109.私のいない記憶
蓮が病室に移され、私とお母さんはその横に付き添っていた。
お父さんは「あずさも心配だから」と一度家に戻り、田中さんと莉子さんは「みんなのご飯を買ってくる」と外へ出ていった。
「私がいけないんです……」
声が震えた。
「私がバランスを崩して落ちそうになったところを、蓮が庇って……」
「よかったわ」
「え?」
あまりに意外な言葉に、思わずお母さんの顔を見た。
「蓮がちゃんと好きな人を守れる男で安心したのよ」
お母さんは優しく微笑む。
「もし好きな人を守れなくて、ここに眠っているのが守華ちゃんだったら、蓮のことをどうしてたか.....だからよかった」
胸がいっぱいになり、視界が滲んだ。
きっと私を元気づけるために言ってくれているんだ。
“母は強し”って言うけど、本当にそうなんだって今は分かる気がする。
「ね、大丈夫だから」
お母さんが私の肩にそっと手を置く。
「蓮は今、麻酔で眠っているだけ。命に別状はないって先生も言っていたでしょう?」
私はコクンと頷き、蓮の手をそっと握りしめる。
その手の温もりを確かめるように、じっと見つめ続けた。
お母さんや田中さん、莉子さんは部屋を行き来していたけれど、私はただ蓮の隣に座り、離れずにそこにいた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
私は窓の外、だんだん暗くなる景色をぼんやりと眺めていた。
「蓮」
お母さんの声に振り向くと、蓮の目がゆっくりと開いていた。
起き上がろうとしたけれど、麻酔が切れたばかりなのか体はまだフラフラで、完全には起き上がれないようだった。
「おふくろ……ここは?」
「病院よ。階段から落ちたの。覚えてないの?」
「だから頭がガンガンするのか……」
蓮の頭にはネット包帯が巻かれていた。
二人の間で会話が交わされる。
そのとき、田中さんが駆け込んでくる。
「ボス!よかった、マジで焦ったぞ」
「田中……!」
私は安心したけれど、声を出そうとすると涙が溢れてしまい、両手で口を塞いでしまった。
よかった……普通に会話できてる。本当に、よかった。
「守華ちゃん」
お母さんが、ただ立ちすくんで涙を流す私に優しく声をかけてくれた。
同時に蓮と田中さんも私を見つめている。
私はゆっくりと、蓮のもとへ歩み寄った。
「おふくろの知り合い?」
その一言で、足がピタリと止まる。
「え……?守華ちゃんだよ!」
「守華?そんなやつ知らねぇ」
「秘書の神崎だよ!」
田中さんも必死にフォローに入る。
「秘書?俺の?俺の秘書はすぐ辞めて、今はいないけど」
本気……?
さっきコーヒーに砂糖たっぷり入れた仕返し?
「やだなー、喧嘩してたから忘れたふりして懲らしめようとしてるの?」
震える声で笑いながら言う。
また蓮に近づこうとするけれど……
「喧嘩?そもそも、俺と会ったことある?」
足が動かない。
「蓮!何馬鹿なこと言ってるのよ!」
お母さんが焦って怒り出し、田中さんも思わず唖然とする。
これ以上、蓮に近寄れない……。
ごめんね、ごめんねって、今すぐ謝りたいのに、彼は私にそんな隙を与えてくれない。
胸の奥がぎゅうっと締め付けられて、息をするのも苦しい。
その瞬間、莉子さんが部屋に入ってきた。
みんなの視線が一斉に莉子さんに向く。
「莉子!」
あの冷たい口調は私にだけだったのか――。
莉子さんには笑顔で名前を呼んでいる。
まだ、私への当てつけが続いているのだろうか。
「蓮!目覚めたのね!心配したんだから」
そう言いながら、私の目の前を通り抜け、蓮のもとへ歩いていく莉子さん。
「ちゃんと莉子もいたんだね。心配かけたな」
お母さんがゆっくり口を開く。
「蓮、その方は?」
「あっ、おふくろに紹介まだだったな。俺の彼女の莉子」
耳を疑った。
蓮のその言葉に、みんなが驚いている。もちろん、莉子さんも。
「えっ?なんか変なこと言ったか?みんな固まってる」
「んんん、変なこと言ってないわよ」
莉子さんはお母さんの方を見て、きちんと自己紹介した。
「伊藤莉子と申します。蓮さんとは大学から一緒でお付き合いさせていただいてます」
蓮はそんな莉子さんに満面の笑みを向ける。
お母さんは驚き、言葉が出ず、軽くお辞儀する莉子さんに応じるしかない。
田中さんもその光景に目を丸くし、私や莉子さん、蓮を何度も見渡す。
そして私は気づく。
蓮にとって、私はもう――この部屋にはいない存在なのだと。
胸が張り裂けそうで、足が地につかない。涙が頬を伝い、声も出せず、ただ立ちすくむしかなかった。
「……私、先生呼んできます」
その場にいられず、必死に理由を作って病室を出た。
息が止まりそうで、手は涙で濡れ、心臓は早鐘のように打ち続ける。
一歩一歩歩くたびに、胸の奥の痛みが増していく――私の存在は、もうここには必要ないのだと実感しながら。
次の日、MRIなどの精密検査を受けたが、特に異常は見つからなかった。
先生の話によると、頭に強い衝撃を受けると、思い出したくない記憶や辛い記憶が一時的に忘れられてしまうことがあるらしい。人物に関しては、想いが強すぎると逆に記憶から抜け落ちることもあるのだという。
記憶は戻る可能性があるが、いつになるかは本人次第。無理に思い出させようとすると、かえって状態が悪化するため、自然に任せるのが一番だとも言われた。
――私だけが、蓮の記憶から消えてしまった。
私が守ってあげたいと思っていたのに、現代でも愛する人を傷つけてしまうなんて。
記憶がなくなったとしても、やっぱり心配で、自然と病院に足が向いてしまう。
蓮にとっては、知らない人が部屋に入れば警戒するだろう。
それでも、何かしてあげたい気持ちが止められず、私は病室へ向かった。
病室のドアのガラス越しに中を覗くと、莉子さんの姿が見えた。
蓮と笑顔で会話をしていて、莉子さんはりんごの皮をむき、蓮に食べさせている。
――本当なら、そこは私の場所のはずなのに。
なんで、こんなことになってしまったんだろう。胸が締め付けられる。
そのとき、肩をそっと叩かれた。
振り向くと、お母さんが静かに立っていた。
私はお母さんと一緒に、病院の庭のベンチに腰を下ろした。
静かな風が、少し冷たい午後の光を運んでくる。
「守華ちゃん……辛いわよね。でも、きっと記憶は戻るはずよ」
お母さんの声は優しく、でも確かな力があった。
「お母さん……大丈夫です。それに……原因はきっと、私なんです」
胸の奥がキリキリと痛み、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
「蓮が、以前私が大好きだった人に顔がそっくりで……。会社に入ったとき、無意識にその人の名前を呼んでしまうこともあったんです。それを蓮も知っていて……。それで、こないだ初めて、喧嘩をしてしまったんです。蓮はいつも通り平然としていましたが、きっと私が蓮ではなく、その過去の人をまだ愛しているんじゃないかと、不安になったんだと思います。なのに私は、蓮に絶対に言ってはいけないことを言ってしまって……傷つけてしまったんです。でも、お母さん……私は、蓮自身を、心の底から好きなんです。すごく、すごく好きになってしまったんです……」
言葉を絞り出すたびに、涙が頬を伝った。
お母さんは黙って、そっと肩に腕を回し、私を抱きしめてくれた。
「そんなことがあったのね……でもね、好きになるって、色んな始まり方があると思うの。一目惚れだったり、最初は嫌いだった人を好きになったり、興味がなかった人に惹かれたり。だから、守華ちゃんの好きだった人に蓮が似ていたとしても、そこから恋が生まれることはあると思うわ。でも、顔が似ているだけで好きになることはないのよ。性格や思いやりが合わなければ、恋にはならないから。顔が似てるのは、ただのきっかけに過ぎないの。そこから本当にお互いを好きになるかどうかは、別の話よ。ただ……今回は、蓮が少し心が弱かったのね。きっと守華ちゃんのことが大好きすぎて、失いたくなくて、大切すぎて、どうしていいかわからなくなったんじゃないかしら」
お母さんの言葉に、また涙が止めどなく溢れた。
「大丈夫よ、守華ちゃん。私の息子だもの、きっとちゃんと守華ちゃんのことを思い出すわ。失いたくない人を、自分から手放すようなバカなことは、蓮にはできないから……大丈夫よ」
泣き止まない私を、お母さんはずっと抱きしめてくれた。
お母さんも、一緒に涙をこぼして……
蓮との出会いから、笑ったこと、喧嘩したこと、些細な思い出まで、色鮮やかに蘇る。
でも、そのすべてを蓮は、今は忘れてしまったのだと思うと、胸が張り裂けそうになる。
――私は、どうしたらいいんだろう?
蓮は、私の記憶だけが戻らない以外は、体に特に異常はなかった。
頭を打った影響で様子を見るために、1週間の入院が決まっていた。
私は毎日のように病院に通ったけれど、病室の中には入らず、廊下からそっと様子を見ていた。
――中に入るべきじゃない。蓮のためにも……いや、正直に言えば、自分が傷つくのが怖いだけかもしれない。
仕事も、ちゃんと休まず行っていた。
蓮の代理は田中さんが務め、私はその補佐として動いていた。
今は、蓮が会社にいないからまだ耐えられる。
でも、もし退院して会社に戻ってきて、私がそこにいたら……
考えるだけで、胸が締め付けられて、怖くて想像もできなかった。
「神崎!」
田中さんの声に振り返り、私は自分のデスクの椅子から立ち上がる。
「はい!」
「今日も、ボスのところに行くんだろ?」
「あっ……はい」
「大丈夫か?」
「え……?」
「会社で無理して笑ってるだろ」
田中さんは、こういう細かいところまで見てくれている。
部下たちの顔、表情、感情まで気にかけてくれる。だから、たまにふざけたことを言われても、許してしまうんだろうな。
「ありがとうございます。私は大丈夫です!こんなんで負けたりしませんから」
「そうか、ならいいんだ。少し早いけど上がっていいぞ。早くボスのところに行ってやれ」
「え、いいんですか!?ありがとうございます!」
お礼を言うと、田中さんは軽く手を振って自分の席に戻っていった。
私は深く息をつき、胸のざわつきを抱えたまま、病院へ向かう準備を始めた。
今日もきっと、私は廊下から見ているだけだろう。
莉子さんと蓮が一緒にいるところは、どうしても見たくなかった。
だからいつも、莉子さんが来る前に病院に着き、帰るようにしていた。
莉子さんは仕事が終わった夜に来るから、私の時間は大体、夕方5時半から1時間ほど。
病室に向かう途中、小さな花屋さんがあった。
今まで何度もこの道を通っていたのに、なぜか今まで気づかなかった。
ふと思い立ち、私は店に入ってみた。
「いらっしゃいませ」
笑顔の女性スタッフが声をかけてくれる。
店内には色とりどりの花が並んでいて、その中でひときわ目を引く小さな花があった。
――勿忘草。
花言葉は、「私を忘れないで」。
今の私の気持ちに、ぴったりだと思った。
青く小さな花がたくさん集まっていて、それにかすみ草も加えてもらう。
胸の中でそっと、言葉を添える。
――“蓮に感謝”。
この二つの花言葉、蓮は気づいてくれるだろうか。
渡せるかどうかもわからない。
でも、店員さんが丁寧に花をラッピングしてくれたその瞬間、少しだけ心が温かくなる。
田中さんが早めに上がらせてくれたおかげで、今日はいつもより少し早く病院に着いた。
病室のドア越しに中を覗くと、誰もいなくて、蓮が静かに眠っているのが見えた。
――寝ている今なら……
そっと息を殺して、ドアを少しだけ開け、静かに中へ入った。
スースー、と穏やかに眠る蓮の寝息。
その寝顔を見るだけで、胸の奥から込み上げる涙を止められない。
私は買ってきた花束を、ベッドの隣にある小さな台の上に置いた。
花は青く小さな勿忘草とかすみ草。――私の気持ちをそっと託したもの。
蓮をじっと見つめる。私の、大好きな蓮。
あなたが私との思い出を忘れてしまっても、私はここに残しておく。
見たくなったら、いつでも私のところに来て、思い出を取り戻してほしい――そんな気持ちを胸に、そっとおでこにキスをした。
そのせいか、少しだけ動いた蓮を見て、私は慌てて足早に病室を抜け出した。
――よし、明日からまた頑張ろう。
昨日、蓮にそっとキスをしたせいか、自分でも驚くくらい少しだけ元気になった気がした。
今日も変わらず、いつも通りに仕事をこなしていく。
「伊藤社長」
社員の声にふと顔をあげると、その視線の先に莉子さんがいた。
「あれ?今日、打ち合わせあったっけ?」
田中さんも気づいて近づいていく。
「先輩、今日は神崎さんに話があってきたの」
「神崎に?」
莉子さんが小さく頷く。
彼女が来たことには気づいていた。
けれど、あえて知らないふりをした。
――蓮の元恋人である彼女に、今の私の顔なんて見せたくなかったから。
「かんざきーー!」
田中さんの声に呼び戻される。
やっぱり、逃げ切れない。
「はい!」
返事をして歩み寄ると、莉子さんと目が合った。
真っ直ぐな視線に、胸の奥がざわめく。
「神崎さん、話があるからちょっといい?」
「あっ、はい」
彼女はすぐに歩き出した。
背後では社員たちの囁き声が広がっていた。
「ボスと莉子さん、より戻ったみたいよ」
「え、じゃあ神崎さんとは別れたの?」
「いや、ボスが振ったって聞いたけど」
胸に突き刺さるような言葉。
けれど、それ以上に痛むのは――蓮の名前が噂の中に軽々しく飛び交うことだった。
「守華、大丈夫?」
琴音が駆け寄り、私の顔を覗き込む。
「ボスと守華は別れてないし、今もボスの彼女は守華よ!噂話を真に受けるんじゃないわよ!」
琴音が大きな声で言ってくれる。
「ありがとう。でも、気にしないから大丈夫よ」
そう答えたけれど、胸の奥は静かに揺れていた。
涙が込み上げそうになる中、ぐっと唇を噛みしめ、莉子さんの後を追った。
ビルの屋上に、私と莉子さん、二人きり。
風が頬をかすめ、夕暮れの空気が張り詰めている。
「……あの、話ってなんでしょう?」
「神崎さんでしょ? 花、置いていったの」
「えっ……」
「そういうの、やめてくれないかな」
「え?」
「分からない? 先生も言ってたでしょ、辛い思い出は忘れるって。神崎さんとの記憶が、蓮にとって辛いものだったからじゃないの?」
「それは……」
「――あの日、見たでしょ? 蓮が私にキスをしてきたの」
胸がぎゅっと締めつけられる。
できることなら、あの光景ごと私の記憶も消してしまいたい。
「その前に蓮、言ったのよ。神崎さんと付き合ってみて、やっぱり性格が合わないって。私といた頃のほうがよかったって。だから“よりを戻したい”って言われたの。でも、まだ神崎さんに別れを言ってなかったから、ちゃんとけじめをつけてからにしてって言ったの。そしたら強引に引っ張られて、キスされたわ」
「……嘘だ。そんなこと、ありえない」
私の視線が泳ぐ。
心の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
「私も蓮が好きよ。蓮も、彼女は私だと思ってる。無理に思い出させるのは危険だって先生からも言われてるじゃない? 神崎さんのせいで、また蓮が苦しむのよ。蓮を本当に想うなら、これ以上苦しませないで」
「……」
声が出ない。
だって――本当に蓮を苦しませているのは、私だから。
「それと、蓮に電話もしないで。携帯を見て考え込むと大変だから、蓮が寝てるときに神崎さんの番号ややり取りは削除しておいたわ」
「……削除? 私とのやり取りを……思い出の写真も?」
「酷いことするんですね。人の携帯を勝手に見て消すなんて。蓮に記憶がないからって、それはいくらなんでもやり過ぎです」
「じゃあ、蓮が苦しむところが見たいの? 目が覚めたときにあなたがいただけで、蓮は“あの女は誰だ”って頭抱えて苦しんでるのよ。苦しませるぐらいなら、あなたに酷いと言われようが私は構わないわ」
“すでに苦しんでる”
私が、あのとき蓮の視界に入っただけで。
言い返したいのに、喉が震えて言葉が出てこない。
「蓮のそばには、私がいるから。お願いだから、これ以上苦しめないで」
それだけ言い残して、莉子さんは無言で階段を下りていった。
取り残された屋上で、私はただただ立ち尽くす。
立ち尽くすことしかできなかった。
幸せにしたいと願っていたはずなのに、私が蓮を一番苦しめていた――その事実が胸を締めつける。
蓮が必要としているのは、私ではなく、莉子さんなのだ。
その思いに気づいた瞬間、足の力が抜け、私は屋上のフェンスにしがみつき、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
頬を伝った涙が、冷たいコンクリートに落ちて濡れていく。
「蓮……」
声にならない声が漏れる。
私と過ごした時間は、あなたにとって思い出したくないほど辛かったの?
私は、ただ傍にいたいだけだった。
笑ってほしくて、支えたくて、守りたくて――それなのに、私があなたを追い詰めてしまった。
守ってあげられなくて、ごめんね。
あなたの痛みに気づけなかった私を、どうか許さないでいい。
でも、どうか……私のことを全部忘れてしまう前に、せめて一度だけ笑ってほしかった。
――私はここにいてはダメなんだ。
あなたのそばにいればいるほど、あなたを傷つけてしまう。
それでも本当は、声を聞きたい。名前を呼びたい。抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってあげたい。
会いたい。
会いたいのに、これ以上は蓮を苦しめるだけ。
私の愛は、もう届かないのだから。
涙ににじんだ視界の中、私はようやく立ち上がった。
入社してから初めてズル休みをした。
琴音に頼んでバッグを持ってきてもらい、体調が悪くなったと伝えてもらった。
その日から、私は蓮の病室を訪れることをやめた。
会いたい、会いたくてたまらない。
だけど――会えない。
胸の奥であなたの名前を呼びながら、私は静かに距離を置いた。
いつもより少し早く出社した朝。
6月の初夏の風は湿り気を帯び、街に咲いた花々の香りを運んでくる。
ふと目を閉じれば、蓮と歩いたこの道の記憶が胸をよぎった。
前を行く蓮の背中。
必死に追いかける私のヒールの音。
そんな日常も、今は幻のようだ。
――サザンクロス。
私が心惹かれて入社を決めた会社。
その看板を見上げると、あの頃の高鳴りがまだ残っている。
毎朝、蓮の部屋の前でスケジュール帳を抱えて待っていた。
でも、その帳面を開く意味はもうない。
「ボス部屋」
最初に入ったとき、私はわざとペン立てを倒した。
それは、蓮が本当に“蘭明”なのか確かめるため。
胸が張り裂けそうになった瞬間を、今も忘れられない。
静まり返った部屋で、私はそっと蓮のデスクに触れる。
冷たい感触が返ってきて、現実の冷たさに飲み込まれていく。
でも、確かにここに蓮はいて、私の時間と交わっていた。
そして、私の席。
ここから私は、毎日のように蓮を見つめていた。
パソコンに向かう横顔。
電話越しに響く声。
疲れを誤魔化すように目を押さえる仕草。
私にだけ向けられた笑顔。
全部、愛おしかった。
振り返れば、まだ残っている。
私と蓮が写ってるあのバレンタインのポスター。
でも、その記憶も今の蓮の中には存在しない――。
自分のデスクに座り、バックからファイルと一通の封筒を取り出す。
朝のオフィスには、続々と社員たちが出社してきている。
その中に、田中さんの姿も見えた。
「田中さん、ちょっとお時間いいですか?」
「どうした?」
私の顔を一目見ただけで、田中さんは何かを察してくれたようだった。
黙って私をボスの部屋へ連れて行く。
ソファーに向かい合わせで腰を下ろす。
少しの沈黙のあと、田中さんが口を開く。
「で、どうした?」
私は震える手で封筒を差し出す。
封筒には大きく「退職願」と書かれていた。
「退職願…ボスのことで?」
普段は冗談ばかりの田中さんも、その時ばかりは真剣な顔をしている。
「はい…本当は、こんな形で辞めるのは悔しいです。
最初は、無理やりやらされて嫌々始めたボスの秘書の仕事でした。
でも気づけば、私はその仕事が大好きになっていました。
ボスを助けるための秘書なのに、今は逆にボスを苦しめる存在になってしまう。それでは仕事にも影響が出てしまいます。
このサザンクロスという会社も大好きです。
ボスも、会社も、守りたい気持ちはある…でも、私にはそれを続ける資格がないんです」
言葉を紡ぎながら、こぼれそうになる涙を必死で堪えた。
どうにか笑顔でごまかすけれど、胸の痛みは隠せない。
「神崎、それで本当にいいのか?
ボスの記憶は、すぐに戻るかもしれないぞ?」
「もう、決めました。
それに、記憶が戻ったとしても、きっとボスは私のところには戻らないと思います」
そう、戻ってこない。
私との時間は、きっと辛い思い出だけになってしまった。
蓮には莉子さんがいる。
私の気持ちは消えないけれど、好きだからこそ、別々の道を歩むことが最善だと分かっている。
それで蓮が苦しまないなら、それでいい。
田中さんが私の退職願を手に取り、じっと見つめる。
「……あ、あとこれ」
昨日、早退して家で作っておいた、次の秘書への引き継ぎファイルを渡す。
「これは?」
「次にボスの秘書をする方に渡してください。
ボスの仕事や秘書業務のことを書き残しておきました。少しでも役に立てばと思って…」
手渡すと、田中さんが静かに頷いた。
胸の奥に残る寂しさと痛みを、誰にも見せずにただ息を整える。
田中さんは手にしたファイルを開き、中身をじっくりと見ていた。
そして、フン、と鼻で笑う。
「ボスのこと、よく分かってるな」
「そりゃあ、そうですよ。1年やってれば自然と分かります」
思わず私も胸を張る。
「神崎、ボスはな、神崎のこと本当に好きだったんだぞ。それだけは忘れるなよ」
「分かってます…」
胸がじんわり熱くなる。
「もう恋はしないと思っていた私に、ボスはもう一度恋というものを教えてくれました。それに、社会人1年目でボスの秘書を経験したおかげで、どんな仕事でもやれる自信がつきました!」
田中さんが大きく笑う。
「ハハハハ、間違いないな。これは一応、預かっておく。ただし、受理するのは俺じゃなく、サザンクロスのボスだ。ただ…神崎もよく考えただろう?だから、とりあえず2〜3ヶ月は休業扱いにしておく」
「……」
言葉が出ないけれど、少し胸が軽くなる気がした。
「それに、うちのボスの秘書は、これからも神崎にしか務まらないと思うけどな」
田中さんは笑いながら立ち上がり、ドアの前で振り返る。
そして、私に向かって言った。
「いつでも電話してこいよ」
その言葉に、自然と笑顔がこぼれる。
「はい」




