出会い
青年がパイプオルガンの鍵盤を乱暴に叩きつける。
聞くに耐えない雑音が部屋に反響した。セミロングの黒髪をガシガシと掻きむしる男の額には、深い縦じわが刻まれている。
この部屋――小さな教会――に飾り気というものはない。老朽化で取り壊される寸前だと説明されたら十人中のうち九人が納得するだろう寂れ具合だ。男の着ている祭服もところどころ修繕した跡が目立つ。
男の足元で聴衆のネズミが、ちゅうと鳴く。男は驚いたように金眼を見開いた。醜態を取り繕うように、ぎこちなくほほえむ。
「おや、ビフロンス。また来てくれたのですか。あなたが今日も幸せでありますように。まずは手軽に幸せになるとしましょう」
年季の入った戸棚から黒パンと干し肉、それにチーズを取り出すとナイフでそれぞれ切り分ける。切れ端はビフロンスの近くへ落とされた。喜びの声をあげて夢中でかじりつくネズミを見る目は優しい。
ひび割れているステンドグラスが陽光に照らされ、幻想的な軌跡とともに剥がれ落ちて行く。男は簡素な食事を少し眺めると、手を付けず棚へと戻す。どこか諦めた表情の男が、改めてパイプオルガンへと向き合った。
「こういうときは歌いましょうか。せっかく聴いてくれそうな方もいらっしゃいますし、たまには派手に――」
「シケたツラしてんなぁ、アンタ!!」
「はい? えっ、あの、どこから……シノビですか。アサシンでしょうか」
突如として少年の声が部屋に響き渡る。慌ててパイプオルガンの側面へ張り付いた男性が、室内をぐるりと見まわす。もちろん一人と一匹の他に生き物の影はない。ビフロンスは一声鳴くと壁際へ走り出した。その先にはステンドグラスの破片があるだけだ。そう、埃と太陽光と、ほんの少しネズミの体毛が舞うだけの――。ビフロンスは破片を前にして、静かに佇んでいる。
「ビフロンス? 危ないですよ。天井から誰か降りてくるかもしれません。こちらへ戻ってきなさい。ネズミ語で話すべきでしょうか。ちゅーちゅー、ちゅちゅっちゅ、ちゅーーう!」
「なぁセバスチャンよ。アンタ鈍いなぁ。まだ気づかねぇの? ネズミに名前をつけてパンを寄越すなんて、てっきり俺は早々に看破されたと思ったぜ」
ネズミを見て、立ち上がり、周りを見渡し、再度ネズミを見やる。
「……ビフロンス?」
「おうよ。本名は別にあるけどな。今はビフロンスだ」
「あなたは利口なネズミだったんですねぇ」
「どうしてそうなる! 悪魔だよ! 薬学に通じた七十二柱が一人! ほら見ろ、この羽根!」
背中から小さな羽根を生やし胸を張るネズミは愛くるしい。彼の周りに赤い陣が出現すると、一瞬で少年の姿へと変わる。灰髪赤眼という外見を除けば、どこにでもいそうな風貌だ。しかし背中の羽根が確かに悪魔であると証明している。やや高い位置にある祭服を乱雑に掴み、自分の方へと引き寄せた。
「なぁ。俺と取引しろ、セバスチャン」
「牧師に言うセリフではありませんねぇ」
「少なくともアンタほど裏表は激しくねぇぜ? 俺の知識をアンタに分けてやる」
「さきほど薬学に詳しいと仰ってましたが、どのレベルです?」
「万病に効き死人も元気に走り出すレベルだ」
「それはそれは。私だけの魂では足りないのでは?」
相変わらず笑みを崩さないセバスチャンだが、その瞳には確かにギラついた光が宿っていた。勝利を確信したらしいビフロンスが、意地の悪い笑みを浮かべる。
「なぁに、有名になればエサは向こうからやってくる。知識を提供する見返りとして、この世界を肥沃にしてくれれば、俺はそれでいい」
「悪魔のわりには欲がないんですねぇ」
「まさか。俺の知識を活かそうにも、土は痩せ細り植物は刈り尽くされ水は濁る一方だ。これを世界レベルで復興させようってんだから、俺ほど欲深い悪魔なんていねーよ」
「……ふむ。私たち気が合いそうですね?」
「これからよろしくな、相棒」
利害が一致した二人は、固く握手を交わした。完全に崩落したステンドグラスから暖かな日光がさんさんと降りそそぐ。己の欲に忠実に、それでいて世界を相手取る二人の挑戦は、幕を開けたばかりだった――。




