第四十六話 レッチェアーノへの帰国
暖かな風が頬を撫でる。
レッチェアーノ王都のルクレツィアの屋敷は、ソフィアの手入れしていた花がちょうど見ごろを迎えていた。
昼間の心地よい陽気に誘われて、中庭の花を観賞しながら茶を飲む二人の影。
機嫌のよさそうなカルロと物憂げなルクレツィア。二人の表情は対照的である。
レッチェアーノに帰国してから、ルクレツィアは自分がいかに恵まれているかを理解した。
冒険者として、これまで自由にふるまえたのも、暖かな日差しの中でこうしてお茶を楽しむことができるのも、全て支えてくれる父のおかげである。
今回の旅で彼女はいろんなことを考えさせられたのだった。
「ルーシー。浮かない顔だけど、どうした?」
向かいの席で生クリームを食するカルロが、声をかける。
「ええ……」
心ここに在らずと言った風に答える彼女へ、カルロが険しい表情で告げる。
「まだ苦しんでいるのか?」
「なんのことですか」
「ルーシーは自由に旅をするのが好きなんだろ? どうして悩むことがある」
「その話は、終わったはずでしょう」
「いいや。終わってなんかない。自分がどんな表情をしているか知ってるか? 俺はルーシーにそんな顔をしてほしくない」
それは、いつも陽気なカルロが初めて見せる表情だった。
「ルーシーが苦しむ顔を見るのが嫌なんだ! 助けたいのに、ルーシーは助けるなという! 俺は一体どうしたらいい!?」
胸をうつ、悲痛な声。
当事者であるルクレツィアよりも、よっほどカルロの方が傷ついているようにみえる。
孤高にして不屈の、誇り高い竜。
今まで彼を悩ませる者はなく、煩わしければ力で排除するのみ。
けれど、彼女のことばかりは、どうにもできない。
初めて感じる無力感に、叫び、正面からぶつかってくるカルロ。
尋常ではない彼の様子に、ルクレツィアも戸惑いを隠せなかった。
「カルロ、一体どうしたのですか」
「それはこっちの台詞だ。日に日に元気をなくしていく、ルーシーを見ている俺の気持ちがわかるか?」
もうすぐ、ルクレツィアは生まれてより、16の年を迎える事になる。
いよいよ、正式に婚約者と婚姻を結ぶこととなるのだ。
そうしたら、冒険者としてのルーシーは、終いだ。
その時を思うと、自然、気持ちも沈みがちになる。
「人は、婚姻の前になると気持ちが不安定になるそうです」
「……本当に、それだけか? 俺は、ルーシー……いや、ルクレツィアが好きだ」
カルロはルクレツィアの目をひたとみつめ、真摯な金の瞳でそういった。
「一緒に旅に出たり、戦ったり、こうしてお茶をしていると堪らなく嬉しい。とても楽しい気持ちになって、喜びと幸福で満たされるんだ」
目を伏せ、これまで過ごしてきた日々を思い浮かべる彼の口元には、自然と笑みが浮かぶ。
再び、金の瞳が彼女を捉えたとき、ルクレツィアは心臓が止まる思いがした。
「――おまえは、違うのか?」
「わ、わたくしは」
「ルクレツィアが望むのならば、なんだって手に入れるし、この世界のどんなものからも護ってみせる。だから、俺と共に来てほしい」
愛の告白をされたというのに、怯えるルクレツィア。
彼女を刺激しない様に、カルロはゆっくりと手を差し伸べる。
ルクレツィアは思わず、差しのべられた手を取ろうとして、なんとか、踏みとどまった。
今の彼女はルクレツィア=ガブリーニ。自由な冒険者ではなく、誇り高いガブリーニ公爵家の令嬢だ。
この手を取る事はできない。
わかっているのに、それがとてもつらかった。
「お願いですから、もう、ここには来ないでください。角の魔力はとうにお返ししたはずでしょう? これ以上わたくしに用はないはずです」
心のこもっていない空虚な言葉は、まるで別人が話しているかのよう。
ルクレツィアの声は湿り気を帯び、瞼が小さく震える。
強く握られた拳は白く、掌には爪が食い込んでいた。
それを痛ましそうに見やって、カルロは頭を抱える。
「なんでそうなる!? 俺はただ、助けたいだけなのに! なんで、なんで……ッ」
泣きそうな顔をしているんだ!?
声にならない叫びをあげて、カルロは奥歯を噛みしめる。
「カルロ……」
カルロの姿にルクレツィアはきつく眉根を寄せ、唇を強く噛んだ。
彼女の意志は固く、結論は変わらない。だから、もう、終わりにしなければならない。
自分のままならない状況に付き合わせて、これ以上、カルロを苦しめたくはなかった。
ぐっと拳を握りしめ、震える唇を開いて、ルクレツィアは決定的な言葉を投げつける。
「は、早く出て行ってください! そして……もう、二度と……わたくしの前に現れないでッ!」
あらゆる未練を乱暴に振り切るように、彼女は言った。
カルロは何を言われたのかわからない、といった風な様子で、しばし呆然と立っていた。
そうして、彼女の言葉を理解すると、髪を乱雑にかき混ぜながらいらいらと首を振る。
「あーッ! もう、ほんと、なんなんだよ! お前ら人間って、ややこし過ぎてわけわかんねえッ!!」
赤の魔力が炎のように燃え盛り、一瞬の後にカルロは姿を消した。
あれだけのことを言われたら、さすがのカルロもルクレツィアには愛想を尽かしたことだろう。
そうでなくてはならない。
ルクレツィアがカルロの前でほんの僅かでも、自由を望むそぶりを見せてしまえば、そこで終わりだ。
カルロはきっと、彼女のために、彼女がこれまで大事にしてきた全てを壊してしまうだろう。
ルクレツィアはカルロと殺しあいなどしたくはなかった。
結局傷つけてしまったことを後悔しつつ、これで良かったのだと彼女は何度も自分の中で言葉を繰り返す。
しかし、なんど自分に言い聞かせようと、空になった向かいの席が視界に入ると、ルクレツィアの胸はずきりと痛んだ。
胸の痛みを押し隠すように、彼女は両手で顔を覆ってうつむく。
一部始終を見守っていた、ソフィアが新しい紅茶を入れた茶器をテーブルに置いた。
「ありがとう。ソフィア」
口に含めば優しい花の香りが、口内に広がった。
流れた涙が、音もなく紅茶に波紋を浮かべる。
いつの間にか、カルロや仲間達、冒険者ルーシーの生き方が、彼女のなかではとても大切なものになっていたようだ。
日が暮れて弱い雨が降り出すまで、彼女は庭の椅子から動くことができなかった。
そうしてずっと、空になった向かいの席をぼんやりと眺め続ける。
そんな主の後姿を、ソフィアはただ静かに見守っていた。
――数日後、この日に下した断腸の決断を、弄ぶような事件がもたらされる事となる。
しかし、この時の彼女はまだそれを知らなかった。




