第1話 生かしてやるよ
三年前、私は一人の男に恋をした。
名前も、身分も、何も知らなかった。
けれど、初めて見た瞬間、心を奪われた。
彼といると、世界が色づいて見えた。
退屈だった毎日が、息をするだけで苦しくなるほど鮮やかに変わっていった。
彼は自由だった。
何にも縛られず、誰にも媚びず、自分の欲しいものだけを選び取って生きていた。
そんな彼を、私は眩しいと思った。
この人となら、どこへだって行ける。
この人となら、どんな未来でも選び取れる。
本気で、そう信じていたのだ。
――まあ、全部、馬鹿みたいな勘違いだったのだけれど。
血と鉄の匂いが、肺の奥まで染み込んでくる。
夕暮れの戦場は、嘘みたいに静かだった。
煙が低く流れ、折れた剣と倒れた兵士たちの間を、乾いた風が抜けていく。
ただ、死だけが大地に横たわっていた。
その中心で、私は剣を握って立っている。
指先の感覚はもうない。
脇腹から流れ続ける血で、足元はぬかるんでいた。
それでも、私は目の前の男を睨みつけていた。
レイヴェル・アークヴィス。
敵国の第一王子。
この戦争を引き起こした男。
そして――かつて、私が愛した男。
「はは」
彼が笑った。
だが何がおかしいのか、私には本当にわからない。
「ここまで俺を追ってきたのか?」
その声音は、三年前と何一つ変わらない。
こちらの心を簡単に乱してくる。
けれど、目の前にいる彼は、私の知っている彼ではなかった。
軽薄で、残忍で、人の心なんて最初から持ち合わせていないような男。
私が愛したあの人は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
胸の奥が、どろりと煮えた。
「……っ」
剣を握る手に力が入る。こいつのせいで、全部壊れた。
国も。
仲間も。
私の居場所も。
そして、何も知らずに恋をしていた、あの頃の私自身も。
今日まで私は、この男に復讐するためだけに生きてきた。
惨めでもいい。
愚かでもいい。
ただ、奪われたまま終わる人生だけは嫌だった。
「なーんか、お前変わったな?」
レイヴェルは愉快そうに目を細める。
「まあ、そりゃそうか。今じゃ一国の裏切り者だもんな?」
「……っ、誰のせいで……!」
叫んだ瞬間、視界が滲んだ。
怒りか、失血か、自分でもわからない。
彼は肩を竦めた。
「怖。そんな顔できたんだ、お前」
昔みたいに笑いながら、そんなことを言う。
その態度が、たまらなく憎かった。
「……終わらせる」
声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。
もう迷わない。
もう、泣きながら待つだけの女じゃない。
運命に裏切られたまま倒れるだけの、か弱い女でもない。
踏み込む。
渾身の一撃を叩き込もうとした瞬間、彼の剣が流れるように動いた。
あっさりと軌道を逸らされる。
「っ――」
体勢が崩れた。
次の瞬間、脇腹に鋭い痛みが走る。
熱い。
深い。
それでも、剣だけは手放さなかった。
まだ終われない。
私はまだ、自分の人生を取り戻していない。
腕を振り上げようとした、その時。
ぐらり、と世界が傾いた。
「あ……」
膝が地面につく。
息がうまく吸えない。
剣を握った手が、力なく垂れ下がった。
もう、立てない。
足音が近づいてくる。
ゆっくりと。
焦りもなく、勝利の高揚すらなく。
顔を上げると、レイヴェルが目の前に立っていた。
血に濡れた剣先が、私の喉元へ向けられる。
あと少し動けば、すべてが終わる距離。
彼は私を見下ろして、ふっと嗤った。
「……やっぱ色気ねえな」
「……は?」
意味がわからなかった。
こんな状況で、最初に出る言葉がそれなのか。
本当に、どこまでも最低だ。
「殺して」
掠れた声で言う。
怖くはなかった。
もう疲れていた。
全部、終わらせてほしかった。
けれど。
レイヴェルは剣を振り下ろさなかった。
ただ無言で、こちらを見ている。
かつて私が愛した男の瞳は、どこまでも冷たかった。
そして。
「生かしてやるよ」彼は、笑った。
「……なに」
「お前はこのまま、生け捕りだ」
淡々と告げられる。
まるで荷物の行き先を決めるような、感情のない声だった。
理解できなかった。
なぜ殺さない。
私には利用価値なんてない。
帰る国もない。
守ってくれる人もいない。
もう、何も残っていないのに。
「……なんで」
問いかけようとした瞬間、視界が暗く揺れる。
意識が沈んでいく。
遠ざかるレイヴェルの姿を見ながら、脳裏に浮かんだのは――三年前の夏だった。
眩しい市場。
焼き菓子の甘い匂い。
人混みの中で笑う、何も知らなかった頃の私。
その隣に、一人の男がいた。
名前も知らない。
国も知らない。
ただ、どうしようもなく恋をしてしまった男。
どうして。
意識が闇に沈む寸前、最後に思った。
どうして、私にここまで酷い仕打ちをしたの。
そして、もう一つ。
もし神様がいるのなら。
私にもう一度だけ、選ばせてほしい。
愛されたくてすがる人生ではなく。
裏切られて終わる人生でもなく。
この手で運命をひっくり返すための、たった一度の機会を。
暗闇が、静かに降りてくる。
その日、私は敗北した。
けれど、それは終わりではなかった。




