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第4章【第6話:手放せないもの】

一度は凪いだかに見えた風は、いつの間にか戻っていた。


だが、それはもう、頬を撫でる爽やかな"自然の風"とは程遠い代物だった。


確かに空気は流れている。


銀砂を巻き上げ、衣服の裾を揺らしてはいる。


けれど、その動きの端々には常に微かな、しかし決定的な"遅れ"がつきまとっていた。


まるでこの空間の理そのものが、刻一刻と刻まれる世界の脈動についていけなくなっているかのように。


ティアは無意識のうちに、自分の両腕を強く抱きしめていた。


「……まだ、ズレているわ。

世界の歯車が噛み合っていない」


彼女の言葉を裏付けるように、周囲を巡る防御の風もわずかに挙動が遅れる。


ティアが風を起こそうと意図してから、実際に空気が鳴動し始めるまで、ほんの刹那の空白があるのだ。


その小さな、しかし致命的な遅延こそが、今のこの場所がいかに危うい均衡の上に成り立っているかを物語っていた。


エリアスが警戒を解かぬまま、低く押し殺した声で尋ねる。


「影が分かれようとしたあの時からか?」


「ええ、おそらくは」


ティアは沈痛な面持ちで頷いた。


「私たち、もう完全には"現実側"の存在ではなくなっている。足の半分が、この都の歪みに呑み込まれかけているのよ」


ルゥの胸に灯る焔が、不安を映すように小さく爆ぜた。


(……現実側。じゃあ、今の私たちは何なの?)


その言葉が、鉛のように胸に溜まって離れない。


現実の対義語。

それは記憶か、未完か。

それとも、二度と戻れぬ奈落の底か。


「止まらないで」


不意に、セリスが前を向いたまま静かに告げた。


その声は消え入りそうなほど小さい。


だが、そこには決して揺らぐことのない強固な意志が宿っていた。


「立ち止まったら、その瞬間に引っ張られる。

もう二度と、歩けなくなる」


誰もその言葉に反論しなかった。


4人は、砂の波に呑まれかけた石造りの街路を、一歩一歩踏みしめるように進み続けた。


都の奥部へと侵入するにつれ、周囲の景色の変容は顕著になっていった。


驚くべきことに、建物の"形"が明瞭に残り始めているのだ。


風化して崩れた瓦礫の山ではなく、そこにあるのは完全な輪郭を持った家々だった。


石畳に刻まれた精緻な文様。

埃ひとつ被っていないかのような透明な窓ガラス。

そして、誰かを招き入れるかのように半開きになった木製の扉。


だが――。


そこに、人の気配だけが徹底的に欠落している。


エリアスが忌々しげに顔をしかめた。


「……薄気味悪いぜ。ついさっきまで住人がいたと言われても信じちまいそうだ」


ルゥもまた、同じ肌寒さを感じていた。


あまりにも静かすぎるのだ。


本来、この未完の都を支配していたのは"途中"の気配だったはずだ。


中途半端に止まった音、終わりきらない日常の断片。


けれど、ここは違う。


あまりにも、完璧に整いすぎている。


「……完成に、限りなく近い」


ティアが戦慄を込めて呟いた、その瞬間だった。


セリスが抱えていた古びた楽譜が、生き物のように激しく身を震わせた。


「っ……!」


セリスが呻き、胸元を強く押さえる。


楽譜の紙の端が、まるで見えない炎に焼かれるように、内側から微かに黒く滲み始めていた。


同時に、ルゥの焔も激しく波打つ。


「……また来る! 離れないで!」


刹那、石畳に落ちた4人の影が、生き物のような歪な蠢きを見せた。


今度の異変は、先ほどのような"遅れ"ではなかった。


影たちが、本体の意志を置き去りにして"先に動く"のだ。


エリアスの影は、彼が手をかけるより早く、無音の抜刀を見せて剣を構える。


ティアの影は、彼女が呪文を紡ぐより先に、風を放つかのように鋭く腕を振る。


ルゥの影に宿る漆黒の焔も、本体より先に爆ぜ、周囲を闇で塗りつぶそうとする。


そして――。


セリスの影だけが、その場に釘付けになったように立ち止まっていた。


動かないのではない。


それは、確かな意志を持って"待っている"のだ。


セリスの呼吸が浅くなり、鼓動が激しく早まる。


(……私を。私を待っているの?)


影が、ゆっくりと顔を上げた。


そこには目も鼻も口もない。


だが、セリスには分かってしまった。


その暗い虚無の奥底には、確かに感情が、執念が渦巻いている。


それは、まだ何も"選んでいない"者だけが持つ、果てしない飢餓の顔だった。


影が、声なき口を開く。


物理的な振動として音は響かない。


だが、セリスの精神の深奥に、逃れようのない意味の奔流が直接流れ込んできた。


――どこへ行く。


セリスの喉がヒュッと震える。


影が、音もなく一歩近づく。


――何を残す。


また一歩。逃げ場を塞ぐように影が伸びる。


――何を捨てていく。


「セリス!」


ティアの悲痛な叫びが空気を震わせる。


だが、その手は届かない。


今、セリスだけが仲間たちとは異なる次元の"深さ"へ、孤独に沈み込もうとしていた。


風景が、万華鏡のように歪み、重なり合う。


かつての賑やかな広場。

天を衝く未完の塔。

石を打つ男の背中。


振り下ろされることのなかった最後の一打。


そして、永遠に終わることのない、孤独な歌。


それらすべての記憶の断片が、セリスの意識の中で濁流となって渦巻いた。


(……全部。全部、持っていきたいのに)


胸の奥が張り裂けそうなほど痛む。


失いたくない。

忘れたくない。


途中で無惨に終わった夢を。


誰にも聞き届けられなかった、か細い声を。


それらすべてを抱きしめたまま、進みたかった。


影が、さらに距離を詰める。


その冷気がセリスの肌を刺した。


――それは、無理だ。


その非情な宣告と共に、セリスの手の中で楽譜が裂けた。


ビリ、と乾いた絶望の音が響く。


「……え?」


セリスの瞳が見開かれる。


楽譜の隅、彼女が大切に書き留めていた未完成の旋律の一部が、黒い煤となって崩れ落ちていく。


まるで、今の彼女にとって"重すぎる荷物"が、強制的に切り離されていくかのように。


「やめて! 壊さないで!」


セリスは悲鳴を上げ、楽譜を壊れ物のように抱きしめた。


だが、崩壊は止まらない。


インクの文字が砂に還り、音が色を失い、消えていく。


彼女の一部であったはずの旋律が、指の間から砂のように零れ落ちていく。


ルゥが堪らず飛び出した。


「セリス!」


黄金の焔が、これまでになく強く、眩く灯る。


だが、それは何かを焼き払うための焔ではない。


深い闇の中に立ち尽くすセリスの輪郭を、この残酷な"現実"へと引き戻すための、導きの光。


ルゥの光が影を射抜き、影が初めて怯えるように揺らいだ。


「全部を抱えたままじゃ、一歩も進めない!」


ルゥの叫びが、セリスの意識を叩き起こす。


「でも、全部を捨てる必要なんてないんだ!

私たちがここにいる理由を忘れないで!」


その言葉が、沈みかけていたセリスの魂に届いた。


影の動きが止まり、セリスの瞳に正気の光が戻る。


しかし、彼女の手元の楽譜は、今もなお崩れ続けていた。


(……嫌だ。消したくない。私の、みんなの思い出が……)


涙が頬を伝い、砂の上に落ちる。


その時だった。


エリアスが、静かに、しかし地響きのような重みを持って言った。


「……なら、選べ」


セリスが顔を上げる。


エリアスは剣を構えたまま、背中で敵を圧しながら言い放った。


「全部を守り抜くなんて、神様でもなきゃ無理だ。

そんな傲慢な願い、この都じゃ命取りになるぜ」


その声は、相変わらず乱暴で、不器用だった。


だが、その奥底には、誰よりも彼女を案じる深い慈しみがあった。


「だからこそ、お前が本当に"残したいもの"だけを、魂に刻みつけて選ぶんだ」


ティアの風が、セリスの周囲を優しく包み込む。


「未完であることは、何もかもを溜め込むことじゃないわ」


風が、宙に舞う黒い紙片をやわらかく保護するように踊る。


「いつか終わらせる時のために。

本当に大切なものだけを、未来へ"残す"ことなのよ」


セリスの影が、静止したまま彼女を見つめていた。


責めるような視線もない。

急かすような気配もない。

ただ、静かに待っている。


彼女が、自らの意志で、何を選び取るのかを。


セリスは、震える指先で欠けゆく楽譜を握り締めた。


崩れ、砂へと還っていく無数の旋律。


失われていく尊い断片たち。


その喪失の痛みに耐えながら、彼女は必死に探した。


暗闇の中でも、決して光を失わない、たったひとつの旋律を。


それは、小さな、か細いメロディだった。


誰の手にも届かず、完成を見ることのなかった、あまりにも幼い歌。


けれど、それこそが、彼女がこの旅を始めた原点であり、最も手放したくないと願った音だった。


セリスは、そっとその音符に触れた。


「……これだけは。この音だけは、私が連れていく」


その瞬間。


楽譜の崩壊が、嘘のように止まった。


楽譜の一部は、無情にも失われたままだった。


そこには白紙の空白が広がり、一度消えた旋律は二度と戻ることはない。


けれど。


残されたわずかな旋律は、以前よりもずっと鮮明な色彩を放っていた。


確かな命の輪郭を持って、セリスの手の中で脈動している。


セリスの影が、満足したかのようにゆっくりと本体へと歩み寄り、重なった。


ズレは解消され、ぴたりと一つに溶け合う。


周囲の歪んでいた風景も、波が引くように静かに正位置へと戻っていった。


訪れたのは、深い、あまりにも深い静寂だった。


ティアが、胸に手を当てて長く重い息を吐いた。


「……戻ったわね。今のズレは、本当に危なかった」


ルゥが駆け寄り、セリスの両肩を強く掴む。


「大丈夫? セリス、顔が真っ白だよ」


セリスはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく、決意を込めて頷いた。


「……うん。大丈夫」


その声は掠れていたが、不思議なほど透き通っていた。


エリアスが剣を納め、苦笑を浮かべる。


「まったく、寿命が縮むってのはこういう感覚を言うんだろうな。冷や汗で服が重いぜ」


誰も声を上げて笑うことはなかったが、その軽口のおかげで、張り詰めていた空気がようやく少しだけ和らいだ。


セリスは、手元に残された、欠けた楽譜をそっと見つめた。


そこには埋めようのない空白がある。

永遠に失われた記憶の一部がある。


けれど、後悔はなかった。


「……未完でいるって、こういうことなんだね」


小さく、独り言のように呟く。


「全部を連れてはいけない。残せないものがあることを、受け入れなきゃいけないんだ」


ルゥの焔が、彼女を包むように優しく揺れた。


ティアの風も、労わるようにその髪を撫でる。


エリアスは何も言わず、ただ、彼女の隣で力強く立ち続けていた。


その時。


都のさらに奥、深淵の闇の中から。

低く、腹に響くような長い余韻が響き渡った。


ゴォン――……。


それは重厚な鐘のような音だった。


だが、この静止した都に、鐘を鳴らす者など存在しないはずだ。


ティアの表情が、一瞬にして凍りつく。


「……まずいわ。始まってしまった」


エリアスが再び剣の柄を握る。


「今度はなんだ。まだ歓迎会は続くのか?」


ティアは、都の最も深い、光さえ届かない中心部を凝視した。


「"コア"が、私たちの存在を完全に認識した。

もう、ただの侵入者としては見てくれないわ」


風が、一斉に向きを変え、奥へ、奥へと吸い込まれるように流れ始める。


呼ばれているのだ。


未完の、さらにその先にある、真実の深淵へと。


セリスは、欠けた楽譜を大事に抱きしめた。


失ったものは多い。


けれど。


自らの意志で選んだ光が、今、この手にある。


ルゥが前を見据えた。


その瞳の奥で、焔が小さく、しかし決して消えない焔を灯す。


「……行こう。

最後まで、私たちの旋律を繋ぐために」


今度の一歩は、先ほどまでとは比べ物にならないほど重い。


けれど、4人の足取りに、迷いはもうなかった。


彼らは都の最深部へ向かって、静かに歩き出す。


その奥で待ち構えるものが。


未完の夢を守り続ける"守護者"なのか。


それとも、すべての未完を無慈悲に終わらせる"虚無"なのか。


それを知る由もないまま、4人の影は深い闇へと溶けていった。

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