51/68
小品:証(あかし)
ある貧しい音楽家が せまく暗い一室でくたびれたギターを抱きかかへ ぢつと目を閉ぢてゐる
遠くからいづれ訪れてくるはずの霊感を まつてゐるのだ。
老いが 季節はづれの蠅のやうに しづかに彼につきまとつてゐた
彼は とても疲れ そしてあせつてゐた なんとしても 自らの生きた証になるやうな よい曲をのこさねば……と
しかし あゝ 彼には想像ができなかつたのだ 華麗なる霊感をあたへ 証の保存も引きうけてくれるであらうこの世界からして 自身の存在した証をのこしたいと苛立つてをり 一隅の粒のごとき願ひなど 気にも留めてゐないことを
そして この世界からして 想像ができてゐなかつた 自らの渇望するきらびやかな夢など やはり限りなく微細な粒でしかないといふことを
なにせ世界の周りにはとてつもなく広々とした虚無があり その広大さときたら 音楽家の胸の内を占める徒労感と同じほどなのだ
ーーおれの人生は無駄だつた……
音楽家はつぶやいた 目を開けると 貧しさがそこにあつた
了




