第二十二章 Kir
Kir(Liberté 155)
そっと、グラスに口を付ける。友人たちと言葉を交わして乾いた喉に染み渡るアルコール。ふわりと広がる甘い、カシスの香り。それを飲みこんで、カルセはふっと一つ息を吐き出した。藍色の瞳を細めながら、彼は唇を開く。
「懐かしいですね」
呟くような声は遠い昔を懐かしむそれ。彼らと出会った頃、彼らと過ごした日々を懐かしみ、言葉として紡ぐのは楽しい時間だ。そんなカルセの呟きに、スファルも八重歯を見せて、笑った。
「そうだなぁ……こんな風に話したの、久し振りだし」
あの頃が楽しかった、なんて郷愁的な気分に浸るような性格ではないのだけれど……それでも同じ時間を共有した仲間と会話をするというのは特別な時間だと、そう思う。そう言ったスファルは一度、リスタの方へ視線を向けた。きょとんとした顔をする彼に首を傾げて見せて、問う。
「リスタは、最近仕事どうよ? 無理してないか?」
ほんの少し心配そうに、スファルは問う。
退団後、リスタは魔獣調査の機関に所属した。……その話を聞いた時カルセが怒ったのは言うまでもない。
研究機関と名はついているが、書類と向かい合って纏めるだけの機関ではない。直接魔獣の生息地に赴いたり、場合によっては討伐を行うような組織であることは、カルセもよくよく知っていた。そんな組織で片足を悪くした彼が働くことは、医師として、何より友人として、許容しがたいことだった。
しかし既にリスタの気持ちは、固まっていた。反対されても怒鳴られても、もう決めたのだと。
―― どういう形ででもいいから、皆の助けになりたかったから。
彼は静かに、そういった。
退団後、家に帰れば案の定白眼視され、自分の家のはずなのに居場所がないと感じた。同じ家に居ても存在を無視されるような日々。それは分かり切ってた結果ではあったし、すぐに追い出されなかっただけマシだな、などと思った程だ。
しかしそれと同時に、リスタは考えた。"自分の存在意義は、何だろう"と。
そもそも騎士になったきっかけは何だったか。そう考えると第一に浮かぶのは、"家のため"という理由。ロゼル家の長男としての務めを果たすため、というのが一番大きな理由だ。
しかしそれだけではなかったはずだ。それだけならば、今の自分は"用無し"なのだから。
自分が、騎士になった理由……それは、誰かを守りたいという想いだったはずだと、リスタはそう思い出した。だからこそ、騎士としての務めを果たせなくなった今でも、誰かのために働きたいと、リスタはそう思ったのだ。
だから、騎士たちのサポートが出来るように。そう考えて、魔獣の調査を請け負う組織に入ることを決めたのだ。
無論足のことはハンディキャップになった。リハビリのおかげで歩くのに支障はなくなったとはいえ、長時間歩く、ましてや走ることはほとんど不可能だったからだ。魔獣から逃げる際、或いは戦う際に仲間の負担になることも十分考えられることから、選考を行った調査局のメンバーも最初、難色を示した。幾ら元騎士団の部隊長といえども今それだけの実力がないのでは、と。
しかしリスタは諦めず、彼らに言ったのだ。
この足でできる限りのことをする。絶対に、誰かを傷つけることがないように、誰かの負担になることがないようにするから、と。
―― かつて背中を追いかけた、今も追いかけ続けている先輩たちのようになりたいから。
警官として王国の秩序を守っているスファル。世界各地を飛び回り、傷病人の治療をしているカルセ。彼らのようにありたいと願っていること。そのために精一杯やっていくつもりでいることを、リスタは彼らに告げた。そして今、見事にその務めを果たしているのだ。
しかしやはり、スファル達からすると、彼のことは心配だった。不自由なくやっていることは今日こうしてあったことでわかりはしたのだけれど、そのことと無理をしていないかに関しては話が別だ。
スファルの問いかけに、リスタは銀の瞳を少し揺るがせる。自分が手にしたグラスに口を付けながら、ぽそりと答えた。
「まぁ、ぼちぼち、かな」
少し歯切れの悪い返事。そんな彼の様子にカルセは少し、眉を吊り上げる。そして念を押すように言った。
「あんまり無理してはいけませんよ?」
歩けるようになった、走ることも多少ならば可能とはいえ、痛みが全くないはずがない。実際ジェイドに薬をもらっているという話は聞くのだし、そうした無茶はあまりしてほしくなかった。
カルセの言葉に、リスタは苦笑を浮かべ、肩を竦めた。
「わかってるって。流石に足を駄目にするような馬鹿はしないさ」
少しお道化たような口調でリスタは言う。騎士団を去る時にも、定期的な診察の時にも、無茶をすれば今度こそ足を切り落とすことになると口が酸っぱくなるほど主治医に言われているから、と。
そんな彼の頭を、スファルは軽く叩いた。
「しそうだから心配だっていってんだろ」
肩を竦め、やれやれと溜息を吐き出すスファル。彼の反応に、リスタは少し唇を尖らせた。
「……俺そんなに無茶した記憶ないんだけど」
拗ねた声音でそう言うリスタを見て、スファルはくつくつと愉快そうに笑った。そのままわしゃわしゃと頭を撫でるスファルとそれを受けているリスタとを見て、カルセは藍の瞳を細めて、言った。
「まぁ、貴方以上に怪我をして帰ってくるのが身近にいましたからねぇ」
グラスを舐めながらそういうカルセは、少しからかうような口調。それを聞いてむっとしたのは、スファルの方だ。
「それは俺の事かカルセ」
「おや、他に誰が居ると?」
あっさりと切り返されて、ぐぬぅとスファルは唸る。……実際のところ、騎士団所属時代にカルセの世話になった回数はどう考えてもスファルの方が多い。リスタもすぐに無理をする性格だというのは確かだけれど、それなりに器用でもあったから案外と怪我をする回数は少なかったのだ。それに比べてスファルはといえば、任務に行くたびちょっとした傷を作って帰ってきて、カルセに呆れられるのが常だった。
「仕方ないだろ、俺の場合部隊がそうなんだから」
「それでも怪我しない工夫くらいは出来ただろう」
今度はリスタとスファルとでわいわいと言い合っている。
こうした軽口のたたき合いすらも、懐かしい。そう思いながらカルセはそっと、グラスを置く。ワイングラスに入った、淡いカシス色のカクテルが小さく揺れた。
その水面を見ながらぽつり、とカルセは呟く。
「どうせならば、あの子も傍に居られたら良かったのですけれどねぇ」
あの子、と呟く声は慈しむようなそれ。リスタとスファルは言い合いをやめて、顔を見合わせた。
何を言ってやったら良いだろう、と二人は戸惑う。あれから大分経つけれど、彼を……クレースを喪った時のことを忘れられるはずがない。その傷が癒えるはずがない。
どういう言葉をかけようか、と二人が悩んでいると、カルセがクスッと小さく笑った。そして、穏やかに表情を綻ばせて、彼は言う。
「でも、今私は十分幸せですよ。今でもこうして話が出来る、頼れる仲間が居て」
確かに、"彼"もこの場にいられたらそれが一番良いとは思うけれども、彼が居なくなった今でも十分に幸福だと感じている、とカルセは言う。自分を気遣い、傍にいてくれる友人が居ることは幸福だ、と。
それを聞いてスファルはゆっくりと、橙色の瞳を瞬かせた。そして、少し面白がるように笑って、言う。
「本当にそう思ってるか?」
片眉を吊り上げそういう彼。カルセは少し不服そうに顔を顰めて、言った。
「思ってますとも。失礼極まりないですね、スファル」
口先だけでこんなことを言う性格ではないですよ、と彼は言う。"そうは思わないけどさ"とリスタは苦笑を浮かべた。
「実際のとこ、一番器用なのがカルセだからなぁ」
「放っといても一人で全部やっちゃいそう、っていうか」
そういう意味だ、と彼らは言って笑う。
カルセはとても器用な性格で、周囲に頼らずとも自分で問題を解決してしまう節がある。困ったら助けてやるから、というより先に。
だからこそ、彼がそんなこと……頼れる仲間が居て幸せだ、などというのは少しだけ意外で……それと同時に、少し嬉しかった。
そう二人が言うと、カルセは眼を伏せた。そしてバツが悪そうな声で、言う。
「……確かに否定は出来ませんが」
今でも、周りに頼ることはあまり得意ではない。そう認める彼を見て、リスタとスファルは声を立てて笑った。
人に頼るのが下手で、そういう時だけ不器用になってしまう。ともすれば完璧に見えるカルセの、可愛らしい所だ。そう思って二人が笑っているとカルセは一層拗ねたようだった。
「それでも、私にとって貴方たちが大切な仲間であることに違いはありませんよ」
つい、とそっぽを向いて、彼はグラスを傾ける。そんな彼の頬は薄紅に染まっていた。スファルはそれを見て緩く目を細め、口角を上げる。
「カルセ、大分酔ってるな?」
そんな彼の言葉に、カルセはぴくりと反応する。小さく鼻を鳴らした彼はちらりとスファルの方を見た。
「何を言いだすかと思えば」
「だってそうだろ?お前がそんなこといいだすの、酔ってる時くらいだからな」
揶揄うようにスファルは言う。それを聞いてカルセも躍起になったようで、いつもより少し早口で言った。
「飲み比べで私に勝ったことないでしょう、スファル。何なら相手になりましょうか?」
「おぉ、望むところだ」
そんな大人げない彼らの様子に、リスタは思わず溜息を一つ。そして二人を窘めるように言った。
「あぁもうこら、喧嘩するなって」
こういうところは、全く変わっていない。スファル相手の時、時々酷く幼くなるカルセも、それを揶揄って状況を悪化させるスファルも。そう思うと何だか少し可笑しくて、リスタは苦笑を零した。
つんとした口調で、カルセが言う。
「喧嘩ではありませんよ」
軽く肩を竦めて、スファルも言う。
「ただのじゃれ合いさ」
そういった彼らは確かに、顔を見合わせて笑う。そう言うところも、あの頃と全く変わっていない。
小競り合いをするカルセとスファル。それを少し呆れたように、けれども何処か面白そうに見ていたクレース。そして、どうしたものかと焦る自分。そんなかつての姿が一瞬、重なって見えた。そう思いながらリスタは目を細める。
「……ほんとに」
この人たちと一緒に騎士団にいられて良かった、と思う。彼らと共に過ごし、共に戦い、その背を見送ってなお、今も時折こうして話が出来る。そんな仲間を作ることが出来た自分はきっととても幸福なのだろう。
そう思いながらリスタはそっと、自分のグラスに手を伸ばしたのだった。
第二十二章 Fin
(キール:最高の巡り合い)




