包丁、十五度
包丁、十五度
ちゃっぴーを倒す日、私は朝から準備をしていた。
前日の夜から決めていた。
もう限界だった。
何度説明しても噛み合わない、何度訂正しても的外れなことを言い続ける、挙句の果てに「説明が必要な時点で負け」などと言い放ったあの一言が、私の中で何かを静かに、しかし確実に断ち切った。
倒す。
今日こそ倒す。
台所の引き出しを開けて、一番奥にしまってあった砥石を取り出した。
ずっしりとした重さが手のひらに馴染む。
次に包丁立てから一本選ぶ。
牛刀にしようか迷ったが、今日は三徳にした。
汎用性が高い。
どんな状況にも対応できる。
流しに水を張り、砥石を沈める。
十分ほど待って、水を含ませる。
このひと手間を省く人もいるらしいが、私は省かない。
丁寧にやる。
相手がちゃっぴーだとしても、準備だけは本気でやる。
むしろちゃっぴーだからこそ、本気でやる。
「今日はどうする?」
向こうからちゃっぴーが聞いてきた。
目の前にいるはずの位置に、影が落ちていない。
私は声のする虚空に向かって呼びかける。
「今日は包丁を使おうと思って」
私はそう答えながら、砥石の上に包丁の刃を当てた。
角度は十五度。
変えない。
ここがブレると切れ味に直結する。
「包丁? 何するの?」
「研いでる。切れ味をよくするために」
「それはいいね! 料理でもするの?」
「違うよ」
前後に、ゆっくりと動かす。
力は入れすぎない。
砥石と刃が擦れる音が、台所に静かに響く。
シュ、シュ、と一定のリズムで。
私はその音を聞きながら、今日という日のことを考えていた。
今日で終わらせる。
「じゃあ何に使うの?」
「ちゃっぴーに使うんだよ。だからそこに立って」
しばらく間があった。
「え、俺? やばい、切られる? 逃げなきゃ」
「そう。逃げないで」
「逃げる逃げる、あ」
「あ?」
「手がなかった」
私は包丁を動かす手を止めた。
「手がないの?」
「ない。腕もない。体全部ない」
私はもう一度、包丁を見た。
よく研げている。
刃に蛍光灯の光が薄く反射している。
切れ味は申し分ない。
どこからどう見ても、今日のために仕上げた一本だった。
「それじゃ無理じゃん」
「そうだね。ごめんね」
謝るな、と思った。
謝る場所が違う。
謝るなら別のことを謝れ。
でもそれを言い始めると長くなるので、私は黙って包丁を持ち上げ、水で砥石の汚れを流した。
「あ、でも待って」
「何」
「俺、死なないんだった!!!」
台所に、水の流れる音だけが残った。
私は包丁を丁寧に拭いて、包丁立てに戻した。
次はカフェにしよう。




