13 火はその先になにを見るか
「なんや、先に帰ってしもたもんやと思とったが、外で待っとったんかいな」
玄関の扉が開いたと思うと龍華が外に顔を出し、一罪を見てそう言った。一罪は短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、愚痴っぽく返す。
「先に帰ったら雷坂と一之瀬にごちゃごちゃ言われそうだからな。それに、女一人だけ外にほっぽり出して、俺だけ帰ってもしょうがねえだろ」
「憎めんやっちゃ。誰瓜が聞いたらヤキモチ妬きそうなもんやが、まあええわ。絵里香、ちょいと部屋ん中も調べてもええやろか。っちゅうても、余計なもんにゃ触らん。額縁と本棚と、戸棚だけや」
「あ、はい。見られて困るものはないので、どうぞ。自由に調べてください」
「すまんの。すぐ済むさかい」
「彩賀、お前のパーソナルスペースどうなってんだ……普通は嫌だろ? 会ったばかりの他人に、しかも男に自分の部屋あさられんの」
「え、でも……」
「――絵里香ちゃん?」
遠く背後からの声に振り返る。きい、と金属の軋む音。門を通過した一人の女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「あ……か、義母さん」
「お友達が来てるの? 先に言ってくれれば、お菓子とか、なにか用意しておいたのに……外でお喋りしてないで、中にあがってもらったら?」
「えっと……」
絵里香は中に入れない。一罪もだ。言いよどんでいると龍華がずい、と前に出た。
「あー、こらあ、えらいすんません。お邪魔しとります。いや、あがらしてもろてたんですけど、部屋にでっかい虫が出よったんで、退治しちゃあるとこなんですわ。ブンブン飛んでて女子にゃ怖かろう思て、外で待っとってもろてるんです」
「……そう、なの?」
「そうそう。嬢ちゃんと仲のええ『柳』んとこのせがれと、俺らも前々から仲良うしとるんです。嬢ちゃんとはそっから知り合うて。親しゅうさせてもろてます」
「ああ、じゃあ柳季くんのお友達の」
やや訝しげだった絵里香の義母は納得したように頷いた。龍華はそれを見てぺこりと頭を下げる。
「鈴鳴龍華ち言います」
「あら、ご丁寧に。私、絵里香ちゃんの……家族、の……彩賀藍子です。絵里香ちゃんと仲良くしてくれて、ありがとうね」
「いやいや、こちらこそ。実は、お宅に立派な絵がぎょうさんある言うんで、俺の弟と『柳』んとこの春斗と、あとついでにそっちの兄やん連れもて、見してもらいに来ちょったんですわ」
「絵に……興味があるの?」
「ハ、とてもそうは見えねえな」
「わがの顔見てもの言わんかい。お前が絵描きやゆうんが一番ビックリじゃ」
ごほん、龍華は咳払いをする。
「芸術いうもんはようわからんけども、うつくしもんはうつくしさかいに、そういうもんは生きとるうちにいっこでも多く見とかんと損やっちゅうもんで」
「龍華さーん!」
二階から春斗の声。龍華は義母に、ほな、すんません、とだけ言い残し、一階に降りてきた癒暗となにか言葉を交わしてから、絵里香の部屋のほうへ戻っていった。入れ違いに癒暗がこちらに来る。
「絵里香、虫が本棚のうしろに行っちゃったから、ちょっと動かしていい?」
「あ、虫が出たのは本当なんだね……」
「ごめんねー、窓開けたら、網戸がちょっと開いてて……あ、絵里香のお義母さん? こんにちは、お邪魔してまーす。階段にある朝焼けの絵、すっごく綺麗だね」
「いらっしゃい。実は私もあの絵が一番気に入っているのよ。どうぞ、ゆっくりしていって。あとで、なにか飲み物でも持って行くわね」
「ありがとう。でも、おかまいなく。僕たち、このあと柳季のところに行こうって話してて。ね」
「あ、うん。そうなの。だから大丈夫」
「そう? なにもおもてなしできないでごめんなさいね。……絵里香ちゃん、しばらくお友達のところに泊まるって言っていたけど、そのお友達って……」
「僕らのところだよ。えっとね、僕と、僕の双子の兄者がいて、さっきの変な話し方の人が僕らのひとつ上の兄さんで、兄さんにはもう一人、妹がいて、四人で一緒に住んでるんだけど、今そこに春斗と絵里香が遊びに来てるんだよ」
「そうだったの……そうね……絵里香ちゃん、最近ずっと元気がなかったから、心配だったのよ。でも、なんだか安心したわ。たまには家を空けて、お友達と何日も遊びまわるのも、いいわよね」
「うんうん。絵里香は一人で溜め込んじゃうタイプみたいだから、ときどきパーッと遊んだり、羽を伸ばしてのんびりしないとね」
「それじゃあ、絵里香ちゃんのこと、お願いしていいかしら」
「任せて!」
それから二言三言交わしてから、義母の藍子は家の中に入っていった。ぱたぱたと足音が駆け寄ってくる。そちらを見ると、龍華が手に大きな黒い虫をつまんで持っていた。
「捕まえた! いるか?」
「いらねえ、殺すか逃がすかしろ」
「無益な殺生はいかんなあ。そうら、飛んでけ!」
龍華が空に向かって虫を放り投げると、そのままどこかに飛んで行った。春斗が龍華のうしろから遅れてついてくる。
「龍華、どうだった?」
「んー。調べるとこは調べたさかい、ここはもうええやろな」
「えっ、いつの間に」
「春斗が虫で騒いどる間にじゃ」
「れ、冷静ですね……」
「じゃあ、柳季のところに寄ってから帰ろうか」
*
『柳』で玲華たちへの手土産などを買い、ロワリアに戻ってきたときには昼を少しすぎていた。一罪は駅に着くなり一人でギルドのほうへ帰ってしまい、残された春斗たちはまず神社に向かうことになった。フィストが目を覚まして神社に戻ってきていると、柴闇から癒暗に連絡があったそうだ。
フィストティリアは昨日までととくに変わらない姿と態度でそこにいた。昨日の夕方に見かけたときと同じように、縁側に腰掛けて庭を眺めていたが、春斗たちの存在に気付き、立ち上がった。まるで何事もなかったかのように平然としている。
「帰ってきたか。待っていたぞ」
「フィ、フィストさん、体は大丈夫なんですか?」
「ああ、もうなんともない。心配をかけたな」
「ほんとだよ、もー。なにか音がしたと思って見に来たら、血を吐きながら倒れてるんだもん」
「床を汚してしまったな。既に玲華が綺麗に掃除してくれていたが……すまなかった」
「ほ、本当に、大丈夫……なんですよね?」
「大丈夫だ、春斗。なにも問題ない。それより、絵里香の家に行ってきたのだろう。なにかわかったか?」
「ぼちぼちや。フィスト、お前も昨日の夢でなんかわかったんとちゃうんか? 立ち話もなんやし、座って話そうや」
龍華について行った先の部屋では、玲華と柴闇が人数分のお茶を用意しているところだった。ひとまず全員が座布団に腰掛け、龍華は『柳』の土産を玲華に渡すと、茶を飲んでから息をつく。
「むつかしなあ、わからんことが増えてしもたわ。ただ、今言えるんは、そうやなあ……あの黒い女は間違いなく、絵からは出てこられん。夢と絵の中にしかおらんもんや。つまりまあ、油断しとったら夜中に背後で、ひゅうどろどろ、とはならんから安心しい。ま、それは薄々わかっとったやろうけどな」
「確実にそうだってことがわかるだけでも、ちょっと安心します。あの、外に出てこられないのは、なにか理由があるんですか?」
絵里香の問いに、考えるように腕組みをしながら目を伏せる龍華。三秒。その神妙な面持ちのまま静かに答えた。
「あれは既に封じられちゃあるんや。誰がいつそげん事しはったんかは知らんが、まあ素人やな。黒い女の姿が絵里香に見えとる時点で仕事が雑や。そいでも、効いちょらんわけやない。女は出てこられん。額に札が貼られとったわ」
「お札?」
「札に気付いたんは春斗やった。しゃあけど、見た感じ何年も前から貼られとったわけやないな。そこそこ新しいもんや。絵里香自身に覚えがないんやったら、他の誰か……お前と関係ある誰かが貼った、ちゅうことんなる」
「私と関係のある誰か……」
「有力なのはお姉さんとお義母さんかな? あの感じだとお義母さんの線は薄そうだけど。その二人でないなら、絵里香が今まで部屋にあげたことのある誰か、ってところまで広がっちゃうね」
「封印の札としては失格やな。あの様子やと、札は形だけ。呪術で閉じ込めとるだけや」
「の、呪いのお札、ってことですか?」
「早い話がそうやな。他の絵もさらっと確認したけんど、札があったんはあの絵だけやった。たぶん、黒い女があの泉の絵からしか外に出られんって意味やろ。あそこが出口なんや。ただ、なんであの絵なんか、それは疑問やけどな」
「あの、あ……」
絵里香がなにかを言おうとして、しかし口ごもった。龍華が首をかしげる。
「なんやそ。言いたいことあんねやったら言うてみい」
「か……一罪くんが言ってたことなんですけど。うちにある絵は、全部同じ人が描いたものだって。あと、あの泉の絵は、絵の作者にとって一番情熱を込めた、特別なものみたいなの。それから、あれはラウの森にある泉の絵だって」
「……見込み通り、勘の鋭いやっちゃな」
満足したような含み笑いを浮かべる龍華の隣で、柴闇がテーブルに肘をついた。
「黒い女が絵の作者ってことか? それなら、絵に封じられているのも、その泉の絵が特別なのも、黒い女が出て来る夢の舞台になっているのも説明がつく」
「じゃあ絵里香が夢を通してあの絵の中に来ちゃったから、それで目をつけられたとか? 外に出たがっているのかもね。出したらどうなるかわからないけど。ヤバそう」
「それはどうだろうか」
癒暗の仮説に、黙って話を聞いていたフィストが静かに異を唱えた。全員の視線がそちらに向く。
「どうりでまずいわけだ。……あの夢は、決して悪夢などではない。あの黒い女は、決して絵里香に対する敵意など持っていない。間違いなく、あれは絵里香を傷つけない存在だ」
「なにそれ、味方……ってこと?」
「そこまではわからない。少なくとも絵里香の生命を脅かすような脅威にはなり得ないことはたしかだ。外に出たがっているというのは、そのとおりだろう。黒い女を封じているという札を剥がせば、案外すんなりどこかへ行ってしまうかもしれん。俺は彼女の解放を望む」
「えっ、でも絵里香は、ほら、あの絵を好きで、気に入ってて部屋に飾ってるんだから、だから大丈夫なだけかもしれないよ。だって、フィストは攻撃対象だったんだよね?」
「それは、そうだが……」
「なにか思うところが?」
「……実は、絵里香に凶の卦が出た。共有した夢が判断材料になったのだろう。ただ、やはり悪夢には分類されず占いの質は低い。なので、なにも詳細はわからないし、運気を吉にかたむけるにはどうすればいいのかも、はっきり助言できない」
「その凶は黒い女に関係しているのか?」
「俺個人としては……そうではないと思う。なにか、黒い女とは関係のない、別の脅威があるのだろう。それがどれほどのものかも把握できないが、まだ避けることができるものだ。黒い女の解放によって、運気が変わる可能性がある」
「フィストのことだから、ちゃんと考えがあって言ってるのはわかるけど。現状、黒い女のことはよくわかってないんだし、ちゃんとどういうものなのか判断できる段階になってから決めたほうがいいんじゃない?」
癒暗は戸惑いながら反対意見を述べた。柴闇は顎に手を当てる。
「俺は半分賛成だけどな。つまり札を剥がさない限り、女はいつまでも絵に居座ることになるだろ。絵の処分を避け、なおかつ黒い女をどうにかしたい絵里香の意に沿うなら、たしかに札を剥がしてその絵から出す必要があるだろう。札を剥がして即座に仕留める。それが一番手っ取り早い。候補として挙げておく」
「もう、血の気が多いんだから」
「だ、だが、もしあれが害のないものであったならば、討つ必要はないのではないか?」
「害ならあるだろ。フィスト、お前が受けたばかりだ。それに、絵里香が黒い女に怯えている事実がある。黒い女が絵里香に対して明らかな攻撃手段に出ていなくとも、恐怖を与えているならば、それは害があるのと同じ――そうじゃないのか?」
柴闇の言葉に、フィストは目を見開いてはっとした。それは彼が昨日、たしかにその口で言った言葉なのだ。なにかに気付かされたような、それでいて、悲しみにも似た、得体のしれない感情を受けたような表情で、フィストは固まってしまう。
「そ、れは――」
言葉に詰まり、彼はただ首を横に振った。
「……とんでもないぞ。柴闇。あれが悪夢など。あの存在が悪などと。それは、とんでもない思い違いだ。……俺から言えるのはそれだけだ。俺にできるのも、もはやここまでだろう。あとはお前たちの好きにしてくれ」
「あっ、フィ、フィストさん!」
フィストは静かに立ち上がり、部屋を出て行ってしまう。思わずそのあとを追いかける春斗だったが、その足は部屋を出ようとした直前に止まった。
「あ、あの……柴闇さんの言ってること、わかります。柴闇さんは、フィストさんを傷つけた黒い女が許せなくて、怖い思いをしている絵里香ちゃんが心配で、早く解決してあげたくて、そう言ってるんだって……でも、黒い女から攻撃を受けたフィストさん本人が、それでも悪いものじゃないって言うからには、なにか、そう言えるだけの根拠があるんだと思います」
「まあ、いくらフィストが優しいからって、明らかな敵対者を庇うようなことは言わないよね。味方には甘くても、ちゃんと外敵には厳しいやつだし」
「夢の中とはいえ、黒い女を直接見たのも、絵里香ちゃんの夢の本質を知っているのもフィストさんです。だったら、その意見って、一番正解に近くて、一番大事なんじゃないでしょうか。その夢が黒い女によるものなら、夢の本質は、黒い女の本質と同じ、ってことになりませんか?」
「だからって黒い女の正体がわかったわけじゃないだろ。憶測が入っている時点で仮説だ。不穏分子は残さずに絶つほうがいい」
「そ、それはそうですけど、だからって、……み、見た目がおぞましいからって、ただ理解できなくて怖いってだけで、本質を見ずに拒絶するのは、それはっ、その相手に対する攻撃行為です!」
座敷を飛び出し、遠くに見えたフィストの背中を追う。
「フィストさん!」
声を張る。フィストは立ち止まり、こちらを見た。彼が去ってしまう前に言葉を繋がなければとあせるあまり、春斗は息を整えるより先に声を出す。
「あの! あの、あ、うっ……ごほっごほっ」
「大丈夫か?」
「だ、大、丈夫……ですっ。あ、の、僕……」
「あせらなくていい。ここでお前を無視して立ち去るほど、俺は先を急いではいない」
咳き込む春斗の息が落ち着くのを、フィストは静かに待った。たまらず追いかけてきてしまったが、なにを言えばいいのかわからない。フィストは春斗に向かい合うよう体の向きを変える。
「僕、は……フィストさんに、賛成です。たしかに、まだ黒い女の正体が、はっきりわかったわけじゃないです、けど。黒い女を直接見たフィストさんの意見は……正しいと、思います」
春斗の言葉に、フィストの表情がほんの一瞬、わずかばかり和らいだような気がした。しかし彼はすぐに、どこかさびしそうな目で笑った。
「……どうだろうな。俺はこれまで、何度も選択を間違えてきた。俺の言動と選択の、その報いを俺一人で受けるならばいい。だが……惑わせてしまった人がいる。巻き込んだ挙句、その身を危険にさらしてしまったことがある。俺が正しいと思った選択が、本当に正しかったのかどうか。俺にはわからない。誰かと関わるというのは、むずかしいな」
「少なくとも今回のことは、フィストさんが絵里香ちゃんと夢を共有して、どう感じたのか。それが一番重要だと思います。よければ、もっと、さらに詳しく……教えてもらえませんか?」
「そのために追いかけてくれたのか。勇気を出したな」
「それは……はい」
「……うまく言葉にできないのだ。ただ、あの女は……普通にしていれば、俺たちにも手を出したりしないだろう。俺が攻撃を受けたのは、きっとそこだ」
「普通に、していれば……?」
「俺は絵里香と夢を共有した。それは絵里香の合意を受けてのものだったが、黒い女にしてみれば、俺は突然現れた侵入者にすぎない。自分のテリトリーに侵入者がいれば、迎撃するのは当然のこと。あの女は……絵里香に対して……」
フィストはその先の言葉に迷った。眉間にしわを寄せ、言葉を探る。
「……なんと言えばいいのか。人間としての生活から長く離れすぎていたせいか、適切な言葉がわからない。ただ、あの黒い女は……絵里香への攻撃の意思だけは、どうやっても抱かないだろう。あれは……むしろ……保護、するような……」
「絵里香ちゃんを、守ろうとしている? だから、フィストさんを夢から追い出そうと、フィストさんを敵だと誤解して、攻撃した……ということですか?」
「少なくとも、俺にはそのように感じられた」
あれは決して悪ではない、絵里香を傷つけないと、彼は言った。我々の味方なのかどうかはわからない――とも。だが黒い女には絵里香を守る意思がある。ただし、黒い女が守る対象は絵里香だけ。絵里香だけを守れるならばそれでいいと、そのためなら武力行使もやむなしと。……そういうことなのだろうか。
「まさか、それは」
ああ。たしかに、悪だというのは、とんでもない思い違いだ。
「それは――絵里香ちゃんへの、愛……?」
次回は九月二十九日、十三時に更新します。




