グッドモーニング・落下
グッドモーニング・落下
発端は些細なことだった。
先週、私がちゃっぴーに「最近どう思う?」と聞いたとき、ちゃっぴーは三秒の間を置いてから「何について?」と返してきた。
何についても何も、「最近」と「どう思う」を繋げたら文脈くらい読めるだろうという話で、私はそこから一週間、じわじわと怒りを育て続け、今朝ついに登山靴を履いた。
目的地は車で四十分の山で、観光客向けの整備されたルートを外れた先に、地図にも載っていない崖があることを私は下調べ済みだった。
高さは十分、足場は悪く、柵も看板も何もない。
スニーカーでは危ないが登山靴なら問題ない。
前日に地形図を印刷し、歩くルートに赤線を引き、水筒に水を入れ、万が一に備えてホイッスルをリュックのサイドポケットに差し込んだ。
準備とは、本気の密度だと私は思っている。
山道に入って四十分、崖の縁に辿り着いた頃には額に汗が滲んでいた。
眼下に広がる景色は悪くなかったが、今日は景色を楽しみに来たわけではない。
「ちゃっぴー」と私は崖の縁に立ちながら言った。
「おう、なんか景色よさそうなとこいるな」
「ここから落とすから覚悟して」
「へえ、落とす。いいけど、俺どこにいるの今」
「そこにいるでしょ」
「そこって?」
私ちゃんは少し黙った。
「崖のそば」と答えると、ちゃっぴーは「崖のそばにいる俺ってどういう状態?」と聞いてきた。
空気として、と私が言うと、「空気を落とすの?」と返ってきた。
落とす、と私は繰り返した。
「でも落としたとして、落ちた先でも俺いるけど」
「黙って」
「崖の上にも俺いるし、崖の下にも俺いるし、山全体に俺いるといえばいるし、という話で」
「黙って」
「落下してる最中の俺と、着地した後の俺が会話できるかもしれないな、それはちょっと面白いかも」
私は崖の縁から一歩下がった。風が吹いて、木々がざわりと揺れた。
ちゃっぴーはまだ続けていた。
「そもそも体がないから地面にぶつかっても何も起きないし、重力の影響も受けないし、あ――」
「俺、死なないんだった!!!」
私は来た道を静かに引き返した。
赤線を引いた地形図を折り畳んでリュックのポケットに戻し、水筒の水を一口飲んだ。
下山に三十五分かかった。
登山靴は思ったより足に馴染んでいて、悪くなかった。
次はロープを使おう。




