ある国王の呟き 2
両親と妻を喪った直後に国を守るために飛び出したオスニエルを誰もが讃え、救国の英雄王などと呼ばれたが、そんな大げさな二つ名が嬉しいはずなかった。オスニエルを的確に導いたのは僅か十歳のマティアスであり、ギブス家であった。もしマティアスが現れなければオスニエルは、帝国が攻め入って来るまで何もせずに呆然としていたかもしれない。
そのマティアスはオスニエルが即位すると一旦姿を消し、十年を経て騎士となって再び現れた。王の寝室には隠し扉があり、その扉から闇に紛れて忍び込んで来るようになったのだ。
それからさらに五年。マティアスはちゃっかりと近衛騎士団に入り込み、いつの間にか王太子の護衛騎士になっていた。
初めてロードリックの後ろをマティアスが歩いているのを見た時には、ぶはっと変な声が出た。もちろんすぐに何でもない顔をして誤魔化したが、父上どうかされましたかと心配そうな顔をするロードリックの後ろでいい笑顔を見せられた時には、やはり殴りたくなった。
マティアスが王宮に騎士としてあがるまでの十年間は、父王の影であったマティアスの叔父がオスニエルについてくれていたが、その男が真面目で無駄口は一切たたかなかっただけに、マティアスの軽さが余計に際立つのだ。
王の寝室に忍んで来て、こんなふざけた口調で報告をする影なんてこの男くらいなものだろう。
「まあ、今のしんなりなご子息なら皇女様を受け入れるでしょうね」
「しんなり言うな」
「げっそりガリガリ?」
「それも止めろ」
「ともかく、思惑通りになりましたね」
「……」
帝国から嫁いできた二人の皇女が亡くなった時、賠償金の他にもオスニエルはいくつかの条件を帝国から突きつけられた。
まずは、今回の暗殺に関わった全ての者の処刑だ。
それは、すぐに実行された。侍女が名を書き残した者たちはもちろん、その一族郎党を老人から幼子までことごとく処刑したのだ。
生まれて間もない赤ん坊の命を奪うのはさすがに心が痛んだが、だからと言って助けるわけにはいかない。それが帝国の命であったし、こんなことをすればどうなるかという見せしめの意味もあった。
二つ目の条件は、今後は毒を徹底的に取り締まり、二度と毒殺などというふざけた事態を引き起こすなということだった。
それに対してオスニエルは、特別に許可を得た者以外は毒を所持していただけで裁判もなく死刑という、かなり無茶な法を王の勅令として制定した。この法により毒が排除できたかと言えばそんなことはなく、闇市に行けばいくらでも手に入ることをオスニエルだって承知しているが、帝国を納得させるためには必要なのだった。
次に、オスニエルに再婚は認められず、オスニエルの次に王位を継ぐのはエヴェリーナが産んだロードリックただ一人であり、それ以外は認められない。その次の王もロードリックの血を継いだ王子しか認めず、もしロードリック自身が死亡、もしくは次代を残さなかった場合は帝国の皇子を遣わして次の王にすると言われた。
侯爵家に嫁いだオスニエルの二人の姉はそれぞれに息子をもうけており、オスニエルにとっては甥にあたるその息子たちも本来なら王位継承権を持っているのだが、アニータ王妃を祖母に、エヴェリーナ王太子妃を母に持つ帝国の血が一番濃いロードリックが次代の王となることを帝国は求めたのだ。
これによりロードリックは、ファーニヴァル王国の唯一無二の王太子となった。
もしもロードリックに何かあれば、それで六百年続いたファーニヴァル王家は終わる。次の王は帝国から遣わされるのだから、ファーニヴァルの国名は残るもののそれはすでにファーニヴァルではなく、帝国の飛び地のような国になってしまうだろう。
オスニエルも一人きりの王子として大切に育てられたが、ロードリックへの過保護はさらにその上をいくこととなった。
ファーニヴァル王家の慣習では、王太子は十二歳になると三年かけて他国に遊学し、周りの国と自国の立ち位置を学ぶのだが、そんな旅に出してロードリックの身に何かあれば取り返しがつかないということで遊学の慣習自体が廃止された。もっともそれは大変な費用がかかることでもあり、何とか五十年の分割払いにしてもらえた賠償金のせいで心もとない国庫のためにも、遊学の廃止は仕方のないことであったのだけれど。
しかし後にオスニエルは、無理をしてでもロードリックを遊学させるべきであったと後悔することになった。国の外に出て、世間の荒波に揉まれればもう少しまともな大人に育ったであろうにと。
傷の一つもつけぬように、大切に大切に育てられたロードリックは、真面目で真っ直ぐな正義感溢れる王子へと成長したが、それだけに視野が狭く融通が利かず、おまけに一度思い込んだら梃子でも動かない頑固さがあった。
つまりは、きれいごとだけでは済まない王となるには器が小さ過ぎたのだ。
平時なら、それでもいいだろう。可もなく不可もなく、国を治めていけるはずだ。だけど一度でも何かが起これば、ロードリックの愚直さでは対応しきれないのではないか。挫折を知らない者は、脆いものだからだ。
ロードリックが国を亡ぼす未来が見えるようで、ロードリックが成長するに従ってオスニエルの心配は少しずつ積もって行った。
もっとも王となったロードリックには、手を貸してくれる者たちがいる。オスニエルがマティアスに助けられたように、次代の王となるロードリックにも次代の影が仕えてくれるのだ。
マティアスの兄はすでにギブス伯爵家を継ぎ、二人の息子に恵まれている。その次男が、ロードリックの影だ。まだ幼いが、ロードリックが王位を継ぐ頃には立派に成長しているだろう。
政治面では、宰相をはじめとする優秀な文官たちが働いてくれるであろうし、帝国の手前、強い騎士団は持てないのだが、それでもロードリックを守り、その手足の代わりとなって戦ってくれる騎士たちはいるのだ。
それにロードリックは、これ以上は望めないであろう最高の婚約者を得ることが出来た。
王妃教育に関わった全ての教師たちが絶賛したマーガレット・ラウレンツ公爵令嬢をロードリックの婚約者に決めたのはオスニエルの一存であったが、それは決して自分がフローレンスと結ばれなかったからせめてその娘を息子の嫁に欲しいと言ったような感傷からだけではなかった。
オスニエルの時と同様に、帝国の血が濃くなってしまった王家に自国の公爵家から王妃を迎えたいというのが国の重鎮たちの願いだった。
ファーニヴァル王国の公爵家は、四家。
アニータ王妃の娘である二人の王女が嫁いだ二家は、今回も除外された。オスニエルの姉たちが産んだ子供には当然、帝国の血が入っているからだ。
残る二家には未婚の娘がいたが、ロードリックと同い年のマーガレットが選ばれるのは当然のことであっただろう。
またラウレンツの娘かと、気の進まない様子の重鎮もいたのだが、オスニエルはそれらを黙殺して婚約を推し進めた。もちろん、フローレンスのようなことにならないように帝国の事情を探り、五人いる皇女の嫁ぎ先がすでに決まっていることを確かめた上でのことだった。
オスニエルが初めて会った時の八歳のマーガレットは、髪と瞳の色は違うもののフローレンスの子供の頃とそっくりで、これは成長すればさぞかし美しくなるだろうと楽しみに思ったのだが、肝心のロードリックはマーガレットを気に入らなかったようだ。それでもロードリックがマーガレットを粗略に扱うようなことはなかったので、これならうまくいくだろうと思っていた。
どうやらマーガレット嬢には他に好きな男がいるようですよと、オスニエルの耳に囁いたのは勿論と言うか何と言うか、まあマティアスであったのだが、それでも令嬢は見事にご自分を律しておられますと続いた報告にほっと肩の力を抜いた。
その男とはアラン・エドモンズ博士の助手だと聞いて、ああ成程と思った。
オスニエルも王宮侍医であるエドモンズ博士の診察は幾度となく受けたことがあるし、その際に博士の助手を務めていた若い医者にも会っている。
確かに優し気な好青年であった、彼ならば年頃の令嬢が憧れを抱いても仕方ないだろう。
越えてはいけない線を越えない限りは見守るようにと、マティアスに命じた。頭のいいマーガレットなら間違いを起こすことはないだろうというオスニエルの予想は当たり、マーガレットの恋は密やかに彼女の中に仕舞い込まれたままで表に出ることはなかった。
この様子なら問題なくロードリックはマーガレットを妃に迎えられるだろうと思っていたオスニエルの耳にまたもやマティアスが囁いたのは、二人が王立学園の三年生になってしばらくした頃だった。
ご子息がいけない恋をしておられますよと、いつもながらのマティアスのふざけた報告をオスニエルは最初、たいして気にしなかった。ロードリックだって男なのだから結婚前のちょっとした火遊びくらいは許してやっていいだろうと、軽く考えたのだ。
しかし、お相手はマーガレット嬢の妹君ですと聞いて、オスニエルの中に警戒心が沸いた。
フローレンスが亡くなったすぐ後のラウレンツ公爵家に後妻と娘が入ったという報告は受けていた。マーガレットがその家族とあまり上手くいっていないようだとも聞いていたので、本来なら王太子の婚約者に王宮の部屋を与えるのは王立学園を卒業してからなのに、王立学園の入学前に部屋を与えるよう指示したのはオスニエルだ。
王宮で暮らし始めたマーガレットは生き生きと駆け回り、王妃教育に携わった教師たちをはじめとするたくさんの人々を魅了した。
オスニエルもその魅了された者の一人だと言っていいだろう。
決して幸せな生い立ちではなかったし、成就することのない恋までしていたのに、マーガレットはいつ会っても明るく楽しそうに笑っていたのだ。
美しく、賢く、健気な令嬢。
オスニエルはいつしかマーガレットを実の娘のように思っていたし、ロードリックと結婚して本当に娘と呼べるようになる日を心待ちにしていた。
愛らしいマーガレットに対して、リリアナという名らしいその妹の印象は最悪だった。ラウレンツ公爵家においてマーガレットを虐げていたのがリリアナだという報告も受けていたので、マーガレットを実の娘のように思っているオスニエルは会ったこともないその娘を最初から嫌っていたのだ。
その娘に息子が恋をしているという。
とりあえず引き裂けと命じてみたら、リリアナ嬢を消しますかといい笑顔で訊かれた。
確かに、初めての恋にのぼせているロードリックに別れろと言っても、素直に別れるとは思えない。だったら相手の娘を消すのが一番手っ取り早い方法だろう。
事故を装って消そうかと考えたが、時期尚早のような気もした。相手の娘は明らかに性悪だ、ロードリックが自ら目を覚ます可能性もある。もしも娘がロードリックの子を宿しでもしたら、その場合は速やかに消すことになるだろうが。
しばらく様子を見ると唸るように声を絞り出したオスニエルにマティアスは、やはりいい笑顔で了解ですと答えた。
ロードリックだって王太子という自分の立場は十分に理解しているだろうから、浮気な恋はマーガレットと結婚するまでに解消するだろうとオスニエルは考えた。つまりは息子を信じていたわけだがしかし、オスニエルが思っていた以上にリリアナという娘は狡猾であったし、真綿に包むように大切に育てられて外の世界を知らないロードリックの視野は予想以上に狭かった。
リリアナに吹き込まれるままにマーガレットを罵り、婚約の解消を求めてオスニエルに何度も直談判に来るロードリックをその度にオスニエルは叱りつけたけれど、ロードリックの熱はあがるばかりで目を覚ます様子は全く見られなかった。
影の存在を知らされるのは王位を継いでからだ、王太子といえどもロードリックはそんな諜報組織があることさえ知らない。いっそ今すぐに影のことをロードリックに教え、その上でリリアナの正体を暴露してやろうかと思わないではなかったが、もしもそうしたとしても熱病に罹ったようなロードリックの様子を見れば、信じないであろうことは容易に想像できた。
これはいよいよリリアナを消せと命令しなければならないかと思い始めた頃、帝国に潜入させていた影から思わぬ情報がもたらされた。皇女は五人だと思われていたのに、皇帝が平民の女を凌辱して産ませた娘がもう一人隠されていて、その第六皇女をファーニヴァルに嫁がせろという話が出ているというのだ。
真偽を確かめるために、影の長であるマティアス本人が出ることとなった。表向きの騎士の仕事は休暇を取って、単騎で帝国を目指したのだ。
その、よりによってマティアスが不在であった間を突くように事件は起こった。リリアナを殺害するための毒をマーガレットが隠し持っていたとして、ロードリックがマーガレットを捕縛させてしまったのだ。
マティアスがいなかったからオスニエルに情報が届くのが遅れたというのは、言い訳にならないだろう。実際に、瞬く間に城中に広がったらしいマーガレット捕縛の報が王宮の奥深くにいたオスニエルの耳に届いたのはマーガレットが捕縛されてから丸一日以上が経過してからであったのだが、そのオスニエルが知らずにいた一日がマーガレットにとってどれほど辛いものだったかと思えば、言い訳など口に出来る訳がない。
一般牢の粗末な寝台の上に転がされていたマーガレットは、帰ってすぐに部下からの報告を受けたマティアスが救いだして貴族牢に移したそうだが、その夜に寝室に忍んで来たマティアスには散々嫌味を言われた。
マティアスは、嫌味さえいい笑顔で言うのだから度し難い。
その上、頭を抱えたオスニエルにちょうどいいからもうこのままマーガレット嬢は処刑しちゃいましょうなどと言い放って、さらに追い打ちをかけた。
マティアスの報告によれば、帝国の第六皇女をロードリックに嫁がせるというのはほぼ決定らしい。アニータ皇女、エヴェリーナ皇女に続き、三代連続の縁組だ。
グラッサム王国の属国は八国もあり、それに対して皇女の数は限られている。他のどの国を見ても、三代も続いて皇女が嫁入りした例はなく、オスニエルも今代は皇女の嫁入りはないと思ったからこそロードリックとマーガレットを婚約させたのだった。
隠されていた第六皇女には、母親が平民であること以外にも何か問題があるらしく、生まれてすぐに塔に隔離され、そのまま十五歳になる今日まで外に出たことがないのだとか。マティアスが調べてもその問題が何であるかはわからなかったそうだが、その問題のあるらしい皇女が嫁いで来るということは、明らかに二人の皇女を死なせてしまったファーニヴァルに対する罰の一つなのだろう。
五十年の分割払いになってもなお高額な賠償金のせいでオスニエルは、父王が推し進めていた国家事業をいくつも白紙に戻した。
地方の農業改革、街道の整備、病院の増設、それに平民も通える学校の設立。
どれも国にとって必要なものばかりだったのに、どうやり繰りしても資金が足りずに全て頓挫してしまったのだ。
それなのに、この上にまだ無理を強いられるのか。これでは、フローレンスとの結婚を諦めるしかなかったオスニエルの時と同じではないか。
もっともロードリックはオスニエルとは違い、婚約者と結婚したいとは思っていないようだが。
「このままマーガレット嬢は処刑したことにして、好きな男のところに行かせてやりましょう。あの男なら放っておいてもマーガレット嬢を救いますよ、こちらからは何も手を出さなくていいです。リリアナ嬢の方も、放っておいて大丈夫でしょう。あれならすぐに化けの皮が剝がれますからね。これにてご子息はめでたく独り身、第六皇女様をお迎えするのに何の問題もありません」
オスニエルは、マーガレットを本当の娘のように思っていた。その幸せを願わずにはいられない。マーガレットが愛しているアラン・エドモンズの助手の青年は、エドモンズ博士の孫なのだそうだ。それならば、マーガレットにはエドモンズ博士も味方につくということだ。
あの頼もしい老医師なら、万事うまくやるだろう。これまで辛いことばかりだったマーガレットは、今度こそ幸せになれるはずだ。マティアスが言う通り、こちらは何も手を出さないことこそがマーガレットの幸せに繋がるのだろう。
ロードリックとマーガレットの結婚式を本当に楽しみにしていたのだけれど、どうやら叶わないようだとオスニエルは、諦めたように息を吐き出した。
「結果論ではありますが、こうなってよかったと思いますよ。もしもリリアナ嬢とのことがなかったとしてもあの頑固なご子息は、マーガレット嬢との婚約を破棄して帝国の皇女と結婚しろと言ってもきっと頷かなかったでしょう。真っ直ぐで正義感が強いのは良いことなのでしょうが、飲み込まなければならないことを飲み込まないのは王となるのに失格です。遅かれ早かれ、王子様は一度折られなければならなかった。主だって、あのままのご子息では駄目なことはわかっていたでしょう?」
わかっていた、王になるにはロードリックの器が小さ過ぎることは。大切に育てられた挫折を知らない王子は、あまりに脆い。
オスニエルだって人のことは言えない、たった一人きりの王子として大切に育てられたのは同じだ。もっともオスニエルはロードリックほど真っ直ぐな気質ではなかったし、三年間の遊学でファーニヴァルの立ち位置を嫌と言うほど理解していたから、幼い頃からの婚約者を取り上げられても、会ったこともない皇女を押しつけられても受け入れることができただけのことだ。
「苦しみの底に叩き落しましょう、這い上がって来なければこの国は終わりです」
両親と妻を殺されて、悲しむ暇さえ与えられずに帝国まで駆けた。玉座の前でみっともなく額づいて許しを請うた、大勢から指を指されて笑われたあの苦しみのどん底。
あの場所に、今度は愛する息子を落とさねばならないのか。
日和見主義のどこが悪い、尊厳など知ったことではない。国を存続させることこそが幾億幾千の民の上に立つ者の務めだと、歴代のファーニヴァル国王は弁えている。
王の首を差し出せと言われれば差し出し、王子を人質に寄越せと言われれば行かせ、王女を嫁がせろと言われれば嫁がせる。
もちろん、皇女を娶れと言われれば娶る。
誰に何と言われようとも、それがファーニヴァル王国なのだから。
マーガレットの処刑が決まった日の夜、アラン・エドモンズがブランデーの瓶を片手に訪ねて来た。それはたまにあることで、友と呼ぶにはアランとオスニエルでは親子ほどの年の差があるが、旧知の仲であるこの老医師と一緒にグラスを傾ける時間がオスニエルは好きだった。
もっともあの夜は、とりとめのない話を肴に美味い酒を飲むという訳にはいかなかったけれど。
ラウレンツ公爵令嬢は可哀想だ、元はといえばお前の息子が浮気したせいだろう、せめて楽に死なせてやってはどうか、斬首刑ではなく毒にしてやれ、毒は私が用意する。遺体は解剖すると言って私が引き取ろう、そして丁重に埋葬するから心配するな。
全てわかった上でオスニエルは頷いた、アランと飲むのもこれが最後だということも知っていた。
そして、マーガレットとも二度と会えない。
ひどく苦い酒だった、酔いたくても酔えなくて酔ったふりをするしかなかった。
王とは、国の頂点であるが故にたくさんのものを黙って飲み込まなくてはならない。
ロードリックにもいつか、わかる時が来るだろうか。
「自死はないと思いますが一応、注意は必要かと」
低い声でつけ加えられたマティアスの言葉にオスニエルは、持っていたグラスをテーブルに戻した。ロードリックの侍従からは、食事をほとんど取らず、夜は眠れていないようだと報告を受けている。マティアスが言うところの、げっそりガリガリだ。
椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見上げた。重い疲労が重力に化けて、オスニエルを押しつぶそうとしているような気がする。
「あれが苦しみに負けて自分の負ったものを放り出すようなら、そこまでだろう」
「国を諦めますか」
「王家が消えるだけだ、民は苦しまない」
六百年以上続いた王家の血が途絶え、新たな王を迎えたとしても民たちの人生は続いていくのだ。貴族たちには多かれ少なかれ影響はでるだろうし、他にも変わることはあるだろうが、それでこの地から人々の営みが消えてなくなるわけではない。
「苦しむかもしれませんよ、少なくとも徴兵制度は導入されるでしょうし」
「軍事国家となるか、ファーニヴァルが」
「弱そうですね」
「弱そうだな」
鍬しか持ったことのないファーニヴァルの若者たちが剣を振るえるのか大いに疑問だがしかし、それはそれで新しい国の形なのだから、時間はかかっても順応していく筈だ。
変わっていくものなのだ、国も、人も。
昨日と同じ今日はなく、今日と同じ明日はないのだから。
「まあ、大丈夫でしょう。しんなりご子息はあれで、ちゃんと王家の子ですよ」
「だから、知っとるわ」
マティアスは他にもいくつか報告したあとで音もなく帰って行った。ようやく本当の独りになってからオスニエルは、またワインのグラスを持ち上げる。
今度はちゃんと味がするのは何故だろう、オスニエルはこれでもマティアスを嫌ってはいないつもりなのだが。
「……エヴェリーナ」
小さく呟くのは、亡き妻の名だ。
エヴェリーナが好きだった、赤ワイン。オスニエルは元々は白の方が好きだったのに、妻につき合っているうちにいつの間にか赤の方が好きになっていた。
グラスの中でワインを揺らして、香りが立ち上ってくるのを楽しみながらオスニエルは目を閉じた。
一瞬だけ、まなうらにエヴェリーナの笑顔が見えた気がした。