第六話 おばあちゃんとの約束②
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家へと向かう道中、馬車の中ではずっと無言だった。隣には腕を組んで仏頂面をしているローレンスがいたが何を話してよいのかわからない。というのも、イスカの頭には以前ローレンスに教えてもらった獣王に関する真実がずっと頭から離れないからだ。
(私はどうすればいいんだろう?あの鱗の男に狙われているというなら、私はもう―――)
ここ数日、何度か数える事も煩わしい位考えていた事だ。そして考えれば考えるほど深みにはまる。それと同時に虚しくもなった。命を狙われるという恐怖より何かを失った空虚な想いが拭えない。
「着いたぞ」
気づけば馬車は止まっており、家の前に横付けされていた。
数日、家を開けたのは僅かな間のはずなのに、もう随分家に帰っていなかったような物悲しさを感じる。
「一時間ここで待つ。何かあったら呼べ」
「……ローレンスはこないの?」
「……」
ローレンスはすぐには答えなかった。その顔には少しばかりの葛藤が映っている。
「……俺はいい、俺はもうここには足を踏み入れない」
それは過去との決別だった。その意思は堅く、もうイスカが何を言ってもそれは崩せないのだと悟った。
イスカは一人玄関の鍵を開けて家に入る。
空気の止まった、冷たい空間が広がっていた。薄暗かったのでランプを付けると、開け放たれた教室の中がリビングから見える。あの日の朝子供たちが遊んでいたままとっちらかった室内。今はしんと静まり返って閑散としている。
「片付けなきゃ……」
イスカは呟くと、淡々と掃除を始めた。台所を綺麗にして、食材を確認する。食べられそうなものはあとでシャロンに言って引き取ってもらえばいい。一通り終わると今度は教室の片付けも始めた。
「またこんなに散らかして……、読んだ本は片付けなさいっていつも言ってるのに」
塾が休講になってからずっと綺麗に整頓されていたはずの教室。たった数時間あの子たちがここにいただけで、積み木が崩れ本が投げ出され、あちこちに散乱していた。イスカはやれやれとため息をつくとそれを丁寧に片付け始める。ただ黙々と、ものをあるべき場所にしまうだけ。
それなのに、イスカの目にはいつの間にか大粒の涙が浮かんでいた。
「うっ……、うう……」
持っていた絵本の上に涙がパタパタと落ちる。
この三日間、ずっと抱いていた拭いきれない虚無感。
イスカはもうわかっていた。イスカはもうここで先生をやっていく事は出来ない。
イスカは二度も子供たちを危ない目にあわせた。それもイスカのせいだ。子供たちの親はきっともう子供たちをこの塾には来させないだろう。
イスカも鱗の男に狙われている以上、これまで通りの生活なんて送れない。自分のせいで大切な人たちを巻き込む事なんて出来ない。
(ここにいる事が楽しいって、皆言ってくれたのに。私は皆の願いをかなえる事が出来なかった……!)
イスカは声をあげて泣き続けた。自分の夢も大切な想いも、―――大事な家族も全部失った。これからどうすればいいのかイスカにはわからない。道は真っ暗でどこにも行けない。もう、イスカには―――何も無い。
カタン
その時誰もいないはずの教室で小さな物音が響いた。イスカははっとして顔をあげる。
教室の奥に続く扉が開いていた。そこはイスカも滅多に行く事は無い、亡き祖母の私室として使われていた部屋だった。
イスカはその部屋の奥をじっと見つめた。何故だろう、誰もいないはずなのに、誰かに呼ばれている様な、そんな気がしたのだ。
イスカは泣くのをやめ立ち上がると、恐る恐るその部屋を覗きこんだ。
中には誰もいない、けれど何故かこの部屋だけ不思議な気配がする。イスカはランプを付けると部屋中を見渡した。部屋の隅には授業に使う地図や図形版、大型定規などイスカもたまに使う道具が乱雑に置かれている。入り口の正面、部屋の奥にあるのが祖母の作業机だ。
「そう言えばおばあちゃん、ここでよく本とか読んでたっけ」
懐かしさを噛みしめながら部屋の奥へと足を踏み入れる。机の棚には沢山のノートが並んでいた。その一つを手に取ると、その表紙には『成績表』と薄い字で書いてあった。
「嘘、おばあちゃん今までの生徒の成績全部まとめてある……」
そのノートには気の遠くなるような細かい字でびっしりと名前と数字が書かれていた。普段豪快でさばさばとした祖母らしくない緻密で丁寧な作業だった。
他のノートも手に取って読んでみると、祖母が今まで行ってきた授業の指導案や集めた資料、反省点などが書かれていてイスカは感心しながらそれを読みこんでしまった。
やはり祖母は凄い。本当に尊敬できる教師だった。だからこそ、イスカは祖母に疑問を持ってしまう。
―――おばあちゃんはジンロの事をどこまで知っていたんだろう?
ジンロは元々祖母の飼っていた鳥だった。イスカが物心ついた時には、ジンロはもうこの家にいた。ずっと鳥の姿でイスカの傍についていた。
『仲良くしてやっておくれ、イスカ』
そう言って掌に乗せられたジンロを初めて見た時、イスカは何て綺麗な羽の色なんだろうと、一目見て彼を気に入ったのだ。
(おばあちゃんはジンロの正体を知ってた?知ってた上で私と仲良くさせようとしてたの?)
イスカは大きく頭を振った。ダメだ、このままでは祖母の事まで悪い想像を立ててしまう。邪念を振り払う様にイスカは机の上を見まわすと、その隅っこにこれまで見てきたノートとは違う、小さな手帳の様なものが目に入った。
そっとその表紙に触れてみる。机の上には埃が被っていたが、何故かこの本だけは綺麗なままだった。
イスカはその本を開いてみる。それは祖母の日記だった。
『今日は授業中エリオットを怒鳴りつけてしまった。皆怖がった、泣いてしまう子もいた。私の悪い癖だ、気をつけよう。明日は皆ちゃんと来てくれるだろうか?怖くなって来なくなってしまったらどうしよう?』
『今日は皆でお菓子作りをした。子供たちは楽しんでくれた。たまにはこういう授業も良いかもしれない。料理をする中で食べ物の大切さと料理の楽しさを学ばせる事も出来る。マナがまたやりたいと言っていた。一カ月に一度はこんな日を作ってみよう』
そこには祖母の若い頃の教師時代の想いが綴られていた。失敗した事、上手くいった事、嬉しかった事、悲しかった事、楽しかった事、全てそこに綴られていた。
「……なんだ、おばあちゃん。私と同じ事で悩んでたんだね」
そのどれもがイスカにとって共感できるものだった。それがなんだか嬉しくなって、イスカは夢中で読み進めた。
すると、ある日の出来事にイスカの名前が出てきた。
『王都に渡っていた娘夫婦が亡くなったと聞かされ、私は慌てて王都へ向かった。馬車の事故らしい……呆気なかった。もっと悲しむかと思ったが、それほど涙は出なかった。私が薄情なのかしら?いや、私が悲しんでいる場合じゃないのだ。この子の、イスカの為にも私は強くあらねばならない。まだ赤ん坊のこの子を守っていくのは私しかいないのだから』
それはイスカが祖母に引き取られた時の事だった。イスカは両親の事はよく覚えていない、少し大きくなってから両親は事故で亡くなったのだと聞かされた。ショックだったが悲しくはなかった。その時すでにイスカの傍には祖母や多くの仲間たちがいてくれたからだ。
もう少し先を読み進める。そこにはイスカが来てからしばらくの事が書いてある。そして、その名前が現れた。
『今日妙な男が現れた。そいつはいつの間にか家に忍び込み、リビングで眠っていたイスカに何かしようとしていた。私は間一髪で傍にあったフライパンで思い切り殴ってやった。すると不思議な事にその男は気を失って小さな鳥になってしまった。しばらくすると鳥はまた男の姿に戻ったのでロープで縛ってやった。騎士団に突き出してやろうかと思ったが、あまりに変な奴なのでちょっと話を聞いてやると、男はジンロと名乗った。こいつは腹がすいていたらしい。事情を聞くと、……何というか世の中にはいろんな奴がいるもんだと思った。ここにはあえて書かない、胸の内だけに仕舞っておこう。
本当ならとっとと騎士団に連れて行った方が良かったのだろうが、でも困った事に私はジンロに興味が湧いてしまった。大事な孫娘を襲った奴なのに、だ。でも仕方ない、本当に面白い奴だったんだ。だから私は釈放してやる代わりに交換条件を与えた』
イスカは茫然としながら、祖母の手記を読んでいた。やはり祖母はジンロの正体を知っていた。知っていた上で、鳥の姿のジンロをここに住まわせていたんだ。
(でも、交換条件って何……?)
イスカはその続きが気になってページをめくる。すると、そこから手帳と同じサイズの封筒がすとんと落ちてきた。
イスカは慌ててそれをキャッチする。どうやら手紙の様だ、手帳に比べてまだ新しいがすでに封は切られてある。封筒の表にはこう書いてあった。
『ジンロへ 私が死んだら読むように』
イスカはドキリとした。震えた様な文字、おそらく祖母が亡くなる直前に病床で書いたものだろう。宛名はジンロ、その封が切られているという事は―――。
イスカは悪いと思いながらも手紙を取り出して読んでみた。祖母が遺したジンロへのメッセージ、一体何が書かれているのか知りたかった。
◆
ジンロへ
この手紙は病棟の中で書いています。私はもう長くない。それでもいい。私はもう十分生きた。沢山の人に囲まれて、イスカやあんたという家族がいて、とても嬉しかった。私は幸せ者だ。
こうして人生の終わりに近づき、自分の人生を振り返っていると、不思議な事に浮かんでくるのはお前の事ばかりだ。
初めて会った時それはもう衝撃を受けた。イスカを食べようとするのもさることながら、鳥になったり人間になったりするなんて。
あんたは初めてこの家に来た時言った。イスカはいずれある者たちに命を狙われるのだと。それがイスカの運命なのだと。
だからそうなる前に俺が喰ってやるんだと馬鹿な事を罵った時は、本当に殺してやろうかと思った。でも私はふと思ったんだ。あんたはそうやって言うけど、それは裏を返せばこの子の事を心配している様にも取れるんじゃないかってね。だから、もしあんたに本気でこの子への情が生まれたら、本当にこの子の事を喰えるのか、疑問に思った。だから私は賭けをしたんだ。
許しておくれ、私はあんたとイスカを試したんだ。お前を解放する代わりに、今から十五年イスカと共に過ごしてみろ、と。それでもイスカをどうにかしたいというなら、私を殺してからやってみろと、私はお前に持ちかけたのだ。
振り返ってみて思う事は、やっぱりお前は変な奴だったよ。私との約束を律義に守るんだから。まあ私はいつお前がイスカに危害を加えないか目を皿の様にして見張っていたけどね。もし少しでも手を出そうもんなら、小鳥の姿だろうがなんだろうが容赦なく殴り殺したよ。
それで、もうすぐ期限の十五年が過ぎようとしているわけだけれど、お前はまだイスカを食べる気でいるのかい?
答えはノーだ。お前はもうイスカに手出しなんか出来ないだろう?お前はあの子の事を大切に思っている。十五年もずっとお前たちを見ていればわかるよ、お前はそういう奴なんだ。
賭けは私の勝ちだ。
だからお前に頼みたい事がある。
あんたの言っていた事が本当ならイスカはきっとこの先辛い想いをする事になる。あの子は私のたった一人の肉親なんだ。あの子が悲しい思いをするのは私だって辛い。
だからあんたが傍にいてあげておくれ。十五年間、あの子の事を見続けてきたあんたなら信用できる。きっとイスカを守ってくれる。
私がいなくなった後、あの子の事を支えておくれ。
本当はイスカにお前の事を話してから逝きたかったけれど、それだとお前との契約が破綻になりそうだからね。
最後に一つ、今まで本当にありがとう。
お前のおかげで随分楽しい余生が過ごせた。
出会いは最悪もいいところだったけれど、なんだかんだ言って私もお前の事を気にいっていたよ。
イスカの事を頼みます。あの子に謝罪を、そして愛していると伝えて
お前にも神の祝福があらんことを
リンデ=トンプソン
◆
祖母の名前が記された所が皺皺になっていた。もうすっかり乾いているが、それは確かに涙の痕だ。
この手紙を呼んだ人間がこぼした涙、誰だったかなんて考えなくてもわかる。
その涙の主はこの手紙を読んでどう思ったのだろう?祖母に託された最期の願いを彼はどんな気持ちで受け止めただろう?
不思議なほどに、イスカの中に浮かぶのは今までずっと一緒に過ごしてきた彼との思い出。嬉しい時も悲しい時も、いつも彼は飛んできてくれた。
慰めてくれた、守ってくれた、勇気をくれた、愛情を貰った。
イスカはようやく気付いた。あの愛する小鳥が今までくれた温かさは決して嘘ではなかった。ならば人間の時は―――?たった数日共に過ごしただけでも、あの人の優しさや温かさは確かに同じだった。
イスカは肩口に手を当てた。あの時ジンロは私を食べようとした?それは本気で?それともただの本能?
『あんたが自分の心の中にある真実だけを信じていれば、』
いつの日か祖母はそう言っていた。これはこういう事だったのかもしれない。
「……ありがとう、おばあちゃん」
イスカは手紙をそっと握りしめた。何故だろう、祖母が近くでイスカの事を見守ってくれている様な気がした。
だからイスカは一つの決意をする。祖母の遺志に報いる為に、自分が出来る最良の選択を。




