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第4章【第5話:未完の重さ】

「……見つけた」


その声は、耳元で囁かれたかのように鮮明に、背後から響いた。


凍り付くような寒気が背筋を駆け抜け、4人の足を砂地へと縫い止める。


だが、誰一人として振り返る者はいなかった。


振り返る必要などなかったのだ。


視認せずとも、逃れようのない何かがそこに"在る"ことを、魂が直接理解していた。


(……来てる。さっきまでの迷子みたいな影とは、格が違う)


ルゥの胸の奥で、焔が低く唸りを上げる。


それは外敵を威嚇するような猛々しいものではなく、底なしの深淵を前にした時に漏れる、防衛本能の震えだった。


今まで感じていた、精神を削られるような摩耗感や、過去へと引き寄せられる引力とは全く性質が異なる。


今、ルゥを支配しているのは、強烈な光源に晒されているような"照らされている"感覚。


服の上から、肌の下まで、自分という存在の輪郭を一本一本精密になぞられ、暴かれているような耐え難い違和感だった。


エリアスが忌々しげに舌打ちをし、剣の柄を握り直す。


「……最悪だな。完全にロックされた。

背中の皮一枚隔てたところに、ずっと何かが張り付いてる気分だぜ」


ティアが即座に4人の周囲に風の障壁を巡らせる。


しかし、その風はいつもより明らかに重苦しく、流れが淀んでいた。


「風が……逃げ場を見つけられない。

外へ向かおうとする力が、何かに押し戻されているわ」


その言葉に、セリスが青ざめた顔で息を呑む。


「……閉じ込められているの? 結界か何かで?」


「いいえ、違うわ」


ティアは唇を噛み、目に見えない大気の密度を測るように目を細めた。


「"追従されている"のよ。

私の風の流れに、全く同じ軌道、同じ揺れを持つ"何か"が重なり合っている。

こちらが逃げれば逃げるほど、その影も完璧に同調して重なってくる……まるで鏡合わせのように」


一歩を踏み出そうとしたルゥの足に、鉄枷をはめられたような負荷がかかった。


足元の砂が、わずかな時間のうちに鉛のような粘り気を持ち始めている。


「……重い。足が、砂から離れない」


エリアスもまた、岩石を背負っているかのように顔をしかめた。


「さっきまでとは明らかに歩きづらさが違う。

底なし沼に沈むわけじゃないが、一歩ごとに命を削って引き抜いてるような感覚だ」


ティアが膝をつき、不気味に静止した地面に掌をかざす。


「……引かれているわ。

重力じゃない、もっと概念的な何かに」


「何に引かれているっていうの?」


セリスの問いに、ティアは苦渋に満ちた表情で答えた。


「この都に堆積した"途中のもの"よ。

未完成のまま放置された意志が、私たちの内側にある未完成な部分と、強く共鳴してしまっている」


その瞬間、セリスが悲鳴に近い声を上げた。


腕の中に抱えていたはずの古びた楽譜が、目に見えて脈動し、激しく震え出したのだ。


「……っ!」


ただの紙の束のはずなのに、物理的な重量が数倍に増していく。まるで、空白の5線譜の中に、今この瞬間も無数の音符が勝手に書き込まれ、増殖しているかのようだった。


「これ……重すぎる。腕が、折れそう……」


セリスの声が恐怖に震える。


ルゥの焔も、それに呼応するように輝きが鈍く淀んでいった。


燃えてはいる。

消えてはいない。

だが、かつての軽やかな熱量は失われ、ドロドロとした溶岩のような、不自由な熱へと変質していた。


「……未完が、溜まってるんだ。

吐き出す場所のない"続き"が、全部ここに」


ルゥの呟きに、エリアスが眉を寄せる。


「どういうことだ? 俺たちの持ち物が勝手に重くなってるっていうのか?」


セリスが、脂汗を浮かべながら楽譜を握り締めた。


「この都で見てしまったもの……触れてしまった過去の記憶……。それら全部が"完成させてほしい"と叫びながら、私たちの魂に縋り付いて離れないのよ」


不意に、風が止まった。


完全に消失したのではない。

そこに空気は存在するのに、一分子たりとも動くことを許されないような、絶対的な停滞。


ティアの顔から血の気が引いていく。


「……来る」


音はなかった。


だが、物理的な衝撃よりも鋭い"圧"が空間を支配した。


それは背後から迫る敵のような一方向のものではなく、上下左右、あるいは次元の隙間からさえも押し寄せる、全方位からの圧力。


「どこだ! 姿を見せろ!」


エリアスが虚空を切り裂くように剣を構えるが、切っ先が捉えるのは乾いた空気だけだ。


目には見えない。


だが、確実に心臓を鷲掴みにできる距離まで"何か"が肉薄している。


(……見えない。なのに、鼻の先まで誰かが来ているみたいだ)


ルゥの焔が、激しい不整脈のように大きく揺れる。


セリスが、何かに導かれるように視線を足元へ落とした。


「……あっちじゃない。外側に敵はいないわ」


「何だと?」


エリアスが怪訝そうに振り返る。


セリスは恐怖に濡れた瞳で、自分たちの足元を指差した。


「後ろじゃない……私たちの"内側"から、漏れ出しているの」


その言葉と同時に、地面に落ちた4人の影が、生き物のように歪に揺れた。


それは、あり得ない光景だった。


光源は動いていない。


本体である4人も静止している。


それなのに、地面に伸びた黒いシルエットだけが、一瞬だけ遅れて動き出したのだ。


「……重なってる。

今の自分と、なり損なった自分たちが」


ティアが声を震わせる。


ルゥの影が本体の意図に反して、胸を掻きむしるような動作を見せる。


「……これ、前の塔で見た……」


未完の影。


だが、以前のそれとは決定的に違う。


あれは遠い他人の記憶だった。


だが、今ここで蠢いているのは紛れもない、自分たちの存在から剥がれ落ちようとしている"自分の一部"だった。


エリアスの影が、本体よりも一歩遅れて、見えない敵に剣を振る構えをとる。


だがその太刀筋は鈍く、途中で力尽きたように折れ曲がっている。


「……おい、ふざけるな」


エリアスが反射的に後ろへ跳んで影を引き剥がそうとするが、影もまたほんのわずかなタイムラグを伴って追随する。


「なんだこれ……自分の体が自分じゃないみたいだ。気持ち悪りぃな!」


ティアの影も、詠唱する本体の動きから数拍遅れて、空を切るような無意味な仕草を繰り返す。


風を操るはずの魔法が、影の遅延によって霧散していく。


そして、最も深刻な変化はセリスに現れた。


セリスの影は、もはや本体の動きを追うことさえやめ、完全にその場に静止したのだ。


「……っ!」


セリスが怯えて後ずさる。


だが、影はその場に黒い染みのように残り続け、本体との繋がりを無視して、ゆっくりと首を持ち上げ、顔を上げた。


「……あ」


誰の声だったのか。


セリス自身の喉から漏れたものか、あるいは影が発したものか。


顔のない、真っ黒な輪郭だけのセリスが、明確な"個"の意志を持って動き出す。


ルゥの焔が、危機を察知して激しく爆ぜた。


「……セリス、離れて! それはもう、君の影じゃない!」


影が、砂を蹴って一歩踏み出す。


本体の動きに従う"従者"ではなく、本体に取って代わろうとする"侵略者"として。


それは本体から完全に分離するわけではない。


だが、鏡の向こう側の存在が鏡を突き破ろうとするような、恐るべき反逆。


「離れるな!

1箇所に固まれ! 影を混ぜ合わせろ!」


エリアスの叫びに従い、4人が中心に集まる。


しかし、彼らの影は意志を拒むように、それぞれ別方向へとズレ、四散しようとする。


「未完の部分が、本体から引き剥がされようとしているわ!」


ティアが叫ぶ。


ルゥは歯を食いしばり、胸の熱を必死に制御した。


「私たちの中にある"まだ決まっていないこと"や"やり残したこと"が、この場所の磁場に引っ張られてるんだ……!」


セリスの影が、さらに一歩、その黒い手を伸ばした。


「……やめて」


セリスの唇から、縋るような声が漏れる。


その瞬間、影が止まった。


ほんの一瞬。

だが、影は諦めてはいなかった。


ルゥが絶叫する。


「セリス、そっちを見るな! 影の目を見るな!」


だが、セリスは吸い寄せられるように、自分自身の虚無を見つめ続けていた。


(……これが、私? 歌えなかった言葉、届かなかった想いの塊……)


影が、ゆっくりと手を伸ばす。

本体のセリスの喉元へ。


(……これは、私の"途中"。捨ててきたはずの、未完成な私自身)


名前がない不安。


旋律が完成しない焦燥。


自分が何者でもないという空虚。


それらすべての"未完"が、黒い実体となって彼女を抱き締めようとする。


指先が、セリスの肌に触れようとした、その刹那。


ルゥの焔が、黄金の閃光となってその間に割って入った。


「触らせない! 彼女はまだ、終わっていない!」


ルゥの焔は影を焼き払うのではなく、物理的な壁となって本体と影を分断した。


ただ、そこにある意志を守るための、純粋な盾。


影が初めて、苦悶するように大きく揺らいだ。


「おおおおおっ!」


エリアスが重い足取りで踏み込み、大剣を地面の影の中心へと叩きつける。


凄まじい衝撃波が砂を巻き上げ、影のズレを強制的に停止させた。


「繋ぎ止めるわ! 二度と離れないように!」


ティアが、4人を包み込むような旋風を巻き起こす。


風の圧力によって、剥がれかけていた影を、無理やり本体の位置へと押し戻した。


セリスは震える手で、重みを増した楽譜を全力で抱きしめた。


「……戻って。私はまだ、ここにいる。

私の物語は、私が決める……!」


心臓の鼓動をぶつけるように叫ぶと、影が激しく震え、輪郭を崩した。


一度では完全には戻らない。


だが、数センチ、また数センチと、影は本来あるべき足元へと収束していく。


「戻って!」


もう一度、今度は涙を振り払うような強い意志を込めて。


影が、セリスの本体と完全に重なった。


ぴたりと一致した瞬間、周囲を支配していた圧倒的な圧力が、潮が引くように霧散した。


風が、本来の穏やかな流れを取り戻す。


舞い上がっていた砂が静かに沈み、世界には再び平穏な静寂が訪れた。


影は、何事もなかったかのように4人の足元に収まっている。


だが――。


何かが、決定的に変わってしまった。


自分たちの内側に、これほどまでに巨大な"未完成"が眠っていたという事実に、4人は愕然としていた。


誰も、すぐには次の言葉を紡げなかった。


エリアスが大きく肩を揺らして息を吐き出す。


「……ふぅ。今の、冗談抜きで洒落になってねえな。魂を半分、砂に持っていかれるところだったぜ」


ティアが青ざめた顔を伏せ、低く言った。


「未完が……物理的に引き剥がされるなんて。

この場所は、私たちの存在そのものの整合性を試しているんだわ」


ルゥは自分の焔をそっと押さえた。


「……守るだけじゃ、足りないんだ。

ただ消えないように祈っているだけじゃ」


セリスが小さく、だが凛とした声で応じる。


「うん」


彼女は顔を上げ、もう逃げないという瞳で前を見据えた。


「選ばないといけないの。自分が抱えているこの"未完"と、どう向き合うのかを」


エリアスが眉を寄せ、問う。


「何をどう選ぶってんだ?」


「どこまでを持っていくか、よ」


セリスは楽譜を見つめた。


「完成させたい願いも、未完のままの絶望も、全部無差別に抱えたままだと……この場所の重さに耐えきれず、いつか全部持って行かれてしまう」


ルゥは、都のさらに奥、深い闇が澱んでいる領域を見つめた。


「……でも、苦しいからって、途中の自分を置いていくのも違うよね」


ティアが力強く頷く。


「ええ、その通りよ。捨て去るのではなく、自分の一部として引き受けること」


風が、再び奥へと静かに流れ始める。


「一つ一つ、自分の答えを選びながら進むしかないわ。この未完の重さこそが、私たちが生きている証なのだから」


エリアスが剣を肩に担ぎ、不敵な笑みを浮かべた。


「へっ、面倒なルールだ。

だが、答えが出るまで何度でも立ち上がってやるよ」


4人は再び歩き出した。


今度は、先ほどまでとは違う慎重さで。


一歩一歩、足元の砂の感触と、自分の中に眠る「重さ」を確かめながら。


そのとき。


遠く、砂のカーテンの向こう側から、もう一度だけ声が届いた。


「……まだ、あるな。

お前たちの中に、埋めきれない"欠落"が」


今度は、幻聴などではない。


はっきりと、自分たちを"獲物"として定めた、鋭い意志の介在する声だった。

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