112.深淵の記憶
ーーー 蓮 side ーーー
……ん?ここはどこだ?
目を開けると、見慣れない真っ白な天井が広がっていた。
ズキリと頭に鋭い痛み。思わず顔をしかめる。
「蓮!」
耳に届いたのは、おふくろの声だった。
起き上がろうとするも、体が重く、思うように力が入らない。
「おふくろ……ここは?」
「病院よ。階段から落ちたの。覚えてないの?」
「……だから頭がガンガンするのか」
無意識に触れた頭にはネット包帯が巻かれていた。
――階段から落ちた?俺が?なんで……?
状況を整理しようと考えていると、ちょうど田中が慌てた様子で病室に飛び込んできた。
「ボス!よかった。マジで焦ったぞ」
「田中……!」
田中は安堵したように笑い、ベッドに駆け寄る。
すると、おふくろが病室の隅に目をやり、声をかけた。
「守華ちゃん」
その先に、泣きはらした顔で立ち尽くす女の姿があった。
「……おふくろの知り合い?」
「え.....?守華ちゃんだよ?」
おふくろはまるで信じられないといった顔で俺を見る。
守華……?誰だ、それ。
「守華?そんなやつ知らねぇ」
「秘書の神崎だよ!」田中が慌てて口を挟む。
「秘書?俺の?俺の秘書はすぐ辞めて、今はいねぇけど」
俺がそう返すと、女は涙を拭いながらも笑みを浮かべた。
「やだなー、喧嘩してたから忘れたふりして懲らしめようとしてるの?」
――違う。俺は本当に、この女を知らない。
「喧嘩?そもそも俺と会ったことある?」
口にした瞬間、おふくろが苛立った声を上げた。
「蓮!何バカなこと言ってるのよ!」
だが、俺にはわからない。
なぜ母さんが怒っているのかも、
目の前の泣きじゃくる女が、なぜここにいるのかも。
そのとき、病室のドアが開いて莉子が入ってきた。
「莉子!」
「蓮!目が覚めたのね!心配したんだから」
莉子は駆け寄り、俺のベッドの脇に立った。
その顔を見た瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
「ちゃんと莉子もいたんだな。心配かけたな」
「蓮、その方は?」
おふくろが首をかしげるように尋ねてきた。
「あっ、おふくろに紹介まだだったな。俺の彼女の莉子」
言った途端、空気が止まった。
まるで時間ごと凍りついたみたいに、全員が固まっている。
「えっ?なんか変なこと言ったか?みんな固まってる」
「んんん。変なこと言ってないわ」
莉子はぎこちなく笑いながら、おふくろのほうへ向き直った。
「伊藤莉子と申します。蓮さんとは大学から一緒で、お付き合いをさせていただいております」
――本当は、こんな形で親に紹介するつもりじゃなかったのに。
「私、先生を呼んできます」
さっきの女がそう言い残し、病室を出ていった。
……誰なんだ、あいつ。
なんで俺の前で泣いてたんだ?
翌日。
MRIを含めた検査を一通り受けたが、特に異常は見つからなかった。
先生から説明を受けたおふくろに告げられたのは――
「蓮は一部の記憶を失っている」という事実だった。
無理に思い出そうとすると悪化する可能性があるから、今は考えるなと忠告されたけれど……。
俺はいったい、何を忘れているんだ?
昨日泣いていた、あの女のことか?
……でも忘れる程度の存在なら、それ以上の意味はなかったんだろう。
「蓮!りんご買ってきたよー」
明るい声と共に莉子が戻ってきた。
「おう、ありがとう。食べるからむいてくれ」
「分かったわ」
ナイフを手にりんごを剥きながら、莉子が笑顔を向ける。
「なぁ、莉子。俺はどうして階段から落ちたんだ?」
「ん?……あの時、会場を見学してたでしょう?コラボ商品の発表の。私が階段の前でバランス崩しちゃって……それで、蓮が庇ってくれて……。だから、蓮が代わりに」
「そうだったのか。会場に行ったのは覚えてるんだけど、その先がどうも抜け落ちてるんだよな。……莉子は怪我なかったか?」
「うん。蓮が守ってくれたから、私は無傷」
「それならよかった。……莉子をちゃんと守れたんだな」
二人で自然と笑みがこぼれる。
「はい、どうぞ」
莉子が切ったりんごを差し出してくる。受け取って一口かじると、甘酸っぱい味が口に広がった。
「そういえば俺のスマホは?」
「ここにあるけど……」
莉子はスマホを掲げ、そしてすぐにテーブルの遠い場所に置いた。
「でもね、まだダメよ。お医者さんから“スマホの光は頭痛を悪化させる可能性がある”って言われてるから」
「そうか……でも仕事の連絡、放っておくわけには」
「大丈夫。田中先輩が全部フォローしてくれてる。『心配するな』って、伝言も頼まれてるわ」
「ん……そうか。なら、久しぶりにゆっくり休むとするよ」
「そうして。じゃあ私、仕事に戻るね。また明日くるから」
莉子は手を振り、部屋を出て行った。
残された静けさの中、俺は天井を見つめたまま、胸の奥にわずかなひっかかりを抱え続けていた。
俺はもう体調も回復しているのに、医者は退院を許してくれない。
こんなに入院生活が退屈だとは思わなかった。
スマホも禁止。
できることなんてなく、結局はベッドの上でうとうとと眠ってしまう。
――ふと、鼻をくすぐる花の匂いで目が覚めた。
顔を横に向けると、さっきまではなかった花束が机の上に置かれていた。
“勿忘草”と“かすみ草”。
「……莉子、かな」
けれど胸の奥で、そうじゃない気がした。
小さな青い花を無数につける勿忘草。
花言葉は――「私を忘れないで」。
かすみ草の花言葉は「感謝」。
俺に向けられたメッセージのように思えて、背筋がざわつく。
ベッドを降りて窓際に立つと、外を歩く女の姿が目に入った。
あの、泣いていた女だ。
「……なんで、ここに?」
彼女がこの花を置いたのか?
“私を忘れないで”――それは、あの女が俺に訴えている言葉なのか?
分からない。全然思い出せない。
その瞬間、頭に鋭い痛みが走り、視界がぐるぐると揺れ始めた。
吐き気とともに、俺はその場にしゃがみ込んでしまった。
「蓮!どうしたの!?」
莉子が駆け寄り、俺の肩を抱いてベッドまで連れていく。
「大丈夫?頭が痛いの?」
「……大丈夫だ」
横たわった俺に、莉子がそっと布団をかけてくれる。
「この花……莉子が持ってきたのか?」
「ん?」
一瞬。
莉子の表情が固まり、ほんの刹那だけ“怖い顔”を見せた気がした。
「そうよ。綺麗な青だったから買ってみただけ」
次の瞬間には、いつもの莉子に戻っていた。
……莉子なら花言葉なんて気にしない。ただ見た目で選んだのだろう。
「莉子、ありがとうな」
「うん。花瓶に飾ろうか?」
「そうだな」
「ちょっと看護師さんに花瓶あるか聞いてくるね」
莉子は花束を手に、部屋を出ていった。
残された静寂の中で――
俺の頭からは、あの女の泣き顔だけが離れてくれなかった。
運ばれてきてから一週間。ようやく退院の許可がおりた。
おふくろが心配だからと、退院してもしばらくは実家に泊まることになった。
「お兄ちゃん!!大丈夫!?私のこと、分かる!?」
勢いよく飛び込んできたあずさが顔を覗き込んでくる。
「なんだよ、あずさ。相変わらずうるせーな」
「何よ。こっちは本気で心配してたのに」
拗ねたように吐き捨てると、あずさはすぐに自分の部屋へ戻っていった。
リビングへ行くと、台所ではおふくろが夕飯の支度をしていて、親父は迎えのとき持ってきてくれた俺の荷物をソファの上に置いてくれていた。
ソファに腰を下ろそうとしたとき、テーブルの上に一枚の写真が目に入った。
正月恒例、家族全員で撮った記念写真だ。
……けれど。
その中に、見覚えのある女がいた。
着物を着て、俺のすぐ隣で、にこやかに笑って写っている。
――あの、病室で泣いていた女。
「なんで……?」
思わず声に出していた。
家族写真のはずなのに、どうしてあいつが混じっているんだ。
一緒に正月を過ごした……?そんな記憶、ない。
「この写真……」
じっと見つめている俺に、親父が声をかけてきた。
「どうした?写真なんか見て」
「なんで、この女が写ってるんだ?」
その瞬間、親父の表情が固まった。口を開きかけ――
「だって、それは――」
「お父さん!」
おふくろが鋭い声で親父の言葉を遮った。
「……あー、母さんの知り合いよ。たまたま正月に挨拶に来ただけ。それで一緒に撮ったの」
「ふーん……」
口ではそう言ったものの、胸の中には疑問しか残らなかった。
正月に帰省した記憶はある。だが、何をしたのかまでは曖昧だ。
ましてや、写真を撮った記憶なんてない。
――おふくろに、若い女の知り合いが?
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
今日から、仕事に復帰する。
田中が俺の代わりに色々とこなしてくれていたおかげで、大きな問題はないはずだ。
♪〜〜〜
ポケットの中でスマホが震える。画面には「莉子」の文字。
「もしもし」
「蓮、今日から仕事に行くんだよね?」
「ああ」
「私もコラボの件で田中先輩に会わなきゃならなくて。一緒に行こうよ」
「分かった。今どこ?」
「駅にいるわ」
「じゃあ迎えに行く」
「ありがとう、待ってるね」
電話を切り、天気の良さに気分を乗せられて、車は駐車場に置いたまま駅まで歩いて向かった。
「蓮!」
人混みの中で手を振る莉子の姿が見えた。
俺も自然に手を振り返す。
「歩いてきたの?」
「ああ。天気が良かったからな」
「そっか!ねぇ、ちょっと遠回りになるんだけど、美味しいパン屋さんがあるんだって。寄ってから行かない?」
「パン屋?」
「そう!朝からすごい行列で、すぐ売り切れちゃうらしいの」
「人気店なんだな」
「行きたいなと思ってても、なかなか機会がなくて。だから今日、付き合って」
「……まぁ、いいけど」
俺たちは普段通らない道へ足を向け、その評判のパン屋を目指して並んで歩き出した。
「あー、よかった。お目当てのパンが買えた」
「よかったな」
大通りから一本入ったこの道は、車もほとんど通らず、両脇には並木が続いている。葉は青々として、朝の光を反射して揺れていた。
「ねぇ、カフェがある!付き合ってくれたお礼にコーヒー奢るけど?」
莉子が指差した先に、小さなカフェがあった。
腕時計に目をやると、針はすでに10時に近づいていた。
「いや、会社に早く行きたいから、また今度でいい」
「そう?分かった」
歩きながらふと視線をやると、カフェのテラス席に座る女性が目に入った。
コーヒーを片手に、小説に目を落としている。
風に揺れる髪、静かに本をめくる仕草――どこか惹きつけられる雰囲気。
(……たまには、俺もこうして外でゆっくり本でも読むのもいいかもしれない)
その女性が守華だとは気づかないまま、蓮は通り過ぎた。
莉子は隣で笑いながら話しかけてきていた。俺はその声に引き戻される。
――会社。
「おはようございます、ボス!」
「ボス、復帰できてよかったです。体調はもう大丈夫ですか?」
オフィスに入ると、次々に社員が声をかけてくる。
以前は挨拶程度で終わっていたような気がするのに……。いつからこんなに、みんな親しげに話しかけてくるようになったんだろう。
正直、少し戸惑う。
莉子は田中とミーティングルームへ向かっていった。
俺は一人で“ボス部屋”へ。
机の前に立ち、ふと考える。
――今日の予定は何だった?
どうやって管理していた?自分で?秘書はいないんだよな?
朝はいつもコーヒーを飲んでいた気がする。でも、それは誰が用意していた?俺自身?
記憶のあちこちに空白があって、妙に落ち着かない感覚が胸に広がっていた。
カフェエリアに足を運び、自分のコップを探した。
どこだ?毎日自分で入れていたのなら置き場所ぐらい覚えているはずなのに、いくら探しても見つからない。
「ボス、何か探してるんですか?」
声をかけられて振り向くと、根本が立っていた。
「俺のコップが見当たらなくてな」
「あー、コップならここですよ」
根本が棚の奥から取り出してくれる。
「ありがとう。なぁ、根本、ちょっと聞いていいか?」
「はい、なんでしょう」
「俺、今までコーヒーって……自分で入れてたか?」
一瞬、根本の表情が固まった。
「い、いえ……守――あっ、その、私が入れてましたよ」
「根本が?……そうか。なんか、その記憶が抜けてるんだ」
「そうでしたか。じゃあ私がいれて部屋に持っていきます。ボスは戻っててください」
「分かった」
「……あれ?ボスってブラックでしたよね?」
「あー。毎日いれてたお前が忘れるのか?」
根本が苦笑いをしながら
「すみません。ボスがしばらくいなかったから、つい……」
「そうか。じゃあ頼むよ」
軽く笑って部屋へ戻ったが、やっぱり胸の中に妙な引っかかりが残っていた。
本当に根本が毎日俺のコーヒーを?
……毎日いれてた人が、好みを忘れるものだろうか。
取引先や連携先のことは、不思議と俺の記憶から抜け落ちていなかった。
だから仕事自体は問題なくこなせる。
ただ――
どうも、いつも“誰か”と一緒に動いていたような感覚が頭の隅に残っている。
それが誰だったのかは、どうしても思い出せない。
莉子の会社「Re」との第二弾コラボも順調に進んでいた。
けれど、なぜ俺が仕切るのではなく、田中に任せていたのかが分からない。
第一弾は俺が中心で動いていたはずだ。
なのに今回は……。
少しずつ、記憶が飛んでいる。
田中に任せても大きな問題はないから、そのままにしておいたが――
プライベートになると、途端に空白が目立ち始める。
久しぶりに自分のマンションに戻ったときもそうだった。
玄関を開けると、スリッパが二足きちんと並べられている。
洗面所には歯ブラシが二本、化粧水も女性用。
クローゼットには俺のものではないパジャマや洋服まで置かれていた。
誰のだ……? 莉子?
いや、ありえない。
俺と莉子は「お互い仕事優先」で、泊まりはしない約束だった。
彼女が俺の部屋に頻繁に来ることもない。
じゃあ、あずさか?
……いや、あいつはそもそもスリッパなんか履かないし、部屋着といえばスウェットだ。
だったら、残るのは――莉子以外に考えられない。
そう思いながらリビングに戻り、ソファーに腰を下ろした。
すると、テーブルの上に見覚えのあるアンクレットが二つ置かれていた。
――なぜだ?
これは、ベッド脇の引き出しにしまっていたはず。
ひとつは月のチャーム。
もうひとつは太陽のチャーム。
手に取った瞬間、視界が揺らぐ。
一瞬だけ、この現代とは違う景色が脳裏をかすめた。
昔からこのアンクレットを見ると頭痛がする。
胸の奥にざわつくような不安が広がる。
「……クソッ」
俺は慌ててアンクレットを仕事用のカバンの小さなポケットに押し込み、見えないようにしまい込んだ。
それからは大きな問題もなく、日常が戻った。
ただ、オフィスでは田中が慌ただしく電話をかけている姿が目に入る。
俺は田中のデスクへ近づいた。
「田中、何かあったのか?」
「ボス……実は、発表会で使うモデルがなかなか見つからなくて」
「10月1日だろ?もう日がないぞ。こっちは金を払うってのに、なんで事務所は断ってくるんだ?」
「……それが、俺にも理由がよく分からなくて」
「第一弾のときはどんなモデルを使ったんだ?」
「えっ……ボス、それも忘れてる?」
「モデルだけがどうしても思い出せないんだ。でも、一度引き受けた子なら今回もやってくれる可能性は高いんじゃないのか?」
「うーん……確かに。ただ……分かった、連絡してみるよ」
「頼んだぞ」
――第一弾の成功は鮮明に覚えているのに。
なぜか、誰がモデルだったのか、その顔も名前も思い出せない。
⸻
二週間後。
「田中、モデルの件はどうなった?」
「解決したよ!」
「前と同じモデルか?」
「んー……まぁ……」
田中はモゴモゴと言葉を濁す。
「ま、とにかく大丈夫なんだな?」
「あぁ、大丈夫。任せとけ!」
「やっぱり田中なら安心だ」
俺がそう言うと、田中は苦笑した。
……田中だけじゃない。根本も、他の社員も。
最近、俺に向けるその苦笑いの裏に、何か隠している気配がある。
でも俺は深く聞けなかった。怖かったのかもしれない。
部屋に戻ると、ちょうど携帯が鳴った。
画面を見ると――莉子からだった。
「もしもし」
「蓮、今大丈夫?」
「あぁ。どうした?」
「ううん、特に用はないんだけど……今日の夜、ディナーでもどうかなって」
「いいな。何時くらい?」
「7時には仕事終わると思うから、迎えに来てくれる?」
「分かった」
「じゃあ、またあとでね」
通話を切ろうとしたその時、ふと胸にひっかかりがよぎった。
「あ、莉子」
「なに?」
「莉子さ……俺の家に泊まったことってあったっけ?」
一瞬、沈黙。
「えっ?ないわよ。私たちでルール決めたじゃない」
……やっぱり莉子じゃないのか? じゃあ、あの服やパジャマは――誰の?
「だよな」
「どうしたの?」
「怒らないで聞いてくれよ。浮気とか絶対にしてないから」
「分かってる。で?」
「俺の部屋に女物の服とかパジャマがあったんだ。莉子のじゃないのか?」
通話口の向こうで、また一瞬の沈黙。
心臓が妙に早く打ち始めた。
「莉子?」
「あ〜……それね。私のよ」
声色が、どこか作り笑いのように聞こえた。
「やっぱり莉子のか。莉子以外考えられないとは思ってたんだけど」
「前に“いざってときのために置いておく”って持っていったじゃない。覚えてない?」
「……わりぃ」
「いいの。あ、だったら今日、私のもの持ってきてくれない? 家で着たいのがあって」
「でも、置いておくためじゃなかったのか?」
「また近いうちに新しいのを持っていくから大丈夫」
「……分かった」
「じゃ、あとでね」
通話が切れたあと、胸の奥に小さな違和感が残った。
すぐに家へ戻り、言われた通り莉子の服やパジャマをまとめた。
けれど――どうしても拭えない。
この胸の引っかかりは、いったい何なんだ?
俺が記憶を失ったと聞かされてから、もう四か月が過ぎた。
毎日が同じリズムで流れ、何も変わらない日常。
時には、「本当に忘れた記憶なんてあるのか」と自分に問いかけることさえあった。
でも、ふとした瞬間――胸の奥で、かすかに何かが引っかかる。
見えない何かが、俺の生活の隅に影を落としている気がする。
手を伸ばしても触れられない、形のない違和感。
それが何なのか、どうして引っかかるのか――まだ、まったく分からない。
ただ確かなのは、日常の中に潜むその小さな影が、
俺に何かを思い出させようとしていることだけだった。
10月1日。今日はReとの第二弾コラボ商品の発表会だ。
俺の彼女の会社とのコラボなのに、トップである俺は留守番。まあ、仕事が入ってるから行けないんだけど……。
「ボス、Next Futureの渡辺さんが来ています」
根本が慌ただしく部屋に入ってきて報告する。
「もう来たのか?約束は14時のはずだろ。しかも山崎さんじゃないのか?」
「はい、今来ているのは渡辺さんです」
「まぁ、いい。通してくれ」
「はい」
まだ13時半。約束の時間まで30分ある。
_____トントン
「どうぞ」
「失礼します」
渡辺が一礼しながら部屋に入ってきた。
その目が、俺を刺すように鋭い。理由は分からない。ただ、何故かイライラが湧き上がる。
「予定より早いな。山崎さんは?」
「山崎はこれからきます。僕がきたのは中村社長に話があるからです」
渡辺の視線と口調で、すぐに仕事の話ではないと分かった。
「話とは?」
「中村社長は今日のコラボ発表会には行かれないのですか?」
「見れば分かるだろ。これから打ち合わせだ」
「今日のモデルは守華ですよ」
「守華……?」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかる。おふくろも、社員も、そして今渡辺も――守華という名前をだしていた。俺はこの名前を知らないはずなのに、何かがざわつく。
「まだ記憶が戻らないんですか?」
渡辺の言葉に、顔が熱くなる。なぜだ、知らない女の名前でこんなに心が乱れるのか。
「中村社長を一番理解している守華ですよ?中村社長が好きな人ですよ?」
「俺が……?」
莉子の顔が頭をよぎる。俺の心は混乱していた。
「みんな遠慮して言わないから俺がはっきり言います。中村社長が忘れてるのは守華、神崎守華です!」
俺が忘れてる?神崎守華?
渡辺が一歩踏み込み、怒りに満ちた目で俺を睨む。
「お前はその女が好きなのか?」
「……好きだ。あんたが守華に会う前から、ずっと好きだった。守華といる俺を、あんたが邪魔してきた。それも忘れたのか?」
何を言ってるんだ?俺が邪魔した?
「守華だけ記憶からなくして、目の前で元カノと仲良くして、守華が悲しんでるのに……なんで、それでも守華の中にはあんたしかいないんだ!」
元カノ?莉子と俺は別れてた?
なんだよ、それ。莉子はいつも通りだったぞ。
頭の中で矛盾が渦巻く。
「あんたが記憶を無くした分、守華が記憶を大事に残すって」
俺との記憶・・・
そんなことを言われても全く思い出せない。
「俺は守華が悲しむ顔は見たくない。俺が守華とあんたの記憶を消し変えてやる。あんたがこのままなら、無理やりでも奪いに行く。後でやっぱり俺のだは無しですよ!」
「ダメだ」
無意識に、思わず口から出た。
その瞬間、渡辺が俺の胸ぐらを掴む。握力の強さに思わず息が詰まる。
「もう遅いんだよ!まだ思い出してもいない人に守華は渡さない!お前のせいで守華は十分悲しんだ!俺の彼女にしてあんたみたいに辛い思いは絶対させない!」
胸ぐらを振り解き、必死に言い返す。
「ダメだって言ってんだろ!俺の女だ!!」
怒りを込めた大声がでた。
なぜこんな言葉が出るのか自分でも分からない。
思い出せない女――神崎守華――のことを考えるだけで、胸が焦げつくように熱くなる。
「じゃあ、なんで分かんないっすか!?今日だって、わざとこの打ち合わせを入れたんですよ!あんたが会場に行かないようにって。守華が踊る姿を見たら苦しむと思って、いつも守華はあんたのことだけ考えてるのに、なんで辛い思いをさせるんですか!?」
_____バン!!
ドアが勢いよく開く音に、社員たちは一斉に息を飲む。
渡辺の言うことは理解できない。でも、なぜか俺の足は勝手に発表会の会場へ向かって走り出していた。
発表会は14時開始。
ギリギリ間に合うかどうかの時間だ。
守華という女のことはまだよく分からない。
だが、舞台の彼女を見れば、何かを思い出すかもしれない。
胸の奥でずっと突っかかっている違和感の正体も、分かるかもしれない。
俺は必死に駆け出した。
心臓がドクドクと胸を突き上げ、息が荒くなる。
体が前に進むのを止められない。
会場に到着すると、もう音楽が会場内に響き渡っていた。
空気が熱を帯び、観客の視線がステージに集中しているのが分かる。
入り口の警備員を抜ける。
「サザンクロス代表の中村だ」
社員証を差し出すと、無言で通してくれた。
ステージには、着物姿の女性がしなやかに踊っている。
だが、会場の暗さと距離で、表情までは見えない。
次の瞬間、会場全体が眩い光に包まれ、彼女の顔にかかっていた仮面がゆっくり外された。
観客の歓声が会場を揺らす――が、俺にはその歓声は届かず、頭の中はあの女だけでいっぱいだった。
「あ……あの女は神崎守華……病室で泣いていたあの女だ」
扇子をくるくると高く掲げた瞬間、頭の中に現代ではない光景が、一瞬フラッシュのように浮かんだ。
くらっと目眩がして、視界が揺れる。
息が止まり、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
時間が一瞬止まったかのように、世界が静止する感覚。
それでも俺は目を離さなかった。
神崎守華が踊る姿を、全身で追った。
距離があっても、はっきりと分かる。
あの女と、今、目が合っていると……。
この光景――やっぱり、どこかで見たことがある。
でも、ここじゃない。前のコラボのときでもない。
まるで夢の残り香みたいに、頭の奥に別の景色が広がっていく。
果てしなく広い空間、白銀の壁が光を放ち、床にまで反射して眩しく輝いている。
現実じゃない、けど確かに「知っている」場所。
胸がぎゅっと痛む。
神崎守華の舞う姿を見るたびに、どうしようもなく切なさに押し潰されそうになる。
これは俺の感情なのか?
それとも、誰かの記憶を勝手に覗いているだけなのか?
彼女は舞いながら、ゆっくりと俺から離れていく。
遠ざかる背中を見つめるたびに、心臓を掴まれるような焦燥が走る。
――待ってくれ。
俺じゃない声が、心の奥から必死に叫んでいる。
そして彼女は正座をし、静かに頭を床へと伏せた。
その瞬間、言葉が稲妻のように脳裏に響きわたる。
“これは、蘭皇様でございましたか”
「……すずらん」
口が勝手に動き、涙が勝手に流れた。
どうして俺が泣いている?
どうして、この名前を知っている?
舞台袖に消えていく神崎守華の姿が、揺れる蜃気楼みたいにぼやけていく。
会場のざわめきも、音楽も、すべて遠くに霞んでいく。
気づけば俺は、濡れた頬を手で拭いながら、現実と幻の狭間をさまよっていた。
涙を拭いて会場をでて、急いでトイレに向かった。
トイレに駆け込んだ俺は、鏡の前で立ち尽くした。
映っているのは、自分――なのに、知らない顔のように思えた。
頬を伝う涙に気づき、息を呑む。
なんで俺が泣いている?
あの神崎守華とは誰だ?
蘭皇様? すずらん?
頭の中に渦巻く名前の数々は、どれも聞いたことがないはずなのに、心の奥に爪を立てるように引っかかって離れない。
俺の知らない世界。
いや、俺が忘れている世界なのか?
一体どうなってるんだ……。
冷たい水を思い切り顔に浴びせる。
それでも胸のざわめきは消えない。
鏡越しに目を覗き込む――誰だ、お前は。
自分のことさえ分からなくなってくる。
___ッッ
突然、左胸のあたりに火花が散るような激痛が走った。
思わず胸を押さえる。
熱い。燃えるように熱い。
そのとき――耳の奥で、声がした。
“守華……まだ、怒ってるのか?”
俺の声?幻聴か、それとも記憶の残響か。
続いて、胸の奥を突き刺すようにもう一つの声が響く。
“蘭明のことが、どうしようもなく、大好きだって……”
蘭明……?誰だ、それは。
服をずらして見ると、そこには今までなかった傷跡が浮かび上がっていた。
線を描くように赤く、古いようで新しい傷。血は出ていないのに、そこが自分じゃないみたいに疼いている。
何なんだ、この傷は……!
ぶつけた記憶もない。
ただ、目にした瞬間、体中の血が凍った。
頭がぐるぐる回り始める。
視界が揺れて、膝が床に崩れ落ちた。
俺は一体誰だ?
神崎守華は、俺にとって何なんだ……?
頭痛が少しおさまった頃、俺は控え室へ向かっていた。
神崎守華――その本人に、直接話を聞くために。
ドアの前には「神崎守華 様」と書かれたプレート。
ここだ。
ゆっくりと開いていた扉を押すと、中にいた神崎守華が椅子から立ち上がろうとしていた。
俺と目が合った瞬間、女の表情が驚きに揺れる。
――やはり、俺と何か関係があるんだろう。
動かないままの女に、俺は言葉を吐き出した。
「おまえは俺の……なんなんだ?」
控え室の空気が凍りつく。
互いに目を逸らさず、ただ見つめ合う。
……なんで、そんなに悲しい目で俺を見るんだ?
「わ、私は……」
声が震えているのが分かった。
俺が怖いのか?それとも――。
そのとき、女の胸元に見えたネックレスが目に飛び込んできた。
見覚えが……ある。
俺はゆっくりと歩み寄り、女の目の前に立つ。
女は俺から目を逸らした。
俺はそのネックレスをそっと掴んだ。
指先に伝わる感触に、胸の奥がざわつく。
もう少しで何かが――
「このネックレス……」
星の形をした花の中央に、アクアマリンの石が埋め込まれたネックレス。
「どこかで……見たことがある……」
だが、思い出せない。
頭の奥に針を刺されるような痛みが走る。
次の瞬間、女が俺の手からネックレスを掴み取った。
「友達からもらったものです」
女の言葉よりも、俺の視線は女の手首へと吸い寄せられる。
そこに巻かれたミサンガ――。
俺は衝動的に、女の手首を強く掴んだ。
逃げられないように、力を込めて。
「このミサンガ……」
まただ。見覚えがある。
ぼんやりと、映像が頭に浮かぶ。
誰かと誰かが向かい合い、このミサンガを結び合っている――そんな光景。
でもモヤがかかって、輪郭が見えない。
なんだ。なんで、あと少しなのに思い出せない。
この光景は……何なんだ!?
頭痛がさらに激しくなる。
俺は左手で頭を抱えた。
両手で頭を押さえ、掴んでいた女の手を離してしまう。
床に崩れ落ちる俺の耳に、女の声が遠く響く。
そして、莉子……田中……二人の声までが混ざり合う。
けれどその声も、遠く、ぼんやりと薄れていく――。
田中が俺を背負って別室まで運び、ソファへと下ろしてくれた。
さっきは意識が遠のきそうだったが、こうして腰を落ち着けると少しずつ呼吸も整ってくる。
ただ、まだ頭の奥に鈍い重さが残っていた。
そこへ莉子が慌てて駆け込んでくる。
「蓮、大丈夫?具合悪いの?」
「……もう大丈夫だ」
心配そうな視線を向けてくる莉子に、
“俺たちって、もう別れてるんだよな?”
そんなことは聞けなかった。
「ボス、なんで来たんだ?打ち合わせはどうした?」
「……やっぱり気になっちゃって」
「なんだよ、俺のこと信用してないのか」
「そんなことないけど……」
莉子は困ったようにため息をつき、水のボトルを差し出す。
「もういいわ、とりあえず少し休んで。はい、これ」
俺はそれを受け取り、一気に飲み干した。
「じゃあ、莉子がいるし、俺はちょっと会場を見てくる」
田中はそう言って部屋を出ていった。
部屋には俺と莉子、二人きり。
「思い出せそうで……思い出せないんだ」
俺の言葉に、莉子はそっと隣に腰を下ろし、俺を抱き寄せた。
「無理に思い出さなくていいんだよ。過去に縛られないで、未来を見ればいい。私がずっと蓮のそばにいるから」
「……神崎守華……」
「えっ?」
「いつも……あの女がそばにいると、頭が痛むんだ。莉子、あの女を知ってるか?」
莉子は抱き寄せていた腕をほどき、首を横に振った。
「もういいじゃない! 頭痛だってきっと偶然よ。体に良くないから、考えるのやめて」
「……ああ、そうだな。分かった」
そう答えながらも、心の中では納得できていなかった。
社員たちはみな、あの女の存在を知っているような態度をとるのに、莉子だけは「知らない」と言う。
神崎守華は一体、会社とどう関わっているんだ?
“考えるな”と言われても、俺の中にはまだ濃い霧がかかっている。
その霧が晴れるまでは、俺はきっと……考え続けてしまう。
今日はこのあと、俺の会社と莉子の会社で合同打ち上げがある。
体調も戻ったから、一度会社にカバンを取りに戻った。
莉子と田中はまだ会場の片付け中で、終わり次第、俺を迎えに来ることになっている。
会社に戻ると、もう社員たちの姿はなかった。
しかし、なぜか鍵がかかっていない。
「……飲み会だからって浮かれて鍵閉め忘れかよ。あとで説教だな」
小さくつぶやきながら、会社の中へと足を踏み入れる。
廊下はしんと静まり返り、蛍光灯の光だけが冷たく反射していた。
自分の部屋へ向かおうとした、その時――
俺の部屋の前で、誰かが一礼しているのが見えた。
女だ。
横顔が見える。何かをじっと見つめながら、静かに涙を拭っている。
何度も、何度も。
「……何してる」
思わず声をかけた。
女は、俺に気づいていなかったようで、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
その顔――
「お前、さっきの……」
神崎守華だった。
なぜ、こいつが会社にいる?
なぜ、俺の部屋に一礼していた?
なぜ、泣いている?
そして――
なぜ、いつも俺のことを、そんな悲しい目で見てくるんだ……!?
少しずつ、女がこちらへ歩み寄ってくる。
その瞳には、さっきまで涙の跡があったはずなのに――今は何事もなかったように声をかけてきた。
「体調は……大丈夫ですか?」
「あー……」
どう答えていいのか分からず、曖昧な声しか返せない。
「田中さんに、会社に届けてほしいと頼まれて……」
まだ何も聞いていないのに、言い訳のように言葉を重ねてくる。
「……田中も、よく無関係者にそんなことを頼めたもんだな」
本当はそんなことを言いたいんじゃない。
でも、口をついて出たのは冷たい言葉だった。
その瞬間、女の瞳がさらに深く悲しみに沈んでいくのが分かった。
「きちんと届けましたので……私はこれで」
深々とお辞儀をして背を向けかけたその時――
「あっ、田中さんに返そうと思っていたんですが……会社の鍵、返しますね」
カバンから取り出した鍵を、そっと俺の手のひらに置いた。
――その瞬間。
“元気でね、蓮”
“さようなら、蘭明”
二つの声が同時に脳裏をかすめた。
俺ははっとして女の後ろ姿を振り返る。
去っていく背中を、見えなくなるまで目で追ってしまっていた。
今の声は……なんだ?
神崎守華の声なのか?
でも、確かに二つ。
しかもその一つは――俺の名前じゃない。
蘭明……まただ。
混乱のまま部屋へ戻ろうとしたとき、足元に何かが落ちているのに気づいた。
さっき女が鍵を取り出したときに落ちたのだろう。
拾い上げて、表を向けた瞬間――息が止まった。
そこに写っていたのは。
並んで笑う、俺と神崎守華。
笑ってる。
まるで、当たり前のように二人で。
「……やっぱり、渡辺が言ってたのは……こいつのことなのか?」
胸がざわつき、鼓動が早まる。
忘れているのは――本当に、この女なのか……?
写真を手にしたまま、静かに部屋の方へ向かう。
さっき、泣きながら見ていたものは何だったのか?
視線の先は、秘書のデスクがある方向だ。
俺の会社には秘書なんていなかった。
だから、これまで部屋に入るときも秘書のデスクなど素通りしてきた。
だが、今日は足が止まる。
部屋の前まで来ると、秘書デスクの奥にポスターが貼られているのが見えた。
思わずそのポスターに近寄る。
そこに写っているのは、漢服のような衣装をまとった俺と――神崎守華。
胸がズキズキと痛み、同時に脳裏に浮かぶもうひとつの光景。
桜の木の下、同じ服を着た俺と守華が微笑み合っている……。
現代ではない、別の時代の景色。
机に視線を落とすと、ネームプレートが逆さまに置かれている。
そっと手に取り、元に戻してみる。
――“秘書 神崎守華”。
……秘書?神崎守華が、俺の秘書?
鼓動が速くなる。
もう一度ポスターを見上げる。
“Valentine’s Day”
“香りで想いを伝える”
バレンタインデー、香りで想いを伝える……?
意味がわからず、はっとして自分の部屋に駆け込む。
デスクの上に、いつも持ち歩いているカバンを置いた。
香り袋。
なぜこの香り袋がついているのか、これまで深く考えなかった。
莉子がくれたものだと思って、そのまま持ち歩いていた。
香り袋……
――“守華だけの匂いを、独り占めできるから”。
不意に、誰もいないはずの部屋で声が響く。
しかも、その声は――俺自身の声だった。
秘書なら、履歴書が残っているはずだ。
俺は棚から履歴書のファイルを取り出し、焦る手つきで神崎守華の名前を探す。
――「あった……」
やはり、うちの社員だったんだ。
履歴書を見ると、俺は面接もせず、この履歴書だけで採用していた。
神崎守華が俺と関わっているのは間違いない。
デスクに戻り、カバンをどけると――そこには白い封筒が置かれていた。
――“退職届”
慌てて中を開けると、そこには
――秘書 神崎守華
の文字。
日付は、俺が入院していた時期だった。
……俺は神崎守華を、知らずに苦しめていたのか?
引き出しを開け、他に手がかりはないか探す。
白い封筒がもうひとつ出てきた。
急いで開けると、紙にはこう書かれていた。
――“神崎守華は辞めません!ボスを守れるのはこの私だけです!”
思わず、苦笑いが漏れた。
辞めませんと書いておきながら、退職届を出すなんて……。
そのまま秘書デスクの引き出しを開け、何か他に残っていないか確認する。
すると、ノートが一冊出てきた。
中を開くと、秘書の仕事に関するメモ書きがびっしりと書かれている。
俺はそのノートを手に取り、部屋に戻り、ソファに腰を下ろした。
心臓がまだ高鳴っている。
神崎守華……お前の全てを、俺はこれから少しずつ知ることになるのかもしれない。
秘書の仕事用メモの隣には、俺への愚痴もびっしりと書かれていた。
――“おはようも言えないくせに”
――“あー、むかつく”
――“ボスは皇帝陛下か!?”
――“こき使いやがって”
――“そのうち絶対やり返してやる”
――“性格最悪。でも、顔はイケてる♡”
俺への悪口のはずなのに、思わず笑ってしまう。
だがページをめくるにつれ、次第に悪口ではなくなっていく。
――“ボス、遅くまで仕事してるけどいつ寝てるんだろう?”
――“いつもお昼食べないけど栄養大丈夫かな?”
――“昨日、飲みすぎてたから心配だな”
――“社員のこと一番に思ってるのになんで誤解するような態度をとってしまうんだろう?”
――“本当は優しいのに”
――俺を気遣う言葉に変わっていた。
もしかして、俺のことを一番理解してくれるのは――神崎守華なのか?
カバンの中から、あの二つのアンクレットを取り出す。
なぜ手に取ったのかは分からない。ただ、無意識に見つめていた。
普段ならこれを見ただけで頭痛がするはずなのに、今日は平気だった。
その代わり、強烈な眠気がじわじわと体を包む。
気づけば、俺はソファに座ったまま、深い眠りに落ちていた。
何分経ったのだろうか。いや、何時間だろうか。
いつの間にか眠りに落ちていた俺は、目を開けると自然に涙が流れていた。
そして、手の中には握りしめたままのアンクレットがあった。
「守華……思い出した!守華のことも、このアンクレットのことも!」
涙を拭い、アンクレットをしっかり握りしめたままカバンを抱え、俺は足早に走り出した。
「あっ、ボス!ちょうど今迎えにきたよ」
田中と莉子だった。
「どうしたんだ?そんなに急いで」
「莉子……俺と莉子は、もう終わってたんだな」
「え?」
「ボス、まさか……!」
「あー、全部思い出したんだ」
「嘘……」
莉子の瞳が潤み、今にも泣き出しそうなのが分かる。
「でも、私は蓮のことが好き」
「ごめん、莉子。俺は守華だけだ」
背後で泣き叫ぶ二人を振り切り、俺は会社の外へ飛び出した。
「ま、待ってよ!」
莉子の声が追いかけてくるけれど、足は止まらない。
いつも行っていた屋上に駆け上がるが、守華の姿は見えない。
どこにいる……?
下に降り、外に出ると、ふと目に入ったのは願い事が書かれた紙。
無意識に拾い上げ、目を通す。
――“彦星が織姫を迎えにきてくれますように 守華”
七夕でもないのに、守華らしい……と思い、自然と笑みがこぼれた。
あそこだ。守華は、あそこにいる!
急いで車に飛び乗り、彼女のもとへと向かった。
駐車場に車を停めると、ドアを閉めるより早く走り出した。
いつもの場所へ――あの場所へ。
夜の空気は冷たく、吐く息が白い。
時刻はもう10時を過ぎているだろう。
周りには、ほとんど人影もない。
暗闇の中をひたすら走りながら、心の中で祈る。
どうか、そこにいてくれ――。
木の柵がある、いつも守華が眺めていたあの場所に辿り着く。
しかし、そこには誰もいなかった。
絶対にここだと思ったのに。
なんでいないんだ……?どこに行ったんだ!?
焦燥に駆られた俺は、柵に沿って走り続ける。
――見つけた。
ベンチに腰かけ、空を見上げている守華の姿が目に入る。
胸の奥で何かが弾けるような感覚がして、俺は息を整えながら彼女へと歩み寄った。
「守る華と書いて“守華”……蘭という花を守るんじゃなかったのか?」
まだ俺に気づいていない守華に、静かに声をかける。
守華はゆっくりと立ち上がり、振り向いた。
その瞳が俺を捉えた瞬間――。
「……蘭明……?」
俺が命をかけて愛した女が、今、目の前にいる。




