後編
一時間後…
ミランは机に突っ伏していた。
(情報が濃すぎる…)
サンランドのプレゼンの完成度は、練習を積み重ねただけあってとても高い。それ故に、爵位の格差というものをミランは改めて実感してしまったようだ。
(ご友人たちのお気持ち、今なら理解できるわ…これを毎日は辛い)
自分に懇願してきた令息たちの必死さを思い出し、ミランは彼らの心情に共感した。
爵位に関係なく、皆が己の家に誇りを持っている。だが、その気持ちを凌駕してしまうほどに、ニックリ家の伝統と偉大さは凄まじかった。『流石は公爵家!』と、本来であれば言うべきだろうが…自身の家が比較対象となると、純粋にそうとは言えない。
突き付けられた現実に、少女の精神はごりごりと削られていってしまったのだ。
「疲れましたか?」
心配の色を宿したサンランドの声音に、ミランは慌てて首を横に振った。
「大丈夫です。どうぞ、続けて下さい」
「…少し休憩にしましょう。何か飲み物でも持ってきます」
「でも…」
「無理に今日中に全ての内容を終えなくてもいいんです。あなたの体調が最優先ですから」
ミランの身体を気遣う優しい言葉に、琥珀の瞳が真ん丸になる。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ…」
「? では、少し席を外します」
不思議そうにしながも、サンランドは詳細を問うことなく教室を出ていった。
(殿方からこんなに優しくされたの、初めてかもしれないわ)
一人残ったミランは先程のサンランドのことを反芻し、これまで自分にかけられた言葉たちと比較する。
誰が相手でも間違ったことは間違いだと指摘し、自身に誤りがあればすぐに頭を下げられる聡明さ。ミランのその姿に好感を持つ者は多かった。だが、逆の思考を持つ者はどこにでもいる。ミランの場合、それがかつての婚約者であるジャルスだったのが不運だ。
間違いを正論で指摘するミランは、ジャルスにとって鬱陶しい存在。だがら、自分の意見をはっきりと伝えてくるミランを、ジャルスは事あるごとに批難した。
『気の強い女』
『高圧的な婚約者』
周囲に撒き散らすのは、不満を装った暴言。
周りも最初は苦笑を浮かべたり、やんわりと否定したりしていた。だが、何度も同じことを言われ続けると、人というものは暗示にかかってしまう。次第にジャルスの言葉の魔術は拡大していき、ミランの印象は大きく変化していく。
婚約者にすら優しくされない、きつい女…そんな彼女を気遣う者の姿は、時間と共に姿を消していった。ミラン自身もそういった状況には慣れてしまい、今では淡い期待は持つだけ無駄だと己を咎めるようになっていた。
しかし、現在ミランに向けられた言葉たちは違う。
かつての婚約者ではあり得なかった、相手を思いやる言動。
ミランが諦めてしまったものを、サンランドは惜しみなくミランだけに注いでくれる。ほわほわと暖かなものは、彼女の心を傷ごとふわりと柔らかく包み込んだ。その心地よさに混乱しながらも、ミランがその柔らかなものを拒絶することはなかった。いや、拒絶する理由が彼女には浮かばなかったのだ。
「信じても、いいのかしら…」
胸に芽吹く淡い想い。捨て去ったはずのその感情をミランが再び受け入れようと微笑んだ瞬間、教室の扉が乱暴に開かれた。
「へぇ、あの秀才様に気に入られたって本当なんだな」
品性の欠片も無い態度と共に現れた人物に、ミランの琥珀の瞳が大きく見開かれていく。
「ジャルス様…?」
入室の許可を出していないのに、ジャルスはずかずかと教室に入ってくる。驚きのあまり体を固まらせているミランの前までやってきたジャルスは不敵に口の片端を上げた。
「お前ともう一回、婚約してやるよ」
「は…?」
ジャルスの言葉の意味が理解できず、ミランはポカンとしてしまった。呆気にとられながらも、ミランの脳はジャルスの言葉をゆっくりと咀嚼していく。
「な、何を言って…アリエナ嬢はどうされたんですか?」
「うるせぇな。いいから、今から父上のとこに行くぞ」
伸びてきた手から、ミランは反射的に逃げた。椅子から立ち上がり、ジャルスと距離をとるため数歩後方へ下がる。
「いきなり、何なんですか! 私はもう貴方の婚約者ではないのですよ!?」
「だから、お前をまた俺の婚約者にしてやるって言ってるんだよ」
「お断りします! 私は、もう貴方とは関わりません!」
はっきりと拒絶を言い渡すミランに、ジャルスは舌打ちをした。不機嫌を態度で示すジャルスに、ミランは内心怯えながらも瞳をキッとつり上げる。思い通りにならないミランに、ジャルスは苛立ったように声を張り上げた。
「いいから、来いって言ってんだよ!」
「嫌です!」
「本当に可愛くねぇ女だな!」
「っ…」
言われ慣れたはずの言葉なのに、ミランの胸がズキンッと痛んだ。琥珀の瞳が映し出す心の揺らぎを、ジャルスは見逃さなかった。勝ち誇ったようにジャルスは笑みを深めると、再びミランへと手を伸ばす。
「彼女に触れないで下さい」
冷気を纏った声が、ミランの鼓膜を揺らしたその瞬間…
―ヒュンッ!
「いっ!?」
風を切る音が聞こえた、と思ったらジャルスの頭に何かが直撃した。床に転がるのは、小さな容器に入った紅茶。
予想もしなかった衝撃にジャルスはふらつき、後ろへと数歩下がる。ジャルスとミランの距離が必然的に開くと、その隙間に一つの影が滑り込んだ。
「サンランド様…?」
何が起こったのか分からず、戸惑っているミランの眼前に現れたのは大きな背中。ミランのために買ってきた飲み物を投げつけたであろうサンランドは、彼女を庇うようにジャルスの前に立ちはだかる。
痛みの原因である少年を睨みつけながら、ジャルスは怒声をぶつけた。
「いきなり、何すんだよ!?」
「失礼。一応、声はかけましたが…君の反射神経の鈍さを計算に入れておりませんでした」
声そのものは平坦だが、その言葉は明らかにジャルスを馬鹿にしている。見下されたことにすぐさま気が付いたジャルスは抗議の声をあげようとしたが、サンランドの纏う空気の冷たさに息を飲んだ。
「先ほど、彼女を中傷するような言葉が聞こえてきましたが…」
言葉を詰まらせるジャルスに代わり、サンランドの唇がゆっくりと動く。
「君のような節穴の目には、彼女の魅力を映すことはできないのでしょうね…お可哀そうに」
「なっ!? 俺のどこが―」
「ミラン嬢は可憐で美しい」
ジャルスの言葉を押し退け、サンランドは端的だが、力強く、はっきりと言い切った。漆黒の瞳に射貫かれたジャルスは、間抜けにも口をぱくぱくさせるしかできない。まだ何か言おうとしているジャルスの肩に、サンランドは軽く手を置いた。
「ご安心ください、君が訂正する必要は一切ありません。捻じ曲げられた事実は、僕が全て正していきます…君はその不愉快な口を閉じておくだけでいいですよ」
「っ…! 放せよ!!」
ジャルスの肩に、しなやかな指が食い込んだ。痛みに顔を歪めながら手を振り払う少年に、サンランドは小さく鼻を鳴らした。
「聞きましたよ。君、実家に婚約破棄を報告したら廃嫡されたそうですね」
「え!?」
「それを知ったアリエナ嬢からは、お別れを言い渡されたとか…」
始めて知った情報たちに、ミランの顔が驚愕に染まる。ジャルスは黙秘しているが、苦々しそうに変化していく表情がサンランドの言葉を真実だと物語っていた。
サンランドは温度の感じない目を向けたまま、淡々と言葉を続けていく。
「ミラン嬢と婚約を戻せば再び跡継ぎになれる、とでも思ったのでしょう…生憎ですが、貴族社会はそこまで甘くありません。仮に君がヘブラ家を継げたとしても、肩身の狭い思いをするだけですよ。君が彼女にした不義理や不敬な態度は、すでに皆に知れ渡っていますからね」
「嘘つけ! そんな早く噂が広がるはずねぇだろ!」
「ご婦人たちの情報網を侮ってはいけません」
カチャッと、眼鏡を上げる彼の言葉には重みがあった。ジャルスにも心当たりがあるのだろう。唇を噛み締め、ただただ現実を突き付ける少年に鋭い眼光を向けるしかできない。サンランドは小さく息を吐くと、張り合いのない口論に終止符を打つ。
「お引き取りを。これ以上彼女に付きまとうのなら、容赦しません」
「ハッ、公爵のぼっちゃんが…! 容赦しなかったら、どうなるっていうだよ?」
相手を煽るような物言いをするジャルスに、眼鏡の奥にある漆黒の瞳が細められた。
「彼女の視界から、君を、未来永劫、完全排除します」
一つ一つの単語を確実に相手に届けるように放たれた言葉は、とても冷ややかなものだ。氷の刃を喉元に突き付けられたかのような、緊張感がジャルスを襲う。それを振り払うように、ジャルスは勢いよくサンランドへ掴みかかろうとした。
「このっ!」
「はいはーい、そこまで」
ジャルスの首根っこを捕らえたのは、サンランドの友人である令息の一人だ。いつの間に教室に入ったのか、その隣には他の二名の令息たちも控えていた。予想外の人物たちの登場に目を白黒させているジャルスを、令息たちはサンランドから無理やり引き離す。
「お前、ヘブラ家の長男だよな? ちょぉ〜と、あっちで話そうぜ」
「な、なんだよ!? お前ら!」
「大人しくしとけって。これ以上、あいつの怒りを買いたくねぇだろ」
「はぁ? 意味わかんねぇ」
「サンランドは有言実行タイプですよ。公爵家を本気で怒らせればどうなるか…お分かりですよね?」
張り付けられたような笑顔で告げられた警告に、ジャルスはうすら寒いものを感じた。
「こ、ここは学園だぞ! 家柄を持ち出すなんて卑怯じゃねぇか!!」
「お前がそれを言うのかよ」
「は?」
「教師を脅して授業の単位をもらってるんだっけ? 家柄をフル活用じゃねぇか」
「な、なんでそれを…」
「教師の人からも慰謝料を請求されたら…君の未来はどうなるんでしょう」
顔が一気に青ざめるジャルスだが、その脳内は必死に稼働していた。自分が助かる手段を必死に探す哀れな少年の視界に、一人の少女が映りこむ。状況の変化の速度に思考が停止しているミランに、ジャルスは神経を疑う言葉を投げつけた。
「なぁ、ミラン! 俺のことまだ好きだろ? お前と結婚してやるから、父上やこいつらをなんとかしろ!」
窮地に追い込まれても、ミランに対して強気な彼の姿勢が崩れることはない。ジャルスの横柄な態度に、サンランドの眉根が不快そうに寄った。
「君は本当に―」
「お待ちください」
救いようのない愚かさを律するため再び開かれたサンランドの口を、ミランが制止する。
どこまでも命令口調のジャルス。そんな少年に、少女は歩み寄った。ジャルスの目の前まで近づいたミランは小さく微笑んだ。少女の穏やかな表情を見て、助かったと確証したジャルスは満足そうに笑んだ。
―パァァン!
乾いた音が空気を揺らす。その音源であるジャルスの頬は、ミランの掌を象ったように真っ赤に染まっていた。
「私があなたを好き? 寝言は寝て言いなさい」
ジャルスの頬を打った手を収めながら、ミランは凛と強く筋が通った声を放つ。何が起こったのか、何をされたのか…その全てが理解できないジャルスは痛む頬を押さえ、ただただ気高い少女を見つめる。
「婚約破棄を言い渡された時も、申し上げたはずです。私とあなたの婚約は政略的なもので、愛などありはしないと」
それに…、とミランは言葉を続ける。
「ジャルス様との婚約破棄を報告したら、両親はとても喜んでくれました」
「て、適当なことを言うな! そんなわけないだろ!?」
「嘘ではありません。その証拠に、私たちの婚約解消の手続きはあっさり完了したはずです」
ミランの言う通りだった。滞りなく婚約解消の手続きを終えられたことを思い出しのか、ジャルスは悔しさに歪ませた顔を伏せる。都合が悪い事実から目を背ける憐れな少年に、ミランは更なる真実を告げた。
「互いの家の発展のために結んだ婚約、と言っておりましたが…本当の理由は、貴方のご両親がしつこかったからです」
「は…?」
ジャルスは勢いよく顔を上げ、真ん丸に目を見開く。ジャルスだけではない。サンランドや令息たちにも、キョトンと間抜けな顔になるほどの驚きをミランは与えたようだ。
全員の視線を浴びながら、ミランの唇は慌てることなく話の続きを紡いでいく。
「政略結婚に、両親は反対していたんです。私の幸せを心から願い、自分たちのように想いが通じ合った相手との婚約を望んでいました」
両親の暖かな気持ちを思い出し、ミランは少しだけ顔を綻ばせた。
「だからジャルス様との婚約も、父はお断りしていました。けど何度断っても、ヘブラ家からの婚約の申し入れが途切れることはなく、困り果てていました」
「恐らくですが…物怖じしないミラン嬢の素晴らしさを見抜き、ご自身の愚息を託したかったんでしょうね」
サンランドの推測に、ミランは苦笑を浮かべるだけだ。
「断りの手紙を書く時、父は毎回頭を悩ませていました。母と一緒に知恵を絞り合い、なんとか穏便に諦めてもらえるような言葉を選んでおりました」
本来であれば、強い拒絶を示す言葉を叩き返せばいいのだが、ミランの実家であるノーブル家は男爵という下位貴族。下手に相手の怒りを買うわけにはいかない。貴族同士の揉め事は領民を巻き込んでしまうと、ミランの父は知っているのだ。
娘の幸せと領民の安全、揺れ動く天秤に苦しむ両親を思い出すと、ミランは今でも胸が痛む。
「苦悩する両親を不憫に思い、私から婚約を承諾したのです」
仕方なくですけどね、とミランは小さく付け足した。
まとめると…“諦めが悪いヘブラ家”という悩みの種を両親から取り除くため、ミランは望みもしないジャルスとの婚約をしただけ、ということだ。
衝撃の事実に、ジャルスは頭が真っ白になった。そんな彼の背後では、令息たちがヒソヒソと話し込んでいる。
「何だよ、それ。粘着質なのは親譲りってか?」
「仕方なく婚約してもらったくせに、ミラン嬢にあんな態度してたのかよ。ありえねぇ…」
「ミラン嬢もですが、ノーブル男爵も可哀想です…」
令息たちの呆れ返った声音と蔑む視線は、ジャルスの精神へ大きなダメージを負わせていく。最早、虫の息に近いジャルスに、ミランは最後の言葉を贈る。
「貴方がそうだったように、私も貴方に最初から好意などありませんでした。過去もそして未来も…私が貴方に対して、そのような感情を抱くことは永遠にあり得はしません」
真っ直ぐに言い放たれた本心に、ジャルスの心は完全に折れた。両膝をつき呆然としているジャルスに、サンランドは歩み寄り身を屈める。
「彼女のことは僕にお任せ下さい。君とは違い、僕は全身全霊で彼女を愛し、幸せにしてみせます」
先程までの威勢が嘘のように、ジャルスは何の反応も返さない。最早、灰になりつつある少年の耳元に、サンランドはそっ…と口を寄せた。
「アリエナ嬢には感謝しないと…僕のプレゼンが完璧になるまでの時間も計算して、任務を完遂してくれたんですから」
「!? まさか…!」
目を見開くジャルスに、サンランドは微笑む。だが、その笑みは口元だけだ。弧を描く漆黒の瞳には、明確な憤怒の炎が揺らめく。
ミランを長年蔑ろにしてきた少年はカタカタと体を震わせ、ニックリ家次期当主を見つめる。一瞬にして顔色がさらに悪くなったジャルスに、ミランは小首を傾げた。
「? ジャルス様、どうかされ―」
「あー、ミラン嬢。こいつの事は、俺らに任せておけ」
「お灸を据えて、ちゃんと親元に返すしかねぇな」
「ヘブラ家にも、きちんと愚息についてお話しないといけませんね」
令息たちの態度に違和感を感じはしたが“深く追求してはいけない”と、本能がそう告げてくる。己の勘を信じ、ミランはコクリと小さく頷いた。
ミランの懸命な判断が変わらぬうちに、令息たちは退散の準備を始める。ジャルスを無理やり立たせ、引きずるようにして教室の出口へと向かう。
「サンランド…冷静になれよ」
「…分かっていますよ」
去り際に受けた警告に、サンランドはぶっきらぼうな返事をする。その言葉を信じ、令息たちは教室を出ていった。
「サンランド様」
二人きりになった教室で、ミランの頭は深々とサンランドに向けて下げられる。
「先ほどは助けていただき、ありがとうございました」
「いえ、乱暴な真似をして申し訳ありませんでした。怖くありませんでしたか…?」
慌てて首を横に振るミランに、サンランドは安堵したように微笑む。
「よかった…また貴方を奪われてしまうと思い、焦ってしまいました」
「また?」
引っ掛かりを感じた部分をミランはなぞった。しまった…という表情を浮かべるサンランド。そのまま口を閉ざそうとした彼に、ミランの瞳が発言の意味を問いかけている。純粋な輝きを放つ瞳の美しさに、サンランドは白旗を上げた。
「…僕があなたに恋をしたのは、十歳の頃なんです」
「え!?」
衝撃の事実にミランは驚きの声を上げてしまう。目を白黒させている彼女に、サンランドは照れくさそうにしながらも言葉を紡いでいく。
「あなたを…ミランさんを始めて拝見したのは、とある茶会でした。そこで、僕はあなたに一目惚れしたんです」
懐かしむように語るサンランドの瞳には、柔らかな光が宿っていた。
「初めはその愛らしい容姿に心を奪われました。でも、あなたを目で追っているうちに、その芯のある気高い姿にも心がどんどん惹かれていきました」
「芯のある姿…?」
「間違ったことを、間違いだと指摘できる姿です」
トクリ…とミランの心臓が音を立てた。ジャルスに鬱陶しいと指摘され、自身の欠点だと思っていた姿。だが、目の前の彼は、そこに心を惹かれたと言ってくれた。
トクン、トクンと大きくなっていく心音。それに同調するように身体に熱が巡っていく感覚に、ミランは一人戸惑う。そんなミランの心の内になど気が付かず、サンランドは話を先へと進める。
「家に帰ってすぐに父上に懇願しました。しかし、男爵と公爵では婚姻を結ぶのは難しい、と言って父上は首を縦には振ってくれませんでした…でも、僕はミランさんを諦めたくなかった。だから、その時もプレゼンをしたんです」
幼い頃から変わらないサンランドの説得方法を聞いて、ミランの胸の高鳴りは少し収まってくれた。
「やっと両親を説得できた時にはもう遅かった。ミランさんの隣には、彼がいた…」
サンランドの眉間にしわが寄る。
「婚約者がいる人に求婚なんて言語道断です。悔しいけど、あなたが幸せなら身を引こうと思いました。でも、そうじゃなかった…彼の隣に並ぶあなたの表情はいつも暗く、どこか張り詰めていた」
固く拳を握りながら、サンランドは顔を歪めた。怒り、後悔、悔しさ…様々な感情が入り混じった表情は、ミランの胸を侵食していた仄暗いをモノを、払いのけていく。
「だから、ミランさんがいつ婚約を解消してもすぐに対応できるように…僕を選んでもらえるように、ずっと準備をしていました」
「もしかして…それが、今回のプレゼンですか?」
コクンッと大きく頷くサンランドの表情は真剣そのもの。今日だけでも、この顔を何度見ただろうか。生真面目さが体に染みついている目の前の少年に、ミランは想われる嬉しさよりも上回る感情があった。その感情は少女の華奢な肩を小刻みに震わせる。
「ミランさん?」
プルプルと震え出したミランを案じるように、サンランドは不安げに少女の名を呼ぶ。それを合図に、ミランの感情は解き放たれた。
「あははは! 貴方って、本当に真面目なのね!」
弾けるように笑う少女。令嬢にあるまじき声をあげての大笑いではあるが、それを注意する者などこの場にはいない。
ミランの予想外な姿に、サンランドの眼鏡が微かにズレた。しかし彼から叱責の言葉が飛ぶことはなく、漆黒の瞳を限界まで見開いているだけだ。
長年、自身を律してきたミランの心が、こんなにも解放されるのは久々だった。サンランドにまじまじと見つめられようと、今のミランでは己の感情を制御することはできない。沸き上がる気持ちのまま、少女は笑い声をこぼしていく。
(あぁ、この人ならきっと大丈夫。だって、こんなに実直なんだもの)
疑念の雲が完全に晴れたミラン。目尻に浮かぶ涙を指先で拭うと、何年も自分を想い続けてくれた彼と素直に真正面から向き合う覚悟を決めた。沸き上がっていた感情を全て出し終えたミランは、改めてサンランドに顔を向けようとした。したのだが…
カチカチカチカチ…
どこからか聞こえてくる、金属を揺らす音。この場に似合わない音にミランは首を傾げ、視線を動かす。すると、サンランドが何度も眼鏡を上げている姿が飛び込んできた。高速で自身の眼鏡のブリッジを上げる異常な行動に、ミランはギョッとしてしまう。
「ちょっ! どうしたんですか!?」
「あ、あなたのせいです…」
「私?」
いつも冷静な彼を狼狽えさせている原因が、まさかの自分であることにミランは首を捻らせる。心当たりがないミランは、きちんと理由を知るため彼へ一歩近づくと、その端正な顔を覗き込んだ。
琥珀の瞳と漆黒の瞳が交じり合った瞬間、サンランドの顔が背けられた。ミランの顔に悲しみが浮かぶ。それを瞬時に感じ取ったサンランドは、躊躇いがちに口をゆっくりと小さく動かしていった。
「あなたの笑顔が…想定より可愛すぎたんです」
「え…?」
「可愛すぎて、直視…できないんです」
指だけでなく、声まで震わせている少年の顔は真っ赤だ。顔だけに留まらず、耳まで朱色に染めるサンランドの眼鏡の奥の瞳は不自然なほどに泳いでいた。いつも冷静沈着で、感情を乱すことないサンランドの動揺している姿に、ミランの胸がキュッと締め付けられる。
(可愛いのは、サンランド様の方だわ…!)
ミランは脳内で叫ぶ。そして、パチリッと再び二人の視線が交わる。サンランドの熱が移ったのか、ミランまでも妙な羞恥に襲われたように、少女の頬はバラ色に染まっていった。
互いに顔を真っ赤に染め合う純情貴族たちを、コソコソと見守っている三つの影。サンランドが暴走していないか心配になって戻ってきた、秀才の友人たちだ。
「なぁ、あれどう思うよ?」
「青春しすぎだろ。てか、じれってぇ…!」
「仕方ありません…ここは我々が一肌脱ぎましょう!」
顔を見合わせた三人は、各々準備運動を始めた。大切な友人のため、令息たちは今から無作法を行う。
もじもじしている二人の甘酸っぱい世界に、外野が飛び込んでくるまでのカウントダウンが始まった―
これにて、完結です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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