18.名前、正す
冬の気配がすぐうしろにまで迫っていた。
吐く息はまだ目に見えないが、ちょっと気を抜くと身震いしてしまう。特にノイムたち子供は、年がら年中ぼろ布一枚を縫った服だけをまとっている。ワンピースの裾から冷たい空気が忍びこんできて、ノイムの肌を粟立たせた。
「……風邪ひくぞ。あと見つかる」
「もうちょっと、みえなくなるまで」
「あのな……」
カデルに袖を引かれても、ノイムは動かなかった。視線も動かさなかった。風に吹かれてかたかたと音を鳴らす門に貼りついて、ただ、遠ざかる背中をじっと眺めていた。
「おれたちにできるのはここまで。おまえが言ったんだろ」
「そうだけどさ」
いざ送り出してしまうと、どうしても心配が勝る。
レオとタランは、無事に孤児院を脱出した。
開かずの間から下ろしてもらい、ノイムが用意したなけなしの旅道具を抱え、閉じた門扉を超えて、出ていった。向かう先も、きちんと教えた。
街道を――とにかく太い道を選んで進めば、もっと活気のある大きな街にたどり着く。まともな孤児院がある、トパの街だ。そこまでたどり着けば、なにかしらの支援は受けられる。あるいは孤児院を頼らなくても、ふたりの境遇を知って、家に迎え入れてくれる人がいるかもしれない。
だから、大丈夫。大丈夫なはずだった。
壊れた街灯ばかりが並ぶ夜の町は、小さな背中をあっという間に闇に沈めてしまった。ほどなくしてレオもタランも見えなくなる。孤児院の門の外で、生きものが動く気配はなくなった。
掴んでいた門扉から、ようやく手を離す。
まぶたの裏には、見送ったふたりの姿が焼きついていた。門を出て、袋を背負い、並んで歩いていく背中。そこにノイムは、いつかカデルと並んで孤児院を出る自分を重ねる。
孤児院を出れば、引き取られていく子供を見なくて済む。
明日は我が身と怯えなくて済む。
そして何より――。
(私は、堂々と私を名乗れる)
孤児院で呼ばれていた忌々しい名前を使わなくて済む。
孤児院の前に捨てられていたノイムは、名前を持っていなかった。ノイムを包んだ毛布には、名を記した紙きれ一枚すら含まれていなかったのである。生みの親は、名づけすら放棄してノイムを捨てたのだ。
だから、ノイムの名前は院長がつけた。
罪悪感の欠片もなく子供を売り払う最低最悪のおとなが、ノイムの名づけ親になった。
名づけ親に、なってしまった。
五年間、ノイムは院長にもアリサにも、子供たちにも、カデルにも、その名前で呼ばれ続けていた。
でも、ノイムはノイムだ。ほかの誰でもない。
「親」と名乗ることすら許されないような畜生に名づけられたことが悔しかった。それを自ら名乗るなんてもってのほかだ。だから今まで、ノイムが自分から名前を口にしたことはない。できるだけ意識の外に置くようにしていた。孤児院を離れたらすぐに忘れられるように。
しかし、呼ばれて返事をしないわけにはいかなかった。ここでの名前はそれだからである。
苦痛だった。院長やアリサはどうでもいい。
子供たちと、なによりカデルに。
その名前で呼ばれることが、嫌で嫌で仕方がなかった。
孤児院を離れてしまえば、この息苦しさからも解放される。
「ねえ、カデル。へんなこと言ってもいい?」
「おまえが変なのはいつものことだろ。なんで外に出たこともないのに、外の世界に詳しいんだよ」
「ひどい」
そして鋭いところを突いてくる。ノイムは愛想笑いで誤魔化して、カデルを振り返った。
「わたしね、お父さんとお母さんからもらった名前があるの」
「初めて聞いた」
「はじめて言った」
カデルが探るような目でノイムを見る。
彼がなにを考えているのかは手に取るように分かった。それならどうして院長がつけた名前で過ごしているのか。ノイムを拾った院長も知らなかったのに、どうしてノイムが知っているのか。どうやって知ったのか。さまざまな疑問が、カデルの頭を駆け巡っていることだろう。
しかし、彼は懐疑的な態度を示しながらも、心に含んだ問いはひとつも口にしなかった。
「おれと一緒だな。おれの名前も、親がくれた」
「おそろいだね」
もちろん、ノイムも知っている。
前世で彼が「俺は孤児だったが、名前だけは本当の両親からもらったものだ」と言っていたからだ。ノイムがカデルから聞いた生い立ちは、あとにも先にもそのたった一文だけである。だから忘れたことはなかった。
「なんていうんだ、おまえのほんとの名前」
「ノイム。ノイム・トツヅキ」
口に出した瞬間、ノイムは寒さを忘れた。
思えば、五年間ずっと。
誰かといても、ひとりのときも、ノイムは本当の名前を声に出したことがなかった。
不思議なものである。院長からつけられた名前が嫌なのだから、否定するためにも、本来の名前を繰り返し唱えていてもおかしくないのに。
偽の名前と同じように、ノイムは、本当の名前も避けていた。
口に出せば、どうしても思いだしてしまう。
多くの仲間と苦楽をともにした代理勇者時代を。
今とは比べものにならないほど幸福な幼少期を過ごした現代日本を。
何度となく、親しみや愛情をこめて「ノイム」と呼ばれたころのことを。
思いだしたら、そして今と比較してしまったら。もう、耐えられない気がしていたのだ。
「ノイム……ノイムか、ふうん」
つんと鼻にこみ上げてきたものを誤魔化すように、ノイムは口の端を持ち上げた。
「なあに、その言いかた」
「いや、なんか、不思議な音だから」
それもそうだろう。ノイムの名前は、現代日本でつけられたものだ。本来であれば十津月乃夢と書くそれは、こちらでは紙に記しても誰にも伝わらない。
「どんな意味なんだ?」
「いみ、知ってると思う?」
「ノイムなら知ってるだろ、変なやつだし」
「ひどい」
しかしやっぱり、カデルの言うとおりである。
「どんなときでも、迷わず夢を目指せるように、だって」
久しぶりに、本当に久しぶりに、両親の顔が浮かんだ。
『夢』という文字はすぐに意味を想起できるが、『乃』という字はそうではない。ノイムだって、ぱっと想像できたのは漢文で使われる「乃ち」だった。『乃』という字は、字源までさかのぼることでようやく、その意味らしい意味を見出すことができるのだ。
『乃』は、外れた弓の弦が垂れている様子が由来だとされている。
字源となっている弓は、矢を撃てばまっすぐに的を貫く。そこから、『乃』という字に「まっすぐ」という意味を見出すことがあるのだという。
これだけでも、ノイムの両親がどれだけの労力をかけて我が子の名前を考えたのかがわかるというものだ。彼らは使用する文字の字源までさかのぼって、ぴったりの名を用意したのである。意味を知って、その語源を調べたとき、ノイムは嬉しいやら恥ずかしいやらでひとりのたうち回った。
それももう、ずいぶん前のことだ。
「いい名前だな」
いつの間にか、カデルの手がノイムの頭を撫でていた。小さくて温かい手のひらが、ゆっくりとノイムの髪をかき混ぜる。
どうして急にそんなことをする。
「……でしょ」
理由は、すぐにわかった。
しぼり出した声が震えていた。視界が滲んでいる。
まぶたから押し出された雫が、子供らしくぷっくりと膨れた頬をすべり落ちた。
ノイムは、泣いていた。
「絶対、ここから逃げような」
「うん……」
「一緒に逃げて、それで、みんなのことも助けよう」
それきり、カデルは口を閉ざした。
ノイムが泣き止むまで、ただ黙って傍にいた。




