第2話
【バースデーケーキ2】
僕が10歳になったとき、父は僕に母との思い出を話してくれた。
「雪子さんは、お父さんの店のお客さんだったんだよ」
雪子さんというのは、僕の母だ。
父は羅々が作った生クリームと苺をたっぷり使ったケーキを頬張りながら懐かしそうに話していた。
羅々のケーキは、父に引けをとらない程とびきりおいしい。
「いつもお父さんが作った料理を喜んで食べてくれたんだ。お父さんがやってた料理教室にも来てた」
母はいつも食卓に並んだ料理を見ては必ず「おいしそう」と言っていたし、食べながら幸せそうだったらしい。
僕は、そんな母を覚えていないことが少し寂しかった。母は僕が2歳のときに亡くなってしまったから。
「お父さん、そんな雪子さんを見ててな、こんな素敵な人はいないって思ったんだよ。食べ物を美味しく食べられるっていうのは幸せなことだって言う雪子さん、本当に素敵だったよ」
父からよく聞いた、母の口癖。
僕もこの言葉が大好きだ。
何かを食べて美味しいと思う度に、母と父のことを思い浮かべることができるから。
母のことを覚えていなくても、家族三人でご飯を食べているような気持ちになれるから。
【教室にて】
僕が日直として忙しく行動しているというのに、沙織は何度も僕のところにやってきた。こんな日くらいはそっとしておいて欲しいと思ったけれど、沙織は司の誕生日をどのようにして祝うか、ということに息巻いていた。
面倒臭くなった僕は、後で僕の家で話そう、と言って沙織を七組に帰した。
放課後、日直の最後の仕事、日誌の感想を書く項目に記入をしていると、司がやってきて僕の肩を叩いた。
「よっ、お疲れ日直!」
「なんだ司か」
「なんだとはないだろ、なんだとはー」
へらへらと笑った司の顔がなんだか小憎らしくて、だけどどこか安心できて、可笑しくなってつい笑ってしまった。
司はキョトンとしていたが、一緒になってまた笑った。
西日の差す教室、男子高校生が二人で笑っているなんて、なんと青春の1ページ的な光景だろうと思った。
「この後部活か?」
ひとしきり笑ったあと、僕は聞いた。
司はふるふると首を振って答えた。
「いや、今日は部活休み。でも田中達と遊びに行くんだ。竜樹も来る?」
司はサッカー部に入っている。
しかしうちの高校のは弱小部で、部長もやる気がないためしょっちゅう休みになるそうだ。
前に司が、本当はもっと練習したいんだけどな、とぼやいていた。
田中というのもサッカー部で、同じクラスの奴だ。
ちなみに、朝僕に「日直だ」と言ってきた奴で、大抵司と一緒に行動している。
「いや、今日はやめとくよ」
サッカー部の連中同士で盛り上がる場に僕が入るのはなんとも気が引けるし、放課後は沙織が僕の家に来る予定だ。
「そっか、じゃあまた明日な」
司が教室を出て行くのを見届けた後、僕は再び日誌に目を落とした。
『今日も良い日でした。あと1ヶ月、このクラスでつつがなく過ごしたいです。』
「なんだか当たり障り無いし、高校生とは思えないくらい渋い感想ね」
そう声がしたのでふと見ると、沙織が背後から日誌を覗いていた。
「勝手に覗くなよ」
「まあいいじゃない。それより、もうそれで日直終わりでしょ、早く帰ろうよ」
沙織が僕を急かして、早く早くと急がせる。
分かったよ、と返事をしながら、はたと、どうして沙織がこんなに活発になったのだろうか、と考えた。
昔はもっと臆病で、泣き虫で、いつも不安そうだったはずだ。
そうして、ああ、と気がつく。
羅々のお陰だ。
【切り傷】
あれは、小学校の六年生のときだ。
その頃にはみんなも大分大人な考えができるようになっていたから、沙織に対するからかいとかはなくなっていた。
ただ、成長した分質が悪いものもあった。
要するに、いじめだ。
そもそも、どうして沙織がそのような標的として認識されていたか、というと、はっきりとしたきっかけは無い。
ただ、何かあったときにすぐ泣いてしまう癖があった。
すぐ泣かれるのは、正直言って面倒臭い以外の何物でもない。
さらに、すぐに泣く、ということが自分よりも弱い、と認知する理由になったんだろうと今では思う。
さて、話を戻そう。
からかいからいじめへと変化した沙織に対する行動は、ひどい時には傷を作るようなものもあった。
沙織は段々と、学校にも通わなくなっていった。
そしてある日、事件は起こったのだった。
その日も沙織は学校を休み、僕は学校帰りに沙織の家に寄ったところだった。
沙織の両親は離婚しており、母親と二人で暮らしていた。
昼間はパート、夜は水商売をしているらしい。
だから沙織はあまり母親に会うことが出来なかったが、とても母親が好きで、学校で辛い思いをしている沙織にとっては心の寄りどころのひとつだった。
そんな沙織が学校をよく休んでいるなど、当の本人がだんまりを決め込んでいたので沙織の母親は知る由もなかった。
なのでその日も母親はいつもの様に仕事へ出かけていた。
僕がインターホンを鳴らしても、沙織が出てくる様子はなかった。
どこかに出かけているとも考えにくく、僕はそっと玄関のドアノブを回してみた。
鍵はかかっていなかった。
「沙織?入るぞ」
声をかけてみたが返事はない。
なんだか嫌な予感がして、急いで沙織の部屋に駆け込んだ。
「沙織!」
部屋の真ん中で沙織は倒れていた。
フローリングの床には赤くてどろりとした液体が零れていた。
血だ。
僕は沙織を抱き起こし、頬を叩いた。
「沙織、起きろ、沙織!」
沙織は薄目を開けて言った。
「このまま、死なせて」
「馬鹿、何言ってんだよ!」
「いいから!!」
両目からぼろぼろ大きな涙を流しながら沙織は叫んだ。
手首からはまだ血が出ているし、若干11歳の僕はどうしていいのかわからず、つられて泣いた。
このまま沙織が死んでしまったらどうしよう、そう思うと怖くなって、今にも吐きそうだった。
すると突然開いたドアから、部屋の中に、羅々が飛び込んできた。
「さおりちゃん!だいじょうぶですか!?」
羅々は沙織の手首を掴んで、すぐに自分の着ていたワンピースを破り手首に巻きつけた。
それはとても手慣れた動作だったような気がする。
真っ白な布地がみるみる赤く染まっていく。
羅々は、泣き続ける沙織に優しく言った。
「さおりちゃん、しんでしまってはいけません。おかあさんがかなしくなりますよ」
この後救急車を呼んだ。
幸い傷も浅く、命に別状はないということだった。
羅々が保護者代わりとなったので、沙織の母に知れることもなく、この一件は僕達三人の心の中に秘められることになった。
この一件以来、沙織はより一層羅々に懐いたようだった。
ただ、もう一度も小学校へ通わなくなった。
いじめられていた事実も母親に話したようだ。
ところが、逆に性格はどんどん明るくなり、中学校へ上がる頃には今とほとんど変わらない快活さを持っていた。
それでも、沙織の手首には切り傷が残っている。
ためらい傷もたくさんついている。
それを隠すためにいつもつけているリストバンドを見る度に、僕は沙織が笑顔の下に隠す傷を思い出す。
沙織は、とても強い女の子なんだろう。
【企画】
「ただいま」
「おじゃましまーす」
僕と沙織が同時に言った。
廊下を羅々がぱたぱたと走ってくる。
「おかえりなさい!さおりちゃん、いらっしゃい!」
律儀に僕達二人の言葉に返事をして、羅々は沙織を招き入れた。
「羅々ちゃーん!」
沙織は羅々に抱きついている。
ほとんど毎日のように僕の家に来て羅々に会っているのに、毎日のようにこのやり取りが繰り返される。
全く、女子ってものはわからない。
リビングで、沙織がオレンジジュースを飲んで言った。
「では、これから『司の誕生日を祝う会』会議を行います」
「はい」
「はい」
僕と羅々はなんとなく敬語で返事をしてしまう。
いや、羅々はいつも敬語だから変化ないのだろうか。
「今回は、高校生にもなったので、しかも前回はろくに祝ってないので…盛大に祝おうと思っています!」
「具体的には?」
僕が聞くと、沙織はにやりと笑って言った。
「特製ケーキよ!」
「はあ?」
ケーキなんて毎年作ってるじゃないか、と思った。
すると沙織はまるで見透かしたように手のひらを僕の顔の前に広げた。
「ケーキなんて毎年作ってるじゃないか、と思ったでしょう!でも、今年は私達三人で作るのよ!いつも羅々ちゃんしか作ってないでしょ」
「わあ、いいですね!」
羅々が少々食い気味に感嘆の声をあげた。
「みんなでつくるともっとおいしくなります」
胸の前で両手を合わせて嬉しそうに羅々は言った。
確かにそうかもしれない。
人の手がかかる分だけ、手間をかける分だけ、料理は美味しくなるような気がする。
【料理教室】
「竜樹、ひとつの料理をひとりで作るのに、何人の人が関わっていると思う?」
ある日、父は僕に聞いた。
小学校二年生のときだったか。
父はちょうどそのとき、レストランの常連さんにカレーライスを作っているところだった。
僕は質問の意味が分からなかくて、ひとりに決まっている、そう答えた。
常連さんが笑った。
「隆一さん、本当にその質問が好きだね。息子さんにはまだ難しいんじゃないの?」
父は、はは、と照れながら笑った。
「そういえば、室田さんにも同じ質問をしたことがありましたね…」
僕は父に、どういう意味なのか聞いた。
父が僕の頭を撫でて、出来立てのカレーライスを指差して言った。
「竜樹、このカレーライスには、人参、じゃがいも、牛肉、…色んな材料が入ってる。そのひとつひとつが時間をかけて、誰かが作ってくれているんだ。このカレーライスはお父さんと色んな人達と一緒に作ってるんだよ」
すると常連の室田さんが、頬杖をついて笑いながら、父に向かって言った。
「それに、このカレーライスの味は隆一さんが若い頃、雪子さんと一緒に考えた味なんだよ。だから雪子さんの料理を食べているのとおんなじなんだよ、竜樹くん」
室田さんは僕に、カレーライスを一口分すくってくれた。
食べながら、僕は母のことを考えた。
母が、この料理を作っているところを想像してみた。
父と二人で作ったカレーライスを、また「おいしそう」と言いながら食べたのだろうか。
僕はますます、母に会いたい、と思ったものだ。
2歳のときに店が家事になり死んでしまったものだから、思い出なんてほとんどないし、アルバムだって焼けてしまった。
母は自分が盾となって僕を守っていたため、大量の煙を吸い込み昏睡状態に陥ったのちに死んでしまったのだった。
父は母を救えなかったことをひどく後悔していた。
けれどその分、母が命を賭して守ろうとした僕を、父は母の分まで愛してくれていた。