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聖月杯


 咽喉が乾いた。


 無理もない。

 天王山で敗走して以来、ろくに水すら飲んでいない。


 いや、それだけではない。


 あの日以来、常に燃え盛る業火が、我が身を焼いている様な気がしてならない。

 今も眼を閉じれば紅蓮の炎の向こうに……


「御館様……」


 自分のしたことは間違いだったのではないか。

 あの本能寺の夜以来、常に問い続けている。


 主殺しの大罪人――皆がそう思っているのだろう。


 誰も知らぬのだ。

 自分が成したことこそ、御館様が我が身に託した最後の密命。

 あれこそが、人間としての御館様の最後の願い……

 我こそが、真の忠臣との自負がある。


 だが――漸く全てを理解した。


 御館様が狂われたのも、全てあの男が仕組んだこと。あの猿(秀吉)が御館様を狂わせ、全てを無にした張本人。


 奴こそが真の大罪人だ。


 そのような男に、これを渡すわけにはいかない。

 なぜならば、あの男は()()を誰よりも欲しているのだ。


 そう、主を堕落させ力に溺れさせたのは全てあの猿が仕業。

 神の力を手にし、自分こそが神になろうとしたのだ。


 許さん。

 許さんぞ、羽柴秀吉!

 明智光秀は、心の中で血のような叫びを吐いた。


 その時だった。

 なにかが聞こえた。

 虫の声や獣の息遣いなどではない。

 拍子と律のあるものだ。


 どこからともなく、子供の唄声のようなものが聞こえてきた。


 奥深い山中である。

 秀吉の軍勢を振り切るために、敢えて深山渓谷に逃げてきたのだ。


 子供の居そうな集落など、近くにはない。

 しかも、その声は、一人や二人ではない。

 流石に秀吉の追手ではないはずだ。


 とはいえ、疲弊しきった部下たちの間に動揺が走るのは避けられない。


 


 ――と、そこへ幼子らが、七人ばかり現れた。

 年の頃でいえばまだ十にも満たないだろう。


 男とも女ともつかぬ中性的な顔立ちは、観音菩薩のようである。

 それだけでも面妖であるというのに、幼子らは皆、揃いの白装束姿であった。


 このような深山だというのに、幼子が純白の束帯など、おおよそ考えられることではない。

 もしや、山の神の使いか、はたまた魔性の類いか。

 その場にいた誰もが、口を開くことも出来なかった。


 だが突如、幼子らが光秀を取り囲んだ。

 家臣らが殺気立つ中、光秀がそれを制した。

 これが山の神の眷族であれば今一度、我が身に運があるやもしれない。



 加護女 加護女――

 駕籠の中の鶏は、いついつであう



 手を繋ぎ、詠いながら光秀の周囲を回りはじめた。

 眼を細め、光秀がそれを見守る。


 いかなる時であれ、幼子というのは良いものだ。

 この様に穏やかな気持ちになれたのは、いつ以来だったか。



 夜明けの番人

 つるとかめがすべた。



 その時だった。

 突然、光秀の眼の前が暗くなった。

 ぐらぐらと、足元が揺れる。

 家臣らの声が、深い水の中でくぐもる様に聞こえる。



 後ろの正面――

 だぁあれ。



 子らの笑ひ声がした。

 その一節を最後に、光秀の意識は堕ちた。





 それは時間にしていかほどの刻であったか。

 わずか瞬き数回のことだったと思う。


 だが、意識を戻した光秀の眼に写ったのは動かぬ家臣たちの姿。

 深傷をおってはいても、確かに生きていた家臣たち。

 しかし眼前の彼らは、皆一様に安らかな表情を浮かべ死んでいた。


 馬鹿な――何があったのだ。


 白い束帯の幼子らの姿はどこにもなかった。


 それだけではなかった。


 無い――光秀が抱えていた白木の匣。

 幾重にも結界の施された封印の匣。


 その中には、光秀の人生と、信長を狂わせた聖月杯(聖杯)が入っていた。


 だがその匣が何処にもなかった。

 呆然と立ち尽くす光秀の耳に、遠く篭目歌が木霊していく。


 う、うおわぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーー



 光秀の絶叫が虚しく深山に吸い込まれていった。





    完


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