108.信じることの重み
新入社員が入り、サザンクロスのオフィスはいつも以上に活気づいていた。
今年も新人担当は田中さんだ。
私は相変わらず、蓮の付き添いや書類整理、連携先への連絡に追われている。
「お疲れ、琴音」
カフェエリアに行くと、琴音はすでにコーヒーを飲んでいた。
「お疲れー」
「マーケティング部にも新人入ったんでしょ?どんな感じ?」
「んー、まだ何ともね」
「そうだよね。秘書も誰か入れないのかな。私は企画部に移動したいのに」
「守華、あなたがいればボスは満足よ。それに、守華以外が秘書やったら、またあの冷たいボスに戻るでしょ」
「ハハハー、それもそうね」
「考えてごらんよ。守華だって入社直後、分厚いファイルを暗記させられたじゃん。あれができるのは守華だけだって」
「確かにあれは地獄だったわ…」
「企画部移動は諦めなさい」
琴音に肩をトントンされた。
「神崎さん」
「ん?」
振り向くと、髪を一本にまとめた私と同じくらいの身長の子が立っていた。
「えーっと…」
「マーケティング部に入った木村愛理です」
「3人いた中の1人だ!」
琴音は思い出したように答えた。初日に挨拶しただけらしい。
愛理はコクンと頷くと、少し緊張した様子で言った。
「入社が決まったあとにバレンタインのポスターを見て、ずっと会いたかったんです。すごくファンで」
「ファン!?私の?」
「はい!動画も見ました。すごく感動しました。動画を作ったのは根本さんですよね!根本さんもすごいです」
琴音も褒められて笑顔になった。
「あっ、もちろん、香り袋も買いました」
「あ、ありがとう。でも普通、女子なら私じゃなくてボスのファンになると思うけど」
「ボスはボスで素敵ですが、私は神崎さんのあのポスターの目にやられました。恋をしている目っていうんですか?すごく印象に残って…」
「そっか。ありがとうね。木村さんね、覚えたわ」
「愛理と呼んでください」
それからというもの、ランチに行くときは琴音と愛理で行くことが多くなった。
愛理も片想い中の相手がいるらしく、相談されることも多い。
私と琴音は、そんな愛理を可愛がりながら見守っていた。
「ボス、おはようございます」
「おはようございます、ボス」
社員の声で蓮の到着が分かる。
まぁ、LINEで“もうすぐ着く”って来てたから知ってたけど。
私はいつものように、ボスの部屋の前で手帳を持って立っている。
「おはようございます、ボス」
「おはよう」
蓮がメガネをかけていた。その姿に思わずドキッ。
メガネ姿の蓮も、やっぱりかっこいい。
固まる私を見て、蓮が笑う。
「どうした?」
我に返り、つい顔が赤くなる。
「反則!メガネ似合いすぎ」
「そうか?」
部屋に入り、話す蓮。
「いきなりメガネなんてどうしたの?」
「最近、目が疲れてな。ブルーカットのメガネだよ」
そのとき、田中さんが笑いながら入ってきた。
「ボス、おはよう。あれ?邪魔した?」
「邪魔だっていっても、ここにいるだろ」
と、いつもの蓮。
私は二人のやり取りを遮るように予定を伝える。
「ボス、今日の予定です。11時よりReでコラボ商品のサンプルチェック、14時より税理士との打ち合わせ、15時半より社内ミーティング。Reのチェックですが、私は視察に行くので、ボスと田中さんの二人でお願いします」
「俺も11時から急遽打ち合わせで行けなくなった。ボスだけで大丈夫?」
「神崎、視察はずらせないのか?」
「相手先の都合で、どうしてもその時間じゃないと無理らしいです」
「そうか、俺一人か」
田中さんが首を傾げる。
「サンプルチェックはボス一人で充分だろ?何を悩んでる」
「いや、そうなんだけど…」
莉子さんのところに蓮が一人で行くことになるのが気になるのだ。
「ボス、私は大丈夫です。仕事ですし、しっかりチェックしてきてください」
蓮はソファーから私を見上げる。
「あー、そういうことね」
田中さんも納得した様子。
「神崎、本当に大丈夫か?日にちをずらしてもいいんだぞ?」
「仕事なので大丈夫です。莉子さんの都合もあるでしょうし、ボスを信じています。あ、でも…」
そう言いながら、蓮のメガネに手をかけ外す。
「このメガネはかけていかないでくださいね」
守華のニコッとした笑みに、蓮は一瞬、目を見開き呆気にとられる。
「え……あ、ああ…」
こんなかっこいいメガネ姿の蓮を、莉子さんに見せないで——と思ってしまう。
「じゃあ、コーヒー入れてきますね!田中さんも飲みますか?」
「よろしく頼む」
「はい」
カフェエリアに向かいながら、自分に言い聞かせる。
そりゃー、莉子さんと二人きりは仕事でも気になる。
蓮が大丈夫でも、莉子さんは隙あらば何かしてきそうだ。
でも、私が信じなきゃ誰が蓮のこと信じるのよ。
大丈夫、大丈夫。
お昼過ぎ、視察を終えて会社に戻る途中で、蓮からLINEが届いた。
“莉子とランチに行ってきてもいいか?”
胸の奥がチクリとした。本当は嫌。でもきっと莉子さんからの誘いだろう。
わざわざ連絡をくれるんだから、怪しいことなんてないはず。
ここでギクシャクしてコラボ企画が台無しになるのも避けたい。
“行ってきていいよ。私は今、会社に戻ってるから待ってるね”
“分かった。気をつけて戻れよ。俺も戻る時連絡する”
ランチくらい…人目も多いし大したことじゃない。そう自分に言い聞かせた。
***
13時半ごろ、蓮が会社へ戻ってきた。
手招きされて、私はボス部屋へ入る。
「…心配したか?」
「全然!言ったでしょ?私はボスを信じてるって。どうせ、誘ったのも莉子さんでしょ?」
「ああ。でも、莉子が勘違いするようなことはしてないから安心しろ」
「はいはい。気にしてないってば」
本当は、どんな話をしたのか全部聞きたいけど。
「でも…ちょっとだけ、ギュッとして」
蓮は一瞬驚いたように私を見つめ、それから優しく笑って両手を広げた。
その胸に飛び込むと、すぐにトクントクンと力強い鼓動が耳に届く。
「今日も、ちゃんと聞こえる」
「心臓の音か?」
「うん。よし、元気もらえたから仕事してくるね」
胸の中のモヤモヤは、すっかり消えていた。
ほんと、私ってなんて単純なんだろう。
「ねぇ、携帯の充電器って他にある?」
蓮のマンション。
私は会社に置き忘れてきてしまったらしい。
「ベッドの横の引き出しに入ってるかも。見てみろ」
「分かった」
寝室へ行き、言われた通り引き出しを開ける。
充電器を探して奥に手を伸ばした瞬間――何かに触れた。
取り出してみると、それは充電器ではなく――
「……えっ」
もう一度奥に手を入れると、同じものがもうひとつ出てきた。
手のひらに載せて見つめる。
アンクレット。しかも二つ。
「どうして……ここにあるの?」
ドクン、ドクン、ドクン。
鼓動が急に早まる。
この時代には存在しないはずのものなのに。
アンクレットを握りしめ、私は蓮のもとへ駆け戻った。
「蓮!」
「ん?充電器、見つかったか?」
「ねぇ、このアンクレット……誰の?」
差し出した瞬間、蓮は目を細めて覗き込んだ。
「へぇ……よく、ブレスじゃなくアンクレットって分かったな」
「そんなことはどうでもいい!誰のなの?いつから持ってるの!?」
「なんだよ、そんなに気に入ったのか?」
「そういうことじゃない!」
蓮は少し考え込み、視線を落とす。
「俺にもよく分からないんだ。気づいたらここにあってな……見てると頭が痛くなる。捨てようとしてもできなくて、ずっとしまい込んでた。それがどうした?」
「それ……私と、蘭明が――」
「蘭明?」
低く鋭い声に変わった蓮の響き。
ぞくりと背筋が冷たくなる。
あ……言ってはいけない名前を出してしまった。
「いや……」
「やっぱり、まだその蘭明ったいうやつのことが気になるのか?」
「なんでそうなるの?」
「結局、守華はその男が好きなんだろ」
「本気でそう思ってるの?」
「何かあればすぐにその男の名前を出しやがって」
「蓮と付き合ってから、蘭明の名前なんて出してない!」
「出さないように我慢してるだけだろ」
「そんなことない!」
私の“蘭明”という一言で、蓮の中にくすぶっていた不安が火を噴いたかのように、口調はどんどん鋭さを増していく。
「口では何とでも言えるよな。それに……渡辺とだって、本当に友達なのか?」
「なんで今、悠真の話が出てくるの?悠真は友達だって言ってるじゃない」
「それは守華が勝手に思ってるだけで、渡辺の気持ちは分からないだろ」
「仮に悠真が私を好きだったとしても、私は恋愛対象じゃないの!」
「じゃあ今、俺にそっくりなその蘭明ってやつが現れたらどうするんだ!」
「そんなの、ありえない!」
「ありえなくはないだろ!!」
「ありえないわよ!私がいるこの世界には存在しないんだから!」
「存在しないって……どういう意味だよ」
一瞬、蓮の怒気が揺らいだ。
でも私はそれ以上言えない。
「……もういい。その話は。だって私は――今、蓮という男を好きなんだから」
「好きって言えば、俺が黙ると思ってるのか?苦し紛れの言い訳だろ」
なんで。
なんで素直に受け取ってくれないの?
胸の奥で悲しさがぐつぐつと煮え、怒りへと変わっていく。
「小さい男ね」
「小さい……だと?」
「そうよ。私は蓮が好きだって言ってるの。それに、蓮を信じてる。だから莉子さんと2人でランチに行くのも許した。自分のことは棚に上げて、私だけ責めるなんておかしいでしょ?」
「それは仕事だ!プライベートじゃない!」
「ランチも仕事?莉子さんは絶対プライベートだと思ってるわよ!」
その言葉に、蓮は口を閉ざした。
「……もういい。蓮は、もう少し私を信じてくれてもいいんじゃない?」
蓮は視線を逸らしたまま。
「今、はっきり気づいた。蓮と蘭明は顔が似てても、中身は全然似てないって」
その瞬間、蓮の目がこちらを向く。
私も涙で滲む視界のまま、真っ直ぐに見返した。
比べちゃいけない。言っちゃいけない。
頭では分かっていたのに――もう止められなかった。
「少なくとも蘭明は……私をいつも信じてくれてた!!」
握りしめていたアンクレットをテーブルに叩きつける。
乾いた音が響いた。
バッグを掴み、私は蓮の部屋を飛び出していた。
握りしめていたアンクレットをテーブルに叩きつける。
乾いた音が響いた。
バッグを掴み、私は蓮の部屋を飛び出した。
――ダンッ、ダンッ、ダンッ。
ヒールの音が夜のマンションの廊下に響く。
止まらなきゃ、と思うのに、足は勝手に前へ進んでいく。
呼吸が荒くなり、視界が滲む。
頬を伝うのは、抑えようとしても抑えられない涙。
胸の奥が張り裂けそうで、喉が焼けるほど苦しい。
「どうして……」
小さくつぶやく声は震えて、誰にも届かない。
エレベーターのボタンを押す指まで震えていた。
涙の雫がぽたりと落ち、床に黒い染みを作る。
蓮の部屋から離れるほどに、涙は逆に止まらなくなっていった。
付き合って初めての喧嘩。
昨日は、私も言いすぎたのかもしれない。
でも――。
蓮の気持ちも理解できなくはないけど、まるで全然信用されてないみたいで…胸がざわつく。
私が帰ってから、蓮からの連絡は一通もなかった。
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。
どんな顔をして会えばいいのか、答えは出ない。
――けど。
仕事は仕事。いつも通りにやるしかない。
「ボス、おはようございます」
「おはようございます、ボス」
周りの社員の声。
鼓動が変な意味で早くなる。
私はスケジュール帳を抱え、いつものようにボス部屋の前で待つ。
目を閉じて、深呼吸をひとつ。
――目を開けると、蓮と目が合った。
……やっぱり。
機嫌の悪さがそのまま目に宿ってる。
目で刺されるってこういうことを言うのね。
内心ビクビクしながらも、必死に平然を装った。
「ボス、おはようございます」
「……」
蓮は私を一瞥もせず、そのまま通り過ぎてドアを開け、部屋に入っていった。
――シカト。
こっちは割り切って仕事してるのに!
ほんとに小さい男!
心の中で怒鳴り散らしそうになるのを必死に飲み込む。
少し時間を置いてから、私も部屋に入った。
「ボス、今日の予定です」
蓮は顔を上げず、あのメガネをかけてパソコンに目を落とす。
私の存在なんていないかのよう。
――あー、そう。
そういう態度を取るわけね。
「10時より社内ミーティング、15時よりReの伊藤社長とメイユールホテルで会場確認になります」
「分かった」
パソコンを打つ手を止めもしないで、淡々と返す蓮。
無視されるよりはマシだけど。
「今日は田中さんがお休みなので、社内ミーティングはボスが仕切ってください。会場確認は私も同行しますが、その前に発注先に寄るので少し遅れるかもしれません。先に行っててください」
「分かった」
それだけ。
「コーヒーいれてきます」
短く言い残して部屋を出る。
ドアを閉めたあと、一度立ち止まって深呼吸。
胸に溜まったもやもやをなんとか落ち着けてから、カフェエリアへ向かった。
蓮のカップにコーヒーを注ぐ。
いつもならブラック。けれど今日は――砂糖をたっぷり。
さっきの冷たい態度への、ちょっとした仕返し。
___トントン。
「失礼します」
扉を開けると、蓮は電話口で笑っていた。
耳に馴染んだ声色、相手は……莉子さん。
会場確認の打ち合わせだろう。でも、胸の奥がざらつく。
黙ったまま、蓮のデスクにブラックコーヒーを置いた。
ちょうど蓮も通話を終える。
「これ、今日のミーティングで使うから全員分コピーしておけ」
「はい」
プリントを受け取ろうとするが、蓮が手を離さない。
紙を挟んだまま、視線がぶつかる。
「さっきの電話……伊藤社長ですか?」
「……あぁ。それが何か?」
「別に。私は、誰かさんと違って心が広いので」
力が緩んだ瞬間、一気にプリントを引き抜く。
「では、失礼します」
一礼して部屋を出て、まっすぐミーティング用のコピーをとっていると
「神崎!!」
廊下に響く大きな声。
社員たちが一斉にボスを見る。
私は何事もないように振り返った。
「はい、ボス」
蓮が早足で近づいてくる。低く鋭い声。
「コーヒーに何を入れた?」
「え?いつものコーヒーですよ。不満ならご自身でどうぞ」
わざと無表情で答え、横にいた愛理に声をかける。
「あっ、愛理。この資料閉じるの手伝って」
「はい、大丈夫です」
まとめたコピーを愛理に渡しながら、蓮を避けるように歩く。
「ボス、そこに立たれると仕事の邪魔です」
吐き捨てるように言って、私はミーティングルームへと足を進めた。
昼休みも終わり、発注先へ向かう前に一応伝えておこうとボス部屋をノックした。
_____トントン。
「失礼します。ボス、私、先に出ますので。15時前にはメイユールホテルに来てくださいね。もし私が遅れたら、先に会場を見ておいてください」
「あぁ」
素っ気ない返事。
「では、また後で」と告げてドアに手をかけたとき――
「……守華」
呼び止められた。しかも、名前で。
思わず振り返る。
蓮は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線をそらしながら言った。
「気をつけて行け」
その何気ないひと言に、胸の奥がふっと温かくなる。
「はい。……ボスも」
頬が自然に緩み、さっきまでの重さが嘘みたいに足取りが軽くなった。
そのまま、私は発注先へ向かって歩き出した。
やっぱり――ギリギリの時間になってしまった。
腕時計を確認する。……少し、遅れそうだ。
ヒールの足音を響かせながら早足で進む。
けれど、走ろうとすればするほど、かえって不格好で速度も出ない。
焦る鼓動と一緒に胸がざわつく。
もう、会場確認は始まっているだろう。
ホテルに入り、吹き抜けの真ん中にそびえる階段を駆け上がる。
会場は2階。
やっとの思いで到着し、息を整えようと立ち止まった、そのとき――
「待てよ!」
鋭い声が会場の中から響いてきた。
……蓮?
半開きになっている扉の隙間から、恐る恐る中を覗き込む。
視線の先で、蓮が莉子さんの片腕を掴んでいた。
何をしてるの……?
次の瞬間。
蓮がぐっと腕を引き寄せる。
そして、そのまま――
蓮の唇が、莉子さんの唇に重なった。
嘘……。
頭の中が真っ白になる。
足が床に縫い付けられたみたいに動かない。
なんだかんだ私にはきついことを言っておきながら、結局、蓮だってまだ莉子さんのことが好きなんじゃない。
脳裏にフラッシュバックする。
貴愛奈と蘭明が唇を重ねた、あの瞬間。
あの時は――貴愛奈から仕掛けたことだと分かったから強気でいられた。
でも今は違う。
どう見ても、蓮の方から莉子さんにキスをした。
どうしよう……。
逃げるべき? それとも、このまま扉を開けて踏み込むべき?
胸の奥で、答えの出ない声が渦巻いていた。
進むことも、逃げることもできず――
私はその場に立ち尽くしたまま、震える唇を開いた。
「……蓮」
ただ名前を呼んだだけなのに、声がかすかに震えていた。
その一言に反応して、蓮と莉子さんが同時にこちらを振り向く。
蓮は慌てたように口を開いた。
「守華、これはちが――」
「私への当てつけのつもり?」
低く、冷たい声で遮った。
自分でも驚くくらい感情が削ぎ落とされた声。
言い訳なんて聞きたくない。
だって私は――この目で見たのだから。
二人の姿を一瞥しただけで、背を向けた。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。
けれど私は、必死に涙を堪えて、真っ直ぐ前だけを見据えて歩いた。
――絶対に泣かない。ここでは。
階段に差しかかろうとした瞬間、強く右手首をつかまれた。
「守華、違うんだ!」
振り返ると、蓮の真剣な瞳が私を縛りつける。
「……何? これも“仕事の一環”だって言うの?」
「違う!」
「私がここに来るの、分かってたよね? それなのに……」
喉が詰まりそうになりながらも、必死に言葉を吐き出す。
「私も……蓮みたいに信じなきゃよかった」
その時、蓮の背後から莉子さんが歩み寄り、何かを言いかけた。
「神崎さん、これは――」
「莉子さんには関係ない。黙ってて」
自分でも驚くほど冷たい声が口をつく。
そして蓮を睨みつけた。
「……離して」
蓮の手は強く、けれど必死に私をつなぎとめようとしている。
それが分かるからこそ――胸が苦しい。
「離してってば!!!」
叫びながら、思い切り腕を振り払った。
その瞬間、二人の間に張り詰めた空気が弾けた。
その瞬間、私はバランスを崩し、階段の上で大きくよろめいた。
体が前に傾く。自分の力ではもう体勢を戻せない。
――このまま落ちる。
「――っ!」
絶望しかけた瞬間、一度離れたはずの蓮の手が、再び私の右手首をがっちり掴んだ。
強い力で思い切り引き寄せられ、その反動で私は階段手前の床に転がり込む。
ドサッ、と鈍い音。
私の耳に飛び込んできたのは、莉子さんの張り裂けるような悲鳴だった。
「キャーーーーーーッ!」
周囲がざわめきに包まれる。
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
床に倒れたまま、周囲を見回す。――蓮の姿がない。
「はっ……!」胸が締め付けられる。
慌てて立ち上がると、視線の先――階段の下に、血を流して倒れている蓮が見えた。
赤い色が床に広がっていく。
莉子さんは震えながら口を両手で押さえ、声も出せずに立ち尽くしている。
私は頭が真っ白になりながらも階段を駆け降り、蓮の傍に膝をついた。
その頭を自分の太ももの上に抱え込む。
「蓮! 蓮!! ねぇ、蓮!! しっかりしてよ!!」
「目を開けて!! お願いだから!!」
涙で視界が滲み、嗚咽で声が掠れる。
ただ必死に、何度も何度も蓮の名を呼び続けた。
蓮は救急車で運ばれ、今、手術室の中に入っていった。
私の手も服も、蓮の血で赤く染まっている。
莉子さんは椅子に座り、下を向いて静かに泣いていた。
私はただ立ち尽くすしかなかった。
――全部、私のせいだ。
私を庇ったから、蓮はあんな目に遭ったんだ。
どうしよう……もし、このまま目を覚まさなかったら。
喧嘩なんてしなきゃよかった。
私がちゃんと話を聞いてあげればよかったのに。
でも、今さら何を悔やんでも、もう遅い……。
「守華ちゃん!」
声に振り向くと、蓮のお母さんとお父さん、そして田中さんが立っていた。
「お母さん……」
病院に着いてから、涙を必死でこらえていたけど、お母さんの姿を見た途端、堰を切ったように涙が溢れた。
お母さんは迷わず私を抱きしめてくれる。
「大丈夫よ、大丈夫。蓮は強い子だから、必ず大丈夫よ」
心配でいっぱいのはずなのに、私を優しく包み込み、落ち着かせてくれた。
まるで、本当の母親のように……。
少し経って、先生たちが手術室の扉から出てきた。
「もう大丈夫です。頭を強く打っていましたが、大事には至らないでしょう。今は麻酔をかけていますが、いずれ目を覚まします」
その言葉に、皆が胸を撫で下ろした。
私の体の力も、ようやく少しだけ抜けた。




