110.自分の時間
休業扱いにされてしまったから、就職活動すらできない。
何もできないまま、時間だけが流れていく。
スマホを開くと、そこには蓮との写真や動画がぎっしり詰まっている。
一枚、一枚、指先でスライドするたびに、そのときの笑顔や声が鮮やかに蘇ってくる。
胸が痛い。私が、蓮を追い詰めてしまったんだ…。
右手首に視線を落とす。
そこには、蘭明からもらったミサンガ。
手首をそっと持ち上げて、光にかざしてみる。
──私が蘭明に囚われたままだから、蓮を傷つけてしまった。
テーブルの上に置かれたハサミに、思わず手が伸びる。
どうせ、蘭明がいないこの現代で、切れて願いが叶うことなんてない。
だったら、もう……。
ミサンガと手首の隙間に、ゆっくりハサミの刃を滑り込ませる。
少しずつ、刃を閉じていく──。
……だけど。
「あーーーー、やっぱり出来ない」
そのままハサミを外し、テーブルに戻した。
蓮のことが大好きで、胸が張り裂けそうなのに、
それでもこのミサンガだけは、どうしても切れなかった。
切ってしまったら、あの陽月国の景色や、蘭明との時間、
すべてが「なかったこと」になってしまうような気がして……。
次の日からは、なるべく外に出ることにした。
家にいると、考えすぎてしまうから。
普段は通らないような道を選んで、ゆっくり散歩する。
「綺麗な着物……」
大きなショーウィンドウに、紺色の生地に金と白の牡丹が描かれた着物が飾られていた。
やっぱり、私は着物が好きなんだ。
見惚れていると、中から白髪のおばあさんが現れた。70〜80歳くらいで、グレイに近い紫の着物を着ている。店員さんだろうか。
「こんにちは」
おばあさんが、優しく声をかけてくれる。
「こんにちは。この着物、とても素敵ですね」
「よかったら、着てみる?」
「えっ、いえ、大丈夫です……」
「遠慮しなくていいのよ。若い方が着物に興味を持ってくれるのが嬉しくて」
「でも、買わないのに試着しても……」
「ほら、どうせこの時間は暇だから、あなたが1人入ることでお客さんが次々入ってくるのよ。人集めのお手伝いだと思ってくれればいいの。あ、でも忙しいなら無理はしなくていいわ」
私は、再びショーウィンドウの着物に目を向ける。
どうせ暇だし……ね。
「じゃあ、お願いしてもいいですか?」
おばあさんに案内されて、畳の部屋に上がる。
「着物に興味があるの?」
試着の準備をしながら、木村と名乗るおばあさんが優しく話しかけてくる。
「興味というか……以前、着物を着ながら舞うお仕事をしていたんです」
「へぇー、すごいわね。日本舞踊?」
「日本舞踊のようでもあり、違うようでもあり……ゆったりした舞もあれば、あえて速く動く舞もありました」
「ぜひ見てみたいわ。この着物を着たら踊ってみせてくれない?」
「そんな……見せられるほどのものじゃ……」
「暇な老人に付き合うと思ってさ」
笑顔で言われると、断れない。
「分かりました」
着付けをしてもらいながら、木村さんは色々な話をしてくれる。
「私にもあなたぐらいの孫がいるんだけど、全く着物に興味がなくてね」
「そうなんですか?着物って素敵なのに」
「神崎さんだけよ。今の若い人はあまり着物に触れないから。成人式のときくらいしか人気が出ないのよ」
話している間に、着物はどんどん形になっていく。
帯は黒にゴールドの模様が入っていて、後ろで丁寧に結んでくれた。
「はい!できたわよ」
鏡を見ると、後ろの帯に思わず息を飲む。
花のようで蝶のような、複雑で美しい結び方。
いつも前で花魁風に結んでいた自分には新鮮すぎる景色だった。
胸の奥が、ざわざわと高鳴る。
日常とは違う時間、何も考えずにただ立っているだけで、なんだか体が軽くなる気がした。
「すごい……こんなに帯って美しく結べるんですね」
「そうよ、色々な結び方があるの」
鏡の中の自分を見て、自然と笑みがこぼれる。
普段は着ない、特別な着物に包まれると、心までふわっと舞い上がるようだった。
今日、ここに来てよかった――そう、心の底から思った。
そのまま木村さんに2階へ案内された。
2階は広々とした畳の間で、光が柔らかく差し込んでいた。
木村さん以外のスタッフも、私の踊りを見るために自然と集まってきている。
扇子を手に取り、静かに踊り出す。
踊っている間は、目の前の世界しか見えない。
全ての考え事が消え、私だけの時間に浸れる。
体も心も、踊るたびに軽くなって、内側からすっきりと満たされる。
舞は、私を輝かせてくれる――。
踊りが終わると、拍手が湧き上がった。
「神崎さん、すごいわ」
「ありがとうございます」
「神崎さん、今お仕事休業中って言ったわよね?もしよければ、週に2回ここで舞を教えてくれない?もちろん、謝礼は出すわ」
「私がですか……?踊るのはできますけど、教えられるかどうか……」
「大丈夫よ!若い子たちも来るかもしれないし、ついでに私も教えてもらうわ」
家にいても時間を持て余すだけ。
でも舞なら、前を向ける気がする――。
「じゃあ、私でよければ……」
「本当!?嬉しいわ、ありがとう」
自分らしくいられる舞。
私を強くしてくれる舞。
みんなを夢の世界へ引き込む舞。
私には、舞がある――!
その後、曜日や時間を相談しながら、店を後にした。
舞は、毎週火曜と金曜に教えに行くことになっている。
天気がいい日は、テラス席のあるカフェで小説を開き、香り立つコーヒーをゆっくりと味わう。
目の前の道を行き交う人々――
一人ひとりに、それぞれの物語があるのだろうな、と思いを巡らせる。
表情から考えていることを想像したり、
話す口の動きから会話の内容をなんとなく予想してみたり。
秘書をしていた頃は、慌ただしく動き回ってあっという間に時間が過ぎていたけれど、今は時間がゆったりと流れる。
――「蓮……」
通りを歩く人々の中に、蓮と莉子さんが並んでいるのを見つけた。
私は顔を小説で隠し、気づかれないようにそっと見守る。
スーツ姿の蓮は、莉子さんに笑顔を向けながら歩いている。
胸の奥がチクチクと痛むけれど、少し安心した自分もいる。
――退院できたんだ。
スーツを着ているということは、仕事にも復帰したのだろう。
小説を少しずつずらしながら、2人が視界から消えるまで見つめ続けた。
「すみません、お隣いいですか?」
「えっ、あ……はい」
椅子の横の荷物をどかそうとして、顔を上げた瞬間――
「悠真!!」
「元気してたか?」
「元気よ! どうしてここに?」
「根本さんに聞いたんだ」
琴音とは連絡を取っていた。
蓮のことには気を遣ってくれて、あまり触れてこなかったが、私が時間のあるときにこのカフェに来ていること、舞を教えることになったことは伝えてあった。
「守華、どんだけ心配したと思ってる? 電話しても出ないし、LINEしても無視だし」
蓮が悠真のことも気にしていたから、本当は着信に気づいていたけど、ボタンを押せなかった。
「あっ、ごめん。琴音のしか見てなかった」
笑いながら「ごめんね、ごめんね」と悠真の肩を軽く叩く。
「で、本当に大丈夫なのか? 中村社長のことは聞いたよ。守華のことを忘れるなんて、俺ならありえない」
「本当、ありえないわよね。まぁ、記憶が戻ったら一発かますわ」
いつものように笑って、平然を装う。
「守華、俺と友達じゃなくて……俺の彼女になってくれ。俺なら守華のこと分かってるし、悲しませることはしない」
一瞬、息が止まった。
蓮が言ったように悠真が私のことを好き? そんなこと……。
「まーた、私を元気づけるためでしょ? 私は元気だから大丈夫よ」
悠真の頭をクシャクシャとしながら、
「ありがとうねーーー」
私は笑っているのに、悠真は笑っていなかった。
いつもと違う悠真に、胸の奥がざわつく。
その手を悠真に取られた。
「俺は本気だ」
ふざけ合う女友達のようだった悠真が、真剣な目をしている。
「えっ……?」
「俺は大学のときから、ずっと守華が好きだった」
「えっ、そんなはずないよ。ずっとそんな素振りしてなかったじゃない」
「しないようにしてたんだよ。最初は何度も匂わせたけど、いつも守華は“忘れられない人がいる”って……だから俺、気持ちを言う前にフラれた気分だった。なのに、俺のほうが長く一緒にいたのに、あっさり中村社長と付き合って……。守華が笑ってるなら、俺が我慢すればいいって思ったけど、今の現状を見ろよ! 守華が一人で寂しがってるのに、あいつは元カノと一緒に笑ってるんだぜ? そんなの許せない。だから……守華、俺と真剣に付き合ってほしい」
私は驚いて、悠真を見つめるしかできなかった。
悠真が私を……そんな風に見ていたなんて。
なんで気づかなかったんだろう。
また一人、友達として大切な人を傷つける。
私が蘭明から離れられないから、周りを不幸にする。
蘭明は、会えなくても私にとって大きな存在。
でも、その存在を超える人が蓮だった。
「ごめんね、悠真……私は悠真の気持ちには答えられない。蓮が私の記憶をなくしても、私の中にはちゃんと蓮との記憶が残ってる。だから私は全然寂しくない。悠真も言ったよね? “私が笑顔だったらいい”って。それは私も同じ。蓮が笑顔でいてくれるなら、私は我慢できる。だから悠真とは付き合えない」
悠真は、固まったまま動かなかった。
「……そうだよな。分かってたよ。俺も、ずっと言えなかった気持ちを言えたからスッキリした! これからも守華は最高のダチだ」
「ありがとう、悠真」
本当に、私は周りの人たちに恵まれている。
陽月国でも、この現代でも。
それだけでありがたいこと。
これ以上の幸せは望まない――そう、心の中でつぶやいた。
舞を教え始めて、今日で3回目。
初回は10人ほどのマダムたちが中心だった。
木村さんの知り合いやお客さんなのだろう。
正直、初めてだから2、3人いればいいほうだと思っていたのに、10人もいて逆に驚いた。
木村さんの人脈、すごいな。
そして3回目の今日は、私と同じくらいの年齢の人も数人参加していた。
木村さんの働く着物屋さんがSNSで告知したところ、若い子たちも来てくれたらしい。
SNSの力、恐るべし。
でも、若い人が増えると、なんだか私まで嬉しくなる。
みんなに“先生”と呼ばれるのはまだ少し照れくさいけれど、舞を教えていると自分らしくいられる。
まだ教え始めたばかりで、基本を中心にやっているけれど、私の舞をこうして誰かに伝えられるって、なんだか不思議で、でもすごく嬉しい。
彩国で毎日、朝から晩まで無我夢中で練習に打ち込んだ日々。
ナンバー1になるために必死だったあの時間。
その経験が、今この現代でこうして役に立っていると思うと、応援してくれていた季昭に心から感謝してる。思い出すと、季昭やウタ、陽月国のみんなにも会いたくなっちゃたな.....
閉まっておいた記憶を思いだすなんて弱気になっている自分を感じた。
7月末。
蓮が階段から落ちて記憶を失ってから、気づけばもう2か月が経とうとしていた。
別れ話もなく、自然に終わる――これって一番嫌なパターンだよね。
もう、このまま会わないんだろうな、と思ってしまう。
舞を教え始めてからは、気持ちはずいぶん落ち着いていた。
いつもは通らない道を歩いていて、ふと目に止まった着物。
そのとき、木村さんが声をかけてくれて、そのまま舞を教えることになった。
人と人の出会いって、偶然なのだろうか。
それとも、会うべくして会ったのだろうか。
きっと、私と蓮の出会いにも何か意味があるんだろう。
記憶がなくても、もしかしたら、莉子さんと幸せになるために私が現れたのかもしれない。
蘭明に縛られていた私を解放するために、蓮に会ったのかもしれない。
悲しい結末になるにしても、きっとそこには意味があったのだと思う。
♪〜〜〜
いきなりの着信音に、思わず少しビクッとする。
「サザンクロス 田中さん」
まさか、蓮の記憶が戻った…!?
慌てて電話に出る。
「お疲れ様です、田中さん」
「おお、神崎、元気な声で何よりだ」
「田中さんも元気にしてますか?」
「俺はいつだって元気さ」
電話越しに田中さんの笑う声が聞こえてくる。
「どうしたんですか?」
ボスが『記憶が戻った』って言ってくれ…?
でも直接会って話すってことは、蓮のことじゃなさそうだ。
じゃあ、一体なんだろう。わざわざ呼び出すなんて。
「神崎、今、時間あるか?」
「あ、はい」
「ちょっと出てきてくれないか?」
すぐに準備を済ませ、田中さんに指定されたカフェへ向かう。
カフェに入ると、すでに田中さんが座って手を振っていた。
「すみません、待ちましたか?」
「いや、いいんだ。俺が急に呼んだんだから」
店員がお冷を持ってきて、私もアイスコーヒーを注文する。
「私の退職って、どうなってますか?」
「いやー、それがまだボスに言えてなくて…」
バツが悪そうに言う田中さん。
「お金の面で困ってるのか?」
「いえ、それはどうにか大丈夫ですが…なるべく早く退職したくて」
「退職の件は、もうちょっと待ってくれ」
「わかりました。で、話ってなんですか?」
「神崎、率直に言うわ」
蓮関係じゃないことを祈る。
「はい」
「根本に聞いたんだけど、今、踊りを教えてるんだって?」
「あー、はい。会社的にはまだ退職扱いじゃないので、まずかったですか?」
「いや、それは問題ない。副業扱いにできるし」
「じゃあ、なんでその話を?」
___ガンッ!!
田中さんのおでこが、思いっきりテーブルに叩きつけられた。
「えっ!?ちょ、田中さん!?」
「神崎、休業中だがお願いだ。Reとのコラボ発表のとき、またモデルをやってくれ!」
「えーーー!?」
思わず大声を出してしまう。
そのタイミングで頼んでいたアイスコーヒーが届き、店員さんに「すみません」と頭を下げる。
「田中さん、まわりから変な目で見られるので、頭あげてくださいよ」
田中さんの“ガンッ”という音と私の大声で、あっという間にカフェ中の注目の的になっていた。
「神崎が引き受けてくれるまであげない」
思わず心の中でツッコミを入れる。
なんという、ダダをこねる子供みたいな…!
蓮といい、田中さんといい、サザンクロスのトップ2人がこんなに子供っぽいなんて、周りも予想外だろうな。
「引き受けるかどうかはちょっと置いといて、いきなり言われても何とも言えません。まず詳しく教えてください。それから考えます」
田中さんはニヤリと笑い、顔を上げた。
これも計算済みの作戦だろう。部下が頭を下げてる上司をほっとくいて帰れるわけがない。
「本当だな?嘘はなしだぞ?」
「まだやるとは言ってませんからね。とりあえず、なんで私なんですか?ちゃんとモデルに頼めばいいじゃないですか」
「いや、前々からモデル事務所には当たってるんだけど…去年の神崎の話題が凄すぎて、引き受けてくれるところがなかったんだ」
「そんなバカな話ありませんよ?こっちだってお金払うんですから、モデル会社は万々歳じゃないですか」
「いや、そうなんだけど…すでにサザンクロスとReの第二弾コラボの話題が出てて、発表会に去年のモデルが出るかどうかでSNSが盛り上がってるんだ。だから違うモデルを出すと会社の評価も下がるし、そのモデルも気持ち的に傷つくかもしれないからこっちから強くは言えないんだ」
「そんなことに…そのこと、蓮は知ってるんですか?」
「いや、まだ記憶が戻ってないから、刺激しないようにSNSは見せてないし、このコラボからは外れてもらってる。ボスも医者からスマホの光が悪影響だと言われてるので、蓮も見てないはずだ」
「そうですか。まだ記憶は戻ってないんですね」
少し期待していた自分がいて、ちょっと落ち込む。
「でも、私がモデルをやったら莉子さん、反対しませんか?」
「莉子にも話した。モデルがいないと何も始まらないから、仕事だと割り切ってるよ」
「わかりました。発表はいつですか?」
「10月1日だ」
「分かりました。では、どんなイメージか後でメールで送ってください」
「やっぱり神崎だ!引き受けてくれると思ってたよ」
「ちゃんとお返しは待ってますからね!」
「分かってるって!」
「それと条件が2つあります」
え?と目を見開く田中さんに、話を続ける。
「1つ目はそのコラボの発表が終わったら私の退職を退職させてください」
「それは俺には決められないんだけど...」
「じゃ、引き受けられません」
「わ、わかった。どうにかする。2つ目は?」
「2つ目はその会場にボスは連れてこないでください。それが守れるなら、引き受けます」
「ボスを?なんでだ?」
「記憶が戻ってないから、それだけです」
「わかった。今回のコラボは俺が仕切ってるから、ボスは何かと理由つけて会社にいさせるようにする」
「ちゃんとやってくださいよ?」
「分かってるって」
それから、木村さんにお願いして、舞の稽古以外の時間も2階を貸してもらった。
発表会で舞う振り付けを考え、ひたすら練習する日々。
きっと、大きな舞台で舞うのはこれが最後だろう。
でも、その場所がサザンクロスでよかった。
コラボ商品を成功させれば、お世話になったサザンクロスに恩返しができる。




