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色褪せた写真  作者: 氷室冬彦
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14/19

12 熱、微熱に留まらず

遠くから聞こえる足音で目を覚ました。ぱたぱたと忙しなく走り回る人の気配に、しょぼくれた目をこすりながら、ゆっくり体を起こしす。しばらく頭がぼんやりしたが、何人かの話し声のようなものに布団から這い出て襖を開けた。部屋の前には誰もいない。


音のするほうへ歩いて行くと、やがて龍華と玲華が真剣な面持ちで言葉を交わしているのが見えた。絵里香も一緒だ。声は聞こえるが話している内容は聞き取れない。声をかけようと近付いたとき、うしろから駆けて来た柴闇が、髪を束ねながら春斗を追い抜いた。


「おう春斗、起きたか」


追い抜く瞬間にそう言い、龍華にひと言なにか言ってから、彼は廊下の向こうへと消えて行く。あまりに忙しなく、返事をする暇さえなかった。


「あ、あの……なにか、あったんですか?」


春斗が尋ねると、絵里香が青い顔でこちらを見た。玲華も黙り込んでしまっている。龍華はしばらくうなっていたが、ぱん、と手を叩き、切り替えるように明るめの声を出した。


「なんにせよ、まずは朝餉あさげじゃな。顔洗って着替えてい」


朝食の場に集まったのは龍華と玲華、絵里香と春斗の四人だけで、柴闇と癒暗の姿はない。重たい空気の中で黙々と箸を動かしていると、味噌汁を飲み干した龍華が話を切り出した。


「実はな、フィストが倒れたんや」


「えっ」


思わず絵里香のほうを見ると、彼女も春斗を見た。


「フィストさん、私の布団の隣に座ってたんだけど、起きたら……いなくなってて、それで……血が」


「血!?」


おどろく春斗に、玲華は頷く。


「ええ。畳の上から廊下のほうへ続いていまして、部屋を出たところで気を失っているのを癒暗が発見しました。彼がそのままギルドの医務室へ運んで、現在、手当てにあたっているかと」


「な、なにがあったんですか?」


「それが……私と絵里香さんが起床したころには、既にそういった状態でしたので、具体的になにが起きたのかまでは把握しかねます」


「夢のほうはどうや」


「やはり、絵里香さんの夢の中になにかが潜んでいるというのはたしかですね。ですが、取り憑いているというよりは、干渉を受けているだけに近いです。直接的なものでなく、あくまで彼女が見る夢の中に」


「ほう、つまりなんじゃ、……気取られたか」


「おそらくは」


「けったくそわるいのう。まあ、それがわかっただけでも進歩やな。フィストにゃ悪いが、じっとしちゃあるわけにもいかん。予定通り絵里香んちの絵画を調べたしかええわ」


庭のほうからなにか大きなものが羽ばたくような音。その音にどこか聞き覚えのあった春斗は、思わずそちらを見る。すると、ちょうど癒暗が地面に降り立つところだった。背中の白い翼は役目を終えると音もなく消えてしまう。


「癒暗さん!」


「癒暗、フィストの様子はどないや?」


「夢の中で攻撃を受けたとみていいだろうね。まだ意識は戻ってないけど、気を失ってるだけで命に別状はないから、時間が経てば自然に目を覚ますよ。今は兄者とアリアが医務室で様子を見てる」


「こ、攻撃って」


「物理的なものじゃなくて、どっちかっていうと精神的というか概念的というか……まあ、感覚的には呪いみたいな感じ。闇属性系の攻撃だろうね。体が丈夫なフィストだから無事だったのか、それとも命がどうにかなるほどの力は持ってないのか。物理的な怪我だったら、ある程度までは僕が治せるんだけど、今回は出る幕がないかな」


「つまり攻撃の意思がある、ってことですよね、その……黒い女には」


「そうだね。フィストは絵里香と夢を共有して、黒い女を覗こうとした。それに気付かれて、返り討ちにあったんだろうって兄者が言ってた。夢についての詳しいことはフィストから聞かないとわからないんだけど、思ってるより深刻なのかも」


「闇属性系なあ。解呪のために柴闇は出てこられんってことやな」


「うん。だから絵里香の絵画を調べるのは僕たちだけで行くことになるかな。一罪をつれて行く許可は取ってあるから、兄者がいないこと以外は手筈通りだよ。ただ、僕はそのあたりの勘が鈍いから……」


「ほんなら俺も同行すら。玲華、神社のほうは頼んどかよ」


「はい」


「龍華さんが?」


「癒暗は柴闇とちごうて、憑きもの祓いができるわけやないし、そういうもんを感知すんのも、ちと苦手なんや。まったくわからんうこたあらへんが、かすかなもんは見逃すやろな」


「破魔の力があるのは兄者だけだから。僕は……そうだなあ。たとえば、桃を一切れ浸けた水があって、それを二人で分けたとするでしょ? 桃が入ってるほうの水が兄者、桃が入ってないほうの水が僕ってこと。でも果実が入っていないとはいえ、果汁がちょっとだけ入ってるから真水でもない。……わかる?」


「なんとなく……」


「どうして桃?」


「桃には邪気や厄を祓う力があるって言われてるからね。じゃあ、僕は一罪を起こしてくるから、えーと……駅で落ち合おうか?」


「わ、わかりました」


そこまで話すと、癒暗は再び空へ飛び立っていった。



*



絵里香たちは朝食を済ませたあと、支度をして神社を出た。フィストのことは心配だったが、龍華たちの落ち着きぶりからも、それに関してはギルドの人々に任せておけば問題ないのだろう。駅に着いたとき、癒暗は既に到着していた。待合室のベンチに誰かが寝ているのが見える。


「なんや、一罪はまだ寝とるんか」


「さっきまで起きてたんだよ。一罪、おーい」


側頭部でひとつにまとめた金髪は、ところどころに赤毛がまざっている。薄手のコートを着た寝姿は、髪型も相まって一瞬、女性のようにも見えたが、体格や顔立ちからはっきり男性とわかる。癒暗に揺り起こされた男の、つりあがった赤目がじろりと絵里香たちを睨んだ。


「みんな来たから起きて。あ、絵里香、春斗。この人は水流一罪すいりゅうかずさ。ちょっと短気だけど、理由なく暴力とか振るうタイプじゃないから比較的安全だよ」


「……なんだ? なにしてんだ……お前どっちだ」


「もー、さっき説明したじゃん。返事してたくせに、やっぱり覚えてない。任務だよ、任務。あと僕は癒暗のほうだよ」


「ざけんなよ、俺ぁ五軍だぞ。任務とは無縁だ」


眠そうだ。


「そうなんだけど、ちょっと一罪の知識が必要かもしれなくってさ。一罪って絵のこと詳しかったでしょ?」


絵、という単語に、一罪の顔つきが変わる。一瞬で眠気が吹き飛んだというような様子だ。


「……それがどうした」


「この子、絵里香の家にたくさん絵が飾ってあって、これからそれを調べに行くんだけど、一罪にもちょっと見てほしいんだよ。僕らは絵のことってよくわからないから」


「かったりいな」


「郁夜には昨日の夜に話を通してあるし、既に一罪の仕事として受理されてるから、ちゃんとついて来てね」


「チッ……あの野郎、勝手に決めやがって。その手の回し方、どうせてめえの兄貴の差し金だろ。クソだりい」


「そう言わんと。どうせギルドにおっても書類仕事ばっかしやろ? たまにはタバコやのうて外の空気吸おうや」


「高台の神主か。珍しいじゃねえか、てめえが下に降りて来るなんざよ」


「ちいっとばかし事情が混み合っとってなあ。柴闇が来られんくなったんで、その代打や」


「事情?」


「あー、そこを詳しく話す前に、一罪。こっちは依頼人の彩賀絵里香。で、そっちが付き添いの早川春斗だよ」


「はじめまして」


「ど、どうも」


鋭い眼光に気圧されながらも、ぺこりと頭を下げる。一罪は立ち上がり、興味なさげに二人を見ると、片眉を吊り上げた。


「で? なんで急に絵なんだよ」


「それがやなあ――」


「待て。てめえはなに言ってんのかわかんねえんだよ。おい、天風弟」


「はいはい」


駅に列車がやってくる。ぞろぞろと乗り込みながら、癒暗と絵里香が事の顛末を説明し始めた。ざっくりとした彩賀家の家庭事情から、悪夢のこと。黒い女のこと。精神的な苦痛などからくる幻覚などではなく、なにかが絵里香の中に巣くっていること。詳しいことを知るためにも、絵里香の家の絵画を調べる必要があること。


「言っとくが、俺ぁ退屈しのぎにラクガキしてた時期があっただけで、画家に詳しいわけでも、技法だのなんだのの知識があるってわけじゃねえぞ。それはてめえら祓い屋だけの管轄じゃねえのかよ」


「祓い屋は祓い屋や。まがりなりにも描き手側におったおはんの感性でしか感じ取れんこともあるかもしれん。なんでもええから、情報がほしいねん」


「だからって俺を呼ぶかねえ、普通。絵に興味があって詳しいやつなんざ、他にもいるんじゃねえのか?」


「はてなあ、ひょっとかしたらおるかも知らんが、一番いっちゃん勘の鋭いもんをつれてくがよかろ」


「勘? ……覚えはねえが、俺がその絵を見て、得になることを言わなかったとしても文句言うんじゃねえぞ。人選を間違えたのはてめえらだからな。むしろ巻き込まれて迷惑してんだ。飯でも奢らせてえくらいだぜ」


「じゃあ柳季のお店でなにか買って帰ろうか」


「洋菓子だろ。甘ったるいモンはパスだ」


「あ、あ……チーズと黒胡椒のサブレ、とか……塩味のクッキーとか、サンドイッチケーキも……甘くないメニュー、あります……」


「なんだてめえ」


「春斗はいろいろあって『柳』で働いてるんだよ。サンドイッチケーキって初めて聞いたなあ」


「スモーガストルタ……だっけ。最近、新しく始めたみたいよ」


「ほいたら帰りしな寄ってこか」


話が逸れ始めたところでレスペルに到着する。列車を降り、駅から絵里香の自宅までニ十分ほど歩く。やがて見飽きた建物が姿を現す。正面の門の前で立ち止まり、屋敷を指さした。


「ここです」


「でかくね?」


「思ってたよりでかいね」


「そ、そうかな……たしかに、まわりの家より、ひとまわり大きいかもしれないけど、鈴鳴神社に比べたら全然だし……」


「俺んちこれの半分くらいだったわ。……ってか、あの神社と比べりゃ大抵の民家は小せえよ」


「住んでる人数に対してこの大きさだと、持て余してるんじゃない? 部屋余っちゃうでしょ」


「うん。使われてない空き部屋がいくつかあって。友達を泊めたいときとかに便利だからいいんだけど、掃除とか大変で」


「まー、いうて、こんくらいやないと、あっちゃこっちゃ絵飾るっちゅうんもむつかしやろ。ぎょうさんあんねやーちうとったし」


「それもそっか。こうして見ると、ちょっといいとこのお嬢さんって感じだね」


「お前んとこも鈴鳴と同じくらいでけえ家に住んでたんじゃねえのか?」


「あはは、うちもう潰れてるから」


「笑いながら言うことじゃないですよ」


「気にしなさすぎるのも考えもんだなこりゃ」


「難儀やのう」


「え、えーっと、とりあえず……あがって?」


絵里香の案内で皆を玄関先までつれて行く。扉を開ける前に静かに深呼吸した。この先には無数の額縁がある。そこにはあの黒い女がいる。それは絵里香がおかしくなったために見ている幻覚ではない。絵里香にしか見えないなにかが、本当にそこにいるのだ。


かの夢喰い、フィストティリアは夢の中で攻撃を受けた。黒い女はこちらに対して攻撃の意思を持っている。それに対して恐怖や不安がまるでないと言えば嘘になる。しかし冷静に考えてみて、経験上、絵里香が黒い女になにかをされたわけではない。今のところ、黒い女は額縁から出てこない。出てくるとすれば、それは夢の中でのみ。黒い女の映る絵にさえ近付かなければ、どうということはないはず。仮になにかあったとしても、龍華たちがいるのだから心配ない。


「あの、私、ちょっと下向いてていいですか」


「無理せんでええよ。しんどなったら外出ちょったらええわ。あ、前だけ気い付けいや」


玄関に一枚、花瓶の絵。階段に続く廊下に四枚、それぞれ違う種類の花の絵。階段に三枚、朝焼けと青空、夕焼けの絵。二階にあがり、絵里香の部屋に着くまでに三枚、畑と果物、ウサギの絵。それらを視界に入れないよう、下を向き、顔を背け、皆を案内する。


「本当に……いっぱい飾ってあるんだね」


あちこちに飾られた絵のひとつひとつに目を奪われながら、春斗が言う。龍華と一罪はなにも言わなかったが、癒暗はそれに同調した。


「そうだねえ。あ、このウサギかわいい。さっき階段にあった朝焼けの絵は玲華が好きそうだなあ。兄者は玄関の花瓶の絵がいいって言いそうだけど」


「柴闇さんって花瓶とか好きなんですか?」


「花瓶自体はそうでもないだろうけど、ウサギと花瓶なら花瓶のほうが好きだと思うよ。あの人、基本的に生き物全般を気持ち悪いと思ってるから」


「なん……え? それはどういう」


「あ、絵里香の部屋ってここ?」


絵里香、と書かれたネームプレートのついた扉を指さし、癒暗が言う。


「たしかお姉さんもいるんだったよね」


「お姉ちゃんはそっちの、隣の部屋だよ。いつもは私が帰ってくると出て来てくれるんだけど……今日は出掛けてるみたい」


「それならちょうどいいかもね。元々、お姉さんやお義母さんには内緒にしたいって話だったし」


「ほな、不躾は百も承知。入らしてもらうで」


「はい。どうぞ」


絵里香が扉を開け、龍華が先に入る。うしろに癒暗と春斗が続き、最後に一罪が暗い面持ちでついていく。明るい色のカーテンに、大きめのベッドのわきには背の低い本棚。こじゃれた小さなテーブル。そして、ベッドの足もと側の壁。ちょうど、そこで眠っていて、起き上がったとき、真正面に見える位置に、大きな絵が飾られていた。


絵里香はその絵のほうを見ないように部屋に入り、カーテンを開けて薄暗い部屋に光を呼び込んだ。他の四人は絵を見ている。癒暗と春斗はごく一般的に。ただ綺麗な絵だと言っている。龍華と一罪はやはり無言だったが、やがて龍華が絵里香を見た。


「なあ絵里香、おはん――」


唐突に名前を呼ばれ、思わず顔を上げてそちらを見てしまった。


「あ」


鮮やかな緑と、優しい蒼。淡い光が水面を照らし、きらきらと輝くさまが繊細に表現されている。清涼的で美しく、穏やかでさわやかな一枚。


それを。


それらをすべて台無しにするような。黒い。


黒い、女。


ひ、と短く息を吸い、ただ顔を背けた。心臓は早鐘を鳴らし、体が熱くなってくる。全身に嫌な汗がにじむ。怖い。やはり、いた。幻覚などではないのだ。たしかにそこにいるものだと、既に事実として判明してしまっているのだ。


額縁の奥から、黒々とした目で、絵里香を見ている。


「絵里香……やっぱり、絵に?」


癒暗が神妙な声で尋ねる。絵里香はそちらを見ずに頷く。龍華は顎を掻き、腕を組むと壁の絵に向き直った。


「……この絵のことはなんも知らんねやったな? どこの景色を、誰がいつ描いたもんなんか」


「なにも……私は、ただお父さんから、この絵をもらっただけですから」


「ほうか。俺は祓い屋やからな、まあ一応はお前とおんなしもんが見えちょる。たしかにこんなんが生活ん中でずうっとは……しんどいやろなあ。一罪、お前はなんか……一罪?」


「……最悪だ」


今まで黙り込んでいた一罪がぽつり、口を開く。眉間に深くしわを寄せ、嫌悪のような憎悪のような、怒りの目で壁にかかった絵を睨んでいた。


「こんな家、俺だったら一日で気が狂う。……いや、俺だからかもしれねえが」


鋭く、熱い。態度は平静を装っているつもりが、その声は感情を抑えきれていない。春斗が心配そうにその顔を覗き込む。


「か、一罪さん? どうかし……、まさか、なにか見えて」


「ここのことはてめえらだけでやれ。二度と御免だ。こんなところ、正気でいられねえ。俺は今後一切、この家には関与しねえからな」


「あっ、一罪!」


部屋を出て行こうとする一罪を癒暗が呼び止めた。一罪は立ち止まり、振り返って絵里香を見る。そしてそのまま、ずかずかと引き返してきたかと思うと、左手で絵里香の腕を掴んで力任せに引っ張り、乱暴に部屋から連れ出した。早足に廊下を引き返して階段を降り、玄関から外に出たところで、彼はようやく手を離して立ち止まる。


強引に、半ば引きずられるようにして外に出た絵里香だったが、正直なところ助かった。もはや、あの部屋に一秒だって長居したくない。怖くて仕方がなかった。それでも、外に出るためには何枚もの絵の前を通らなければならない。再びあの黒い女の存在を目の当たりにしてしまった瞬間から、外に出ることも、部屋にいることも恐ろしく、すっかり身動きが取れなくなっていたのだ。


絵里香がほっと息を吐くと、隣で一罪も大きなため息をついた。彼は扉の前を少し逸れ、壁にもたれて座り込んだ。そのまま左のポケットから煙草を取り出して口に咥える。右手を風除けにしてライターで火を灯すと、じっくりと深く吸い込み、白い煙を口から吹き出した。


「……間違いなく複製画ではねえ。まして印刷されたもんでもねえ。表面の絵の具の劣化具合と、額縁自体の傷み方からしても……そう何十年も昔の絵ってわけじゃねえ。つっても少なくとも描かれてから十年以上は経ってるだろうけどな」


「え?」


「あれはラウの森にある泉を描いた絵だ。断言できる。この家にある絵を全部見たわけじゃねえから確実なことは言えねえが、少なくともさっき通ったところにあった全部、作者は同一人物だ」


「ど、どうしてわかるの?」


「色と光の使い方、影の置き方に癖がある。つまり……なんだ、絵柄が同じってことだ。描いたのが別のやつか同じやつかくらい、見りゃわかる。……お前があの絵をもらったのはいつだ?」


「えっと……小さいころだったから、よく覚えてないけど……五歳か六歳とか、それくらいだったと思う。たぶん」


ふう、と吐き出された煙が大気と混ざり合って消えた。


「描いたやつが誰かは知らねえが、よく手放したもんだな。お前の親父と相当仲が良かったか、信頼があったか……なんにせよ、あの絵……この家にある絵は、描いたやつ本人から直接、買ったか譲られたもんだろ。複製画ならあんなに……」


一罪の言葉が途切れる。歯を食いしばり、なにかを堪えるような、苛立っているような、苦しそうな顔をしていた。絵里香は静かに、その先を促す。


「……あんなに?」


「……あんなに楽しそうな絵にはならねえ」


「楽しそうな、絵?」


「そのひと塗り、そのひと筆に、あふれんばかりの情熱がこもっている。技法だとか巧さだとかどうでもいい、ただ描くのが楽しくてしょうがねえ、……そんな絵だ。そんな絵しかねえ。あの絵はとくにひでえ」


「さっき言った、気が狂うって、まさか――」


「……来るんじゃなかったぜ。あんな、いい絵があるって知ってたら、絶対に来なかったってのに」


「一罪くんは、前は絵を描いてたって聞いたけど……どうして、やめたの?」


「描けなくなったからに決まってんだろ」


「描けない?」


「いい絵ってのはな、わかんだよ。そこに描いたやつの情熱が、そのまま絵に混ぜ込まれてんのが、見ただけでわかる。そんで厄介なことに、その熱は移る。絵を見たやつらの中の、気付いたやつに伝染する。そいつがその熱を知っているなら、自分の手で物をつくる楽しさを知っているなら――掻き立てられる。筆を執りたくて仕方ねえ衝動に駆られる」


「……伝染、したの?」


「した。するに決まってんだろ。なんにもなくてつまんねえ田舎町に住んでて、描くことだけが楽しかったんだ。だが、今の俺にはもらった熱を吐き出す方法がねえ」


そう言って、一罪は右手を絵里香に差し出した。絵里香は戸惑ったが、その手にそっと触れた。なんの変哲もない、絵里香より大きく、骨張って硬い、男の子の手だ。絵里香の手をゆるく握った彼の右手が、かすかに痙攣するように震えている。まるで、めいっぱい力を込めて握りしめているときのような震えかただ。


「握力はこれが限界だ。お前の手の感触も熱も、ほとんど伝わってこねえ。こんなんじゃ、もう筆を握ることもできねえし、代わりの左手はいつまで経っても言うこと聞かないときた」


「……右利き、だったんだね」


「……喋りすぎた。お前にはなんの関係もねえことだったな。悪ィ、つい感情的になって口が滑っちまった。俺もまだまだガキだな。……今のは忘れろ」


絵里香の一番見たくない絵が、あの絵だった。


一罪が一番見たくない絵も、あの絵だった。


絵里香はあの絵に女を見て恐怖に震え、一罪はあの絵に熱を見て衝動に震えた。お互いに、見えていたものはまったく違う。絵里香に一罪の苦しみはわからないし、一罪にも絵里香の苦しみがわからない。抱えている事情も感情も、なにも重なる部分がない。


それでも、なぜか他人事には思えなかった。


ただ二人にとって、それを見るのはなによりの苦痛だったのだ。

次回は九月二十七日、十三時に更新します。

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