第四十五話 アルシエロ6
ぱしゃん。
宙をうねり、弾けた水球が細かな霧の幕となって、魔道灯の光を散乱させた。
乾いた肌を潤す白い霧の中を、極彩色の水乙女たちが、四肢に着けた鈴を鳴らしながら一心不乱に踊り続ける。
今この時、宮殿の静寂を破るのは、弾ける水音と、鈴の音、そして聞こえているのに理解できない不思議な歌声のみ。
水呼びの歌を奏でながら、ここではない何処かを望むように踊り続ける乙女たちの姿は、なんらかの儀式を思わせた。
「アルシエロの水呼びの舞は、特別な日にしか目することができないと聞いております」
「国の大事な鉱脈が、魔物の手より戻ったのだ。これ以上に特別な日があるとでも?」
目の前に並んだ果実はしっとりと艶やか。
香辛料がふんだんに使用された煮物は、香りも刺激的で食欲をそそった。
蒸して焼かれた穀物の香ばしい匂いに誘われて、ルクレツィアが手を伸ばす。
「アルシエロの国民であっても、一生に一度見れるかどうか分からない、貴重な舞を見るとこができて嬉しいです」
言って、彼女はパナン――穀物を細かく砕いて練り合わせ、少々蒸した後に焼き上げたもの――を一口食した。
アルシエロの穀物はレッチェアーノのそれよりも、固いが、噛めば噛むほど甘みが出る。
「うむ。それは僥倖。こちらとしても、手配した甲斐があったというものだ」
一心不乱にパナンを咀嚼するルクレツィアに笑みを浮かべ、ニコラは言った。
「最初の水乙女はアルシエロの王女だったと言われている。枯れ行く国を憂いた王女が、自らの命とひきかえに女神へ救いを請うた、ということらしいね」
「その願いに、女神が応えた?」
「そのとおり。女神は王女の願いに心を打たれて、彼女に水乙女の力を与えた。以来、この国に血筋や身分を問わず、水呼びの歌をもって生まれる者が現れ始めた、と歴史書に書いてある」
「そこまでするのならば、この地を元に戻しても良かったでしょうに」
「だよねえ。けれど、一度は願いが届き、慈悲を与えられた。故に、この国の国民は女神に祈り続ける。懸命に祈り続ければ、失った大地が戻されるかもしれないと信じて、ね」
彼自身はちっとも信じていないような口調で、ニコラは言った。
「――ねえ、ルーシー。知人がレッチェアーノの『竜殺し』を探しているらしいんだけど、それって君のことじゃないかな?」
声を潜め、これまでより更に気軽な口調で問いかける彼に、ルクレツィアはパナンを齧るのをやめた。
危うく喉に詰まらせて、醜態を見せることろであったが、何とか嚥下して、ニコラを見上げる。
「……わたくしは、竜殺しではありません」
彼女の答えに瞳を細めるニコラ。
「それは嘘ではないけど、話していない真実もあるようだね」
ここでも、『竜殺し』の話とは。
彼女の頭に、水の魔石の鉱脈で再会した、男の姿が思い浮かんだ。
彼も、何らかの理由で『竜殺し』を探しているようだった。
「角を折って撃退しただけです。この話は限られたものしか知らないはずですが、まさか、レッチェアーノに密偵を?」
「いいや。君もうすうす気づいているんじゃないかと思うけど、僕はとても鼻が利くんだ」
本心の見えない笑みでそういうと、ニコラは小さく吐息を吐いた。
「知人が言うには、強い月の魔力をまとった『竜殺し』が女神の居場所の手がかりとなるそうだよ。そして、『彼』はそれを本気で信じている。魔力もかぎ分けられないのに、一体どうやって探すつもりなんだろうね」
呆れたように言った後、ニコラはルクレツィアをじっと見つめる。
「君は、月の女神の墓所を知っている?」
「女神の墓所……?」
聞き返す彼女に、ニコラは声の調子を落とした。
「ああ。知らないんだね。ならいいよ」
ニコラの砂色の髪がさらりと揺れる。
鉱脈の村で再開した男は、もっとくすんでいたが、似たような色合いの毛髪だった。
もしかしたら、『彼』は本当にアルシエロの第一王子、サウロ本人だったのかもしれない。
王子というより、放浪者といった風情ではあったが、可能性は否定できなかった。
ルクレツィアは慎重に言葉を紡ぐ。
「よくありません。女神の墓所などレッチェアーノのわたくしですら、聞いたことのない情報です。……いったい、どういうことなのですか?」
「最初に会った時、アルシエロが不毛の大地になったのは、女神の怒りに触れたからって話をしただろう?」
緩い笑みを浮かべながら、嘲るようにニコラが告げる。
彼にしては珍しく、感情的な声だった。
「だから、女神を探し出して謝罪するんだって。女神の許しを得て、この国の魔力や水、自然をかつての姿に戻してもらうつもりらしい。そうして、『彼』は国と民を長い苦しみから、救うつもりだそうだよ」
ルクレツィアの脳内に、洞穴でみた映像が蘇る。
消滅寸前まで酷使されて血のような赤い涙を流す精霊と、彼女の庇うように背を向ける半神。
幻の中では背中しか映らなかったが、眩い銀髪と、血濡れた白い背中が印象的だった。
戦いの末、アルシエロの『生』を象徴する魔力や水、自然は枯渇し、封じられることとなる。
あの映像が偽りでなければ、アルシエロの繁栄を封じたのは月の女神ではなく、その娘だ。
しかし、確証のないことを口にするのは躊躇われて、少女は別の質問を紡ぐ。
「許してもらうも何も……女神は人となって、死んだのでは?」
「偉大なる二柱の、片割れが亡くなったのならば墓所があるはずだ。そして、それは恐らくレッチェアーノだろう。死を司る月の女神が本当に死んだのか、あるいはただ永い眠りについているだけなのかはわからない。けれど、彼女の眠る墓所には我が国を救う手がかりがある……と知人は考えているようだよ」
馬鹿馬鹿しいおとぎ話だとは知りつつも、衰退してゆく国の現状を考えれば、縋らずにはいられない。
隠された感情をごまかすように、言葉を紡ぎ続けるニコラ。
ルクレツィアは初めて聞く話に耳を傾けつつも、瞳を伏せて首を振った。
「申し訳ございませんが、わたくしは女神の墓所なんて、聞いたことがございません」
「そうか。ならば、彼の努力は徒労に終わるのだろう。国と民を想うがゆえとはいえ、神話を追いかけて一生を費やすなど……やはり、愚かもののすることだな」
失望を吐き捨てるように言って、ニコラはカルロを見やる。
「けれど、生きた神話ならばいつでも歓迎だ。もし、君らが定められた道を外れ、我が国で生きることを選ぶのならば、可能な限りの庇護を約束しよう」
二人の関係の変化を敏感に嗅ぎ取り、ニコラは二人を祝福するように杯を掲げる。
ニコラの遠まわしな誘いよりも、ルクレツィアは彼の言葉の前半に眉をひそめた。
「生きた、神話……?」
「彼――カルロは、竜なんだろう? 人が触れればたちまちに灰と化しそうな、灼熱の魔力を持っている」
悪戯っぽい表情で微笑んで、歌うように彼は続ける。
「太陽の魔力をもつのは、太陽神の生み出した竜のみだ。まあ、太陽の魔力なんて、今となっては神話のようなものだ。匂いで魔力を嗅ぎ分ける、僕のような人間以外には分からないだろうけどね」
驚いて言葉も出ないルクレツィア。
彼女は衝撃のあまり、腰を落ち着けていたクッションから、ずり落ちそうになった。
「おっと。大丈夫か? ルーシー」
カルロは彼女を両腕で抱き上げて、自身と席を入れ替える。
その背にルクレツィアを庇うようにして、ニコラの隣に腰かけると、肩をすくめた。
「俺らは太陽神そのものから、生み出されたんだ。先に生まれたやつらは魔力を切り分けたものから創造され、俺は最後に残った体からつくられた。だから、俺自身は太陽神に会ったこと、ないんだけどな」
それは眠っている間に消えてしまった仲間を悼むというよりは、煩わしくも楽しかった日々を懐かしむような声だった。
「竜達はとうに姿を消したというのに、なぜ君だけ生き残った?」
「さあな。俺も知らねー。ただ、俺たちは太陽神の絶望から生み出されたらしい。そして、俺は彼の、最後の希望なんだとよ」
「女神たちについては、何か知らない?」
「俺が生まれた時、女神たちは既に去ってしまっていた」
「そう……」
長いため息の後、それを飲み込もうとするかのように、ニコラは酒を口に含んだ。
そうして、捨てきれない希望を酒とともに飲み下し、水乙女たちに更なる激しい舞を求める。
月の見えない暗闇をしばし睨んだ後、ニコラはゆっくりと瞼を下した。
黙り込んでしまった主の心を慰めようと、宴の熱は増してゆく。
「太古の竜ですら知らないのなら、仕方ないね」
臣下の気遣いを肌で感じながらも、ニコラがそれ以降、言葉を発することはない。
水乙女の歌と舞、乾いた空気を潤す水と、喉を焼く酒に、豪勢な食事の数々。
近くに素晴らしい芳香を放つ力の強い魔術師と、竜、最高の腕をもつ冒険者たちが居るというのに、彼の心は満たされない。
宴の熱気の中を揺蕩うニコラの思考は、周りの様子も気にならぬほど、深く沈んでゆく。
……国を救うなど、バカげたおとぎ話を信じるほど、彼は子供じゃない。
けれど、兄弟で殺しあうのが慣習のアルシエロで、兄――サウロはニコラを助け、向けられた刺客を返り討ちにしてくれた。
その時と変わらない瞳で、旅に出たサウロ。
彼が纏うのはいつだって、偽りのない真っ直ぐな香りだった。
きらきらと輝く瞳で、国を救うと旅に出た兄の顔が頭から離れない。
とても信じられないけれど、それでも信じたい。
矛盾した感情を放り出すように、ニコラはクッションへもたれ掛った。
「――ねえ、兄さん。あなたは一体どこにいるんだい?」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟くと、再び酒で舌を湿らせる。
答える者がいないのは百も承知だ。
彼は、幾度となく繰り返した問いかけを、もう一度だけ呟く。
そうして、答えがないむなしさをやり過ごすように、クッションに身を任せるのだった。
――女神を探す旅に出たはずの兄が、なぜか自国の鉱脈で穴を掘りづづけていることを、彼はまだ知らない。
いや、知らない方が良かったのかもしれない。




