第二話 一人と一匹の旅③
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食事の後、お風呂を勧められさっぱりした後イスカは客室に通されほっと息をついた。服も着替えている。夫人から寝間着だと用意された可愛らしいネグリジェだった。
(奥さんの物なのかな?女の子がいる様には見えなかったし……、それにしては使い古されていないみたいだけど)
通された客間も質素な家の外観からは想像も出来ない豪華な調度品があったりと、随分至れり尽くせりな扱われようだ。
不可解な事は色々あったが、今はあまり深く考える余裕はなかった。綺麗に整えられたベッドに寝転がると、自分は思った以上に疲弊していたことに気づかされる。
(私って案外人見知りだったのかも……)
子供たちとは打ち解けるのは苦でもなかったのだが、こうして目上、あるいは同年代の初対面の人間と話し込む機会は意外と少なかった。しかも話題はイスカの事ばかり、身辺調査をされているみたいで居心地が悪かった。
旅を始めてから割とこういう場面はあったはずなのに。
―――そうか、ジンロ。
イスカは窓際でそっぽを向いている小鳥の方を見た。いや、正確には小鳥と同じ金色の髪をもつ男の姿を思い起こしていた。
そういえば、こうして家主と話をする時彼らと率先して話をしていたのはジンロだった。イスカはいつも彼らの話を聞きながら黙ってにこにこしていただけ。イスカの話題が上っても答えていたのは大抵ジンロだったし、たまにイスカに話を振られる事はあっても、すぐにジンロが軌道修正して話題はイスカから離れていた。
前に新婚夫婦の家に泊った時も、イスカが妻との惚気話から逃れた時、後でジンロがフォローしてくれた事もあったか。
(……もしかして、ジンロ私が初対面の人と話すの苦手なのわかってて避けてくれてたのかな)
思えば夫婦に間違われて否定しなかったのも、本当の事情を話すのにひと手間ふた手間とかかるからだ。イスカの事だって、年頃の娘が赤の他人の男と旅を続けているなんてあまり良い印象は抱かれないだろう。
気づかぬうちにイスカはジンロに気を使われていたのだと思い知った。その事にイスカはひどく胸を締め付けられる。些細な事で怒って喧嘩して、ひどいことを言って、子供っぽい態度を取って彼を傷つけた。今になって意地を張っていた事を後悔するなんて。
「……ジンロ」
久しぶりにその名前を口にした気がする。喧嘩したのは昨日の事なのに、やけにその響きが懐かしかった。
昼間川を覗き込んでいた時と同じように、また胸が苦しくなる。ようやく分かった。どうしてあの時泣きそうになったのか。
「ジンロ、あの……」
胸がつっかえて鼻の奥がツンと痛んで、言葉がつなげない。言わなきゃ言わなきゃと心は急くのに、反比例して頭は真っ白になる。滲んだ視界の中に綺麗な金色が近づいてきた。そのまま彼の定位置に。
柔らかな羽の感触が頬に広がった。久しぶりに感じる温かさ、それだけで寂しさも後ろめたさも全て吹き飛ばされる。イスカもいつもそうしているように、その羽を優しくなでた。
―――ごめんなさい。
声にならかったけれど、ジンロにはきっと伝わる。自惚れでもなんでもなく、イスカの事をわかってくれるという確証があった。
その時、イスカの部屋の扉がノックされた。イスカは我に返って、扉の方を振り返る。
「イスカちゃん、まだ起きてる?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、ディータの声だった。イスカは慌てて目元をこすると何事もなかったように取り繕ってから扉を開ける。そこには寝間着姿のディータが相変わらず朗らかな笑みで立っていた。
「ディータさん、どうかしたんですか?」
「うん、少しね。寝る前に話したいなと思って、……入っていいかな?」
イスカは一瞬迷ったがここはもともとディータの家でイスカは客人だ。拒否するのも気が引けた。入室を促すとディータは落ち着かない様子で、テーブルの近くの椅子に腰かけた。
「この部屋どうかな?何か不便ない?」
「……ええ、素敵な部屋です。泊めていただいてありがとうございます」
改めてお礼を言うと、ディータも満足そうに笑った。だがその笑みが少しぎこちない。昼間の様子とは少し違う、イスカはそんな風に感じた。
「それで、話ってなんですか?」
「いや、特に用ってわけじゃないんだけどね。ただ君と話したかったというか……」
ディータは足を組んだり両手を揉んだり、そわそわと落ち着かない。それが逆にイスカを冷静にさせた。落ち着いてディータが話すのを窺う。
「イスカちゃんは旅をしてるんだよね?」
「ええ……」
「その旅の目的地は決まってるの?」
「―――いいえ」
戸惑いながらも否定した。実際イスカの旅の目的地は決まっていなかった。ただこれから来るかもしれない獣王から逃げるだけ、それがこの旅の目的なのだ。すると、ディータはへらへらと笑った。
「目的地が決まってないならさ……、ここにいるのはどうかな?」
「へ……?」
何を言われたのか一瞬わからなかった。目を点にして固まるイスカに対し、ディータを照れながらも淡々と告げる。
「実は俺……、というか俺たち君の事初めて見たときからすごく気に入っちゃってさ。父さんや母さんも君の事を認めていたし……、それで兄弟と相談してやっぱり最初に嫁を貰うのは長男かなって話をしていて」
「はっ!?嫁!?」
突拍子もなくとんでもないワードが飛び出したので、イスカは思わず立ち上がった。
話が飛躍しすぎではないか。今日偶然会って縁があって部屋を間借りしただけなのに、それが何をどうしたら嫁だのなんだのの話になるのか。
「なんだよ、そんなに驚いて」
「お、驚くにきまってます!そんなこと急に言われても―――」
「急じゃないよ。今日俺たちは偶然出会った。俺は君に好意を持ち君を家に誘った。君も俺たちを少なからず好感を持ったからその誘いを受けたんだろう?それで、十分じゃないか」
十分なんてそんなわけない。イスカは全く共感できない。
突然、イスカの目の前に座るこの男が得体のしれないものに思えてきた。立ち上がったまま、徐々にディータから距離を取る。警戒されたことが分かったのか、ディータはまたへらりと笑った。先ほどと同じ笑みのはずが、今は見え方が全く違う。―――怖い。
後ずさるイスカを追うようにディータが立ち上がった。びくりと肩が震える。
「わ、私っ……!もうお暇します!」
イスカはベッドのわきに置いてあった鞄を引っ掴むと、急いで扉に向かった。外はもう夜だ。夜の森は危険極まりないのは重々承知だが、今はそんなこと言っている場合じゃない。ここにいる方が、数倍危険だ。
部屋を出ようとしたとき、その退路を別の影が遮った。部屋に顔をのぞかせたのは、デルタとマルタだ。彼らも兄と同じように、不気味な笑みを浮かべてイスカを逃がさんと入り口をふさいでいる。
「なんだよ、兄さん。失敗したのか?」
「やっぱり兄貴じゃダメなんだよ。胡散臭さがにじみ出てる。じゃ、次は二男の俺がやってもいいかな?」
「待てよデルタ、俺の番はまだ終わってないだろ」
前方をデルタとマルタに、後方をディータに塞がれ、イスカは動けなくなった。三人はイスカを挟んで示し合せたように笑う。
何が何だかわからない。だが、イスカにとって都合の悪い状況なのは明らかだ。
さらにデルタとマルタの後ろからもう一人顔を覗かせた。彼らの父親、この家の主人だ。
「全くお前たち……、お嬢さんは繊細なのだから丁重に扱えといっただろう?」
まるでこちらの事を労わるような言い方だが、全く安心できない。主人もまた息子と同じように不気味な笑みを浮かべていたからだ。
「……怖がらせてしまってすまないね、お嬢さん。だが、彼らは真剣なんだ。出ていくとは言わず、もう少し話を聞いてくれないか?」
「なっ……、なんなんですか、あなたたち。一体何を―――」
「息子たちは君の事をいたく気に入ってしまったらしいんだ。勿論私もね。だから、君にはぜひこいつらのうちの誰でもいいから嫁に来てほしいんだよ」
主人はディータと同じようなことを言った。やはりイスカにはわからない。
「お断りします!私はあなたたちの元に嫁ぐ気はありませんから!」
「おや?おもてなしはお気に召さなかったかい?君に気に入ってもらえるように精一杯用意させたのに」
豪勢な食事に豪華な客室や衣服、それら全てがこの思惑の為だったと知り、イスカはさっと青ざめた。
「それとこれとは話が別です!とにかく、そういう話なら私は失礼します!宿泊代ならお支払いしますから!」
そう言ってイスカは貨幣の袋を取り出そうとすると、主人はぞっとするような笑い声をあげた。そして、地に響くような声でとんでもないことを告げる。
「お金なんていらんよ……、言っただろう?私たちは君がここに来てくれただけで嬉しいと」
「―――!」
「しょうがない……実力行使は好きではなかったが……。お前たち、お嬢さんがここに残ってくれるように少し可愛がってあげなさい。ああ、あまり乱暴にしてはいけないぞ、後遺症を残しては後が大変だからな」
家主の残酷な命令の元、三兄弟がイスカに迫る。あっという間に腕を掴まれ、寝台に引きずり倒された。
「っ!?」
イスカの体を押さえつけてくる男たちに恐怖で声すら出ない。退路を阻まれて逃げ場はないし、イスカの力では強行突破も出来ない。可愛がるなんてきっと碌でもない事に決まっている。
嫌だ、こんなの嫌―――
恐怖でパニックのイスカは必死に手足を動かして逃れようとするも無駄だった。ディータの手がイスカの胸元に伸ばされた時、
《動くな!イスカ!》
心臓に響く声がして、イスカは反射的に身をすくめた。それと同時に、室内でどっと風が吹きイスカはとっさに目をつぶる。頭上で空気が切り裂かれる音がして、次の瞬間体が解放された。聞こえたのは鈍い音と男たちの呻き声。そして主人の悲鳴。
「なっ―――!?なんだお前、どこから!?」
主人の慌てふためく声に顔をあげると、イスカの目の前に飛び込んできたのは見覚えのある男の背中。
「ジンロ!?」
「立てるか?イスカ」
ジンロは腰を抜かしている主人など目もくれず、イスカを起き上がらせて抱き寄せた。ジンロの胸に顔をうずめながら目だけで周りを見渡すと、寝台の下で伸びているディータ達三兄弟の姿が見えた。
「お前!何者だ!?息子たちに何をした!?」
「ちょっと蹴りいれただけだろうが、これくらいで喚くな、鬱陶しい」
ジンロは傍にいるイスカも背筋が凍るほど冷たい声でそう言った。主人は突然現れた謎の男に驚きを隠せない。しかもその男に屈強な息子たちを一瞬でのされてしまったためか、一時的なショック状態に陥っているようだ。
「……行くぞ」
気絶している三兄弟、腰を抜かしている主人。それら全てを無視して、ジンロはイスカを横抱きにすると、その背に翼を出現させた。
「ひっ――!?ば、化け物ぉ!!」
主人のその言葉とガラスが派手に壊れる音を最後に、イスカはもう何も聞こえなくなった。体が浮き上がる。恐怖に支配された部屋を飛び出し、そのままイスカは夜の森に投げ出された。




