11.悪ガキ、脱走する
階下が騒がしい。
心地よいまどろみのなかにいたノイムは、枕を持ち上げて耳を塞ぐように被った。騒音が遠のく。あと五分……と目覚まし時計もないのに言い訳して、体から力を抜いた。
「おい、起きろ。のんきに寝てるのおまえだけだぞ」
思いきり揺すられた。カデルだった。
「まだ……暗いじゃん……」
取り上げられた枕を掴んで剥がされた布団を引き戻しながら、ノイムは必死に抵抗する。
孤児院の表に面した大窓から差し込む光はごくごく弱い。おそらく空が白みはじめたころのはずだ。土の終刻では子供が起きるには早すぎる。
「言ってる場合か。レオとタランがいないんだ」
「……は?」
「どこにもいない。孤児院の外に出たらしい」
ノイムは飛び起きた。脳みそを覆っていた眠気も一気に吹き飛ぶ。見回せば、ノイム以外は全員起きだしているようで、布団は残らずもぬけの殻だった。
「い、いつ? いつからいなかったの?」
「わからない。気づいたのはおれじゃないから」
とにかく、今は食堂に子供を全員集めて、アリサが見張っているらしい。自分もレオとタランを捜しにいくと言いだす子がいないとも限らないので、そのためだろう。孤児院としては、これ以上脱走者を増やすわけにはいかないはずだ。なにしろ使える人手がふたつしかないのである。
アリサが残っているということは、レオとタランを捜しに出たのは院長だ。
もちろんまだ戻ってきていない。
カデルに体を引きずられながら、ノイムはひそかに青ざめた。
(私のせい……だよね?)
昨日のノイムとアリサの会話が原因だ。間違いない。今退けば悪ガキふたりの好奇心を刺激することはないだろうと思ったが、実際はすでに手遅れだったのである。
「ねえ、カデル……」
カデルも同じことを考えているのではなかろうか。しかし、問いかけたノイムの声はうんざりした彼の怒りで遮られた。
「いいかげん、自分で歩け。重い」
「ご、ごめん」
ずるずると布団の上を引きずられていたノイムは、ようやく自分の足で立った。カデルと連れ立って一階に下りる。
たしかに、子供たちは大混乱だった。小さい子たちはみんな泣いている。アリサがなだめて回っているが、全然追いついていない。阿鼻叫喚である。おかげで年上の子供は泣く暇もないようで、目元を真っ赤にしたまま幼い子のお守りに徹していた。
アリサは両手にひとりずつ、さらに腰にもひとりすがりつかれ、身動きの取れない状態で泣き声にまみれている。それでも入ってきたノイムたちには気づいたようで、かなり余裕のない表情で振り返った。
「ああ、カデル。起こしてきてくれたのね」
「うん、アリサ、だいじょうぶ?」
「ええ……」
大丈夫ではないだろう。今や、ほかの子供の泣き声につられて泣きだす子まで出始めている。なだめても慰めても何をしても落ち着かない年少組に参ってしまって、年長組までとうとう涙をこぼし始めた。こうなってはもう収拾がつかない。
「下りてきたところで悪いんだけど、エールたちの様子を見てきてくれる?」
「わかった」
エールは、一番最近入ってきた赤子のことである。
カデルはすぐに踵を返した。ノイムだけが取り残される。
この場で冷静なのはノイムだけだった。
いや、冷静とは少し違うかもしれない。ノイムはずっと、氷を飲んだような心地に襲われていた。食堂の入り口に立ちつくしたまま、必死に頭を回転させる。
レオとタランは見つかるだろう。その点は心配していない。
しょせんは五歳の子供。土地勘もない場所ではさほど遠くまで行けまい。早朝なら人も少ないし、トラブルに見舞われる可能性も低いだろう。ここまで育てた大事な商品を、まさか見捨てるわけはないはずなので、院長なら必ず連れて戻ってくる。
問題は、そのあとである。
(帰ってきて……そうしたら、レオとタランはどうなるの?)
院長もアリサも、常日頃から「親がいない子供は、孤児院の外に出ると病気になる」と言っている。
おかげで子供たちは外出の「が」の字も考えずに過ごしているわけだが……それでも脱走者が出た場合。勝手に外に出た子供に対して、必ずペナルティはある。そして「病気になる」などとほざいている以上は、脱走を知った子供たちに示す必要があった。
脱走した子供が本当に病気になるということを。
院長たちは、レオとタランをどうするつもりなのだろう。
考えるだに恐ろしい。
(アリサに確認したいところだけど……)
今は駄目だ。彼女もいっぱいいっぱいで気が立っている。院長が戻ってくるまではどうにもならない。
こうなると、ノイムも子供たちをなだめる以外にやることがなかった。
どれくらい経っただろう。
食堂の喧騒はかなり収まった。子供たちをなだめるのに成功したというより、泣き疲れておとなしくなる子が増えただけではあったが、それでも先ほどまでの大混乱よりはずいぶんマシだ。ノイムは船を漕いでいた子に肩を貸しながら、まんじりともせずに孤児院の扉を睨んでいた。
そのころには、赤子の世話をしてきたカデルも食堂に戻っている。
「そんな顔するな。院長なら絶対にレオとタランを連れて帰ってくるから」
「うん……」
ノイムが心配しているのは、ふたりの無事ではない。しかし否定する気力もわかなかった。
院長が戻ってきたのは、それから間もなくのことである。
さしものノイムもうつらうつらとし始めたところで、蝶番がきしむ音が響いた。外から押し開けられた扉の向こうに見えたのは、両手に子供をふたり抱えた院長だ。
レオもタランも、ぐったりしていた。意識がないのかもしれない。
「おかえりなさい! 無事なんですね」
ほっと息をついたアリサに、院長が苦笑で応える。
「迷子になって広場に留まっていた。見つかってよかったよ」
食堂が賑やかになった。いやな喧騒ではない。集まっていた子供たちが、脱走したふたりの無事を喜んでいた。とはいえ、安心してぐずり始めるのは勘弁してほしい。
我先にと院長を取り囲もうとした子供たちは、アリサの手で留められた。
「みんな、近づいちゃ駄目よ。病気がうつるかもしれないわ」
「びょうき?」
「そうよ。明日には熱が出ているかも」
アリサが眉をひそめると、院長も神妙な顔で頷いた。
「ふたりは別の部屋で休ませよう。なに、心配ないさ。すぐに元気になるかもしれないからね」
「ほら、みんな、道を空けてちょうだい」
追い立てられて、子供たちはぎゅっと壁に寄った。広く開いた増設棟側を、レオとタランを抱えた院長が進む。心配半分、不安半分。誰もが彼を注意深く見送る。
「……ア」
「どうした?」
か細くこぼしたノイムに、カデルが首を傾げる。
ノイムは慌ててつけ足した。
「わたしのせいなのかな」
「は?」
「わたしが、おそとに出たいってわがままいってたから。だから、レオとタランは……」
ノイムは口から流れるがままに言葉を紡いだ。その目はずっと、厨房のほうに消えていった院長を見つめている。
小さな手が、ノイムの頭を撫でた。
「おまえのせいじゃない。勝手に出たのはあいつらだから」
「げんきに、なるかな」
「だいじょうぶだ。すぐ、いつもみたいにうるさくなる」
断言したカデルを、しかし、ノイムは肯定も否定もしなかった。ただ、小刻みに震える手でこぶしをつくる。嫌な予感がノイムを吞みこむところだった。足の先からせり上がってきて、胃を満たし、喉を潰し、頭のてっぺんにまで達しようとしている。
カデルはたぶん、気づいていない。
彼だけじゃない。誰も気づいていない。見たのは、ノイムだけだ。
院長に寄りかかっていたレオの頬が、赤く腫れていたことなんて。




