まあ、小学生の時の女子とか気が強いやつも多かったし。そもそも気弱な女子はグループで固まってたし、そりゃそんな女子いないだろう」
「グループで固まられると、考え方とか意見とかそのグループのもので染まりがちだし、そもそもそういう女子には近付きづらいし。早速躓いて、行き詰まっちゃってよ」
「良かった。この腐れ元小学生に狙われる可哀そうな女の子はいなかったんだな」
「そんな中だったな。ある日、俺は一人の女子を見つけたのよ」
「嘘だろ見つかっちゃったよ」
彼女は、当時ヤシと同じクラスにいた氷川 良子——ヤシは”リョウ”と呼んでいた、女の子だった。
近所でも有名な法律家と教師の両親の元に生まれ、成績優秀品行方正。教師からの印象も良い、長い髪をきっちりまとめた優等生で知られていた才女。
そんな彼女を、学校帰りに近くの学習塾で見かけたのがきっかけだったと、ヤシは言った。
「……なんでそんなエリートお嬢様が、ウチの学校にいたんだ?」
「母親の母校だったってのと、当時の教頭が母親の同期だったらしくてよ。あと、習い事とか塾が下校路から近かったってのもあったらしい」
「徹底してんなぁ」
「実際、授業が終わるとすぐ下校して習い事ハシゴする生活しててよ。道理で同学年なのに、学校で見た覚えないと思ったわ」
学習塾の先生に頭を下げ、すぐに移動しては近くにある習字塾に入っていくリョウを見て、ふとヤシは考えた。
もしかしたら、あの女の子は、ヤシが求める全ての条件を満たした存在なのではないかと。
「親の方針で、自分の意志とは関係なく生活している。グループにも入っておらず孤立、と。まあ、確かに条件は満たしてるけど、そこまで親からの干渉受けてるんじゃ意味がなくないか?」
「そう、だから俺は考えたんだ」
周囲からの聞き込みで、リョウの現状をあらかた把握したヤシは、とある事を思いついていた。
『普段から超きつい生活を送っていて、いつもピリピリしている女を、甘やかして依存させたら何かイケるんじゃね大作戦』を。
「うーん、すごいな」
「だろぉ? 相棒ならそう言ってくれると思ってたぜ!」
「ここまで知能が低い作戦名初めて見たわ俺」
「よせやい、そう褒めるなよ照れちゃうだろ」
「もしかして”知能が低い”を誉め言葉と認識してるのかお前の脳は?」
早速、ヤシが行動を開始して、1週間ほど経ったある日。
放課後、校舎をうろついていたヤシは、リョウが廊下で一生懸命何かを探し回っているのを見つけた。
その憔悴しきった様子に、一体どうしたのか、とヤシが尋ねた。
すると、顔色を悪くしたまま俯いたリョウが、小さく呟いた。
『眼鏡がない』と。
あれがないと、今から行く塾の先生が書く、細かい板書が見えづらく、厳しい先生の質問に答えるのが難しくなってしまうと。
それを聞いたヤシは、俯くリョウの手を引き、一緒に探してやることにした。
その甲斐もあってか、あちこちを探した結果、結局、なくした眼鏡は自習室と教室を繋ぐ廊下で見つかった。
何とか下校時間ギリギリで間に合ったリョウは、手渡された眼鏡を手にすると——そのまま、床にへたり込んで泣き出してしまった。
夕方、赤に染まる教室の中。
いつもの優等生然とした姿が嘘のように泣きじゃくるリョウに、ヤシは何も言わず。
ただ、横に座り、彼女が泣き止むまで、じっと一緒に居続けた。
「優しいじゃねぇかお前」
「まあ、あいつの眼鏡盗んで隠したの俺だったんだけど」
「ゴミじゃねぇかこいつ」
そんな自作自演によってリョウと接点を持ったヤシは、助けてくれた”お礼”をとして、リョウに遊びに付き合わせたり、勉強の合間に話をしたりし始めたのである。
まともに遊ぶどころか、友人と話したり、共に過ごしたりする事すらしてこなかったリョウ。
お礼とはいえ、最初はそんな”無駄なこと”を嫌がっていた彼女だったが、渋々付き合っていく内に、どんどん様子が変わっていった。
『時間の無駄』と評し、切り捨てていた他愛のない話に少しずつ相槌を打つようになり、下らない話に呆れたり、少し笑うようになり。
『意味が見いだせない』と常々言っていた校舎の遊具で、ヤシに手を引かれながらも遊ぶようになり。
ずっと図書館で勉強していた休日を、ヤシと近くのショッピングモールや公園で過ごすようになる頃には。
リョウは、出会った頃のピリついた、誰も寄せ付けない雰囲気が嘘のように明るく笑う少女になっていた。
馬鹿な事を言うヤシに、ずけずけと容赦なくものを言う程度には遠慮がなくなっていたリョウの変化は、正直そうなるように仕向けたヤシが驚くほどであった。
「なんか、意外だな。元々そういう性格だったのかね」
「一度興味を持ったり、好きな事とかになると逆に俺を引きずり回してた位には豪快で活発だったし、多分そうだったんだろうなー」
「あと、ずけずけと容赦なくって、具体的にどれ位」
「んーお前と良い勝負位?」
「まじかよ相当だな」
そんなリョウと過ごして、3ヶ月程経ったある日。
一緒に遊ぶ約束をして、いつもの公園で待っていたヤシの元に、真っ青な顔をしたリョウがやってきた。
今まで約束の時間に遅れたことなどなかったリョウは、大丈夫かと気遣うヤシに対して、突然こう言った。
『もう、一緒には遊べない』と。
驚き、理由を尋ねるヤシに、まるでこの世の終わりかの様な顔でリョウは理由を答えた。
先日、自分が通っている学習塾のテストで、初めて94点をとってしまったのだという。
95点以下を取ったことなど、今までそんな事は一度もなかったのに。
これは勉強をせず遊んでいた所為だ、とも。
もう、自分は遊んではいけないんだ。
これ以上、周りの期待を裏切ってはいけないんだ。
そう、出会った頃そのままの、余裕なく揺れる瞳と、強く思い詰めた表情で一方的に捲し立てるリョウに、ヤシはこう返した。
『それの、何がいけないんだ?』と。
それは、当時のリョウにとってはあんまりな言葉だっただろう。
当然、その問いに対して、一瞬激昂したリョウは。
——しかし、何も、答える事ができなかった。
「結局さ、あいつの思い込みだったんだよ」
かつてを懐かしむように、しかし苦いものも感じているかのように、ヤシはリンに呟くように言った。
「あいつは、自分で自分を追い詰めていただけだったんだ。たったそれだけの事に気付くのに、3か月もかかっちまった」
『勉強しなさい』という言葉を、『それしか取り柄がないのだから勉強し続けなければならない』と。
『頑張りなさい』という言葉を、『頑張らないお前は何の価値もないんだ』と。
『これだけ努力しているから、いい結果を残せるよ』という言葉を、『これだけやって結果を残せないお前は終わりだ』と。
リョウ。
出来の良い兄と、天才肌の妹。その間に生まれてしまった事で、常に比べられ。
両親が良かれと思って敷いたレールの上をただ歩み、そうすることで両親や周囲に認められる。
愛してもらえる。
小さい頃からそんな時を過ごし続けた少女は、いつしか自身にかけられる言葉によって自らを縛り上げ、自分で自分を追い詰めるようになっていった。
そんな、自分で作り上げた自分の異常性に、リョウはようやく、自分で気付くことができた。
他でもない、ヤシの言葉によって。
今までの自分の価値観が崩壊し、混乱し、立ち竦むリョウ。
そんな彼女の手を引いて、ヤシは自分の隣に座らせる。
そのまま何も言わず手を握ると——リョウはポツポツと自分の思いを吐き出し始めた。
つらかったこと。さびしかったこと。なきそうだったこと。
自分がどれほど、自分を生んでくれた両親を愛して———どれほど、憎悪していたかを語る頃には。
ヤシの手を握るリョウは、すっかり落ち着いて、いつもの調子を取り戻していたという。
「頭が良かったんだろうな。一度、自分のおかしさというか、強迫観念に気付いたらさ。あっさり自分なりに心を整理できちまったらしくてよ。 公園に来た時と比べてたら、もう別人になってたよ」
夕日が沈みかけ、二人が出会った時のあの教室の様に、赤く染まる公園のベンチ。
そこから立ち上がり、少し歩いて、振り返ったリョウは、ヤシに笑いかけた。
『なんか、全部、ばからしいね。私も、パパもママも——なんか、すっきりしちゃった』
そこにはもう、両親と自分自身に振り回される、ただただ張りつめて危なっかしい少女の姿は、もう無かった。
「吹っ切れたか」
「いやあ~あの時のリョウはマジで可愛かったなぁ。なんだかんだそれまでは眉間に皴寄ってたし、素直に笑った時の顔とかマジでぐっときてよ~」
「……そうかよ。で、どうなったの。一応ネックだった両親の執着も無くなって、お前の彼女に相応しくなったけど」
「そりゃもう、別人みたいになったよ」
と、そこまでは調子良く語っていたヤシの顔が、突然曇った。
「……別人に、なりすぎちまったんだよ」
あの公園での語らいの後。
リョウはテストの点数について両親に怒られたが、次は良い点を取るように、とだけ言われて終わった。
結局その程度の期待しか、自分には向けられていなかったのだと、後日リョウは自虐的にヤシに語っていた。
厳しいと評判の塾の講師に至っては、テスト答案を差し出して頭を下げたままのリョウの頭を不器用に撫でて。
『点数が下がったのなら、その点数を一緒に上げていくのが塾講師という職業だ。また、一緒にやっていこう』と。
ぶっきらぼうにではあるが、優しく言ってくれたという。
『ヤシの言うとおりだったね。全部、私が思い込んでいただけだったんだ』
良い点数を取っても悪い点数を取っても、大して変わらない両親と、実はずっとリョウの努力を見てくれていた人。
ようやくそれに気付けたリョウは、——自分で自分を閉じ込めていた籠から飛び出した。
真面目に勉強はする。
それと同時に、たまには遊び、しっかりと休む。
2桁に届こうとしていた習い事の数も、両親に相談するとあっさり半分以下に減ったリョウは、今までの自分の苦労は何だったのかと笑っていたそうだ。
「教育ママパパだったんだろ、よく許したなそんなこと」
「そん頃って、上の兄が海外留学、下の妹がリョウが入れなかった有名私立小学校に受かった時だったみたいでよ。 関心と費用がそっちに持っていかれたからだろうって言ってたな」
「……は。 そりゃ”徹底”してんな?」
両親の愛への執着や思い込みが薄れ、生活環境も改善したリョウは、すっかり肩の力が抜けていた。
3か月前までのピリピリした近付き難い雰囲気はなりを潜め、快活で、頭の回転も速く、ズバズバ物を言っては素直な感情をぶつけるリョウ。
そんな彼女と過ごす小学生最後の夏休みは、ヤシにとっても、とても楽しいものだった。
手を繋いであちこち遊びまわったり、近所の図書館で一緒に宿題を片付けたり、町の神社で行われた夏祭りに行ったり。
そのあまりの楽しさに、ヤシが思わず、「自分に執着させて自分無しでは生きられないように依存させる事」という、本来の目的を忘れてしまう位だった
「良い話にちょくちょく邪悪なノイズ挟むの止めろ」
そして、あっという間に時は流れ。
生まれて初めて宿題をやりきれた夏休みも終わり。さてリョウを依存させるためになんかこう上手くやるかと考えていた矢先。
ここでようやく——ヤシは、日に日にリョウの周囲に、人が増えている事に気付いたのである。
「ああ、俺は馬鹿だ。マジでバカだった。あんなに明るく、可愛くなったリョウを、何で他の奴らが放っておくなんて思ったんだろうなぁ……」
気付いた時は、時既に遅く。
あっという間に、ヤシのクラスでは、リョウを中心としたグループが出来上がっていた。
頭が良く、リーダーシップがあり、あけすけに物を言っても不快さを感じない愛嬌を持ち合わせたリョウ。
そんな彼女を周囲が放って置く訳もなく、すぐにクラスの人気者としての地位を固めてしまったのである。
わずか1か月足らずの出来事に、呆然とするしかなったヤシだったが。ここでふと、とある考えが頭をよぎった。
『このままでは、自分がリョウをハメて、わざと依存させようとしていた事がバレるのでは?』と。
「何でそうなるんだよ。 いや、マジで何でそんな流れになるんだよお前? そのままスクールカースト上位を彼女ポジに収めちまえば良かっただろ」
「馬っ鹿お前! その時のリョウの周りにはいろんな考えの奴がいたんぞ、その中の一人でも俺の真意に気付く奴がいてもおかしくねぇだろ!」
「いるか? こんなアクロバット斜め上邪悪馬鹿思考を読み取れる小学生とかいるもんか普通?」
「あのな相棒。 俺はただでさえ自作自演からの”俺に依存しろ”アッピールを常日頃リョウの前でしてたんだぞ? それがあんなカースト上位グループにバレてみろ、俺の居場所なんぞ速攻で消滅からの村八分だぞ!」
「……頭が痛くなってきた。っていうか、”俺に依存しろ”アピールって何。お前、氷川さんに対して普段から何してたの」
「うん? ええと、確か、事あるごとに『俺だけはお前の味方で居続けるぞ』とか、不安そうになってたら『俺が隣にいるから大丈夫だぞ』とか。 一歩踏み出せずに悩んでそうだったら『俺はどんな所でもお前を連れて行くし、お前が行きたいならどんな場所にでも一緒に行くぞ』とか言ってたかな。 覚えてるのはそれ位か」
「……お前。あー……いや、うん何でもない。で、続きは」
これはまずいと思ったヤシは、危機を回避すべく行動を開始した。
少しずつリョウとの接触を減らし、距離を取っていったのである。
当然、すぐに離れようとするとリョウに怪しまれるので、共通の友人を通してリョウと接する事を増やして。
その友人たちを一人二人と増やして。
ヤシは細心の注意を払いつつ、リョウと少しずつ、距離を取っていった。
いつバレるか分からない中、とても神経を擦り減らす作業であったが、ヤシは何とか半年間を乗り切った。
その頃には、すっかりクラスにおける不動の人気者となっていたリョウと自分の間には、ほぼ接点は無くなっていた。
リョウとは常にお互い違うグループで活動し、すれ違えば挨拶する程度の間柄に落ち着いたヤシは、何とか悪行がバレる前に卒業する事に成功。
リョウは有名私立中に。ヤシは地元の公立中にそれぞれ入学し、何とか事なきを得たという。
「いやマジで怖くて生きた心地がしなかったわあの時は。なんか気付いたら視界の端に友達と話してるリョウがいたり、たまに誰かがじっとこっちを見てくるような感覚ばっかしててよ。 脅迫観念っていうのかな……何とか逃げ切れて良かったよ」
「……まあ、いいか。つまり、まとめるとだ」
そろそろバスが学校前に到着するアナウンスを聞きながら、リンは改めて横にいる思い込み馬鹿に対して言った。
「小学生の頃のお前は、コンプレックスまみれで色々限界だった小さな女の子を外の世界に連れ出した。それがきっかけで女の子は何もかもいい方向に変わっていって、その元凶のお前はその子の前から特に説明もなくフェードアウトしたと」
「お、俺の約30分に渡る話をわずか10秒でまとめちまうとは! まとめ上手だな俺の相棒は! そうだ、今この時をもってお前の事を西高一のまとめ上手と呼んでいいか!」
「ダサいから嫌」
ばっさりと切り捨てたリンは、しかしヤシに対して問いを投げかけた。
「で? 肝心の話がまだだろうが。なんでそこで”復讐される”なんて話になるんだよ。もう接点ないんだろ氷川さんとは」
その問いに対し、ヤシは頭を抱えつつ、冷や汗を流しながら呟くように言った。
「……いたの」
「何が」
「いたんだよ! 昨日の入学式に! 一年生代表として! ——あいつ、ここに入学してきたんだよ!」
その時のヤシの受けた衝撃は、凄まじいものだった。
入学式当日。
昨夜遅くまで一緒にゲームしていた所為で、式中眠りこけていたリンの横。同じくヤシも眠気に抗わずにひと眠りしようとしていた所。
『新入生代表、氷川良子』と呼ばれ、最前列から立ち上がり、堂々と登壇する女子を見た時。
なんとなく聞き覚えのあるような名前とその人影に目をやったヤシは、次の瞬間、驚愕した。
すらりとした身体のラインと、よく手入れされた長髪。
利発そうな顔立ちと短くもよく響くスピーチ。
終わり際、一度誰かを探すように見渡した切れ長の目と、強い意志を感じさせる瞳。
3年前のあの時から大きく変わったその姿を見て——かつての自分の”やらかし”を思い出したヤシは、のんきに舟を漕ぐリンの横で一人、恐慌状態に陥った。
まさか、大して進学校でもない、ただの公立高校に入学してくるとは。
そして、成績優秀であるリョウが、わざわざこの学校に入った理由。それに心当たりがあるヤシは、絶望の表情でリンに告げた。
「あいつ、あの時の俺の自作自演に気付いたんだ……!」
もうすぐ着くか、とスマートフォンを鞄に仕舞い込むリンの横で、ヤシは両手で顔を覆いながら呟く。
「もう駄目だぁ……きっとあいつは。あいつが味方につけた生徒と先生全員で、俺を追い詰めてくるんだ。 そして俺は相棒くらいしか相手をしてくれない村八分状態で、灰色の学生生活を続けることになるんだぁ……もうおしまいだぁ……」
「何言ってんだ親友。そんなわけないだろ」
「あ、相棒……!」
「巻き込まれたくないから俺もお前をハブにするね。しっかり見下して笑ってやるわ」
「こんの裏切り者ォ!」
バスが止まり、すっかり満席になっていた車内から、どんどん人が降りていく。
それに倣ってリンも立ち上がり、うんうん唸るヤシを小突いて起立させた。
「やっぱり愛情に飢えていようが、人の執着を丸ごと自分に移させるなんて無理だったんだよ。 不覚っ……未熟っ! 今はただ、己の不明をただ恥じ入るばかりっ……!」
ヘラったり、武士になったり、忙しい上にとても鬱陶しい。
そんな男の背中をパンチしてとっとと前に進ませて、バスを降りたリンの目の前。
そこを、少し冷たい春風に運ばれてきた桜吹雪が通り過ぎていく。
続々と校舎へと向かう生徒達の波に続いて歩き出したリンは、ふと、後ろを着いてくるヤシに声をかけた。
「なあ、ヤシ。昔、俺と一緒に夏祭り行った事あったろ」
「んあ? ……あ、西区神社のやつ?」
「そうだよ、俺とお前が5年生くらいの時の。なんだかんだ初めてだったろ、一緒に回ったの」
「あーお前大体家族で行ってたもんなそういうイベント。あの頃から遊びまわるのはよく一緒だったけど。 なんだ、急にどした?」
「別に」
そう言って、リンは校門をヤシと一緒に通り抜ける。
同時に、思い出す。
あの時の事を、リンは今でもよく覚えていた。
家族とはぐれ、俯いて、目に入った、草履の千切れた鼻緒。
いつもなら見る事もない、カラフルでギラギラ光る明かりと、腹の底を不安にさせる大きな囃子の音。
暗くなっていく空と、闇に溶けた、間から何かが飛び出してきそうな木々の間。
怖くなって、明るさからも、暗さからも逃げて入ってしまった小さな社。
その中にあった、蜘蛛の巣の張った古びた仏像と、虫の死骸。
出ようとして、歪んだ木の扉が動かず、閉じ込められてしまった小さな自分。
そして——そこに現れた、きらきらと輝く男の子。
「懐かしいなぁ。あん時はお世話任されてた甥っ子の抱っこ中にお漏らしブチかまされてよ。着替え持ってくるって家戻ってた母親と親戚待ってたら、近所のガキどもに”小便臭い小僧”呼ばわりされて、そいつらを全身屋台の景品サイリウムコーデで追いかけまわしておしっこ臭付きベアバッグで教育して回ってたんだよな」
ヤシがあの日を懐かしむように頷く。
「そのままの勢いで”おしっこ臭いウイルス感染拡大ごっこ”10人くらいでやってたら、1人がヘマして祭りの運営所に突っ込んでよ。青年会元締めの金田のジジイに見つかって追いかけ回されて、ガキどもを囮にして俺は敷地外れのボロ社殿に逃げ込んだら、中にお前がいて滅茶苦茶ビビったんだよね確か」
「あの時なんか臭うお前と一緒に金田じいのゲンコツもらった理由それだったのかよ」
「あのじじい、他のガキやお前には手加減する癖に、俺に対しては全力で脳天に一撃入れてくるの何なの? まー星が見えるのなんの」
そうしないと学ばない子供だったからだろうに。とリンは思った。
2人の間柄を知る関係者曰く、古くは6歳の頃から合わせて十数発は喰らって尚コレとは。
現金田建設会長にして、地元商工会のまとめ役である金田氏も、さぞ苦労している事だろう。
何だか長く感じた校舎への道のりもようやく終わり。
下駄箱に着いたリンは靴箱を開け、上履きに履き替える。
ついでに、同じように履き替えるヤシに向かって言った。
「つまるところ、昔の、特に幼少期の記憶は多少汚れてても美化されやすいって事」
「ふむ?」
教室へ向かい始めるリンの横。
当然のようにそこに並んだヤシは考え、ふと合点がいったように手を打った。
「あ、おしっこだけに?」
「死ね」
「あれ? 違った?」
そんな下らない会話をして歩いていく二人の背を。
じっと見つめる瞳があった事など、ヤシは気付いてさえいなかった。




