59.畑、落ちる
すでに三度、失敗した。
「君も懲りないねえ」
呆れとも感心ともつかない息を吐いたヒルバールの小脇に抱えられ、ノイムは心のなかで悪態をつく。
シンシアと額を突き合わせてこそこそと立てた逃走作戦は軒並み潰えてしまった。
最初は縄抜けしたところで気づかれて、デビーの拳が飛んできた。シンシアの縄はまだ解けておらず、彼女が殴られなかったのは不幸中の幸いといえる。
次に縛られたままの状態で、走る荷馬車から転かり降りた。あざをいくつかこしらえただけで、大した怪我もなく済んだところまではよかった。そのまま道端の茂みに隠れて縄を解き、とんずらするという寸法だったのだが、一度目の失敗のせいで思いのほか縄目がきつくなっていた。縄抜けに手こずっているうちに馬車が停まり、ヒルバールの手で回収されてしまった。シンシアはまだ荷馬車から跳び下りてすらいなかった。
ノイムはデビーにしこたま殴られた。おかげでその晩は痛みにうめくばかりで、ほとんど眠れなかった。
日を置いて、食料の補給で立ち寄った町で人に助けを求めようとした。これは事前に対策をされた。ノイムとシンシアは、まとめて荷に括りつけられてしまったのである。一歩も動けないのでは逃げようがない。ついでに猿ぐつわも嚙まされたので、声も出せなかった。町が寝静まる夜ならともかく、人の行き来がある昼間では、猿ぐつわの隙間からわずかに漏れるうめき声だけでは外の人間に気づかれにくい。そもそも声を出したらデビーに腹を蹴られた。本当に暴力にものをいわせることしかできない男だ。
時間ばかりが過ぎていく。トパの街はどんどん遠のく。自力で帰るのがより難しくなる。
五日も経つと、焦って粗末な作戦しか立てられなくなった。
「やっぱり、縄を解いてもらえる夜のほうがいいよ」
シンシアの言により、四度目の挑戦がされることになった。デビーが寝静まったあとの、奴隷だけの晩餐会。ヒルバールが狩りに行っているわずかな間に、その場から走り去る。
結果は、冒頭のとおりである。
(いや、まだ希望は――)
シンシアが先を行っている。彼女のうしろを走っていたノイムが先に捕まったのだ。このまま駆け去ってくれれば、シンシアだけは逃げ切れる。
はず、だったのだが。
(そこまでの打ち合わせ、してない……)
そもそも最初からそういう作戦にしておけばよかった。
たとえばふたりで別々の方向に逃げれば、片方は確実に捕まってしまうが、その隙にもう片方が逃げ切れる。体格の差からしてノイムのほうが足が遅いので、捕まるとしたらノイムだ。今のように。
我ながらずいぶん焦っていたらしい。だいいち、ここ三日間で立てた計画からしてあまり利口とはいえなかった。正真正銘の六歳児が考えたというのならまだ褒められる部分もあるだろう。しかしノイムは、前世と今世合わせて、年齢だけなら足掛け二十六年。無垢な子供とは言い難い。もっとまともな案が出せたはずだ。
発想の根本から間違っている。
(私たちがデビーとヒルバールから自力で逃げるって時点で、無理があるんだよねえ)
考えている間に、シンシアが駆け戻ってきた。
「ノイムっ!」
「はい確保」
ヒルバールが彼女の首根っこを掴まえる。
これで四度目の失敗である。
「甘いね。このおチビちゃんを残してひとりでひた走ってたら、もう少し距離を伸ばせたかもしれないのに」
「ノイムを見捨てて逃げるなんて」
するわけない、とシンシアは断言した。ちょっと怒っているようにも見える。
「ま、健気といえば聞こえはいいか。その姉妹愛に免じて、ご主人様には黙っていてあげる」
「しまいあい」
思わずノイムは繰り返した。
「違うの? 家族になったんだから、君らは姉妹だろ」
「あんたには言われたかないな」
「そりゃ悪かったね」
ノイムは身をよじってヒルバールの腕から逃れる。すかさず服の背を引っ掴まれた。彼の空いた手には、ナイフが握られている。ぎょっとしたのも束の間、
「とりあえず、夜の狩りには君たちのどっちかを連れていくことにしようかな」
そういうわけだった。ノイムたちはまたひとつ不自由になったのである。
▼ ▽ ▽
逃げる、という考えから離れる。
そうなると、残された選択肢はひとつに限られるといってもいい。
(戦う……かなぁ)
翌日、相変わらず芋虫のように馬車の荷台に寝転がりながら、ノイムはぼうっと考えていた。
武器さえ手に入れば太刀打ちできる自信はある。ヒルバールはともかく、デビー相手ならどうにかなるろう。単純な力では叶わなくとも、ノイムには前世で培った経験と小さいがゆえの機動力がある。手加減する余裕はないから、命を狙うことになるだろうが。以前の孤児院で院長やアリサが殺されてしまったぶん、せめてデビーには真っ当な裁きを受けてほしい気持ちもないではなかったが、自分の身が危うい以上は悠長なことも言っていられまい。
しかし、積極的に取りたい手ではなかった。
なにしろシンシアがいる。
(見せたくないなあ……私がそうやって人殺そうとしてるとこ)
これはノイムのわがままだ。モニカの仇をとるなんて、シンシアと堂々と約束しておいてなにを言っているのかと思うかもしれないが、それでも、シンシアはノイムとは違う。
普通の家庭で育った、普通の女の子だ。
ノイムがこんな危ない道に巻き込んでしまった。デビーにこうして攫われてからはいっそう、ノイムの胸をちくちくと刺す罪悪感は日々増している。ノイムを家族に迎えたいというシンシア一家の純粋な想いを、最悪のかたちで汚してしまった負い目もあった。
あまり殺伐とした場面を見せたくない。そういうのは、モニカが死んだあの夜だけで十分だった。
ヒルバールの声が聞こえたのはそのときだ。
昼間、デビーの前では決して口を開こうとしない彼にしては珍しいことである。
「あっ」
それは短い驚嘆だった。
次の瞬間、荷馬車が派手に揺れた。
「おい、なにしてやがるっ」
怒声と同時にデビーが横倒れる。ノイムもシンシアも板床をごろごろと転がって、荷台のふちに体をしこたまぶつけた。
荷馬車は傾いて止まっていた。
「ちくしょう、なんてこった!」
デビーが口汚く文句を言いながら、荷台を降りていく。その背を追ってノイムは外の景色に目を向けた。
広がるのはなめらかに波打つ丘だ。広大なぶどう畑が一面を埋め尽くしている。均等に植えられたぶどうの木がどこまでも続いて幾本もの筋をつくっている様子は壮観だった。
そのど真ん中で、荷馬車が立ち往生していた。
畑と畑の間に設けられた細いあぜ道の上、小石を踏み散らしながらひっきりなしに跳ねていた車輪が、とうとう道を外れてしまったのである。人目を避けて悪路を進んでいたことが裏目に出たわけだった。
荷馬車はぶどう畑の端に片足を突っこんでいた。
「直せねえのか、ヒルバールっ」
傾いた荷馬車の前で、デビーがヒルバールを怒鳴りつける。言いながら手も出していた。殴打音とともに、ヒルバールの細い体がのけ反る。
ノイムはついつい口を出した。
「ひとりで馬車を持ち上げられたら、そりゃもう人間じゃないね」
「黙れガキッ!」
ノイムは素早く転がって荷台の奥に引っ込んだ。荷台に足をかけたデビーがひっくり返るのが見えて、シンシアとふたり、顔を突き合わせた。
「く、くく……」
「わ、笑っちゃだめだよ、ノイム……困ってるのに」
忍び笑いを漏らしながら、シンシアが荷台の外に目をやる。とたん、彼女は妙な声を出して俯いた。視線の先を追う。砂まみれになったデビーが立ち上がるところだ。薄くかいた汗のせいで、べったりと貼りついた汚れが泥のようになっている。
ノイムはうっかり噴き出した。デビーに睨まれたが気にしない。
「畑に誰かいないの?」
目の前に差し迫った背の低い木々には、よく熟れたぶどうがたわわに実っている。ちょうど収穫の時期のようだった。昼のこの時間なら、近くに住む農民が畑に出てきているかもしれない。
「わかっとるわ。口を出すなクソガキが」
悪態をつきながらぐるりと畑を見回したデビーの視線が一点で止まる。作業をしている農民を見つけたようだ。しかし、彼は自分の足で畑に下りていくことはしなかった。
代わりにヒルバールを行かせ、ノイムたちを振り返る。
「おまえらは奥に引っ込んでろ。荷の影からちらっとでも顔を出したらぶちのめす。余計なことは考えるんじゃねえぞ」
「脅しになってないよ」
ノイムにとっては日常茶飯事である。ノイムの服の下には大小のあざが健在だった。今さら怖がるわけがない。
デビーの頬に朱が走ったが、それまでだ。声を荒げる隙はなかった。
畑から素っ頓狂な声が飛んできたのである。
「こりゃあ派手にいったなぁ」
「あんた、行商人かい。災難だったわねぇ」
ヒルバールに連れられてあぜ道に上がってきた老夫婦だった。それぞれ脇に駕籠を抱えている。濃い紫の小さな粒が、みっしりと密集して顔を覗かせていた。
もぎたてのぶどうである。
老夫婦を見ると、デビーの表情はころりと転じた。普段よりは凶悪さが減じた笑みである。そしてノイムが今まで聞いたこともないような愛想のいい声で、老夫婦に話しかけた。
「いやぁ、すまんな、お仕事中に。見てのとおり難儀していてね。馬車を引き上げるのを手伝っていただきたいんだが」
「ありゃ、爺さんにできるかしら」
「腰が折れちまうわい」
あと三十若ければなぁと朗らかに笑って、老夫婦の夫が提案する。
「村から若い衆を呼んできてやろう。それならきっと馬車も戻せるさ」
「それはありがたい。礼は弾もう」
「そんなもんいらないよ。人助けなんて当たり前のことだ。それじゃあおまえさん、ちょいと行ってくるよ」
老爺はデビーに向かってにこにこと笑いかけながら、妻に籠を渡した。両手いっぱいになった老婆は、どうやらここに残るらしい。
老爺はデビーを伴ってその場を離れた。近くにある彼の村とやらに向かうのだ。
ノイムは心臓が高鳴るのを感じた。
強く打った鼓動が耳の内側に反響する。それはシンシアも同じだったらしい。彼女はわずかな興奮をその瞳にたたえて、ノイムと目を合わせてきた。
「ね、ノイム。これって」
「うん……」
デビーがこの場を離れた。ヒルバールはまだ荷馬車の外をうろうろしているのだろうが、ノイムの位置からは見えなかった。つまり向こうからも見えない。なにをしようが事前に阻止されることはないわけだ。
そこにいる老婆に声をかける、またとないチャンスである。
今まで実行してきた逃走作戦とはとても比べものにならないほど、成功の二文字が間近に迫っていることに、ノイムは気づいていた。どうしても舌の根が震えてしまう。何度か深呼吸をする。それでもかすれた声しか出なかった。
代わりに横で、シンシアが声を張った。
「そこのおばあちゃん!」




