第一話:日常
手の中で、剣が震えていた。
俺の顔や体に着いた血は、俺の血か、あいつの血か、もう分からない。
緑色の汁がこびりついた刃を、ただ見ていた。
少し離れた場所で、知らない大人が、石田の腕に止血帯を巻いている。
石田の腕は原型をとどめていない。
肉は裂け、白い綺麗な骨が、腕のようなものからところどころ飛び出している。
腕、俺は今の石田の腕を見て、そう言えるのか。
俺は、何もできなかった。
剣を取れば、何かになれると思ってた。
何か出来ると思ってた。
なれなかった。
出来なかった。
——その日、生まれて初めて思った。
強くなりたい、と。
* * *
世の中には、二種類の人間がいる。
朝、ぱっと起きられる奴と、そうじゃない奴だ。
俺は、完全に後者だと思う。
一回鳴ったアラームとスヌーズ機能を無視して、布団をかぶる。
「悠ー!遅刻するよー」
母さんのモーニングコールだ。
俺は一人暮らしになったら、起きられるのだろうか。
最終手段は母さんの声を目覚ましにすることだ。
なんて無駄なことを考えながら、うるさいスマホのアラームを止める。
スマホのブルーライトが、俺の目を焼く。
そこには、8:12の数字が。
遅刻はしないが、早歩きしないと学校には間に合わないだろう。
たぶんギリだ。
顔を洗って、寝癖を直し、歯磨きをしながらブレザーに着替える。
うちの高校は珍しくブレザーだ。
2階から1階に降りると、台所から、味噌汁のいいにおいがした。
「おはよ。悠、早くしないと遅れるよ」
母さんが、弁当を風呂敷に包みながら言う。
「わかってるって」
俺は立ったまま味噌汁をすすって、卵焼きを一個つまんだ。
うちの卵焼きには砂糖が入っていない。
将来、俺のお嫁さんはしょっぱい卵焼きとおいしい味噌汁を作れる女の人がいいなぁ。
「座って食べなさい」
「時間がやばいから!」
「あんたねえ。誰に似たのかしら…」
目の前で立ったまま、卵焼きをつまみながら母さんが言う。
自覚はないんだろうか。ツッコミ待ちか?
父さんはもう仕事に行ったようで、テーブルには読みかけの新聞が広げっぱなしになっていた。
一面の見出しは、どこかのダンジョンで新しい階層がどうとか、そういう話だ。
うちの親は二人とも、ダンジョンってやつにいい顔をしない。
二人が若い頃は、ダンジョンのせいで世界がめちゃくちゃになった時代だった。
俺だってその世代に生まれてたら、同じ顔をしていたと思う。
「今日も、行くの。あそこ」
弁当を差し出しながら、母さんが言った。あそこ、っていうのはダンジョンのことだ。名前を口に出したくないん
「まあ、ちょっとだけね」
「1階層だけでしょうね」
「わかってるって。2階層なんて、行きたくもないし」
ジュニアライセンスを取るとき、結構もめた。
俺がごねにごねた。世間一般の中高生は探索者に憧れるらしいが、俺はそんなことはない。
ひと月3千円のお小遣いだと、ゲームを買うのが厳しいからだ。
怪我の危険性がある代わりに、なかなかダンジョンは稼げる。
でも、そんなことを正直に話したらバイトをしろって言われるのは明白だ。
命を懸けるほどのことでもないってね。
だが、俺にとっては死活問題。
だから、そこら辺の高校生が言いそうな、夢や憧れを語り、ジュニアライセンスを勝ち取ったってわけ。
1階層だけなら、と渋々許してもらった。1階層だけ。それより下には行かない。
1階層だけでも、放課後にスライムを2、3体倒すだけで1000円弱にはなる。
バイトみたいにシフトを組んだり、厄介な客の対応をしなくてもいい。
自由ってのはいいことだ。
弁当を鞄にしまっていると、母さんが俺の肩のあたりをぱっと払った。
「糸くずついてるよ!」
「ありがと」
「はいはい」
高校生にやることかよ、と思う。
そういえば父さんも昨日の夜、めずらしく俺の部屋を覗いて、「勉強、ちゃんとやってるか」とだけ言って、すぐ引っ込んでいった。
ちゃんとやってるはずもないのにな。
うちの親は二人とも、そういう不器用なところがよく似ている。
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
通学路は、毎日同じ。
同じコンビニ、同じ信号、同じ犬を散歩させているおじさん。
たまには入れ替わったりしてないかな。
時たま変わることはあるけれど、代り映えのない普通の通学路だ。
天気は、むかつく程良かった。
雲一つない、きれいな青色だ。
学校まで歩いて十五分。早歩きなら、十二分ぐらい。
もうちょっとゆっくり歩きたい気もしたが、急がなきゃ遅刻だ。
少しでも睡眠時間を伸ばそうと、時間を前借した俺の責任だ。甘んじて受け入れよう…
教室に着くと、前の席の田島が、椅子ごとこっちを向いた。
「中村、おはよ。なあ、今日の英語、小テストあったよな」
「は?あったっけ」
「あったよ。お前それで毎回赤点なんだぞ」
「人のこと言えんのか、お前」
「俺は昨日、ちゃんと五分やった」
五分。
五分で何ができるんだろうか。
まあ、俺は昨日勉強してないから、こいつより赤点を取る確率が高い。
「じゃあ俺は今から六分やるわ」
「一分多いだけで勝った気になるなよ」
田島がけらけら笑う。
俺もつられて笑った。
こいつとは、こういうどうでもいい話が一番続く。
逆に、どうでもよくない話はしたことがない気がしてきた。
ふと、教室の前のほうが、少しだけ華やぐ。
石田だ。石田誠。
何人かに囲まれて、笑っている。
背が高くて、姿勢がよくて、立ってるだけで様になる。
同じ制服を着てるはずなのに、こいつだけ、なんか別の学校から拝借してきたんじゃなかろうか。
勉強もできて、運動もできて、性格までいい。
おまけに4階層だかなんだかまで潜ってる、ガチの探索者だ。
なんで、この高校に来たんだろうか。
1階層でスライムの小遣い稼ぎをしてる俺とは、住んでる世界がまるで違う。
別に、悔しいとかじゃない。
悔しがるには、石田は遠すぎる。
富士山を見て「負けた」と思う奴がいないのと、たぶんおなじだ。
そもそも俺は山じゃないしな。
石田と、目が合った。
「中村くん、おはよ」
石田が軽く手をあげる。
こいつはこういう奴だ。
俺みたいな目立たないやつにも、ふつうに挨拶してくる。
「お、石田。おはよ」
俺も片手をあげて返す。
それだけだ。それ以上、話すこともない。
「ぐわーっ。目がっ」
「中村、どうした」
「いや、石田がまぶしすぎて」
「お前それ、毎朝やってんな」
毎朝はやってない。
三日に一回くらいだ。
チャイムが鳴って、一日が始まる。
授業は半分聞いて、半分聞き流した。
半分聞いてたらテストでは50点が取れるはずだ。
窓の外は、一時間目から六時間目まで、ずっといい天気だった。
放課後。
帰りの支度をしてると、田島がまた椅子ごと振り向いた。
「中村、ゲーセン寄ってかね?」
「いや、今日はパス。最近、新しいダンジョンゲー出ただろ。あれ買わないと。」
「またダンジョンで小遣い稼ぎか?」
「まあな」
「俺も、行こうかなー」
絶対に来ないだろ。
てか、こいついつもゲーセン行ったり、ゲーム買ったりでよく小遣いなくならないな。
うらやましい。
田島はへらへら手を振って、六人くらいのゲーセン組の輪に消えていった。
あの人数でなんのゲームができるんだ?
少しの疑問を抱えながら、俺は席を立つ。
学校から、ダンジョンまでは歩いてすぐ。
スライムを二、三体倒して、ぷるぷるした核を売る。それで千円弱。
ひと月の小遣いが一日で半分稼げる。最高だ。
ゲームみたいに、スライムを倒してればレベルが上がって…みたいなことが起これば俺の時給ももう少しは上がるん
あいにく、レベルというわかりやすい概念はない。
強くて才能のあるやつは、きっと上を目指すんだろう。
もっと深く、もっと強く。
でも、俺は一階層でいい。
スライムは逃げないし、反撃もしてこない。世界で一番やさしいモンスターだ。
ありがとう、スライム。今日もお小遣いをください。
俺を養っているのは両親とスライムだ。
そうこうしているうちに、ダンジョンが見えてくる。
新しい市役所、みたいな建物の中にダンジョンがある。
中は駅の改札みたいになっていて、ライセンスをかざすと、ピッと音が鳴って通れる。
横では、ギルドのワッペンをつけた冒険者が一人、暇そうに突っ立っていた。
見回りの人だ。事故が起きないように、毎日ああやってここにいるらしい。
探索者ってのは、穴に潜ってお金を稼ぐ人。
冒険者ってのは、その人たちが死なないように見張る人だ。
同じ穴に関わってるのに、ずいぶん違う。
冒険者は公務員らしい。
冒険者のおじさんと、軽く会釈をかわす。
顔見知り、ってほどでもないけど、ほぼ毎日通っているから、当然顔は覚える。
改札を抜けると、その先に、地面にぽっかり開いた穴があった。
底の見えない、暗い穴。
中央には石でできた階段がどこまでも続いているように思える。
初めて来た日は、正直ちょっと怖かったが、今はもう、なんとも思わない。
軽く息を吸って、足を踏み入れる。
今日も、いつも通りの一日。
スイッチって何が原因で入るかわからないよね。




