第5章【第4話:空の村ルミエラ】
小高い丘をゆっくりと下っていくにつれて、肌を撫でる風の匂いが、刻一刻とドラマチックに変化していった。
それは、つい先ほどまで彼らがいた、すべてが砂に埋もれたあの不毛の地とは決定的に異なる匂いだった。
世界を支える世界樹の巨大な葉が一斉に擦れ合い、さざ波のように優しく鳴り響く音。
遥か遠く、雲の彼方に位置するどこかで見知らぬ誰かが鳴らしているのだろう、深く厳かに響き渡る鐘の音。
そして、見たこともない色彩の羽を持った鳥たちが、清らかな大気を切り裂いて力強く羽ばたいていく生命の羽音。
そのどれもが、静寂に支配されていた語り部の都とは、まるで違っていた。
あそこにあったような、流れる砂にすべての生活音が虚しく吸い込まれてしまう絶望的な静けさはない。
そして、これ以上の進歩を頑なに拒み、永遠の未完を守るためだけに張り詰めていた、あの冷徹な静寂もここには存在しなかった。
ここ空飛ぶ島にあるのは、紛れもなく、無数の人々がこの瞬間も息を惹きつけ、確かに力強く日々を生きているという、賑やかで温かい生命の音そのものだった。
「みんな、もうすぐだからね!遅れないでついてきて!」
4人の先頭を元気いっぱいに歩くフィナが、弾むような足取りのまま振り返り、頭の上で大きく両手をぶんぶんと振った。
彼女の動きに合わせて、背中にしっかりと背負われた真鍮製の機械翼が、規則正しい歩調を刻むようにカシャカシャと小さく楽しげな音を立てて揺れている。
「ほら、見て!あそこの崖の向こうに、みんなの村が見えてきたよ!」
フィナの弾んだ声に促されるようにして、ルゥ、エリアス、ティア、セリスの4人が一斉に顔を上げ、前方へと視線を走らせた。
そこには、世界樹の太い枝に守られるようにして、まるでおとぎ話の絵本から飛び出してきたかのような、小さくも美しい村がどこまでも広がっていた。
家々の壁は、どれも陽の光を柔らかく反射する純白の石を丁寧に積み上げて造られている。
小じんまりとした丸い屋根には、空の色をそのまま写し取ったかのような淡い青色の瓦が美しく並べられており、その隙間を縫うようにして、青々とした瑞々しい蔦が生命力に満ち溢れて這い回っていた。
すべての家の窓辺には、まるで競い合うかのように赤や黄色、紫といった色とりどりの可憐な花が咲き誇るプランターが飾られている。
さらに驚くべきことに、浮かぶ島と島、あるいは太い枝同士の間を繋ぐようにして、職人が手作業で編み上げたような温かみのある木製の吊り橋が、幾重にも空中を渡されていた。
その美しい吊り橋の遥か真下を覗き込めば、そこには遮るものなく純白の雲が、ゆったりとした速度でさらさらと流れている。
それは地上を流れる川というよりも、まるで空そのものが一本の巨大な、底の知れない透明な川になって、この島を優しく潤しているかのようだった。
「……すごく、綺麗だ」
ルゥはそのあまりにも現実離れした美しさに心を奪われ、言葉を失いながらも、ぽつりと小さく呟いた。
その呟きを聞き逃さなかったフィナが、自分のことのように誇らしげに、胸を張って嬉しそうにニカッと笑った。
「でしょう!気に入ってくれたなら何よりだよ!
この村の名前はルミエラ。世界樹のすっごく太い大きな枝の上に作られた、空の民たちの自慢の村なんだから!」
「世界樹の……枝の上、だと……?」
エリアスが、その驚愕の事実に信じられないといった様子で、思わず自分たちが立っている足元を凝視し、それから遥か天空へと伸びる大樹を見上げた。
今、彼らが確かに踏み締めているこの頑丈な地面。
それは、地上にあるような冷たい岩盤ではない。
あるいは、どこまでも続く土の大地でもなかった。
よく見れば、滑り止めのように刻まれた無数の溝は、気の遠くなるような年月をかけて育まれた、巨大な植物の樹皮そのものだったのだ。
世界樹。
この浮かぶ島全体、そしてそこに住まうすべての命をその強靭な根と枝で支えている、一本の母なる巨大な生命。
想像を絶するほど太く育った枝の平らな表面を、人々は大地として開拓し、寄り添うようにして静かに暮らしているのだ。
「こんな場所で暮らしていて、強い風が吹いた時とか、下に落ちたりはしないの?」
ルゥが素朴な疑問を抱き、不思議そうにフィナへと尋ねた。
「あはは、ここに来た外の人は、みんな最初に全く同じことを聞くよ!」
フィナはルゥの心配が可笑しくてたまらないといった様子で、ケラケラと無邪気に笑った。
「でもね、不思議なことにこの島が始まって以来、村の人が下に落ちたことなんてただの一度もないんだよ。だって、この島に吹いている風がいつだって私たちの身体を優しく包んで、落ちないように守ってくれるからね」
その言葉を聞いた瞬間、それまでどこか緊張の糸を解けずにいたティアの表情が、驚きと共に少しだけ柔らかく緩んでいくのが分かった。
「……それは、本当にその通りね」
ティアがそっと片手を宙に差し伸べると、彼女の指先を歓迎するように、透き通った風が優しく吹き抜けていった。
彼女の美しい髪をそっと撫でるように、慈しむように。
「この島を流れる風には、明確な意思があるわ。まるで、生きているかのように」
「うん、その通り!」
フィナは、自分の大好きな風のことを理解してもらえたのが最高に嬉しいようで、栗色の髪を揺らしながら何度も勢いよく頷いた。
「うちの村の一番長生きなおばあちゃんもね、昔からいつも同じことを言ってたよ!
世界樹は、ただ黙って突っ立っているわけじゃないんだって。いつも風とたくさんお話をして、この島を守っているんだよってね!」
ティアは改めて、天を突くほどに巨大な世界樹の全貌を見上げた。
無数に生い茂る豊穣な枝葉が、頭上から降り注ぐ太陽の光を浴びて、まるで上質な翡翠のように深みのある美しい緑色に輝いている。
そして、心地よい風が梢を吹き抜けていくたびにその葉と葉が擦れ合い、まるでガラスの鈴を優しく振り鳴らしたかのような、どこまでも澄んだ清らかな音色を周囲の空間へと奏でていた。
「……世界樹が、優しく歌っているわ」
ティアのその静かな言葉に、それまでずっと自分の殻に閉じこもるように俯いていたセリスが、ハッとしたように敏感に反応を示した。
「歌……?世界樹が、ですか?」
「ええ、間違いないわ」
ティアは優しく静かに目を閉じ、風の精霊たちの声に全神経を集中させる。
「これは、風の歌。
そして、世界樹そのものが紡ぎ出している生命の歌よ。この島全体を流れる大気そのものが、大きな一つの美しい旋律になって、途切れることなく響き渡っているの」
セリスは、その言葉を確かめるように、自分の胸元にずっと強く抱き寄せていた古びた楽譜を、さらに壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
すると、彼女の心臓の鼓動に呼応するように、楽譜の奥底に眠るあの"未完の旋律"が、わずかに、しかし確実に細い光を帯びて共鳴を始めた。
だが、不思議なことに、今回はあの語り部の都で感じたような、胸を締め付けられるような激しい苦しみや圧迫感は一切なかった。
その響きは、どこか気の遠くなるほど昔に分かれた家族に再会したかのように懐かしく、そして傷ついた心を包み込んでくれるかのように、どこまでも優しい響きを持っていたのだ。
「……本当に、あの語り部の都とは、何もかもが違う」
セリスは、涙を堪えるように小さく呟いた。
「あそこの都に流れていたのは、失われていく過去の記憶を、どうにかしてその場に留めておくための、悲しい保存の歌だった。けれど、この場所に満ちているのは……」
もう一度、柔らかな風が彼女の白い頬をそっと撫でていく。
「未来へ向かって、絶えることなく生き続けるための歌だわ」
フィナは二人の熱のこもった会話を聞きながら、頭の上に大きな疑問符を浮かべるようにして、不思議そうに笑った。
「わたしには、そんな難しい音楽のこととか、歴史のことなんてよく分かんないけどね!
でも、世界樹がいつも素敵な音を出して歌っているのは本当だよ!夜、みんながベッドに入って眠る時も、朝、太陽が昇ってくる時も、それから激しい雨が降る日だって、いつだってこの島を優しい音で包んでくれているんだ!」
フィナのその底抜けた明るさと屈託のない言葉に、それまで重い運命の謎に押し潰されそうになっていた4人の固い表情も、張り詰めていた緊張が解けるようにして、自然と和らいでいく。
そうして会話を交わしながら、白い石壁の美しい村の入り口へと足を踏み入れると、広場でそれぞれの作業をしていた村人たちが、一斉にその手を止めてこちらに視線を向けた。
「あら?あそこにいるのはフィナかい?」
「おいおい、フィナがまた何か変な機械でも拾ってきたのかと思ったが……」
「隣にいるあの子たちは一体誰なんだい?旅人か?」
「あんな風に仕立てられた珍しい服、生まれてから一度も見たことがないぞ」
村人たちは、突然現れた見慣れない格好の4人に一瞬だけ驚きを見せたものの、そこには外敵を拒絶するような邪悪な警戒心や敵意は微塵も含まれておらず、ただ純粋な好奇心と温かい眼差しが向けられていた。
すると、広場の奥から元気な子どもたちが何人もドタドタと走ってきて、好奇心の塊のような瞳を輝かせながら、ルゥの周囲を犬のように元気いっぱいに駆け回り始めた。
「わあ!お姉ちゃん、その胸につけている赤いペンダント、すっごくきれー!」
「お姉ちゃんたちは、どこからこの島にやってきたの?雲の下?」
「ねえねえ、お姉ちゃんたちは背中にフィナみたいな機械の翼を付けてないよ?どうやって空を飛んできたの?」
矢継ぎ早に繰り出される無邪気な質問の数々に、ルゥは顔を真っ赤にして少し照れながら、困ったように頭を掻いて笑った。
「ええっと……その、すごく遠くの方から、かな」
「遠くってどこ?雲の向こう側?」
「……うん、そう。君たちの想像もつかないくらい、すごく、すごく遠い場所だよ」
ルゥがそう答えると、子どもたちは一瞬だけ不思議そうに互いに顔を見合わせたが、すぐに納得したように声を揃えて飛び跳ねた。
「じゃあ、決まりだ!」
「遠くから来てくれた、大切なお客さんだ!」
子どもたちの一言が呼び水となり、それまで様子を伺っていた村人たちも一斉に動き出し、村の中は一気にまるでお祭りの前日のような賑やかさに包まれていった。
どこからか香ばしい、焼きたてのふっくらとしたパンの芳醇な香りが漂ってくる。
みずみずしい果実を包丁でリズミカルに切り分ける小気味よい音が響き、広場の向こうでは、気のいい青年が弦楽器を鳴らしながら陽気な歌を歌い始めた。
街の外れでは、巨大な風車が風を受けてゆっくり、ゆっくりと、平和の象徴のように回り続けている。
その、あまりにも平穏で、あまりにも愛おしい日常の光景を静かに見つめながら、エリアスが剣の柄からそっと手を放し、目元を細めて小さく笑った。
「ふっ……本当に、久しぶりだな。こんな風に、普通の人々が普通に暮らしている村を見るなんてな」
ルゥもその言葉に同意するように、深く深く頷いた。
「……うん。本当に、そうだね」
ルゥの短い言葉の裏には、旅に出て以来初めて、心からの安らぎを得たような、深い安心感の響きが含まれていた。
彼らが故郷を旅立ってからというもの、その行く手に待ち受けていたのは、常に血の気の多い争いや、命を脅かす闇との死闘、そして世界の崩壊に関わる重苦しい謎ばかりだった。
常に背後を警戒し、明日の命すら保証されない緊張感の中で戦い続けてきたのだ。
だが、今このルミエラという村には、間違いなく彼らが守りたかった、至極当然の日常が存在している。
誰かが些細なことで笑い合い、誰かが家族のために懸命に働き、誰かが平穏を祝って歌を歌う。
そんな、当たり前だからこそ何よりも尊い時間が、ここでは優しく流れていた。
しかし。
その、誰もが心を癒されるような穏やかな空気の中で、ただ一人だけ、どうしてもその輪に入って笑うことができない人物がいた。
セリスだった。
彼女は皆から少しだけ遅れた場所で不自然に立ち止まり、広場の片隅に建てられた、一軒の古びた石造りの家を何かに取り憑かれたかのようにじっと見つめていた。
その家の玄関先には、風を受けるたびにチリン、チリンと、透き通るような涼しい音色を奏でる小さな風鈴が吊るされている。
その、どこか哀愁を帯びた優しい音色を耳にした、まさにその瞬間だった。
セリスの胸の奥が、まるで目に見えない強力な鎖でギリギリと締め付けられるかのような、激しい痛みに襲われた。
『また、いつでもここに帰っておいで。私たちは、ずっとここで待っているからね』
それは、彼女の記憶の引き出しのどこを探しても、絶対に知らないはずの、見知らぬ誰かの声だった。
けれど、信じられないほどに優しく、温かい、年上の高貴な女性の声だった。
セリスの翡翠色の瞳が、激しい感情の激流に飲まれるようにして、大きく揺れ動く。
「……また、帰る……?」
思わず、感情を抑えきれずに彼女の唇から漏れ出た謎の言葉。
その小さな呟きを敏感に察知して、ルゥが心配そうに振り返った。
「セリス?どうしたの、急に立ち止まったりして。どこか身体の具合でも悪いの?」
ルゥの優しい声に我に返ったセリスは、自分の動揺を必死に隠すようにして、慌ててぶんぶんと大きく首を横に振った。
「ううん!なんでもないの!ちょっと、あの風鈴の音がすごく綺麗だな、って思っただけ」
そう努めて明るく答えながらも、彼女の左胸の奥にある心臓の鼓動は、早鐘を打ったかのように激しく波打ち、どうしても収まる気配を見せなかった。
確信があった。
この、一見すると自分たちとは何の関係もないはずの空飛ぶ島の、この平和な村には。
まだ自分が思い出すことのできない、失われた大切な、大切な記憶の断片が確かに眠っている。
そんな、根拠のない、けれど絶対に無視することのできない確信だけが彼女の心の中で静かに、しかし恐ろしいほどの存在感を持って膨らんでいった。
その頃。
賑わうルミエラの村から遥か遠く離れた、世界樹の最上部、人間の足では決して辿り着くことのできない神聖なる天空の聖域。
先ほどルゥたちの前にその神々しい姿を現した、黄金の瞳を持つ巨大な守護竜は、静かに巨大な瞼を閉じ、大気を震わせるような低い声で呟いていた。
「……ついに、風が新たな運命の導き手を選んだか。千年の時を経て、歯車が再び回り出すのだな」
そして、その巨大な竜が横たわる足元。
世界樹の枝に囲まれるようにして建つ、白い空の塔の最上階の部屋では。
一人の銀髪の少女が、机の上に広げていた、気の遠くなるような年月を経て文字が擦り切れた一冊の古びた巨大な書物を、静かにパタンと閉じたところだった。
「語り部の正当なる継承者。そして……あの忌まわしき運命を背負いし、焔の継承者か」
少女は静かな足取りで窓辺へと歩み寄り、遥か眼下を見つめる。
そこには、丘をゆっくりと下り、ルミエラの村へと迎え入れられていく4人の小さな後ろ姿が、まるでミニチュアの模型のように小さく見えていた。
「ようやく、この時が来た。ようやく……あなたたちに会える」
窓から差し込む朝の光を受けて、少女の美しい瞳は、セリスと同じ翡翠色に、静かに、そして深く輝いていた。




