113.守る華・守られる華
暗闇の中から、ゆっくりと人影が歩いてくる。
返事はない。蘭明じゃないの…?
でも、あの言葉は私が蘭明に向けて言ったはずのもの。
「蓮!」
その声を出した瞬間、私はもう蓮の胸の中にいた。
「枯れないように、ずっと隣にいてくれと言ったはずだが?」
ハッと息を呑む。蘭明に言われた言葉が、今ここで――。
どうなっているの…?
でも、今はただ、この温かい胸の中で、言葉よりもこのぬくもりを感じたい。
蓮の心臓の音が、静かに耳に届く。
自然と、涙が零れ落ちる。
「いい匂い」
「守華の匂いは、俺だけのものだ」
私は蓮から少し離れ、顔を見上げた。
「蓮、記憶が…」
「辛い思いをさせて悪かった。季節外れの彦星が、織姫を迎えに来たぞ」
涙が一気に溢れ出す。
自分でも止められないほどに…。
もう、私は必要ないんだと
離れなければいけないんだと
蓮とは赤の他人だと
覚悟していたから。
「それと、これは無効だ」
蓮が胸ポケットから、一通の封筒を取り出した。
さっき、私が蓮のデスクに置いてきた退職届の封筒だった。
「日付が提出日と違うから無効だ」
「それは…」
「それに、これも俺は持ってる」
蓮はもう一通、封筒を出す。
そこには、
“神崎守華は辞めません!ボスを守れるのはこの私だけです!”
と書かれていた。
私がボスに辞めろと言われたときに書いたものだ。
今でも取ってあったんだ…。
「何か言うことはあるか?」
私は静かに横に首を振った。
蓮が笑みを浮かべ、私を座っていたベンチに座らせた。
しゃがみこんだ蓮は、ポケットから何かを取り出し、そっと私の足首に装着する。
付け終わると、蓮は私を見つめ、顔で足を見るよう促した。
「嘘……なんで…」
私の足首には、蘭明とお揃いで付けていたあの、喧嘩の原因になったアンクレットが揺れていた。
「守華がわざとペン立てを落として俺の足首を見たのは、これが付いてるか確認したかったからだろ?」
そう、蘭明なら付いていると思って、わざと落として確かめたはず。
「それに、これも…」
「嘘!?」
私は驚きで、両手で口を押さえた。
アンクレットがなかったからと、寝ている蓮のシャツをめくって確認したあの傷――蘭明が私を守ったときの傷。
確かにあのときはなかった。
いや、その後も蓮の体を見たけど、なかったはず。
なのに、いきなり…なんで?
思わず手を伸ばし、その傷をそっと撫でる。
「痛くない?」
「大丈夫だ」
手を下ろす。驚きで、声が出ない。
「俺はいつでも守華を守るって言ってるだろ。守華が階段から落ちなくてよかった。まぁ、俺が落ちる運命だったのかもな。そのおかげで思い出せた」
さっきまで冷たかった瞳が、今は優しく私を見つめている。
「でも、ここでは俺が危なくても、本音は言わないんだな、守華」
頭の中は混乱する。それでも、涙が止めどなく溢れ出す。
そんな涙を、蓮が指で優しく拭ってくれる。
「守華の涙は綺麗だ。今までどこで泣いていた?また我慢していたのか?」
私は声を出せず、ただ固まったまま。
「守華が泣く場所は、この現代でも俺のところだろ?」
蓮のような言葉で、蘭明のような言葉。
ん?今、現代って言った?
「蓮?」
ようやく、口が動く。
「ん?」
「今、現代って言ったよね?」
「あー、言った」
私が愛した人――
「ら、ん、めい…?」
恐る恐る名前を呼んだ。
もし私の勘違いだったら、また蓮を傷つけてしまうかもしれないから…。
「守華は、こっちでも俺に会った瞬間、抱きついてきたな」
「え?」
「以前、初めて会ったときも、守華は俺の腕の中で抱きついていた」
ああ、陽月国で落ちたとき、私は蘭明にお姫様抱っこされていたんだった。
「蘭明!!」
私は目の前にしゃがむ蓮に、思いっきり抱きついた。
その勢いで、蓮は尻もちをつく。
「いてーよ、守華」
それでも私は離れない。
蓮も諦めたのか、尻もちをついたまま私を抱き寄せた。
「香り袋、臭いほうじゃなくてよかった」
「今度作ってあげてもいいわよ」
「いや、遠慮するよ。俺はお前の香りが一番好きだから」
抱き寄せられた私の首元に、蓮の唇がそっと触れる。
匂いを確かめるように滑らせ、やがて私の唇に重なった。
時間が静かに流れ、世界の音が遠くに消えていくような感覚。
二人だけの空間に、夜風と星の輝きだけが漂う。
やがて唇が離れると、私は自然と空を見上げた。
そこには、さっきまで見えなかった星が、銀色の光を帯びてゆらめいていた。
川面のように広がる星々の光が、二人を優しく包み込む。
「綺麗…初めて見えた」
「守華…俺の願いは、いつもお前と一緒にいることだった」
蓮の言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
手をつなぐと、冷たい夜風の中でも体は温かく、心は満たされていた。
願いを叶えてくれてありがとう。
やっと、私のところに季節外れの彦星が迎えにきてくれた――。
それから、二人はベンチに座り、蓮からこれまでの経緯を聞いた。
記憶を失う前にも、香り袋や私が踊る姿を見て頭が痛くなったこと。
傷が突然現れたこと。
記憶を失っている間、見覚えのない場所が脳裏に浮かんだり、声が聞こえたりしたこと。
そして、寝ている間に陽月国での出来事や彩国のことが夢に出てきたこと。
目を覚したとき、すべてを思い出したと蓮は教えてくれた。
その後の話は、私も驚いた。
私がいなくなった後の陽月国のことだった。
蓮の夢には、そこまで出てきていたらしい。
本当に夢だったのだろうか。
時期は違えど、蓮が蘭明として陽月国にいたのではないか、とすら思ってしまう。
いや、もうどちらでもいい。
日本に戻ってきてからずっと気になっていた、みんなのこと――。
蓮が話してくれたその後の様子。
私が目の前から消えたとき、私のアンクレットだけが残っていた。
蘭明はそれを拾い、大切に持ち続けたという。
私と深く関わりのない人々からは、守華という存在の記憶が消えていたらしい。
私がいなくなった後、蘭明は毎日、桜音亭の屋根に登り、月を見上げていた。
私は本来いるべき場所、日本というところで幸せに暮らしていると信じ、陛下としての務めをこなしていた。
けれど、愛するのは守華だけ。
世継ぎを急かされ、婚姻を勧められても、結婚する気はなかった。
誤魔化し続けたけれど、限界が近づいていた。
陛下の地位に就いて8年。
蘭明はその地位を降り、戦だけでなく民や周囲に目を配れる星曜に陽月国を託した。
星曜は、彩国から嫁いだ咲公主との間に男の子、その後もお腹に子どもがいた。
楽士国に嫁いだ海尭は、貴愛奈の父が亡くなり海尭が陛下となった。
貴愛奈との間には双子の男の子と女の子、さらにその下に男の子も生まれていた。
こうして、楽士国の陛下は星曜の兄、彩国の公主は星曜の妻となり、陽月国は大きな戦もなく平和を迎えた。
彩国の季昭は、相変わらず戦に明け暮れているらしい。
彩国の陛下が今も拡大志向だからだろう。
第一将軍の地位も8年経っても守り抜いていた。
季昭に仕えていたウタは18歳になり、ますます美しくなったそうだ。
約束通り踊り手No.1となり、地位も与えられていた。
驚いたのは、ウタが季昭の正妻になったことだ。
ずっと側で見守っていたのだから、当然なのかもしれない。
そして、蘭明が気にかけていた東泉村の蒼介には、陛下の公務の合間に八軒を連れて会いに行ったらしい。
あの短剣を渡した日から毎日欠かさず剣の修行を続けたみたい。すずらんにも会いたいと言っていた。
私も会いたいわ、蒼介。
蘭明は蒼介を彩国の季昭のもとに近く置いてもらえるよう手配し、武芸も教えてもらわせていた。
陛下を退いたあとに1度だけ会いにいったが季昭のおかげで蒼介はかなりの腕前になっていたらしい。
15歳になりいい男になっていたとか。
いつか季昭の後を継ぐかもしれないわね。
私とよく言い争っていた夏翠は、将軍の家でも上位の家に嫁ぎ、最初は文句を言っていたが、夫とうまくやっているそうだ。
八軒は今でも琉璃を思い結婚せず、子どもたちに武芸を教え始めていた。
星曜に侍衛がいなかったため、陛下就任時に八軒を付けたらしい。
白鋭も星曜の付き人として派遣された。
そして、小心。
最初から最後まで私に仕えてくれた、泣き虫だけど強い小心。
星曜に仕えると言い出したが、蘭明は小心を屋敷から出し、ずっと仕えてくれたお礼に劇団を作る土地と建物を与えた。
小心は人を集め、劇団を作ったそうだ。
その劇も生で見たかったな、と私は心の中で思った。
最後に――蘭明のこと。
蘭明は、私が残していったアンクレットを握りしめ、呂布お爺さまのもとを訪ねたという。
あの日、私との婚礼の日以来――八年ぶりの再会だった。
蘭明の姿を見た呂布お爺さまは、しばらく黙っていたが、やがて深い声で告げた。
「守華と蘭明は、血の約束で結ばれておる。それに、守華がつけていたアンクレットもここにある。
……蘭明よ、望むなら、守華の元へ送ることもできよう」
しかし、そのあとで呂布お爺さまは続けた。
「ただし、無事に守華に辿り着けるかは分からぬ。
ここでの記憶も、陽月国の記憶も、すべて失うことになるやもしれんぞ」
蘭明はそれでも迷わなかった。
「少しでも、守華に会える希望があるなら……その望みに賭けたい」
呂布お爺さまは頷き、蘭明を湖へと導いた。
その湖は、あの清めの水が湧き出る場所――巨大な御神木の幹に隠された階段を降りた先にあった。
湖面は静かで、どこか夢のように青く光っている。
蘭明はアンクレットを握ったまま、湖にゆっくりと足を踏み入れた。
水面が軽く揺れるたび、月明かりが反射し、まるで空の星々が湖に落ちたかのように瞬く。
呂布お爺さまが何かを古い言葉で唱えはじめる。
その声が、湖の静寂に溶けていく。
蓮が見た夢はそこまで。
――気づいたときには、目が覚めていた。
みんな……元気に暮らしているのね。
そう思うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
蘭明は最後まで、私だけでなく、みんなのことを考えてくれていた。
蒼介のことまで気にかけてくれていたなんて――心から嬉しかった。
さすが、私が愛した人だ。
その愛は、時も距離も越えて、ずっと変わらずにあったのだ。
「守華、お前はいつも俺を守るって言ってくれていたな。陽月国でも、そして現代でも。
でも――ここでは、俺が守華を枯れさせないように、ずっと隣にいる」
互いに視線を合わせる。言葉ではなく、瞳が語り合う。
「“守る華”と書いて守華じゃない。これからは“守られる華”としての守華でいてくれ」
「でも……」
不安がこぼれそうになる私に、蓮は静かに問いかける。
「武芸ができない俺は、頼りなく見えるか?」
私は、勢いよく首を横に振った。
「そんなことない!」
「もう無理はさせたくない。どうしてもというなら……これからも俺と一緒に“サザンクロス”を守ってくれないか?」
「サザンクロス……蓮の会社のこと?」
「俺の会社じゃない。俺と守華の会社だ。
設立したときは陽月国の記憶なんてなかったけど、なぜか思ってたんだ。
いつか、大切な人がこの“サザンクロス”という名前の意味を理解して、ここに辿り着くって」
確かに、数え切れない会社の中で、この名前だけが私の目を引いた。
花言葉――願いを叶える、遠い思い出。
私と蘭明に、ぴったりだと思ったから。
「蓮が蒔いてくれた種……私、ちゃんと見つけたのね」
「でも、正直に言うと……陽月国のこと、蘭明のこと、全部思い出しても、まだどこか現実感がなくて……」
「いいの」
私は蓮の言葉を遮った。
「私の目の前にいる人が、蓮だろうが蘭明だろうが――私が愛した人なんだから!
お母さんも言ってた。顔が似てるだけで好きになることはないって。
性格や心が合わなければ、本当の愛にはならないって」
「おふくろが?……たまにはいいこと言うんだな」
蓮が小さく笑う。
その笑顔に、私はそっと手を伸ばし、頬に触れた。
「だから、私は今、目の前にいるこの人を愛してる。これからも愛していくの」
蓮は私の手を取り、その甲に優しいキスを落とした。
「……悪かった」
「何が?」
「守華を疑ったこと。好きすぎて、いなくなりそうで、怖かった」
あっ、喧嘩のことだね。
「私こそ、ごめんなさい。酷い言葉を言ってしまって・・・。私はいなくならない。
蓮が私を“守られる華”にしてくれるんでしょ?
そんないい場所を、私が離れるわけないじゃない。
ここでも……私が泣くところは、蓮の胸の中だから」
「守華……愛してる」
次の瞬間、蓮は再び、私の唇をやさしく奪った。
その温もりが、すべてを包み込むように深く、確かだった。
今日も聞こえてくる、いつもの声。
「おはようございます、ボス」
「ボス、おはようございます」
――蓮が来た!
私はスケジュール帳を手に、ボスの部屋の前で立ち止まる。
「おはようございます、ボス」
「おはよう、神崎」
視線が合い、思わず笑みがこぼれる。
“ヒューヒュー”
“朝から暑いねー”
社員たちの声が飛び交う。
「はい、そこまでー!
社員も見てるので、仕事が終わってからラブラブしてくださいねー」
いつもの田中さんが、割って入る。
「何を言ってるんですか!?
ただ挨拶しただけですよ」
「はいはい」
「もう!」
私は田中さんを睨みつけた。
「ボス、今日の予定ですが――」
と言いかけて、ボスの部屋に入ろうとしたその瞬間、会社の入り口付近でざわめきが聞こえた。
私と蓮、田中さんは同時にそちらを振り向く。
そこには、いかにも高価そうな着物を纏い、髪を美しくまとめた白髪のおばあさんが、二人の男性を付き添わせて立っていた。
「どこかで……見たことあるおばあさん」
「知り合いか?」
「はっきり顔が見えなくて……」
蓮がそのおばあさんに向かって歩き出すと、私と田中さんも慌ててついていく。
近くまで来て、ようやく確信した。
いつもより丁寧なメイク、きちんとまとめられた髪――
「木村さん!?」
私はボスの存在を通り越し、木村さんに駆け寄った。
「やっぱり、守華ちゃん、ここで働いていたのね!」
サザンクロスに戻ってからも、私は週2回、踊りの指導を続けていた。
でも、私がサザンクロスの社員だということは、木村さんをはじめ生徒たちには内緒にしていた。
今日の木村さんは、いつもと少し違う――何か、特別な雰囲気をまとっているように見えた。
そこに蓮と田中さんがやって来た。
「木村会長ではないですか」
蓮の言葉に思わず息を呑む。
「会長!?」
「そうだ、株式会社和華の木村会長だ」
「えーーーー!?」
驚きのあまり、つい大声を出してしまった。
「ごめんね、守華ちゃん。驚かせるつもりはなかったんだけど」
「えっ!?私はてっきり、あの着物屋さんのスタッフかと……。失礼なこと言ってしまったかと思うと、本当に申し訳ございません」
慌てて深く一礼する私。
「そんなに頭を下げなくてもいいのよ。私自身に向き合ってくれる守華ちゃんが気に入ったの。それに踊りも素敵だしね」
「木村会長、失礼ですが、うちの神崎とは?」
「踊りを教えてもらってる仲よ」
「あー、教えに行っていると聞いていましたが、木村会長のところでしたか」
「そうよ。まさか、守華ちゃんが一度断った中村社長の会社の社員だとは思わなかったわ」
「一度断った?」
「着物のイベントで花を取り入れないかと提案したんだけど、その時は断られてしまったんだ」
「でも、今回は、その契約のために来たのよ」
私も蓮も田中さんも、揃って驚く。
「ありがとうございます」
蓮が頭を下げると、田中さんも同時に下げたので、私も一緒に頭を下げた。
「お礼なら、私じゃなくて守華ちゃんに言うのね」
蓮は私を見つめる。
「でも、木村会長――」
「守華ちゃん、いいのよ。私はあなたの生徒なんだから、今まで通り“木村さん”って呼んで」
「じゃあ、木村さん、なんで私がここにいるって分かったんですか?」
「実は先日のReとの発表会、見に行ったのよ。踊ってたのは守華ちゃんでしょ?」
「あっ、はい、私です」
「やっぱり!いつも練習していたのはそのためだったのね。守華ちゃんの踊りには魅了されたわ。頼まれて出ているのかと思ったら、ここの社員だって分かったのよ」
そのとき、元気な声が響く。
「おはようございまーす!」
みんな一斉に声の方を振り向く。
「おばあちゃん!?」
「「おばあちゃん!?」」
私を含め、蓮や田中さん、他の社員も口を揃えて驚きの声を上げた。
「あら、愛理じゃない。あなたの会社ってここだったの?」
「そうだよ!前に言ったじゃない!?」
「そうだったかしら……」
まるで普通の孫と祖母のやり取りだ。
確かに愛理の苗字も“木村”だ。
「もしかして、私と同じくらいの孫って愛理のことだったんですか?」
「そうよ、守華ちゃんと同じ会社だったとは知らなかったわ。愛理が“面倒見てくれる先輩”って言ってたのは守華ちゃんのことなのね!?」
「そうだよ!神崎さんと根本さん♡って、おばあちゃん、神崎さんと知り合いなの?」
「長くなるから、あなたは仕事を始めなさい」
木村さんは軽くあしらうように笑った。
「中村社長、守華ちゃんといい、うちの孫といい、何か縁があるみたいね。これからもよろしく頼むわ」
笑顔の木村さんを私はボス部屋に案内し、無事に契約を結ぶことができた。
株式会社和華――着物業界を代表する大手だ。
こんな大手と契約できたなら、今後いくつか契約が切れたとしても、会社は安泰だろう。
木村さんを見送ったあと、蓮が私に微笑みかけた。
「さすが、勝利の女神は健在だな」
「そうよ!私はこのサザンクロスに勝利をもたらす女神よ。だから、大事にしないとね」
私も笑顔で応えた。
数日後、私の携帯が鳴った。
画面に表示された名前を見て、思わず息をのむ。――会いたくない相手、莉子さんだった。
「話があるの」とだけ告げられ、私は近くのカフェへ向かう。
胸の奥で嫌な予感がする。きっとまた蓮のことで何か言われるんだろうか。
カフェに着くと、すでに莉子さんが待っていた。
「莉子さん」
真顔のまま声をかけると、「座って」と促され、彼女の正面に腰を下ろす。
沈黙が流れた。
「……ごめんなさい」
いきなり莉子さんが謝ってきて、私は思わず目を見開く。
「私、あなたに蓮を“奪われた”と思ってたの。……いや、奪われたんじゃないわね。私が蓮に酷いことをしたんだから。でも、どうしても蓮とやり直したくて……あなたが離れるように嘘をついたの」
「え……」
莉子さんは視線を落とし、吐き出すように話を続けた。
「あのとき、蓮があなたを庇って階段から落ちたでしょう? あなたには、蓮が私にキスをしているように見えたはず。でも、あれは私からしたの。あのとき蓮に“私とやり直すか、コラボを解消するか”選んでほしいって迫ったの。もちろん、解消なら違約金は蓮の会社が払うことになる。それでも蓮は“私とは戻らない、コラボを解消する”って言ったのよ。もう商品もできかけていたのに。だから私はあなたにこのことを話すって飛び出した。蓮が止めようと腕を掴んだとき、ちょうどあなたが来て……あたかも蓮が私を引き寄せてキスしているみたいに見せたの」
――蓮は、あのとき何かを言おうとしていたのに。
信じきれず、最後まで聞こうとしなかったのは私のほうだったんだ。
「莉子さんは“蓮を苦しませないで”って私に言いましたよね。でも、蓮を苦しめていたのは莉子さんだったと思います」
「……苦しめたくてやったんじゃないの。でも蓮が記憶を失って、また私を彼女だと思ってくれた。それが嬉しくて、つい……でも蓮にはっきり言われたの。“俺には守華しかいない”って。そのとき気づいたの。私、何をしてたんだろうって……それにReとのコラボも、今後一切やらないって蓮から言われたわ。だからもう、あなたたちに会うことはない。その前に謝りたくて……本当にごめんなさい」
「……正直にいいます。莉子さんのやり方は許せないです。でも、蓮を好きだったこと、支えていたことは本当だって分かります。本当のことを話してくれてありがとうございます。だから、もう、すべて水に流します」
それだけ言って、私は席を立った。
背後に残る莉子さんの姿が、ゆらりと揺れて見えた。
――
会社に戻ると、蓮の姿が見えなかった。
屋上に向かうと、ひとり風に吹かれる蓮がいた。
仕事中の時間だからか、屋上には彼しかいない。
私はそっと背後から近づき、その背中に腕を回した。
「守華?」
「ここ、私の場所ですよー」
「早い者勝ちだろ?」
「私が言ってるのは、この蓮の背中のこと」
蓮が小さく笑った。
私の腕に手を重ね、ゆっくり振り返ってこちらを見つめる。
「……莉子との話、大丈夫だったか?」
莉子さんに会うと蓮には話しておいた。
「大丈夫よ。莉子さん、ちゃんと謝ってくれた」
「そうか……」
「蓮?」
「ん?」優しい目で、長身の蓮が私を見下ろす。
「呼びたかっただけ」
そのまま、私は強く蓮を抱きしめた。
蓮も何も言わず、腕を回して抱きしめ返してくれた。
――1年半後。
春の陽気に包まれたやわらかな風が、花々を揺らしながら丘を撫でていく。
青空には薄い雲が流れ、太陽の光はどこまでも温かく優しい。
いつも私と蓮が訪れていた、月がきれいに見える丘。
そこは今、色とりどりの花で彩られ、丸テーブルや風船、煌めく飾りで夢のように飾られていた。
私と蓮の思い出の場所で、今日は新しい誓いを結ぶ。
そう――私たちの結婚式。
正直にいえば、私にとっては3度目の結婚式。
けれど、この事実を知っているのは私と蓮だけだ。
純白のマーメイドドレスを身にまとい、パパと腕を組みながら、真っ白なタキシード姿の蓮のもとへゆっくりと歩く。
すでに涙ぐむパパにつられて、私も泣きそうになる。
ねぇ、ママ。
天国からも見てくれているよね?
一時は「なんで私をこんな目に」と恨んだこともあった。
でも――ママが遺してくれたから、私は仲間に出会い、蘭明に出会い、そして蓮に出会えた。
私を幸せへと導いてくれて、本当にありがとう。
そして、パパの手から私の手が蓮へと渡される。
蓮の手をとり、こみあげる涙をこらえながら、笑顔でみんなの方へと振り返った。
振り返ると――
社員たち、田中さん、琴音、愛理、木村さん、悠真。
そして蓮のお母さんとお父さん、あずさ。
さらに――私の目に映った。いや、それは蓮の目にも映っていた。私と蓮はそっと目を合わせる。
小心、八軒、白鋭、星曜、夏翠。
咲公主、海尭、貴愛奈さま、季昭、ウタ、そして琉璃。
陽月国の仲間たちが、微笑みながら私たちを見守っている。
――私は、なんて幸せなんだろう。
誓いの言葉を交わし――
二人で声を揃えて言う。
「「誓います」」
指輪を交換し、蓮が私のベールを上げる。
互いに微笑み合い――誓いのキスへ。
……の前に、蓮が小さく笑って囁く。
「なぁ、いつものアレは?」
「あ……!」
私は思わず蓮の唇をつまんでアヒル口にする。
「幸せにしてくれないと、ちょん切っちゃうんだから!」
会場から笑いが起きる。
蓮は私の手をそっととり、囁いた。
「幸せにはする。でも……ちょん切るのは俺の役目だ」
そう言って、勢いよく私の唇を奪った。
大きな拍手に包まれたその瞬間――
私と蓮の足元に、何かが落ちた。
見下ろすと、それは切れた一本のミサンガ。
“死ぬまで蘭明と、来世でも一緒にいられるように”
そう願って結んだもの。
私は蓮と目を合わせる。
蓮がそっと拾い上げ、優しく言った。
「願いが、叶ったな」
「……うん」
涙を浮かべながら、笑顔で答える。
「じゃあ、次は――子宝に恵まれるように願わないとな」
「もう、蓮ったら!」
笑顔と拍手に包まれる中、私は空へブーケを高く放り投げた。
ブーケは――蘭、すずらん、そしてサザンクロス。
私が歩んできた花たちの集大成。
そして私と蓮は、指輪と足に揺れるアンクレットを見せながら、満面の笑みでカメラに向かって立った。
私は――
“守る華”から“守られる華”へ。
そして、
秘書・神崎守華から、
妻・中村守華へ。
完。




