第七話 空へ還る③
(あの人って一体……)
いなくなった嵐の様な男の事を考えていると、ジンロが傍らに立った。今ここにはイスカとジンロしかいない。塔下では騒ぐ民衆、眼前に控える動かない化け物。事態は何も変わらない、それなのにここだけはひどく静かで、穏やかな空気が流れている。
「……ごめん」
最初に町で出会った時と同じように、ジンロは謝罪の言葉を口にした。
「ごめんって……、何に対してよ」
「色々」
「だから色々じゃわからないでしょ」
あの時は何故謝られたのかわからなかったが、今は逆だ。思い当たる事がありすぎた。
思えばたったの数日だ。人間としてのジンロに会ったのはつい数日前の事なのに、もうこんなにも変わってしまうなんて。
―――いや、昨日今日の話じゃないんだわ。この人はもっと前からこうだった。
イスカが小さい頃からずっと、一緒に過ごしてきたのだ。変わったのではない、正しい在り方に戻ったのだ。
「顔痛くないか?……ぶったとこ」
「平気……」
「怪我は?どこも無いか?」
「無いわ。あってもかすり傷程度…」
「そうか……」
「……」
気まずい沈黙が流れる。ジンロは言葉を探しているみたいだった。イスカの方は違う、言いたい事はあるが、少し勇気が出ない。それでも、いつまでも黙っていたら化け物がいつ動き出すかわからない。
「ごめんなさい。馬鹿な事を言って……、あなたを傷つけた」
「……そうだな。もう二度とああいう事は言うな。心臓に悪い」
イスカは頷いた。言いたいことはそれだけじゃない。もっとずっと、この男に伝えたいことがたくさんある。
「おばあちゃんの手紙を読んだわ」
「……えっ」
「あなたとおばあちゃんの事全部読んだ」
ずっと傍で見守ってくれていた、祖母が死んだ後もその約束をずっと守ってくれた。それが全ての証明だ。ジンロがどれほどイスカを大切に思ってくれていたかなんて、それだけで十分伝わる。だからこそ今ジンロとどう向き合っていいかわからない。
手紙を読まれて怒ったり焦ったりするかと思ったが、ジンロの反応は意外にもあっさりだ。むしろ憑き物が落ちたみたいに晴れやかな顔になっている。
「そうか、全部知ってるんだな、俺の事も」
「ええ、あなたが何者かって言うのは正直なところまだよくわかってないけど」
「それでいい。お前は知らなくてもいい。ただ―――」
ジンロがイスカの方を向いてくれた。見た事も無い様な真剣な目で、ジンロは想いを口にする。
「どんな事があっても俺はお前の味方だ。絶対に裏切らない。それだけはわかっていてくれ」
不躾な態度のくせに、口から出てきた言葉はまるで懇願だ。子供が親に何かをねだる時みたいな、弱弱しくて必死な言葉だ。
信じたい、彼の事はたとえ何があっても裏切らない。祖母が遺してくれた絆だ、だからこそ―――この人だけに全てを背負わせたくない。
その時大きな音がして時計塔がぐらりと揺れた。バランスを崩したイスカをジンロが支える。町の向こうを見ると、ゆっくりと化け物の身体が動き出した。
「―――術が解けかけてる」
「――!?」
再び動き出そうとしている巨大な怪物にイスカは戦慄した。だが、イスカにはどうする事も出来ない。あれを止める力などイスカには―――
『君に出来る事がまだ一つある』
さっきリマンジャに言われた言葉がフラッシュバックした。イスカは弾かれた様にジンロを仰ぎ見た。
「ジンロ!私に出来る事って何!?」
「は?お前、何を―――」
「さっきの人が言ってたの!私に出来る事があるって!ジンロが知っているって!」
それを聞いた瞬間、ジンロは驚いた様に目を見開き、そしてまた目を反らした。この反応はどう考えても知っている。知っていて、渋っている。
「ちょっと!この状況で何を躊躇してるのよ!何か策があるんでしょ!時間が無いの!教えてよ!」
「さっき言っただろうが!俺が何者かなんてお前が知る必要はない!」
「意味がわからないわよ!答えになってない!」
激しい言い争いをしている中、また一度地鳴りが響いた。まずい、もうこれ以上は限界だ。市民たちも騒ぎ始めている。
業を煮やしたイスカはジンロの胸倉を掴んで自分の方に引き寄せた。真っ直ぐ目と目を合わせて、そして叫ぶ。
「いい、ジンロ。あなたは何があっても裏切らないと言ってくれた!なら私も同じよ!あなたが小鳥だろうと人間だろうと、化け物だろうと今更構ったりしない!」
「……!」
「守ってくれるんでしょう?助けてくれるんでしょう?なら私のお願いを聞いて!この町を守って!そのためなら私はどんなことだって厭わない!」
我ながら横暴だなと思う。だが、イスカにだって引けないものがあるのだ。
―――この町を、大切な故郷を守りたいんだ。
ジンロの目が揺らいだ。躊躇いを映していたその蒼の瞳が伏せられ、次にそれを開けた時―――獰猛な獣の目に変わっていた。
性急な変化に本能的に怖気づいたイスカの顔を今度はジンロが引き寄せる。さっきよりずっと至近距離で見るジンロの顔は先ほどとは別人だ。怖い、心臓がドクンと跳ねた。
「……覚悟は出来てるんだな」
「えっ……、と、何の……?」
どんな事も厭わないとは言ったが正直何の覚悟かイスカには―――。と、イスカは強烈な既視感に襲われた。この状況、ジンロのこの様子、―――人間として出会ったあの晩の事を思い出した。
ドクン
「ま、待って!噛むのは無理!無理だから!」
「噛む……?」
「もうあんな痛い事はやだ―――!!!」
「痛い!?痛いって何だ!?」
じたばたと暴れるイスカ。三度目の地鳴りがなったがもうイスカの耳には届いていない。
それどころじゃない、今目の前に迫る男の方がよっぽど命の危機を感じる。
ドクン
「待て!わかってる、傷つけないから!」
「……本当に……?」
イスカは暴れるのをピタッとやめた。だが後悔した。傷つかない代わりに与えられた代償は、
「傷つける……わけじゃないが、同じようなものかも」
「えっ―――!?」
言葉が紡げなかった。気が付けばイスカの口はジンロのそれに塞がれていたからだ。
柔らかくて生温かい感触が唇を伝って、全身に電流を走らせる。キスをされているのだと、頭が理解する頃には、ジンロは容赦なくイスカの中に侵攻し始めていた。
「―――ッ……!」
割り入ってくる舌の感触に背筋が震えた。引き下がろうとしても、いつの間にか背に回されていたジンロの両腕に背と後頭部を固定され退路が遮られている。逃げ場がない、イスカはただひたすらにジンロのキスを受け入れるしかなかった。
ドクン ドクン
息が出来ない。苦しい。身体が熱くてぼうっとする。でも嫌じゃない、むしろ―――
身体が思うように付いていかない。ただ与えられる感触をそのまま受け止める事しか出来ない。こんな経験は初めてだ。
それなのに、ジンロは容赦がなかった。口内を蹂躙し全てを抉りとる様に深く激しく口づける。まるで理性を失った獣のようだと、イスカは思った。
(このまま、喰い殺されてしまいそう―――)
ドクン ドクン ドクン
頭が真っ白なのに色んな事がぐるぐると頭の中をよぎる。
恐怖はいつの間にか消え去った。感じるのはジンロの唇の感触と、イスカの奥で燻る熱い衝動、そして心臓の音。ドクドクとうるさい、イスカの身体の中で独りでに暴れている。何かを求めている。でも何を―――?
ドクドクドクドク
ジンロがようやく唇を離した。伝う銀糸の一筋すら残さないようにゆっくりと。そして、――笑った。
ドクンッ
心臓が一際大きく脈打ったのと、後方で何かがひび割れる音がしたのは同時だった。術が完全に解けた、化け物が再び暴れ出す。だが、意識が朦朧としたイスカの目に映るのは、獰猛に笑う一人の男、その姿が強烈な光を帯び、そして変化していく様だった。
光は膨らみ、時計塔の踊り場一杯にまで広がった。眩しくて目を開けていられない、だが、見逃してはいけないと無意識に目を凝らした。
やがて光が収束した時、そこにいたのは人間の男ではなかった。
金色に虹色がかかった美しい羽、そして三本の脚をもつ怪鳥。全長は五メートル近くあり猛禽類よりもはるかに大きく、巨大な嘴と爪も頑丈で鋭い。おまけに翼には細かなかまいたちの様なものが纏わりついており、触れるものを一瞬で細切れにしてしまいそうだ。恐ろしい、どこをとっても危険な怪物だ。
だが、それ以上に美しかった。この世の物とは思えない、息を呑むほど美しい生き物だった。
「……ジン、ロ?」
回らない舌で名前を呼ぶ。鳥はその長い首をもたげ、へたり込んだイスカの目線に合わせた。
蒼いラピスラズリの瞳、ジンロと同じ美しい宝石の色。
《―――乗れ》
心臓に直接声が響いた様な気がした。目の前に差し出された鳥の頬と嘴をそっと撫でる。幻ではない、本物の羽の感触。
「すごい、ふわふわだ……」
《感想それかよ……、もっと言う事あるだろうに》
見目は美しい鳥なのに、伝わる思考はジンロそのものでなんだかちぐはぐな感じがした。それでも目の前にいるのはジンロなのだと、すとんと腑に落ちる。さっきまでのジンロの行為も何もかも頭から消え、イスカはすっかりその姿に目を奪われていた。
後方で地響きがなる。ジンロがもう一度催促をすると、イスカは迷わず大鳥の背中に飛び乗る。イスカが首に手をまわし落ちないように固定したのを確認すると、ジンロはその大きな翼を広げ力強く舞い上がった。




