第七話 空へ還る①
リンデは華奢で老獪な外見に似合わぬとんでもない暴君だった。
出会いがしらに鈍器で殴られるわ、普段小鳥の姿を強要させておいて人手が必要になったら馬車馬のようにこき使うわ、ある日イスカと喧嘩した時には食事を全部とりあげられた事もある。まあそれらの大半はこちらが悪いせいでもあるから自業自得と言えばそれまでだが、それにしたってきつい物言いや横柄な態度には釈然としない事があった。
けれどリンデは子供に対しては決して理不尽な叱り方をしなかった。特に孫のイスカに対しては厳しいながらもどこまでも優しく、俺は別人なんじゃないかと何度も目を瞬かせた事もある。
リンデは不思議な女だった。俺の様な奴を簡単に引き入れて、イスカの近くにおいて、何を考えているかわからなかった。だからこそ惹かれるものがあったのだと思う。だがそれは決して男女間によくある恋愛感情ではなかった。きっとリンデにも同じ質問をすればこう言って笑うだろう。「お前なんか死んでもごめんだね」と。俺たちはそうじゃない。もっと別の、秘密を共有し合う悪友の様な、同じ前線に立つ歴戦の盟友の様な、それが全てだった。
そのリンデが病に伏した時、俺は最初何かの冗談じゃないかと思った。こんなに横暴な女が、刺されても死なないんじゃないかってくらい強い女が、病であっさりと倒れ見る見るうちに弱っていった。
その時の想いをどう表現すればいいのか?
俺はただ悲しむ事も出来ずリンデのいないあの家で立ち尽くしていたのだ。
彼女の病が末期に入って、俺はようやく病院を訪れた。数年ぶりに人間の姿になって、リンデの枕元に立った。
「お前、その姿になるのは久しぶりだね」
リンデは弱弱しくそう言った。
「私を殺しにきたのかい?確かそういう約束だっただろ?」
「……お望みなら今すぐ息の根を止めてやろうか死に損い」
「構わないよ、どうせ私はもう死ぬんだ。今も少し先も一緒だ。―――けど、お前は結局私には一度も勝てなかったねぇ。こんなになるまで手をかけなかった時点でお前の負けだよ、御愁傷さま」
覇気はなくても相変わらず口の減らない女だった。本当に今ここでこいつの心臓を握りつぶしてやれたらどんなに楽だろう。過去もしがらみも一切捨てて、自分の思う様に生きる事が出来たら。それが出来なくなったのは―――
「イスカはちゃんとご飯食べてるかい?」
「……食べてるよ、隣の宿屋の女将が世話してくれている」
「そうかい、それなら安心だ」
リンデは安堵して柔らかく笑った。そのまますうっと逝ってしまいそうなくらい穏やかな笑みだ。
この女は本当に孫に甘い。俺の前ではこんなに刺々しいのに、イスカの前では本当に『おばあちゃん』なのだ。
「イスカの事、ちゃんと見ておいておくれ。あの子は普段人に見せないけど、凄く寂しがり屋なんだ」
「知ってるよ、何年一緒にいたと思ってるんだ」
「ふふ……、やっぱりお前は変わり者だねぇ」
この女には一番言われたくない台詞だった。リンデは大きな咳をすると、急に真剣な顔つきに戻った。
「ジンロ、約束だ。私が死んだらあの子の事は好きにするといい」
「……そうか、そりゃあ何よりだ」
俺は皮肉気に笑った。その一方で心臓の奥底がずきりと痛むのを確かに感じた。
「ただし、もう一つだけ制約を交わしておきたいと思う。お前がイスカとその姿で会うための条件だ。いいかい?」
いいかい、と尋ねる割にはこちらの是非など求めていないのがこの女だ。リンデがその制約の内容を話し終わると、俺は露骨に顔をしかめてやった。
「おい、それ一つじゃなくて二つじゃないか。しかも、一つ目はともかく二つ目は何だ?絶対にありえない。一つでいいだろ」
「いや、わからないよ。言っただろう?あの子は寂しがり屋だって」
リンデは不敵に笑った。これは自分の理論に絶対的な自信がある時の笑みだ。こうなるとこっちが折れるしかない。長年の付き合いでそれくらいは察していた。
「必ず守れよ。もし破ったら地獄から這い上がってお前を引きずり下ろしてやるから覚悟しな」
随分勇ましい捨て台詞だ。俺は肩をすくめると、リンデはゆっくりと目を閉じる。
それが俺、ジンロ=ベルテが見た最期のリンデの姿だった。
あれから三年、もう俺はずっとあの女の忘れ形見の傍についていた。
この町を訪れた目的である少女は、祖母が亡くなっても懸命に生きていこうとした。ドジで抜けててずぼらで、だらしのない所もいっぱいあるけど、俺はあいつが一生懸命な所を沢山見てきた。上手くいかない事があるとすぐに泣きだして、その度に俺は心をかき乱されるようになった。
最初は食べるために近づいたこの少女に、いつしか俺は強い庇護欲を抱いていたんだ。
そうだ、あんたの言うとおりだよリンデ。
俺はもうこいつを喰えない。
俺が思う様に生きられなくなった最大の原因。
それはイスカに愛情を持ってしまった事だ。
そしてそう仕向けたのは他でもないお前なんだよ、リンデ。
◆
空は橙から群青に変わり、もう間もなく夜が訪れる。徐々にぼやけていく輪郭の中で、幻影とも見間違いそうな光景がイスカの目の前に広がっていた。
全身を鱗に覆われた男と背に翼を背負う男、その二人が対峙する。どちらもこの世の者とは思えないくらい浮世離れしていた。かくも見事な、美しく完成された化け物だった。
《お前は毎度毎度……どうして私の邪魔をする?そんなにその娘を喰らわれたくないか?己の手中に収めたいか?》
「……もうお前には何を言っても無駄だろうな」
ジンロは憐みに満ちた目でビルを見た。もはや人間の姿さえ成していない不安定な存在を批難するように、同族の哀れな末路を悼むように。
イスカはジンロから目が離せなかった。どうしてここにきてくれたのか、イスカにはもうわかっている。それでも、その虹色に輝く翼がまるで幻に感じられた。
言葉を失くしていたイスカを我に返したのは腕の中で呻くローレンスだ。イスカは慌てて彼の顔を覗きこむ。暗がりで深く読み取れないがその顔色は明らかに悪い。
(どうしよう……!早く、止血だけでも)
イスカとローレンスが乗ってきた馬車はこの混乱の中脱兎のごとく走り去ってしまった。
前方でジンロの舌打ちが聞こえた。不機嫌な顔でこちらを垣間見たジンロは、足元に転がっていたローレンスの剣を蹴りあげる。剣はクルクルと回転し吸い込まれるようにジンロの手の中に収まった。
「時間が無いからとっととけりつけるぞ」
言うが早いか、ジンロは目にもとまらぬ速さでビルに間合いを詰めた。人間では到底成しえない高速移動、まるで風を纏ったみたいな動きにイスカは息をのむ。
その勢いでジンロは先ほどローレンスがしたように、ビルの鱗に覆われた首筋に向けて剣を叩きこんだ。ビルも今度は悠長に受け止めない。寸でのところ腕でガードを取る、しかし、
《ぐっ……!》
鱗で覆われていたはずの皮膚が裂け黒い血が飛び散った。切り落とされるのを避けるため、身体全体を捻って剣を受け流す。その顔は苦痛と焦りに苛まれていた。
ジンロは休む暇を与えない。流れる様な動作(本当に剣が流れているみたいだった)で、次々にビルの表皮に傷をつけていく。使っているのはローレンスの剣なのに、その斬撃は確実にビルにダメージを与えていた。
(あれは……風?)
さほど動体視力の高くないイスカでもこの暗がりで捕らえる事ができた。斬撃の瞬間飛ぶ火花に交じって小さなかまいたちが剣に纏わりついていた。何度か確認してようやく気づく。ビルに傷を負わせているのは剣ではない、このかまいたちだ。
先ほどとは一転して、今度はビルが追い詰められ膝をつく番だった。彼を追い詰めているのが、あのジンロであるという事に驚きを隠せない。
「地獄に戻れ、蜥蜴の王」
《……はっ……、誰が……》
諦めの悪いビルはもはや人間のものとは到底思えない程深く裂けた口でにいっと笑った。追い詰められているはずなのに、ビルは戦意を失わない。それどころか、まだ勝ち誇ったような顔をする。
イスカはゾクリとする。身体の奥がざわめいて仕方がない。
―――何か来る。
イスカの直感が疼いた。ざわざわと周囲の空気がざわめく。大きな胎動が聴こえる、どこから―――?
「残念だが悪あがきはよせ、お前はもう限界のはずだ。その身体も、精神も」
ジンロが剣を構えた。切っ先を眉間に突き付けられても、ビルは動じない。
来る、何かが来る。
イスカはもう二人を見てはいなかった。何かに急かされるように辺りを見渡す。風の音、ランプの爆ぜる音、水路のさざ波、その一つ一つを聞き洩らさぬように全神経を集中させて、―――その異変に気付いた。
地面だ。地面の石畳がどくどくとまるで一つの生き物みたいにうねっている。その微かな振動が、イスカの身体に伝わってくる。
どくどく
それは徐々に速さと大きさを増し、やがて周囲一帯の地面が目に見えて脈打ち始めた。
「―――ジンロ!」
イスカはとっさにジンロに警告する。だがその瞬間地面が一層大きく脈打った。石畳がぐにゃりと変形する。その固い地面を破って鱗を纏った隆起物が生えてきて、それらが一斉にジンロの背に襲いかかった。
「―――!ちっ!」
剣を構えていたジンロは上空に飛来しこれを避けた。虹色の光が宙を舞う。隆起物たちはそれを追わなかった。追わないまま、ジンロの傍らに膝をついていたビルの身体をまっすぐに貫いた。
「なっ!?」
これに驚いたのはイスカたちだ。ジンロも予想外あったのか戦慄の表情でその光景を見下ろしている。
隆起物は主であるはずのビルの身体を無残に貫き、あろうことかそれを飲み込み噛み砕き始めた。動植物の捕食の様な動きと音にイスカは直視できず目を背け耳を塞ぐ。その隙間から不気味な笑い声が響いた。―――ビルだ。
ビルは笑っていた。身体を噛み砕かれ、ぐちゃぐちゃにすり潰されてもなお笑っている。その笑いはすでに人間の喉から発せられているものでは無かった。脳に直接響いて来るようなおぞましいものだ。
《ジンロ、お前は私が限界と言ったな?――逆だ、私は進化したんだ、お前たちの様に人間の姿に執着しない、もっと別の次元の存在に》
「なんだと……?」
《私はもう蜥蜴じゃない、…人間でもない。そんな形態に囚われない》
もはや原形をとどめないビルの声がする。ビルを喰った隆起物たちはやがて融合し、そしてむくりと新たな形態をとりだした。
それは以前河原でビルと邂逅した時に見た巨大な蜥蜴の姿に似ている。けれど、違う。
人でも獣でもない、形象しがたい何か―――
《お前たちはわかっていない。これが、これこそが》
それは言う。口に見えない口と、目に見えない目を開いて笑う。
《―――獣王だ》
ビルが地面をならした。その瞬間イスカの身体が跳ねる。イスカは慌ててローレンスを抱え庇った。
逃げ場がない、もはやこの周囲の地面一帯が彼の勢力圏に入っている。空間が歪んでいる、地面も周りの建物も狂ったように揺れ動く。
「やめて!おばあちゃんの家!」
イスカの脳裏によぎったのは、自身の心配ではなかった。視界の端に映り込んだイスカの家がその波動に巻き込まれて大きく傾き始める。イスカの家だけではない、隣のシャロンの宿もその御近所も全て―――。
「やめて!お願いやめてよ!!」
イスカの懇願も虚しく、一際大きな唸りがイスカを煽りイスカとローレンスの身体が宙を舞った。眼前に迫るのは、得体のしれないビルだった何かだ。
「―――!!」
イスカは息を呑んだ。このままあいつに喰われるのか、そう思った時、鋭い風がイスカの身体を攫った。と、同時にイスカの視界が突然グンと遠ざかる。
「―――ジンロ!!?」
「そいつ離すなよ!」
気が付けばイスカの身体はジンロに抱きかかえられていた。勢いをつけて一気に化け物から距離を取る。一方のイスカは空に浮いた状態で、抱えていたローレンスを取り落とさないように必死に抱え込んだ。イスカよりずっと身体の大きいローレンスを宙で抱えるのは至難の技だったが、泣き言は言ってられない。落としたら死ぬのだ。
幸いにもジンロもローレンスの身体を支えてくれたおかげで取り落とす事は無かった。二人を運びながら易々とその翼で飛ぶ。だが、その彼は後方の化け物を警戒していた。
「一旦引く。このままじゃ分が悪すぎる」
「そんな!あそこにいる人たちは!?」
「今はそんな事言っている場合じゃない!!」
ジンロに背中側から抱えられているイスカは背後が見えない。だが、ガラガラと瓦礫の崩れる音、地鳴り、悲鳴。背後で何が起こっているのかなど、見えずとも明らかだった。
イスカはぎゅっと目をつぶり、ローレンスを抱え直す。例えイスカがあの場に留まっていたって出来ることなどない。ジンロの判断は正しい。
イスカはただ目をつむって堪える事しか出来ない。己の中の誰にもぶつけられない怒りが今にも飽和しそうだったからだ。




