page 73 : 僕は、誰?
──猫好きAが施した監域内。
夕暮れ刻の岳陵を、梨人は独りで下校していた。
「はあ……っ、なんだろう。あっついな……」
額に滲む汗をワイシャツの袖で拭う彼の頬は、
赤く火照っている。
横断歩道に差し掛かると、大人も子供も皆がすれ違いざまに梨人を二度見し、奇異な眼差しを向ける。
「……?」
冬場に汗を掻いているのがおかしいからか、はたまた全て自分の気のせいか──
梨人は、訳が分からないまま歩道を渡り切る。
「ほら見て、夕焼け!綺麗だね〜!」
「ほんとだあ、久しぶりに見たかも〜。」
向こう側から歩いてくる他校の女子高生はスクールバッグに付けた、たくさんのぬいぐるみを揺らしながらはしゃいでいる。
(夕焼け?……ああ、夕焼け──)
見上げた梨人の視界に広がる、青とオレンジの冬茜。
(綺麗、だなぁ……)
夕焼けは綺麗でも、原因不明の暑気のせいで正直それどころではなかった。
とぼとぼと歩く梨人の横を通りすぎた女子高生は、驚いた顔で振り返る。
「──あの制服、岳陵第一の人じゃない?」
「う、うん……校則緩め?意外とチャラいタイプもいるんだね。」
「ね。ツートン、イカしてた!」
噂の当人は、ふらふらとおぼつかない危険な足取りで家までの道を歩いている。
「はあ、あと少し……あの街灯を曲がれば……っ、家だから──」
通学カバンを一度地面に下ろし、息を整える。
「はあっ……はあっ……こんなに熱いなんて、おかしいな……熱でも、あるのかな……」
苦しそうに前髪を掻き上げた梨人は、ふと路上に停められた車が視界に入った。
そこの窓に映る自分の姿を見た彼は、あっと叫びそうになった口を抑えた。
「な、なに……なんだよ、これ──」
ガラスの中に映っていたのは──普段の梨人とは全くの、別人。
少し伸びた茶色い髪。その毛先は黒へと変色していた。
父と同じ薄茶の瞳は金色の瞳へと変わり、その中心には猫を想わせる細長い瞳孔が走っている。
「そんな……どうしよう……どうしよう……!!」
梨人は、パニックのあまり色の変わった髪をぐしゃっと握った。
窓ガラスに映る獣のような瞳はギラリと光り、こちらを見つめる。
「嫌だ……嫌だよ……こんなの、僕じゃないっ!!」
梨人はカバンを拾い上げると、慌てて自宅までの道を走った。
「はあ……はあっ……!!」
息を切らした梨人は、家に着くなり玄関へ転げた。
雑にローファーを脱ぎ捨てるとドタバタと階段を駆け上がり、自分の部屋へ閉じこもった。
「おかえり──あら?」
恵が玄関を覗くも、そこには左右共にひっくり返ったローファーしか見当たらない。
「ちょっと、梨人!ただいまくらい、言ったらどうなの!?」
一階から聞こえる、恵の声──
「ううっ……うう……っ……」
梨人は制服も脱がずに畳まれた布団に顔を埋め、涙を流した。
「そうだ……これは、能力者を匿った罰だ。危ないって……分かっていたはずなのに……っ!それでも一緒に居たいだなんて、欲を出した僕がいけなかった……!」
後悔、恐怖──それだけではない、梨人に付き纏う複雑な感情。
日常が、能力者によって非日常に塗り替えられていく感覚。
未知を目にする度に、胸が高鳴る感覚。
そして、好とコルク、セーヤ──三ニンが、自分の中で特別になっていく感覚。
今を否定したとしても、今までを否定はしたくない。
「どうしたら……うっ……うう……」
声を押し殺して泣く梨人の足元で、通学カバンのチャックがジイッと音を立て勢いよく開いた。
「梨人……お主、泣いているのか?」
可愛い声に顔を上げると、そこにはマキシの姿があった。
「グスンッ……マキシ……どうして、ここに居るの?コルクなら、まだ高校だけど……」
「それなら心配ナイ。ワレは、あやつに梨人の警備を頼まれたのダ。」
尻尾をくねらせるマキシの後ろ、通学カバンの隙間からは蛇遣いの酩酊輪が見えた。
「どうして……?その腕輪って、コルクの大切なものでしょ?それを僕に預けたって……」
「ナニを言う。腕輪と命は代えられぬ。それに、コルクにとって梨人はもう、大切な人ダ。それくらい、気づいてヤレ。」
言い終えたマキシは何かを感じたのか、シュルシュルと素早くベッドに上がると、梨人の顔をまじまじと見つめた。
「んん?待てよ……ナニか変だと思えばお主──その目と!その髪!いったい、ナニがあったのだ!?」
驚くマキシの前で、梨人は黄金の瞳からポロポロと涙を流す。
「ううっ……分からないんだ……帰る途中には、もう──はあっ、ダメだ。ごめん。」
違和感に耐え切れず、梨人は布団にくるまった。
「ナンダ!?梨人っ、どうしたというのダ!?」
おろつく白蛇は、ベッドの上を右往左往している。
「はあっ……すごく熱いのに、すごく寒い……マキシ、僕の身体おかしいんだ……おかしくなっちゃった……ううっ……もう、どうすればいいんだよおっ……」
「……梨人、泣かないでくれっ……お主が泣いてると、ワレも悲しくなるであろう……ううぅ……」
マキシの真っ赤な瞳から、大粒の涙がシーツの上にポタリと落ちた。
──岳陵第一高校、屋上。
「あれ、なんで俺……」
頬をゴシゴシと擦る、蛇遣い。
隣でスイーパーの遺体をボディバッグに収容していた猫好きAは、彼の顔を見てギョッとした。
「……涙なんて、珍しいね。どうかしたの?」
「いや、俺はなんともないんだけどよ──」
ふたりが話しているところへ、セーヤが結界の見回りから帰ってきた。
「帰りました。異常なし、効果は上々です。」
「おかえり。良かった、これで少しは安心できそうだね。」
そう応える猫好きAの後ろでは、顔を覆い隠した蛇遣いがセーヤに背を向けている。
「あの、マスター。どうかされましたか……?」
セーヤが声をかけると、蛇遣いはバツが悪そうにこちらを向いた。
「いや!これは、違うんです!違うんですけど……ハハ。困ったな……」
彼の瞳からは、涙がぼろぼろと溢れ出る。
「使ってください。」
セーヤは、懐からハンカチを差し出した。
「すみません、ありがとうございます。」
蛇遣いは、ハンカチを目元に当てる。
「──彼に、思い入れでも?」
セーヤは猫好きAが閉めようとしているファスナーから覗く、スイーパーの白い顔に視線を送る。
「いえ。そういうのじゃないんですよ、これは。」
涙が似合わないくらいにスッキリとした顔をしている蛇遣いを見て、猫好きAは予想を口にした。
「もしかして。マスターの涙じゃないんじゃない?それ。」
「……どういうことですか?」
わからないという顔をするセーヤに、蛇遣いは笑った。
「多分、マキシでしょうね。」
「フフッ、蛇の癖してドライアイ?いよいよ、人間味が出てきたんじゃないの。」
「いや──違うな、ボス。」
冗談を言う猫好きAに、蛇遣いは付け加えた。
「実は、俺……梨人と保健室で会った時、カバンに酩酊輪を入れておいたんだ。マキシが居た方が心配ないかと思って。」
彼は、セーヤのハンカチを握りしめた。
「そろそろ家に着く頃だが……何かあったのかもしれない。なんだろうな、なにか悪い予感がするんだ。」
「……マスター、最短で帰るよ。」
猫好きAは、遊泳の力で蛇遣いを浮かせると自分も空へと舞い上がった。
「ごめん、セーヤくん。彼を頼んでもいいかな?忘国ならロジリックの城でもどこでもいい、適当に飛ばしてやって。」
「分かりました、お送りしておきます。」
「ありがとう、助かるよ。じゃあ、先に行くね。」
地上のセーヤに挨拶を告げると、猫好きAは飛び立った。
「はい、お気をつけて。」
ふたりが遠ざかり見えなくなるまで見送ったセーヤは、遺体の入ったボディバッグを跨ぐように立った。
彼は腰のベルトポーチから四角く折り畳まれた簡易陣を取り出すと地面に広げ、遺体を陣の中央に移動させる。
セーヤは陣の前に立つと片手の指に歯を立て、血文字で陣の隅に
"忘却狭国 ロジリック城へ"
とだけ記すと、手のひらを陣に翳した。
『 転送 』
次の瞬間。
紙に描かれた陣が発動し、スイーパーの遺体は一瞬の閃光と共に屋上から消えた。




