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第4章【第8話:風の届かない場所】

風が、世界から完全に消滅していた。


それは、微風が止んだというような生易しいレベルのものではなかった。空気の対流そのものが完全に根絶され、大気がガラスのように凝固してしまったかのような、絶対的な静寂。


ティアが何度、祈るように、すがるように唇を震わせて大気へ呼びかけても、風は一切の反応を示さなかった。


空気は1ミリたりとも動かない。


流れない。


音を伝えるための振動すら、そこには存在しなかった。


ただ、そこに冷徹な質量として"止まっている"のだ。


この呪われた未完の都へ足を踏み入れてから、大小様々な異変に遭遇してきた4人だったが、ここまで徹底的に世界の理が死に絶えたのは、これが初めてのことであった。


ティアの顔色からは完全に血の気が引き、土気色に変色していた。


「……聞こえない」


掠れた、今にも消え入りそうな声が、動かない空気の中にぽつりと落とされる。


「風の声が、どうしても聞こえないの。

私の呼びかけが、虚無に吸い込まれていく……」


エリアスが周囲の静寂に油断なく視線を走らせ、剣をいつでも振り抜ける角度で保持しながら低く言った。


「おいおい、それってのはかなりまずい状況なんじゃねえか? 斥候役の目と耳が塞がれたようなもんだぜ」


ティアはそれに応えることができなかった。


いつもなら風を媒介にして周囲の気配や魔力の流れを察知していた彼女にとって、風を失うということは、暗闇の中で視界を半分奪われたも同義だった。


彼女はただ、己の無力さに唇を噛み締めるしかなかった。


4人が足を踏み入れたその場所は、これまでに通り抜けてきたどの区画とも、明らかに異質な雰囲気を放っていた。


まず、これまで行く手を阻み続けていたあの忌々しい銀砂が、どこにも存在しなかった。


足元には、まるで昨日磨き上げられたかのように、完璧な格子状の模様を描く石畳がどこまでも続いている。


崩落ひとつない頑強な壁。


どこまでも歪みなく直進する美しき回廊。


そして、一枚のヒビすら入っていない清浄な窓ガラス。


それらは、かつてこの都を築こうとした者たちが夢見た"完成直前"の理想の都市を、そっくりそのまま空間ごと切り抜いて固定したかのような、あまりにも不自然で完璧な景色だった。


だが。


それがかえって、異常なまでの狂気を引き立てていた。


あまりにも、静かすぎるのだ。


街並みはこれほど精緻に調えられているというのに、そこには生きた人間どころか、鼠一匹、虫一羽の影すらない。


誰の息遣いも、生活の残り香すらも存在しない無菌室のような空間。


ルゥの胸の奥で、黄金の焔が危険信号を発するように不安定に揺らめいた。


「……ここ」


胸元の合わせ目をきつく握り締め、ルゥが小さく呟く。


「すごく、息苦しい。空気が冷たいのに、胸の奥が焼けるみたいに圧迫されるんだ」


それは、未知の怪物を前にした時の恐怖によるものではなかった。


魂を直接押し潰そうとする、強烈な"固定の圧力"。


未完であったはずのものが、上位の意思によって無理やり完璧な形を取らされ、凝固している空間。


変化すること、揺らぐことを本能とするルゥの焔は、その絶対的な停滞を明確に拒絶していた。


セリスは、先ほど欠けてしまった楽譜を、まるで唯一の命綱であるかのように強く両腕で抱き締めていた。


あの名もなき未完の影が自らを犠牲にして消滅してから、楽譜に刻まれた旋律の揺れ方は、明らかにその性質を変えていた。


かつてのような、消滅を恐れて狂おしくのたうち回るような暴れ方はしていない。


以前よりもずっと静かで、深く、落ち着いている。


だが、その沈黙の代わりに。


セリスの脳裏には、五線譜の"さらに奥"の光景が、驚くほど鮮明に視覚化され始めていた。


まだ誰にも歌われていない、空白の五線譜の続き。


まだ結末を迎えておらず、閉じられていない無限の音たち。


その未完成の可能性が、この不気味な空間のさらに深部にある"何か"と、見えない糸で結ばれたように激しく呼応し、引っ張り合っているのを感じていた。


(……呼ばれてる。あの影が遺した光が、私を奥へ導こうとしてる)


セリスの足が、石畳の上でピタリと止まる。


その瞬間だった。


ゴォン――……。


世界を震撼させるあの重苦しい鐘の音が、再び鳴り響いた。


しかし、今度の音は遠くの深淵から届いたものではなかった。まるで4人の真上、天の境界から直接叩きつけられたかのような圧倒的な音圧。


4人は弾かれたように、同時に頭上を見上げた。


凝固した大気の向こう側、霧を割り裂くようにして、それは厳然とそびえ立っていた。


塔。


この未完の都の象徴であり、常に遥か遠くの中心に位置していたはずの、あの巨大な塔だった。


だが、今こうして目と鼻の先で見上げるそれは、これまで遠目に見ていた歪なシルエットとは、決定的に異なっていた。


完成しているのだ。


雲を突き抜け、天空の玉座へと届かんばかりに高くそびえ立ち、その外壁には一切の傷も、未完成ゆえの綻びもない。


中央には、完璧な黄金の比率で描かれた巨大な紋章が掲げられ。


そして何より、その最頂部には、始まりも終わりもない完全な調和を示す"閉じられた円"のシンボルが、厳かに刻まれていた。


エリアスが信じられないものを見る目で、喉を鳴らしながら息を呑んだ。


「……おい、嘘だろ。あんな文字通りのバケモノみたいな建造物が、完全に完成していやがる……」


ティアが、自身の魔法が完全に封殺されている理由を悟り、震える声で言葉を紡ぐ。


「違う……これは、私たちが知っているような、職人たちが力を合わせて造り上げた"完成"じゃないわ。これは……」


恐怖のあまり言葉を詰まらせるティアの後に、ルゥが硬い声で続けた。


「"完成させられた"んだ。誰かの強い力で、これ以上変わることを許されないように、無理やり閉じられたんだよ」


その言葉が引き金となったかのように、塔の最上部に刻まれた円の中心で、一筋の光が鋭く灯った。


それは、純白の光だった。


しかし、凍てつく太陽のように冷徹で、微々たる温もりも、慈悲も感じられない、静かすぎる光。


その天からの光条が、サーチライトのように4人の姿を容赦なく真上から照らし出す。


「……っあ!」


ルゥが突然の激痛に襲われたように、短い悲鳴を上げて胸を強く押さえた。


胸中の黄金の焔が、その白い光に触れた瞬間、狂ったように形を変えようと悶え始めたのだ。


これまでルゥが大切に保ち続けてきた、どこへ行くかも分からない、何色に染まるかも決まっていない"未完の焔"。


それが、あの光によって、完璧に計算され尽くした

"ひとつの完成した、これ以上大きくも小さくもならない炎"へと、無理やり固定されそうになっていた。


エリアスの手の中で、剣の刃が悲鳴を上げるように小刻みに震え始める。武器そのものの存在の確率が固定され、戦うための"余白"が削られていく。


ティアの風の結界は、その光の前に文字通り塵ひとつ動かせず、完全に沈黙を強いられていた。


ただ、その絶対的な抑圧の中で、セリスの楽譜だけが、逆に異様なほど静まり返っていた。


周囲のすべてが拒絶反応を起こして軋んでいるというのに、彼女の手の中にある紙片だけは、奇妙なほど自然にその光を受け入れている。


「……歌ってる」


セリスが、トランス状態に陥ったかのように、ぽつりと小さく呟いた。


誰も声を上げてなどいない。


塔の周囲には、音を伝える風すら存在しないはずだ。


だが、聞こえる。


脳裏に、魂に、この巨大な塔そのものが発している、完璧すぎる合唱が響き渡っていた。


一分の隙もない、完全に調和した旋律。


すでに結末を迎え、これ以上の変化を拒む、終わった歌。


可能性のすべてを排除して、ハッピーエンドの檻に閉じこもった、閉じた物語。


その完璧ゆえに窒息しそうな響きが、拒絶を許さぬ重圧となって、ゆっくりと4人の精神の深奥へと浸透し、彼らの存在そのものを塗り替えようとしていく。


「……戻れ。これ以上、未完の痛みを持ち込むな」


突如として、その冷徹な静寂を破る声がした。


見れば、塔の巨大な大理石の入り口に、一人の人影が音もなく立っていた。


汚れなき白い外套。

かつてこの都を設計した者たちの誇りを示す、石工の儀礼服。


それは以前、崩壊しかけた塔の幻影の上で、4人を冷たく見下ろしていたあの男の姿だった。


だが、あの時とは決定的に違う部分があった。


男の身体の輪郭は、今や一筋のブレもなく、空間に完璧に安定して定着していた。


霧のように揺らぐこともなければ、風に吹かれて銀砂となって崩れることもない。


この空間そのものと同調し、完全に"完成された存在"として、そこに確立されていた。


セリスの喉が、恐怖とも戦慄ともつかない感情で凍りつく。


「……あなた、は……」


男は何も答えず、ただ静かに4人の姿をその瞳に映した。


だが、そのまなざしには、生きた人間が持つはずの感情の揺らぎが、微塵も存在しなかった。


怒りもない。

敵意もない。

ただひたすらに穏やかで、静か。


それなのに決定的なまでに、その奥底が"空っぽ"だった。


魂の核を抜き取られ、美しい抜け殻だけがそこに固定されているかのような、恐るべき虚無。


「これ以上進めば、お前たちのその不完全な魂も、すべてこの場所に固定される。二度と変わりたいと願うことも、進むこともできなくなる。去るがいい」


エリアスが己の肉体を支配せんとする固定の力に抗い、剣の切っ先を男の鼻先へと突きつけた。


「ハッ、偉そうに御高説垂れてんじゃねえよ。

誰だ、お前は。この都をこんな死に損ないの街に変えた張本人か?」


男はその問いに対して、眉ひとつ動かさなかった。

代わりに、彼は感情のない目で、自らが背負う巨大な塔を見上げる。


「終わったものは、もう苦しまない。完成した物語は、二度と傷つくことも、失うこともないのだ」


その言葉を聞いた瞬間、ルゥの胸の奥で、押し潰されかけていた焔が激しく反発するように大きく揺れ動いた。


その冷たい救済の論理を、ルゥの命の焔が本能の底から拒絶したのだ。


「……違う!」


ルゥは固定の重圧を力任せに撥ね退け、石畳を強く踏みしめて一歩前へ出た。


「終わってしまったら、もうそこから一歩も動けないじゃないか! 傷つかないかもしれないけど、誰かと笑い合うことも、新しく何かを始めることも、全部できなくなっちゃうんだ!」


男は、ゆっくりと、機械的な正確さでルゥの方へと視線を巡らせた。


「……動く必要があるのか? 揺らぎの中にしか存在できない命など、ただの欠陥だ」


その言葉と共に、周囲の空気がさらに一段と冷たく凍りつく。


セリスの楽譜が、男の放つ絶対的な虚無に共鳴するように、微かに、しかし鋭く震えた。


男は淡々と、呪詛を紡ぐように言葉を続けた。


「未完で在り続けることは、耐え難い苦痛だ。

常に不確かに揺らぎ続け、明日の保証もなく、大切なものを失い続ける。そして進むためには、何かを切り捨て、選び続けなければならない。

そんな呪われた旅路に、一体何の価値がある」


静かで、波ひとつ立たない声。


だが、セリスには聞こえた。

その徹底的に洗練された声の裏側に隠された、果てしない時間を未完成の絶望の中で彷徨い、疲れ果ててしまった者の、深い、深い精神の摩耗が。


「なら、いっそすべてを終わらせ、完璧な静寂の中に眠ればいい」


ティアが胸を押さえ、苦しそうに膝をつきかける。


風が完全に途絶えたこの場所では、あらゆる"変化"や"成長"そのものが悪徳として許されていないのだ。


セリスは、そんな男の姿を真っ直ぐに瞳をそらさずに見つめ続けた。


そして、彼の言葉の端々に漂う違和感の正体に、ある一点において気づく。


「……あなた」


セリスは男の胸元、その白い外套の隙間に視線を走らせた。


そこには、かつてあの未完の影が持っていたものと同じ、しかし今や完全に閉じかけ、周囲の皮膚と同化しかけている「未完の印」のかすかな痕跡が、傷痕のように残されていた。


それは完全には消え去っていない。

完全に完成したとされる彼の身体の奥底で、今もなお、かすかに息を潜めている。


セリスが絞り出すような声で、小さく、だが核心を突くように言った。


「本当は、あなただってまだ、終わってなんかいないんでしょう?」


男の、仮面のように凍りついていた表情が、初めて微かに揺らぎを見せた。


本当に、ほんの一瞬、網膜の錯覚かと思うほどの小さな動揺。


「……違う。

私はすでに、この都の意思と共に完成を迎えた」


「違わない!」


セリスは今度は一歩、力強く男に向かって踏み出した。手の中の楽譜が、彼女の意志に同調して柔らかな光を放ち始める。


「あなたの中に、まだ"続き"を求めている心が残ってる。だからそんな風に、自分に言い聞かせるみたいに冷たい言葉を言うのよ。

あなたの中に、まだあの影たちと同じ未完成の自分が、置いていかれたまま泣いているわ!」


男の輪郭が、彼女の言葉の衝撃に耐えかねたように、微かに、歪に乱れ始める。


それを感知したのか、塔の最上部から放たれる白い光が、さらにその輝きを増した。


まるで、男の中に生じかけた小さな"揺らぎ"のノイズを、力任せに圧殺して消し去ろうとするかのように。


だが、ルゥの焔が、その強権的な光に対抗するように、さらに赤々と、猛々しく灯り始める。


それはどこまでも不完全で、どこまでも自由な、未完の焔。


決して終わりを受け入れない、永遠の旅人の焔。


男は、自らの身体の乱れを抑え込もうと胸を手で押さえながら、低く、困惑の混じった声で呟いた。


「……なぜだ。なぜお前たちは、それほどまでに苦しい未完のままでいることを、守ろうとする……」


その魂からの問いかけに対して。


今度はセリスでもティアでもなく、ルゥが真っ直ぐな瞳で答えた。


「終わっていないからだよ」


その声は小さく、特別な力も乗っていなかったが、だからこそ、何よりも強かった。


「終わっていないなら、私たちは明日、今日とは違う自分に変われる。間違えたらやり直せるし、新しい誰かと出会うことだってできる。

完成して止まっちゃうより、不器用でも進み続ける方が、ずっと素敵だから!」


エリアスが、その言葉にニカッと不敵な笑みを浮かべ、剣の柄を骨が軋むほどの力で握り直す。


「そういうことだ。俺の剣技も、まだまだ未完成でよ。ここで型に嵌められちゃ、未来の俺に顔向けできねえんだわ!」


ティアの指先から、奇跡のように、かすかな風の衣が再び紡ぎ出され始める。


セリスが、欠けた楽譜をもう一度、今度は誇りを持って強く抱き締めた。


未完でいることは、確かに苦しい。


常に自分の存在に揺らぎ、大切なものを失う恐怖と戦い、過酷な選択を迫られ続ける。


それでも。


終わらないからこそ、私たちはこの足で、どこまでも進めるのだ。


4人の強固な意志が空間の理を捻じ曲げたのか、塔から放たれていた絶対的な光が、初めて不規則に揺らめいた。


完璧に計算され、閉じられていたはずの聖なる旋律。

その非の打ち所がない美しき音の調和の中に、初めて、明確な"ノイズ"が混入し、不協和音となって響き渡る。


男が初めてその目を見開いた。

その瞳に、明らかな恐怖の色が浮かぶ。


「……やめろ、それ以上、その歌を響かせるな……!」


その声には、先ほどまでの虚無的な静寂は消え失せ、生々しい人間の"感情"が激しく混じり合っていた。


しかし、ルゥの焔は、その制止を拒んでさらに強く、激しく輝きを増していく。


それは何かを憎んで焼き払うための焔ではなく、何かを破壊するための力でもない。


ただ、目の前にある存在を、"終わらせない"ための、生への執着。


その瞬間。


塔の最上部、天に刻まれていたはずの、あの始まりも終わりもない"閉じた円"のシンボルに。


一本の、しかし決定的な亀裂が走った。


ピシ、と乾いた、しかし世界がひっくり返るような破壊音が空間を震撼させる。


調和を保っていた世界そのものが、まるでガラス細工のように大きく、歪に揺れ動く。


ゴォン――!!!


直後、これまでのものとは明らかに違う、まるで断末魔の悲鳴のような凶悪な鐘の音が、都全体に響き渡った。


ティアが乱れる大気の奔流を感じ取り、喉が張り裂けんばかりの声を張り上げる。


「みんな、下がって!! 空間が崩壊するわ!!」


塔の最上部から放たれていた白い光が、制御を失って四方八方へと暴走し始める。


完璧に"完成"させられていたはずの建造物の外壁が、内側からの圧力に耐えかねてパラパラと崩れ始め。


無理やり閉じられていた物語の結末が、再び、混沌とした"未完"の濁流へと引き戻されようとしていた。


都を統治していたはずのあの男が、初めて、苦しそうにその場に膝をつき、顔を歪めた。


「……止まれ……頼むから、止まってくれ……」


その掠れた声は、もう侵入者を排除するための命令ではなかった。心からの哀れな懇願だった。


セリスの胸の奥が、その姿を見てズキリと激しく痛む。


この男は、好んでこんな冷たい完成の世界を望んだわけではなかったのだ。


最初から終わりたかったわけでもない。


ただ。


「未完で在り続けることの痛み」に、あまりにも長く晒され、耐えきれなくなった末に、ここで"止まるしかなかった"だけなのだと、彼女は彼の痛みを正確に理解した。


世界が再び大きく激震し、塔の亀裂はさらに深く、広く闇の奥へと広がっていく。


行き場を失った光が四散し、その剥がれかけた空間のさらに向こう側。


真の暗黒が澱むその奥底に。


"何か"が、確かに存在していた。


ルゥの胸の奥の焔が、かつてないほどの鋭さで、その存在に対して牙を剥くように激しく反応した。


(……まだ、この奥がある。これが終わりじゃない)


この未完の都の、本当の誰も立ち入ったことのない最深部。


そこに、すべての歪みの元凶たる何かが、静かに眠っている。


そして、今この瞬間――。


4人がもたらした未完のノイズによって、その巨大な存在が、長きにわたる眠りから目覚めようとしていた。

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