短編:小さな本 前編
□小さな本
《ふたり手を取りよろこびきたる 恋の山路でいまひとり》
この小唄は わたしの父もひいきにしていた人気役者 ジョメ・バードがつくったものとして ずいぶんと巷に流行りました
しかし わたしが 生前の彼から直接きいた話では 事情がいささか違いました
ジョメは 華麗きわまる宝物のような舞台の日々にひと区切りがつくごとに ぶらりと旅に出かけたものでした
整ってはいますが目が大きくぎょろりとしており他人をおそれさせる顔に 無精ひげがはえるままにして すり切れ破れた衣服をあえて身につけ 目的地もなく 星のような女に恋した男の唄を口ずさみながら 人里離れた地を 好んで歩くのです
賊や獣に襲われでもしたら……と 毎度 関係者は気をもむのですが 本人は そのときはそのときさね と笑い 旅立っていくのでした
父がジョメに旅が必要なわけをきいたところ 空っぽになってしまった甕に もういっぺん 水をために行かねばならんのですよ とこたえたそうです
ジョメが四十五歳をすぎたころーーそんな年齢になっても 彼は放浪に出たのですねーーその時分のある日 遠西山脈の山中での出来事です
彼が火を焚き かたい黒麺麭と 薬効があると信じている塩湯で 質素な食事をしながら 大きく重い夜をまた迎えていたとき
こつ こつ とかすかな音がきこえはじめ それが徐々に 彼のいるほうへと 近づいてきました そして 藪にのびる獣道の 濃い闇のなかから ひとりの女が あらわれたのでした
ジョメは髪もひげものびほうだいにして 破れた服をまとっていました 揺らめく火のそばでは 大きな目も光り さぞかし奇怪な風体に見えたことでしょう
しかし女は 意に介さないようでした その手にもった杖で こつ こつ と前の地面をかるくたたきながら するすると 火の近くまでやってきました
ーーああ あたたかい……
微笑をうかべた顔が まるで一輪のさびしい花でした
この火のそばで どうか一晩すごさせてほしいという 女の願いを ジョメは受け入れ 黒麺麭と塩湯をすすめました 女は湯だけを受けとりました このときジョメは女の様子を知り 自分のすわっていた石にみちびいて 腰をおろさせてやりました
女はみすぼらしい旅装で 持ち物はあまりありませんでした 年齢は二十五、六ほど 鼻筋の通った美しい顔立ちに まばたきの少ない目がひらいていました
彼女は 盲人なのでした
しかし 目の見えない身であるにもかかわらず 木の杖を携えて かるく地面をたたきながら おもに山のなかを歩き 旅をしているとのこと
ーーいつもなら 肌寒い日などは 早めに人家をさがし宿をもとめるのですが……今日は おつとめを果たしたあと その場所でただぼんやりと 時をすごしてしまいました
女の話をききながら ジョメが地面に尻をおろしたところ 思ったより冷たい感触だったので ひゃっと声を上げ ひろってあった枯れ枝を何本か置いて すわりなおしました その音をきいて 女は眉をよせて言いました
ーー申しわけありません ずうずうしくて……
ーーああ 気にしなさるな それより さめないうちに 手もとの湯をのんでしまいなさい からだがあたたまってくる
ーーはい いただきます
女は茶碗をささげ持ちました
ーーははは 塩を入れただけの湯にたいそうな
塩湯をひと口のみ ほっと清浄な吐息をつく女の様子を見て ジョメは いや これはふしぎな出逢いをしたものだ と奇妙に思う気持ちが 大きくなりました
ーーところで お前さんはさっき おつとめ と言ってなさったが……おつとめとは なにかね
そうジョメがきくと 女は 本を回収して歩くことです とこたえました
ーー本? その本とは どんなものだい
興味をしめすジョメに 女は帯の裏から 赤ん坊の手ほどに小さな一冊の冊子を 取りだして見せました
それを受けとると ジョメは顔を近づけ 大きな目をより大きくあけて じろじろと見つめるのでした
なかをひらくと あまりよい質には見えない紙に みじかい文句が飾り文字で 各頁に記されてあるだけでした 自在に読めるというほどでなくとも ジョメにも多少は意味のわかる古語で 神の名や 祝福の言葉が おさめられていました
薄い紙をうっかり破ってしまいそうで 彼はそっと本を閉じました
ーーこいつが 今日 お前さんが回収したという本かね?
ーーいえ これはあたしの分の本…… 宙空教徒は皆 自分の本を一冊 身に携えて生きているのですよ ご存知ありませんか
ーードゥール教は知っているが そんな決まりはきいたことがなかった その本を なんでお前さんのようなひとが 集めてまわっていなさるのだ
ーードゥール教徒の臨終は 山のなかへ入って生を終えるのが いちばん好ましいとされております 自分の小さな本とともに 歩けるならば自ら山の奥深くへ入り 歩けぬならば運んでもらって せめて山と呼べて人目につかぬ場所まで行き そこで最期をむかえるのです
ーー置き去りにされて ひとりっきりで死ぬのかい
ーーそれでよいのです 小さな本に入るまで 見苦しい姿をさらさねばなりませんから……
ーーどういうことかね
興味がつのって ジョメは女の顔を見つめながら 問いかけました 女の目には 炎の色が映り 揺れています
ーー本をもつひとが息を引きとると 本を綴じている その草の筋がのびはじめます まるで自分の役目を知っている生き物のように…… やがて筋には細かな蕾がたくさん生じて つぎつぎに花が咲きます
女の表情はあまり変わらず 唇だけが動いて 言葉を静かに発していました ジョメは 背中までもがひやりとしてくる心持ちで それをごまかしながら 手もとの本を見ました
ーー花が……こんなものから
本を綴じている筋は ちぎろうとすればかんたんにちぎれそうなほど 細く頼りないものでした
ーー特別な筋を使っているのですよ……
ーー特別? 特別とはどんなところがだね?
ジョメは 火にかざした手をゆっくりとさする盲人の女に 話のつづきをうながします 彼は夜の山に慣れているので 女が火のそばでもなお寒さを感じているのかもしれないとは 容易に思いつきませんでした もっとも 彼にはいま着ている虱を宿したぼろ服以外 余分な服も からだを包めるほどの布切れも まったくなかったのです
ーーなんでも ドゥール教の中央寺院の奥には むかし地上に墜ちた大きな星の骸が 安置されてあるそうです そこからおのずと生え出てきた草……草なのでしょうか……それらを摘んで 筋を取るのだときいています
ーーほお……
ーー糸のようになってさえ ふしぎな力をもっている草です あたしのような盲でもおつとめのために旅をするかぎり 必要な行き先をしめしつづけてくれます
あたしは光というものを この草があたえてくれる力以外に知りません 足もとですうっと前にのびている細い光を踏んで あたしは歩くのですが 道のわるい山のなかでも平気で進めますし 迷ったこともありません
ーーううむ……興味深い話だな それで この草の筋から花が咲くと どうなるんだね
ーー花は 甘い匂を放ちはじめ 死者のそばに呼び寄せようとしはじめるのですーーとても小さな星々を
ーーなんと 星を!
後編につづく




