58.晩餐、参加権を得る
ほどなくしてヒルバールは戻ってきた。
鍋に並々と注がれた水にウサギの骨が浮いている。てっきり骨を捨てにいったのだとばかり思っていたのだが、違うらしい。
使用を禁止されているはずのデビーの鍋は、赤々と燃える焚き火にかけられた。
「勝手に使って大丈夫なの?」
恐る恐るといった様子でシンシアが尋ねる。
「バレなきゃ使ってないのと一緒だよ」
これは間違いなく常習犯だ。からりとしているヒルバールに、ノイムは思った。
薄々感じてはいたが、この青年奴隷はデビーのことをちっとも恐れていない。自分の身の上を悲観してもいない。むしろ奴隷生活を楽しんでいるようにすら見えた。
「縄を解いてあげるから、火の番をしてくれる?」
ノイムたちの答えも待たずに、ヒルバールは手早くふたりを解放する。それから先ほどの狩りで使ったナイフを片手に握り、ふたたび草原に下りていった。今度は自分の食事を作るつもりらしい。
長い人影は地平線まで続く星空に溶け、草の根をかき分ける音が遠ざかる。
荷馬車からは相変わらず、デビーの豪快ないびきが響いている。
ノイムとシンシアのふたりきりだ。ほかには誰もいない。手足は自由だった。たとえばここでふたりが立ち上がって、荷馬車や焚き火のもとから離れても、見咎められることはない。
ただそれも――。
「ねえ、ノイム。今のうちに逃げられないかな」
シンシアもノイムと同じことを考えたようだ。しかし炎に照らされた顔はやや不安げである。
「……たぶん、失敗する。ヒルバールがいるから」
見つからずに済むのは、彼が戻ってくるまでのわずかな間だ。ノイムたちが姿をくらますには不十分だった。だいいち宵闇のなかを移動するための明かりだって持っていない。これでは視界が確保できずに行き詰まって、すぐに連れ戻されてしまう。
「見逃してくれないかな。縄をほどいてくれたし、悪い人じゃなさそうだもん。ぜんぶ話したら、あたしたちに同情して助けてくれたり」
とてもそうは思えなかった。ノイムは沈黙した。
ヒルバールと言葉を交わした数日前の朝を思いだす。デビーの指示で仕組んだというモニカの一件を語る彼の口調に悪びれる様子はなかった。手を汚すことに躊躇がない。ノイムになじられてもへらへらしていた。動揺しないどころか、からかってくる楽観ぶりだった。
(それに……)
気のせいでなければ、ヒルバールが先ほどから使っているナイフ。あれはモニカを殺したものだろう。まるで見せつけられているようで気分が悪い。シンシアが気づいていないらしいのが救いだった。
物音がした。
ノイムは慌てて匙を構え、沸騰した鍋のウサギ骨から出る灰汁をちまちまとすくいにかかる。ヒルバールが現れたのは直後だ。彼は捕らえたウサギを手にぶら下げていた。この暗闇で明かりも持たず、よく狩りなどできるものである。
「やあ、精が出るね。助かるよ」
ノイムたちの会話に気づいていたのかいないのか。
「私たちにも食べさせてくれる?」
もちろん、とヒルバールの唇が弧を描いた。
「そのぶん働いてもらうけどね」
彼は匙をノイムに持たせたまま、ウサギの解体に取りかかった。
デビーの食事を作ったときにも思ったが、この青年、やけに手際がいい。あっという間にぶつ切りにされた肉は、余すことなく鍋に投入された。
ウサギ肉から出る灰汁は、骨から出汁をとったときとは比べものにならない量である。デビーの食事を作ったときはヒルバールがすくっていたが、今はノイムたちの仕事だ。休む間もないくらいに次々と浮いてくる灰汁を、ノイムとシンシアは交代で、ややうんざりしながらひたすらすくい続けた。
奴隷たちの鍋の具はウサギの肉だけだ。
デビーのウサギ汁には野菜がふんだんに使われていたのに比べると、彩りが地味だった。
「荷からくすねてもいいんだけど、あまり頻繁にやると気づかれるから」
と言いながらも我が物顔で調味料を投入するヒルバールに、シンシアが首を傾げる。
「塩と香草は? 普通に使ってたけどいいの?」
「ご主人様は料理ができないんだ。調味料の減りが早くても気にしないというか、気づかない。そういうものだと思ってる」
僕は料理が上手いから信用されてるんだ、とヒルバールは結んだ。とんだ自信家だ。しかし鼻をくすぐる香りを思えば、あながち嘘でもないのかもしれない。実に食欲をそそられる。ヒルバールが肉をよそっている間も、ノイムとシンシアの目は椀と鍋に釘づけだった。
「いただきます」
ひとつしかない椀は、まずノイムとシンシアに回ってきた。使える匙も一本だけだ。湯気を立てる椀をふたりで持ちながら、互いに目配せする。そこでシンシアが最初に匙を取って、ぶつ切りのウサギ肉をすくった。
ふーふーと息を吹きかけて冷ます姿を、ノイムはじっと見つめる。
「はい、ノイム」
「むぐっ」
前置きもなく口に突っ込まれた。
不意打ちである。しかも熱い。ノイムは慌てて口を押さえた。はふはふと息を吐いて、舌を焼こうとする肉に対抗する。
「ご、ごめん、もっと冷ませばよかった?」
ノイムは涙目で頷いた。
熱さが落ち着くと、今度は咀嚼するのに苦労した。おとなのひと口に合わせて切られた肉は、ノイムにとって少々大きすぎる。どうにかこぼすことなく歯を突き立てて、驚いた。思っていたよりもずっと柔らかい肉だ。油っぽさはない。さっぱりしていた。
「どう?」
ノイムはそわそわしているシンシアから匙を取り上げた。肉をもうひとつすくって彼女に差し出す。自分で息を吹きかけて冷ましたシンシアは、ノイムよりもいくらか食べやすそうに、ウサギ肉を口に含んだ。
しばしの沈黙。
少女ふたりがただもぐもぐと頬を動かしている姿を眺めるヒルバールもまた、静かに待っていた。ただし口元ににやにやと鬱陶しい笑みを浮かべていたので、顔はどちらかというとうるさい。
「美味しい……」
「美味しい!」
ノイムとシンシアの声が重なった。
続いて椀に口をつけ、順番に汁をすすってみる。今度は同時にため息が出た。骨から出た出汁がたっぷりと含まれたスープである。
「最高でしょ? なにしろ僕だからね」
「どこで覚えたの?」
まただ。いつぞやのように、彼のペースに呑まれている。ヒルバールなんかと雑談なんてするつもりはないのに、質問して、彼の話を引き出すのはノイムからなのだ。
「見世物小屋。料理人と仲良くなってね、こっそり教わったんだ。あそこは飯だけは美味かったから」
肩をすくめたヒルバールに、ノイムは顔をしかめた。
シンシアがきょとんとしている。知らないらしい。
「みせもの……サーカスのこと?」
「うーん、ちょっと違うかな」
「かなり違う。サーカスよりもずっと下品なものを披露する」
きっぱり否定すると、ヒルバールはさっと前髪をかき上げた。
赤々と燃える焚き火のおかげで、夜闇でも彼の顔の特徴はよく見える。瞳孔が縦に伸びた瞳が鏡のように炎を映していた。頬に浮いた鱗も、明かりを反射して艶めいている。
「僕みたいなのとかね。普通でない見た目の人間を客に見せびらかして金を取るんだよ」
シンシアは一瞬眉をひそめたが、それはヒルバールの外見に引いたからではないようである。
「自分が見せものにされるなんて、あんまりいい気はしないと思うんだけど……それ、あなたも承知でやってたの?」
「承知もなにもない。奴隷には選べないさ。鎖に繋がれてステージに立つ以外はね」
「そんな……」
今度こそ、シンシアははっきりと不快を示した。もちろん見世物小屋に対してである。
「ノイムは知ってるんだね?」
「まあ、話は聞いたことある」
どころか、行ったことさえあった。前世でのことだ。捜し人が見世物小屋にいた。
ついでに摘発して潰す気満々だったのだが、いざ行ってみたら、ノイムを含めて皆その気がなくなってしまった。異形の奴隷を無理矢理見せものにしている見世物小屋と違い、そこはちゃんとしたショーを行っていた。演者が自ら望んでステージに立ち、己の異形を活かした芸を披露していたのである。
(運営もまともだったし、ショーもいやな感じはしなかったもんなぁ)
ノイムはきゅっと唇を結んだ。今ここで言うのは間違いなくまずい。
話を変えることにした。
「で、それがどうして奴隷商なんかに?」
「潰れたんだ。僕を含めて、奴隷たちはただ同然の値段で売りに出された」
「あんたを買ったのがデビーだったんだね」
「そういうことさ。男手が安く手に入るって喜んでたよ」
ヒルバールが人と違うのは、見た目だけではない。視力が劣っている代わりに、嗅覚と感覚が優れている。このあたりは蛇の特徴に近いようだ。ついでに膂力が人一倍あった。子供のころから、おとなに負けない力を発揮できたらしい。そこをデビーに見込まれたのだという。
「最初は君たちみたいに縛られてたんだけど、おとなしくしてたら自由にしてくれるようになった。きっかけはたぶん、僕が食事を作ったことだと思うんだけど」
食事ひとつで奴隷の縄を解くとは、デビーは食い意地が張っている。逃げられるかもしれないとは思わなかったのだろうか。
ヒルバールは、戦闘でも狩りでもかなり身軽に動ける。デビーの寝首を搔くくらいは簡単にやってのけるはずだ。その気になれば逃げることだってできるだろう。デビーのあの脂肪にまみれた巨体では、ヒルバールには追いつけない。
「前よりもずいぶん生活が楽になったから、嬉しいよ」
ノイムの疑問は、即座に青年奴隷本人の手で砕かれた。
「でも、しょっちゅう殴られるでしょ」
「下劣な客にべたべた触られたり、鞭を打たれたりするよりはマシだよ。ご主人様の目を盗めば、飯もある程度は自由に食べられるし、見世物小屋なんかとは比べものにならないね」
ヒルバールの声は弾んでいた。
「それに、これからは君が代わりに殴られるはずだ。ご主人様は君のことでずいぶん苛立っていたし、君は逆らう気満々みたいだから」
「別にあんたのためじゃない」
「結果的に僕のためになる」
ノイムは自分のやる気が急速にしぼんでいくのを感じた。この青年奴隷が喜ぶと思うと、デビーを苛立たせて嫌がらせをするのも考えものである。
むっつりと押し黙ったノイムの口に、匙が突っ込まれた。
「はい、ノイム。最後のひと口」
椀によそったウサギ汁が空になる。最後の肉の欠片をありがたくいただいたノイムは、椀と匙をまとめてヒルバールに渡す。
「あんたはデビーのとこから逃げる気、ないんだね」
「君たちを逃がす気もないよ」
ピリッとした空気が両者の間を走った。
「……期待してないよ。デビーに見つかったとき、折檻されるのはあんただもん。今よりずっと立場が悪くなるのは目に見えてる」
「よくわかってるじゃないか。そうだよ、そこまでしてあげる義理はない……そっちの子ははショックを受けてるみたいだけど」
シンシアはまさか、正面切って「助けない」宣言をされるとは思わなかったらしい。目を見開いたまま固まっていた。
「ごはん、ありがとう。一日一食なの?」
「いんや、ご主人様が起きる前に、朝食も取ってるよ」
「私たちももらっていい?」
「いいよ。起こしてあげよう」
ヒルバールが匙をくわえた。話は終わりだ。
逃がしはしないが、この奴隷生活で精いっぱい良い暮らしをする手助けはしてくれる。おそらく基準は『デビーにバレるか否か』なのだろうが、どうにもやりにくい相手である。立ち上がりながら、ノイムはシンシアをつついた。
「ね、早とちりしないでよかったでしょ」
「……あの人、優しいんだか優しくないんだかわからないよ」
まったくもって、同意見である。




