第二十一章 Gibson
Gibson(Liberté 150)
薬の匂いが満ちる、医療棟の一室。長い銀の髪の青年は一人、月を見上げる。
冴えた白い光を放つ、月。太陽の暖かな光は勿論好きだが、この何処かひんやりとした月の明かりも、彼……リスタは好いていた。
ゆっくりと物事を考えるには、これくらいの明かりがちょうど良い。そんなことを思いながら、彼は一つ息を吐き出した。
そっと、足に手をやる。大分、激しく痛むようなことはなくなってきた。単に痛みに慣れたのか、それとも痛みを感じないように歩く方法を学んだからか、正直良くわかりはしないけれど。傍から見たらやはり足を引きずっているようには見えるらしいため、恐らく後者だろう。
元より、この足が元のように戻ることはないことはリスタも理解している。優秀な医療部隊長もそう言っていたのだから。以前のように風の如く走ることはできないし、高く跳ぶこともできないだろう。
つらつらとそんなことを考えていた時。控えめに、ドアが開いた。静かに様子を窺いながら部屋に入ってくる影。それは、リスタが誰よりも大切に思う存在、弟であるクオンだった。
そんなに熱心に看病せずとももう大丈夫だといっているのに、この心配性の弟は、自分の傍で眠ると言って聞かない。元々実家にいた時からそうだったから、その癖なのかもしれないけれど。
「兄さん、起きてた?」
控えめにそう問いかける弟に、リスタは笑いかけてやる。そのままぽんぽんとベッドの脇を叩けば、少しほっとしたように、クオンはリスタに歩み寄ってきた。
「薬、ちゃんと飲んだ?」
「飲んだよ」
「痛みは?」
「ないない。ほんとにクオは心配性だな」
そう言ってリスタが笑うと、クオンは頬を膨らませる。そして少し拗ねたような声色で、言った。
「心配に決まってるだろう。大事な兄さんなんだから」
そんな彼の言葉に、リスタは眼を細めた。
彼の言葉に嘘はない。そして何より心からの、純粋な心配なのだということが伝わってくる。
―― 彼は、彼だけは……いつも味方だったな。
そんなことを考えて、リスタは一度目を伏せた。
お前の事が大切だ、という言葉は今まで何度もかけられた。自身の親に、親族に。けれどもそれは、"リスタ・ロゼル"という個人を思っての言葉ではない。"ロゼル家の長男"としての彼の身を案じていたに過ぎないだろう。
優秀な魔術師の家系の長男。それが、リスタの"価値"だった。
そんな中で弟……クオンだけはただただ純真に、弟が兄に向ける愛情を向けてくれていた。兄であるリスタを愛し、慕ってくれている。それが、嬉しかった。
当たり前のことのはずなのに、それが嬉しいなんて。そう思って、思わず苦笑が漏れた。
そんな彼と一緒に居られて、嬉しかった。同じ部隊で過ごすことができて、本当に幸せだった。……騎士としての仕事をこなす優秀な弟の姿を間近で見られて、本当に、本当に良かった。
「……クオ」
静かな声で彼を呼ぶ。普段と少し違うその雰囲気から何かを察したのか、クオンも居住まいを正した。
「何、兄さん」
いつもより幾分固い声でそう問いかける声を聞いて、リスタは口を開いた。
「俺はもう、騎士としてはやっていけない」
その唇から紡がれたのは、残酷な現実だった。クオンもとっくに気づいてはいたけれど、口に出さなかった現実だ。
リスタの足はもう、元には戻らない。以前のように駆けることも、建物の間を飛び移ることも出来ない。素早さを重視する彼の部隊、風隼にとっては、致命的な傷だった。
もう騎士としてはやっていけない。それは紛れもない、現実だった。
「…………」
兄の言葉に黙り込むクオン。何といってやればいいのか、答えが見つからなかった。大丈夫だなんて、無責任なことは言えない。大丈夫なはずがないのだから。……かといって、そうだねと素直に頷くことも出来なかった。
彼の銀色の瞳が揺らぐのを見て、リスタは微笑む。そして"そんな顔するなよ"とクオンの頭を撫でた。
「そのことには別に、悔いはない。
仲間を、大事な弟を守れたんだ、何も悲しいことはない」
「でも」
クオンは何か言いたげな顔をしたが、暫し迷う顔をした後、その口を閉ざした。
……兄は優しいから本当は悲しいにしても絶対にそれを口には出さないだろう。少なくとも、自分の前では。そのことは、兄弟であるクオンがよくわかっている。
黙り込んだ彼に暫し微笑みかけていたリスタだったが、やがてその笑みを引っ込めた。そして、淡々とした声で言葉を紡ぐ。
「……俺が部隊長でなくなる、騎士ですらなくなるってことを知ったら、多分親父たちは俺のことを役立たずだと思うだろう」
その言葉にクオンははっとして顔を上げる。大きく見開かれた銀の瞳には冷静な兄の顔が映った。
「そ、んなこと」
「ない、っていえるか?」
緩く首を傾げ、苦笑まじりにリスタは問う。クオンはそれを聞いて深く俯いてしまった。
握り拳が、小さく震えている。
「…………」
……正直、在り得る話だ。親や親族が求めているのは、ロゼル家の跡継ぎとして優秀な息子。リスタはその理想にあった息子だったから大切にされていたにすぎない。
一族の誰より素早い足。相手の思考を読む頭脳。"桎梏の幻術師"という二つ名を女王から与えられるほど優れた拘束術、精神魔術の能力……それによって彼はイリュジア王国の騎士として、一部隊長としての役目を果たしてきた。
しかしその能力を失ったとなれば……彼らは一体どういう反応をするだろう。
リスタは瞳を揺るがせるクオンを見つめてふ、と息を吐き出した。
「……それだけが、俺の不安だよ。
俺がロゼル家の長男としての資質を失くした。そうなれば重圧は全部、お前にいってしまう。……ごめんな、クオ」
すまなそうに詫びる、リスタ。それを聞いてクオンは銀灰色の瞳を大きく見開いた。
「何で、兄さんが謝るのさ?」
彼が謝る必要は一切ない。元はといえば考え方があまりに利己的な両親が、親族が悪いのだ。彼はどちらかといえば被害者なのに……と。
しかしリスタは悲し気な顔をしたまま、溜息を一つ。
「お前に辛い思いをさせるからだ。それだけは、避けたかったのに」
自分は何を言われても構わない。凡そ予想出来ていたことだし、その覚悟は十分にある。
けれども……その所為で、クオンはきっと辛い目に遭うだろう。今までリスタが背負っていた重圧を全てクオンが背負うことになる。今まで何を言われてもどんな重圧をかけられても耐えられたのはそれを弟に背負わせたくなかったからなのだ。自分が耐えさえすれば弟にこの重圧はいかないのだから、と。まさかこんな形で……と考えずにはいられない。
「ごめんな」
リスタは頭を下げてもう一度、彼に詫びる。困ったように、すまなそうに笑って。
それを聞いてクオンは眉を下げた。そして頭を下げる兄の頬に手を添えて、口を開く。
「謝るなよ。……兄さんの所為じゃないのに、部下の所為で、兄さんは痛い目に遭ったのに」
そもそも彼が怪我をしたのだって、彼の所為ではない。彼はただ、部下を守ろうとしただけ。その末に怪我をしただけなのだ。そんな彼が責められる理由はない。
クオンがそういうとリスタは苦笑を漏らし、肩を竦めた。
「可愛い部下のためなら足の一本や二本、安いもんだよ」
ありがとな、と彼は言う。いつも通りに穏やかに笑う彼は強いと、クオンは思った。
強い。強い、けれども……危なっかしい人だ、と昔から思っている。辛い時に辛いと言わない。悲しい時に悲しいと言わない。少なくとも弱い所を自分に……弟に見せようとはしない人だった。
そんな兄のことが大好きで、愛しくて……だから、だからこそ、思う。いつまでも頼りっぱなしでは嫌だと。
「俺が、兄さんの分も頑張るから」
もう、兄さんに頼りっぱなしの自分ではない。そう、クオンは彼に告げる。その言葉にリスタは大きく眼を見開いた。
ずっと、ずっと、守らなければと思ってきた、弟。幼く、頼りなかった彼はいつの間にか、こんなにも強い目をするようになっていたのか。自分によく似た銀色の瞳を見つめて、そう思う。
―― 嗚呼、これならば。
そう思い、リスタは目を細めたのだった。
***
騎士団を退くと決めたリスタはすぐに退団届を出した。無論女王には惜しまれたし、直接任務に赴けずとも騎士団に残れば良いとも言われた。
しかしそれは断った。万が一のことが部下に、仲間に起きた時、駆け付けることが出来ない統率官など居てはならない、とリスタは言った。
退団届が受理され、すぐに手続きが取られた。次の統率官は既に指名してある。本人の了承は勿論、他の部下たちからも異論の声は上がらなかった。
勇退、というには少し情けない状況だとは思う。けれども、大切な部下を守っての負傷だから、後悔は一切していない。騎士団を発つとき、リスタはそう言った。
見送りに立つ弟に振り向いて、笑いかける。少し泣き出しそうなその顔は、リスタが騎士団に入団するからと家を発った時に見たそれとよく似ていた。
「風隼を、頼むぞ」
クオン統率官。そうリスタに呼ばれ、クオンはすっと背筋を伸ばす。
兄から弟への言葉ではなく、"元"統率官から、"新"統率官へ向けての言葉。それを受け止め、クオンは力強く頷いた。
「任せてください」
少し硬い声でそういったクオンを見て、リスタは破顔する。そしてぐしゃぐしゃと彼の頭を撫で回して、言った。
「お前なら、できるよ」
何といっても、俺の弟だ。頼もしく勇ましい、風隼の騎士だ。そうリスタは彼に告げる。その言葉にクオンは照れくさそうに、少し泣き出しそうに笑った。
***
ゆっくりと、歩き出す。馬車を呼ぼうか、と部下たちに言われたが、全て丁重に断った。これから一生この足を使っていかなければならないのだ。甘えることを覚えるのは、もう少し先で良い。まだ、この足で歩いていきたい。
「兄さん!」
城が漸く見えなくなった辺りで、クオンの声がリスタを呼び止めた。何か忘れ物でもしただろうか? そう思って振り返ると、心配そうな顔をしている弟と、目があった。
「……行先は、決めてるの?」
彼が退団を決めてから、その先の話はあまりしなかった。兄が居なくなった後の騎士団の想像が付かなかったのだ。……つけたくなかった、が正解かもしれないが。
けれども兄の進路は気になる。騎士団はそれなりに給与は良いといっても、これから一生遊んで暮らしていけるほどの余裕はないはずだ。かといってクオンが仕送りでどうこうしてやれる訳でもなし、そもそもこれから先何処でどう暮らしていく心づもりなのかを一切聞いていなかった。
そんなクオンの問いかけに、リスタは何てことないように笑った。
「一旦は、家に帰るよ。まぁ、ずっとタダ飯食いで家に置いてもらえるとは思ってないから、どうにか職は探すけどさ」
少しお道化たように肩を竦め、苦笑まじりにそういう彼。
実際、クオンとリスタの家は怪我をして帰ってきたからといって面倒を見てくれる程甘いものではない。そのことを一番よく知っているのは、彼ら自身だった。
「職を探すっていったって……」
「事務でもなんでもやっていける。大丈夫だ、心配しなくて」
そう言って、リスタは不安げにしているクオンの頭を軽く撫でてやった。
リスタ自身、不安がないといえば嘘になる。流石に家を追い出されるまではないだろうけれど、白眼視されることは目に見えている。けれども一人で生きていける程リハビリが進んだ訳でもないし、騎士団に居残ることは一切考えていなかった。
まぁどうにかなるさ、とリスタは笑う。実際どうなるかはわからないけれど、こうすると決めたのは自分だから、と迷いなく、彼は言うのだ。
それを聞いてクオンは少し複雑そうな、何か言いたげな顔をした。幾度か口を開きかけて、すぐに俯く。
「……何かあったら、いつでも頼って」
そう、消え入りそうな声で言って、クオンはぎゅっと兄に抱き付いた。その体は小さく震えている。兄から離れたくない、兄を離したくない。そんな想いに必死に耐えるように。
大切な、ただ一人の味方。彼と離れて生きるのは少し不安だけれど、とリスタは微笑む。
「大丈夫」
昔から弟にかけ続けた、自分に言い聞かせ続けた言葉を呟いて、リスタは優しく弟の頭を撫でてやったのだった。
第二十一章 Fin
(ギブソン:決心)




