103.冷たい風、温かい手
黒いコートにワインレッドのストールを巻いていても、顔に当たる風が冷たすぎる。
今日も駅から会社へ向かう人たちで街はざわめいている。その群れの中に、私もいた。
会社の入るビルの前に着くと、突然、後ろから目隠しをされる。
「だーれだ?」
声のトーンは変えているけど、私にはすぐ分かった。
「悠真」
「なんで、すぐ分かるんだよ」
目を覆っていた手が外れ、隣に悠真が立つ。
「まさか、俺のこと考えてた?」
「ないない。もう何年の付き合いよ。すぐ分かるわ。って、朝からどうしたの?」
「あー、今日は朝から根本さんと打ち合わせ。なんせ、守華のボスに『20日まで仕上げろ!』って言われたから、毎日のように来るはめになったよ」
「ご愁傷様」
「って、守華!」
悠真がいきなり両肩をつかみ、顔を近づけてくる。
「何よ!?」
「目が腫れてるけど。昨日、泣いたのか?」
あー、昨日、オフィスでめちゃくちゃ泣いたんだった。涙もろい女になってしまったな……。
「実は、フラれちゃってさー」
「え!?誰に!?」
悠真の声が大きくて周りの人たちも振り向き、注目している。
「嘘に決まってるでしょ!?」
「なーんだ、焦らせるなよ」
「なんで、悠真が焦るのよ!?」
「いやー、それは……」
「いつものようにドラマ見て、感動して大泣きしちゃったのよ」
「ふーん」
「お前ら、いつまでこんな道のど真ん中で話してる」
低く冷たい声。
私と悠真の間に割って入ってきたのは、ボスだった。
「あっ、ボス、おはようございます」
「中村社長、おはようございます」
ボスは何も答えず、背筋をピンと伸ばしたままスタスタと先を歩いて行く。
その背中だけで、いつもより強い緊張感が漂っている。
私と悠真は目を合わせ、慌ててボスの後ろに小走りでつく。
歩くたびに、冷たい風が顔に当たり、ほんのり赤くなった手でバックから手帳を取り出す。
「ボス、今日の予定です。この後すぐ、根本さんとNext Futureの渡辺さんとのミーティングがありますので、ボスもお願いします。13時からはバレンタイン企画の期間限定店舗の配置図確認、15時からは雑誌インタビューです。インタビュー後は予定なしなので、そのまま帰宅で問題ありません」
「分かった」
短く、そっけない返事。
その声だけでも、背中から伝わる威圧感に私の胸はぎゅっと締め付けられる。
エレベーターが到着する。ボスはまるで空気を切り裂くように歩き、私と悠真は慌てて小走りでついていく。
「守華、すごいな。毎日、ボスのスケジュール管理してるのか?」
「そうよ」
悠真と私は小声で会話する。
けれど、ボスにはすべて筒抜けのようで、チラリとこちらを振り返る視線に背筋が凍る。
10階に着き、ボスは足早に歩き出す。
私は心臓が早鐘のように打ち、必死に小走りでついていく。
「ちょっと、悠真までボスについてこなくていいんだけど」
「あっ、そうだよね……つい……じゃあ」
悠真はようやく普段通りの歩幅に戻る。
でも、私の視界の中心には、依然として一歩先を歩くボスの背中だけがある。
その背中からは、ただ歩いているだけでも圧倒されるような存在感が溢れていた。
胸の奥がざわつき、自然と背筋が伸びる。
気づけば、足取りは無意識にボスに合わせていた。
すぐにデスクにバッグを置き、コートとストールを外す。
そして、ボスのコーヒーを入れに向かう。
毎日の、変わらぬルーティンだ。
_____トントン
「失礼します」
部屋に入ると、ボスはすでにパソコンに向かって仕事をしていた。
一瞬、顔を上げて目が合うが、すぐに画面に視線を戻す。
私は何も言わず、いつものブラックコーヒーをデスクに置き、手を戻そうとしたその瞬間――
「……ボス?」
不意に、私の手が掴まれた。
パソコンを見ていたはずのボスが、私の方へ顔を向ける。
掴まれた手とは反対の手で、ポケットから何かを取り出すと、握られた私の手の中にそっと押し込んできた。
温かい――。ホッカイロだ。
「やるよ、それ」
「え……?」
「手が寒くて真っ赤になってるだろ。手袋くらいしろよ」
「あ、はい……ありがとうございます。って、ボスもホッカイロ使うんですね」
思わず笑みがこぼれる。
「悪いのか?」と、ボスは少し首をかしげる。
「いえ、すごく暖かいです」
手の中の温もりだけでなく、ボスの意外な一面に心がほっと柔らかくなる。
まさか、あの冷たくて厳しいボスが、ポケットにホッカイロを忍ばせているなんて――可愛く見えてしまうくらいだ。
そんな私の笑顔を見て、ボスはデスクの引き出しから何かを取り出した。
「これもやる」
差し出されたのを見ると、目の疲れをとる、寝るときに貼るタイプのシートだった。
「これは?」
「目が腫れてるから、休憩中にこれを貼れ」
「やっぱり腫れてます?悠真にも言われました。昨日、ドラマ見て号泣しちゃって……」
笑ってごまかす私。
「嘘が下手だな」
「えっ……?」
「まぁ、とりあえずそれを貼れ。俺の秘書がお化けみたいな目してたら、誰にも会わせられねぇ」
「お化けって……ボス、女に言う言葉じゃないですよ。私だから耐えられるけど……まぁ、今回はこの2つに免じて許します。では、ありがたくいただきますね」
あんなに冷たかった手が、ポカポカと温かさを帯びていく。
自分のデスクに戻ると、端に丸まったポスターが置かれていた。
さっきは慌ててバッグだけ置いたので、全く気づかなかった。
手でクルクルと広げると、昨日クシャクシャになったはずのポスターが、綺麗な状態に戻っていた。
いや、戻ったのではなく、ボスが交換してくれたのだろう。
だから、さっきの……ボスの行動は、そういうことだったんだ。
ポスターを見つめ、私は自然と笑顔になった。
琴音と悠真のSNS用の動画が気になって、ついミーティングルームを覗きに行ったけれど、琴音は「完成させてから見せたいから」と入れてくれなかった。
仕方なく、自分のデスクに戻る。
綺麗になったポスターを、自分の後ろの壁に貼り付けた。
自分がモデルのポスターを貼るのは、ちょっとくすぐったい気分だけど、昨日たくさん泣いたせいか気持ちがすっきりして、このポスターを見ると元気が湧いてくる。
「よし!がんばろう!」
気合いを入れて、仕事に向かった。
そんな守華を、蓮は部屋から見て、少し安心していたのだった。
──そのとき、
「守華!」
「悠真!どうしたの?」
「一緒にお昼行こうぜ」
「え、何何!?悠真のおごり?」
「仕方ねーな。今日はおごるけど、明日は守華が奢れよ」
「やっぱり、20日まで通い詰めなの?」
「そうだな。うちの会社の山崎さんに『20日までに仕上げろ!じゃないと―――』って脅されててさ。会社からも、20日まではサザンクロスに行きっぱなしでいいって言われてる」
「そっか。じゃあ、頑張ってるから明日は私が奢るよ。琴音は?」
「根本さん?先輩とランチの約束があるから、もう出て行ったよ」
「アハハ、琴音らしいわ。んで、1人置いてけぼりになったのね。かわいそうに」
そう言って笑った瞬間、ボスが部屋から出てきた。
「ボス、ランチ行ってきます」
「二人でか?」
「はい」
ボスは何も言わず、すぐに部屋を去った。
「中村社長、また機嫌悪いのか?」
「いつものことよ」
さっきはあんなに優しかったのに、また冷たくされる。
ボス、多重人格なんじゃないかしら……と、つい疑いたくなるほどだった。
私と悠真は、近くのレストランにいた。
「あのポスターといい、今回の動画もあの女性って守華だったんだな」
「えっ!?今さら!?しかも、悠真も気づかなかったの!?」
「うん、だって、全然顔が違うじゃん」
「化粧のせいで変わる、みたいな言い方やめてよね。元は同じなんだからさ」
笑いながらパスタを頬張る悠真。
「にしても中村社長も芸能人並みだよな。あのポスターが拡散されたら、スカウト来るかも」
「まぁ、それはありえるね。今でも雑誌の取材はどんどん入ってきてるし。本人は芸能界には興味ないみたいだけど」
「俺、相手役やりたかったなー」
「悠真が?」
「だって、あの服とかカツラ、付けてみたいじゃん?」
「なによ、それ」
二人は顔を見合わせて、笑い合った。
___ガッシャーン
お皿が割れる音に思わず顔を向ける。
見覚えのある人が、スタッフに「大丈夫ですから」と丁寧に答えているのが見えた。
ん?ちょっと待って。
「ボス!!」
「ボス!?」
私の声に反応して、悠真も目を見開いた。
ボスは少しバツが悪そうに立ち止まり、私たちの方に近づいてきた。
「神崎じゃないか!お前らもここで昼食か?」
「えっ?ボスも?」
「ああ、まあな」
「ボスがランチに出てくるなんて珍しいですね。言ってくれたら一緒に来たのに。今からでもご一緒しますよ」
「あ、そうか?じゃあ……」
ボスは私の隣に座り、サンドイッチセットを手元に置いた。
悠真は少し面白くなさそうにパスタを頬張り、チラリとボスを見つめる。
その視線には、ただの嫉妬とは違う、少し複雑な感情が混じっている気がした。
私とボスの間にも、言葉にならない微妙な空気が流れていた。
目線が交わるたびに、胸の奥が少しヒリヒリする。
無言のまま時間だけが過ぎ、気まずさを抱えたままお昼休憩は終わってしまった。
13時からの店舗配置図の確認はスムーズに終わり、次は15時から雑誌のインタビューだ。
今回は「やり手の若手社長」として雑誌に取り上げられるらしい。バレンタインの宣伝も兼ねられて、ちょうどいいタイミングだ。
「サザンクロスの中村社長って、イケメンだよね」
「だよね!彼女とかいるのかな?」
「絶対いるよ。いなくても、競争率めちゃくちゃ高そう」
ボスの付き添いで部屋の端に立っていた私は、撮影スタッフの女子たちがボスを見て興奮しながら話しているのを耳にする。
やっぱり、ボスはどこにいてもモテるんだな……。
撮影が終わると、女子たちはまるでアピールするかのように、飲み物やタオル、軽食をボスに差し出す。
私は呆れ顔でその光景を眺めていた。
ボスは一切受け取らず、私の目の前に歩み寄る。
「神崎、帰るぞ」
「はい、ボス!」
先にスタジオを出たボスの後ろに続き、私はスタッフに軽く一礼して走って追いかけた。
「ボス、どこに行ってもキャーキャー騒がれますね」
「羨ましいのか?」
「誰もそんなこと思ってませんよ。ただ、ボス……」
運転するボスの顔をちらりと見ると、無表情のままハンドルを握っている。その真剣な横顔に、思わずニヤリとしてしまう。
「何だ?」
「その女子たちに、ちゃんとバレンタイン宣伝お願いしますね♡ きっとボスに言われたら、みんな香り袋買っちゃいますよ!」
「俺はホストか!?」
「まぁまぁ、会社の売上にもつながりますから。ねー、ボス」
ふん、と鼻で笑うボス。口元だけが少し上がったのを私は見逃さなかった。
「ボス、この後は帰りますか?」
「いや、根本たちの様子が気になるから、会社に戻るよ」
「せっかく早く帰れるんだから、休めばいいのに」
「社員が働いてるのに、会社のトップが働かないでどうする」
「ボスは働きすぎですよ。たまには休まないと……」
私はまっすぐ前を見つめる。会社の入っているビル。心臓が少し早くなるのを感じる。
「ボス」
「ん?」
「あれ、莉子さんじゃ……?」
「莉子!?」
ボスも入り口の方に目を向けた。無言で、ただ目線だけが莉子を捉えている。その静かな圧に、私は自然と息を飲んだ。
「間違いない、莉子だ」
「ボスに用事があって来たんでしょうね」
私の声に、ボスはまだ答えない。無言のまま、車の中に張りつめた空気だけが流れていた。
入り口の前に車を停め、私とボスは車から降りた。
ボスが莉子さんに駆け寄る。その姿を見て、莉子さんと目が合った私は、軽くお辞儀をした。
2人から少し離れた場所に立つ私には、何を話しているのかは聞こえない。ただ、莉子さんが涙ぐみながらボスの腕を掴み、必死に何かを訴えているのはわかった。
自然と私は2人のもとに歩み寄る。
「ボス……みんなが通るこの場所で話すのは、ちょっと……。今日は、この後予定もないので、莉子さんと……」
ボスは一瞬、動きを止めたが、すぐにいつもの淡々とした口調で言った。
「わりー。じゃあ、あとは頼む」
「はい。お疲れ様でした」
ボスは停めていた車に莉子さんを乗せ、そのまま走り去っていった。
その車が視界から消えるまで、私はじっと見送った。
復縁でもするのだろうか――。
胸の奥がチクリと痛むのを、私はしっかり感じていた。
ボスと莉子さん、何を話していたんだろう……。
今日、会社に戻ってこないということは、もう帰ってしまったのかもしれない。
あの二人の姿が頭から離れず、考え込んでしまう。
気になって、仕事が全然進まなかった。
気づけばもう20時になっていた。
今日はもう帰ろう。
琴音と悠真は、まだミーティングルームで作業をしていた。
SNS用の動画といっても、5日で仕上げるのは大変だろう。
こだわりが強い琴音は、特に完璧に仕上げたいと思っているはずだ。
今の時代、SNSは宣伝として一番効果があるのだから。
――トントン
「琴音、悠真、まだ終わらないの?」
「守華もいたのね。私はもう少しだけやりたいけど、渡辺さんは今日は帰って大丈夫。明日またよろしくお願いします」
「え、根本さん一人で大丈夫?俺も手伝うよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。守華と一緒に先に上がってください」
「琴音、あんまり無理しないでね」
「うん。じゃ、お疲れ様」
「「お疲れ様」」
私と悠真は一緒にエレベーターに乗り、下へ降りた。
ビルの入り口に出ると、ちょうどボスの車が停まっていて、ボスが車から降りてきた。
「あれ?ボス。莉子さんは?」
「送ってきた」
「神崎、今帰りか?遅いから送っていくよ」
私は悠真の方に顔を向けた。
「大丈夫です。今日は悠真がいるので、悠真に送ってもらいます。あ、根本さんはまだ仕事中ですから、ボスが会社に来たなら手伝ってあげてください。では、お疲れ様でした」
悠真もボスに軽くお辞儀をし、私と並んでボスを通り過ぎた。
朝、駅でばったり悠真と出会い、一緒に会社へ向かう。
「もうすぐクリスマスだな」
「言われてみれば、そうね」
バレンタイン企画のことばかり考えていて、クリスマスのことなんてすっかり忘れていた。
「今年も一人か?」
「ええ、でも今年は仕事で終わりそうよ。悠真は?誰か一緒に過ごす人できたの?」
「できるわけねーだろ。でもまあ、俺が誘えば女は来るけどな」
「はいはい」
「なんなら、守華が一緒に過ごしてくれてもいいんだけどなー」
「だから、私は仕事って言ってるでしょ」
「この真面目女」
「なーんだってー!」
私は悠真の首に腕を回し、指で頭をグリグリ。悠真は「痛い、やめろー!」と騒ぐけれど、お構いなしに続ける。
「おまえら、こんなところでイチャイチャしてんな」
その声で二人の動きが止まる。振り向くと、上から睨むような視線。案の定――ボスだ。
「ボス……おはようございます」
「お前ら、付き合ってるのか?」
「い、いえ!「はい!付き合ってます」
悠真が体勢を変えて、私の肩に腕を回し、声を重ねて答えてきた。
ボスは横を向き、軽く「ッチ」と舌打ちしたような音が聞こえる気がした。
そのままボスが間に入り、私の肩を抱いていた悠真の腕を払う。
「神崎、行くぞ。今日の予定は?」
先に歩き出すボスを見送り、私は悠真に手で「ごめんね」と合図をして、後ろから今日のスケジュールを伝えた。
___ドン
「いったー!」
いきなり止まったボスの背中に、思わず顔がぶつかる。
「ボス、いきなり止まるのやめてください。鼻、痛いですよ」
寒さで真っ赤になった鼻に、さらに衝撃が加わる。
ボスが振り返り、ポケットから何かを取り出して、私の赤くなった手にそっと握らせる。
「あ……ホッカイロ」
「今日もこんなに冷たくなってるな」
その声と視線は、先ほどまでの厳しいボスとは違う、柔らかく優しい雰囲気。思わず見惚れてしまう。
「あ、ありがとうございます……」
ボスが手を離す瞬間、胸の奥がキュンとして、ドキドキが止まらない。
(……何よ、私、こんなんでドキドキして……)
「守華!今日のお昼は奢ってくれるんだろ?」
「ついでに私も♡」
悠真と琴音が、お昼休憩に合わせて私のところまでやってきた。
「もう、琴音はしょうがないなー。まぁ、二人とも頑張ってるし、奢るわ」
二人は満面の笑みで「やったー!」と喜ぶ。
___プープー
ボスからの内線だ。
「はい、ボス」
「取引先にすぐ書類を送らないといけない。午前中に頼んでいた書類、急ぎでまとめろ」
「えっ、今ですか?あれはいつでもいいって……」
「取引先から急ぎの連絡が来た」
「分かりました」
しょんぼりする私を見て、悠真と琴音が顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「ごめん……書類を今からまとめないといけなくて、お昼行けなさそう。今日は二人で行ってきて。奢るのはまた今度」
「仕方ないね、分かった。守華、頑張って!」
二人は楽しそうにお昼に出かけていった。
ふと、ボスルームを覗くと、ボスがこちらを見てニヤッと笑った……ような気がした。
でも次の瞬間には真面目な顔に戻っている。
今の笑顔、気のせいだったのかな……。
12月20日
いよいよ、琴音と悠真が完成させたSNS用の動画が公開される日。
ボス、田中さん、企画部の三瓶さんもチェック済みで、満を持してのGoサイン。
私もミーティングルームに呼ばれ、胸の奥がそわそわと高鳴る。
「わー、なんだかドキドキする…!」
「本格的に仕上がったから、絶対楽しみにしてて」
琴音は自信満々にウィンクして、私の胸の鼓動をさらに早める。
「俺も参加したんだから、完璧だよ」
「そうね、悠真もお疲れ様」
少し暗いミーティングルームの奥に目を向けると、ボスが壁に寄りかかり、私たちを見ていた。
でも、その視線にちょっとドキッとしてしまうのはなぜだろう。
「じゃあ、守華、流すよ」
私は小さく頷き、目を画面に向けた。
動画は、ハナミズキの木から始まる。
香り袋の説明が流れ、次に私が香り袋を作るシーンに切り替わる。
“好きな人を思い浮かべて、私だけの香りを作る…”
画面の中の私は、少し照れながらも、心を込めて香りを作っている。
その横で、ボスも登場。お互いに好きなのに、素直になれない二人のもどかしい様子が映し出される。
誤解やすれ違いもあって、胸がキュッと締め付けられる。
でも最後には、自分の気持ちを伝えるため、ハナミズキの木のもとへ。
そこにはすでにボスがいて、私は香り袋を手に差し出す――あのポスターのシーンそのままだ。
二人が抱き合い、ハッピーエンド。
「今年のバレンタインは、香り袋で愛の告白を」
短いストーリーなのに、胸がいっぱいになるほど素敵だった。
まるでドラマを見ているみたいで、心の奥がじんわり温かくなる。
「すごい…!すごすぎる!!琴音と悠真、これは絶対バズる!」
私は思わず、心の中で小さくガッツポーズをしていた。
こんなに胸が高鳴るなんて…SNS用の動画なのに、まるで自分が主人公になったみたいだ。
「でしょー!この5日間、必死にやった甲斐があったよ」
琴音が私の反応を確かめるように、嬉しそうに話す。
暗かったミーティングルームに明かりがつき、一瞬で眩しく感じた。
「根本も渡辺さんもお疲れ様。初めてなのに上出来だ」
後ろからボスが歩いて近づいてくる。
「ありがとうございます!」
私も琴音も悠真も、自然と笑顔になる。
「でも、まだ終わりじゃない。来月、これを流してどれだけの人が見てくれるかだ。見てもらえなきゃ作った意味がない。見てもらうために努力しろ。いいか、勝負は1月だ」
「はい!」
三人声を揃えて返事をした。
「神崎、見たか?」
田中さんがドアから顔を出す。
いつも、やる気があるのかないのかよく分からない人だけど、仕事は抜群にできる。
「はい!ものすごく感動しました!」
「俺は、神崎とボスの演技力に度肝を抜かれたな。神崎こそ芸能界に行ったほうがいいんじゃないか」
そう言うと、田中さんは大笑いして、またどこかへ去っていった。




