プロローグ 『風間翔という人間について』
後悔はいつも後からやってくる。
そもそも後悔先に立たずという言葉があるように、後になって悔やむから後悔なのだ。
行き当たりばったりな行動はいつものことで、そんな人生を送っているからこそ、後悔するのだろう。明日のことだとか、将来のことなんて考えたこともなく、ただ、今この瞬間を生きられたらいいと思っている。
なんて計画性のない人間だろう。
大半の人間はそんな風に思うし、それが現実なんだと思う。
楽天的だとか、夢のないつまらない人間だとか、例え言葉を変えたとしても、こんな風に言われるに違いない。だが、実際のところ、そんなことを言われたとしても、まるで実感がわかないのだから仕方がない。
先のことを見据えて、今何をしなければならないのか。何を成さねばならないのか。実際にその時になってからでなければわからないのだから、実感できなくて当たり前なのである。そういうことができる人間は、大層高貴なお方に違いない。そう皮肉ってやる。
平凡な生まれ、平凡な日常、ありきたりな人生。それの何が悪い。
最初から、ずっとこうだし、これからもそうだ。
今が楽しければそれでいい。真面目に将来のことを考えるなんて、そんな窮屈な人生は送りたくない。そういう考え方こそ、子供らしさだと思っているし、この年代だからこそ許される特権だとも思っている。
決して賢い生き方ではなく、頭の悪い考え方だというのは重々承知の上だ。それでも賢い生き方というのが、どうしてもイコールとして幸せに直結するとは思えないのだ。
とはいえ、こんなことを考えている時点で、子供っぽさなんてどこかに置き忘れてきたのかもしれないと、自覚している自分がいるのも事実だ。
早く時間が過ぎないかと、授業中であるにも関わらず、教師の話を適当に聞き流していたショウは、窓の外に向けていた視線を正面に向けた。
この行動は別に、改心して授業を真面目に受けようと思ってのことではない。
教壇の前に立つ歴史の教師を見たわけでも、白いチョークによって無数の文字に埋め尽くされた深緑色の黒板を見たわけでもない。ショウの視線の先にあるのは、更にその奥、黒板の上部の壁に立てかけられた、二本の針が円を描くアナログ時計だ。
二本の針は、短い方が二と三の間を、長い方が八をそれぞれ示していた。
二時四十分。本日最後の授業である歴史はその半分が終了したと言える。逆に言えば、まだ半分も残っているとも言える。
もちろん、ショウは『まだ半分も残っている』と思う側の人間である。
大して熱の籠らない教師の声が鼓膜を刺激する。今やっているのは、人類大量消失事件と呼ばれる史上最大の謎の事件である。この事件によって当時のほとんどの情報を始めとした技術が失われた。
軽くため息をついてから、ショウは教師の話を再び聞き流して、窓の外へと視線を戻した。
授業というのは実に退屈だ。
自慢ではないが勉強はできる方だ。特にこれといって勉強なんてしなくても、それなりの数字は取れる。教師から目をつけられるようなことさえしなければ、息苦しい生活とも無縁だろう。
目立たず、目立たなさ過ぎず、その絶妙なバランスを保つことが重要なのだ。
だからこそ、見た目も至って普通に徹している。耳に少しかかる程度の黒髪に、まだまだあどけなさの残る子供っぽい顔つき。身長も高くなければ、特別低いわけでもない。ありふれた、その他大勢の中の一人にして中学生。それが、風間翔という人間の位置づけだ。
――今日は帰ったら何をしようか。
残りの授業時間をやはり話半分に聞き流しながら、ショウはそんなことを考えていた。
教室の窓から見える深央地区の風景は、都会のような高層ビルが立ち並ぶわけでも、田舎のように山と畑が見えるわけでもない。何の変哲もない住宅街が広がり、よそに比べれば、街路樹も多い、人工物と自然物が程よく混ざり合ったものだ。
深央地区の中でも、ショウの通う第二深央中学校は最南端に位置し、北に向かうほど都市計画が進んでいる。中でも東西に伸びる国道七八一号線に並列して走る最寄りの深央南駅は、とある事情もあり、南端最大のターミナルとして建設された。
真新しいターミナル駅が中央に鎮座し、住宅街を縫って、西へと車両を走らせる。この何の変哲もない風景を、校舎三階の教室から見渡すのが格別だ。なぜなら都心部と違い、視界を遮る高層物がないからだ。
幼少のころは住宅街すらなく、家が点々としていたことを思い返すと、なんだか感慨深い気持ちにもなる。
もともと、この地の名前である深央も、一歩踏み込めば二度と出られない深い森の意と、この付近がほぼ中央に位置することで深央と呼ばれるようになったらしい。
さすがに樹海のような人の住んでいなかった時代は何百年も前の話なので、本当か嘘かは定かではない。地名の由来の一説で、一度どこかで聞いたことがある程度の雑学である。
授業中はいつもこうやって、どうでもいいことを思いながら、窓の外を一望している。
ここから見える風景が本当に好きで、これさえあれば、わざわざ遠出してまで景色を見に行こうとは思わない。なぜなら、身近にあるもので普通に幸福を感じられることが本当の幸せだと思っているからだ。
しばらく呆けたまま窓の外を眺めていると、空が微妙に変化していることに気づいた。
今日は朝から日差しが眩しいくらいの天気で、午前中こそ洗濯物を干す絶好の天気日和だった。主婦でもないショウがこんなことを思うのもいささかおかしなことだが、そういう天気だった。それがどうしたことか、すっかり黒みがかった曇り空に変わっていた。
これは、一雨くるなと思った矢先、空から水滴が降り注いだ。
「降ってきたな」
不意に、右隣に座るクラスメイトが言葉を発した。どうやらそれはショウに向けて放たれたものだった。
どちらかと言えば、人付き合いはあまり得意な方ではない。そのため、普段は一人を好んで行動する。
当然、校舎内での会話はほぼないに等しいのだが、一人だけ心を許している人間がいる。授業中であるにも関わらず、ショウに対して話しかけてくるのはその人物をおいて他にはいない。
彼は、百八十センチとクラスでもかなりの高身長であり、爽やかな顔と清潔感漂う短めの黒い髪。紺色のブレザーは新品をおろしたばかりのように綺麗な折り目がつき、身だしなみにも気を使っているのがよくわかる。教師からは模範的な優等生として可愛がられている。
その優等生という立場上、彼は教師に聞こえないように声のトーンを落としていた。
「そうみたいだな」
ショウは窓に向けていた顔を反転させ、ひそやかに返した。
教師は二人の会話に気づくことなく、右手に白いチョークを持ち、変わらず黒板に文字を走らせていた。
他人事のような台詞に、親友である雪村正志は呆れた口調で続けた。
「そうみたいだな……って、今日傘持ってきてなかったろ。これ結構降るらしいぞ」
「どうするもこうするも、傘がない時点でどうしようもないだろう。考えるだけ無駄なんだし、それに濡れるだけだろう?」
そこで一旦会話が途切れた。
別に教師に見つかったというわけではない。現にやる気のない声で授業を続けている。
マサシは、あまりの無関心ぶりに何を言ってもだめだと諦めたのだ。
なるようになる。楽しいと思えば何でも楽しいものだ。もはや口癖となったこのフレーズをことあるごとに聞かされてきたマサシからしてみれば、早々に諦めに入ったのは正しい選択である。そういう考え方だからこそ、友達が少ないのだ。全ての物事に対して、異常なまでに無関心で、会話は続かず楽しくない。いわば、一緒にいて退屈な人間なのだ。
そんなショウとこうして付き合っているマサシは、彼にとって良き理解者であり、一番の親友といってもいい。
マサシと出会ったのは小学生の低学年だ。
当時から、マサシは運動神経抜群で、学校ではどんなスポーツもできてクラスで一番目立っていた。その上、成績優秀で中学受験の際には名門私立・聖蘭学園の受験に満点合格するなど、才能を遺憾なく発揮していた。
かたやクラス一の有名人、かたやクラス一の空気。接点と呼べるものはまるでなかった。
幼少期のショウは、両親が家にいないこともあり、唯一の兄弟だった姉が大好きで常に背中を追いかけて育った。その姉が突然の失踪。心の拠り所を失った寂寥感から、完全に塞ぎ込んでしまったショウに、一番熱心に心配し、声をかけたのがマサシだった。
それ以来、マサシは常に隣にいなければならない存在になっていた。とはいえ、あくまで一方通行の感情にすぎないということは、幼いながらに理解していた。視点が変われば、マサシにとってショウはその他大勢の一人でしかないと思っていたからだ。
聖蘭学園中等部の入試試験に合格したと聞かされた時、終わったんだと理解した。学校が変わっても友達は友達だ。そんな言葉を期待し、マサシに向けた時の顔はどんなものだったのかを、本人であるショウは確かめようがない。それでも何かが通じた。
翌日、ショウと同じ学校に行くと、親と喧嘩したと笑って話された。堪えた涙が目を赤く腫れさせ、心の底から嬉しかった。そんなやつだからこそ、心を許せる親友なのだ。
こんな時間がこれからも続けばいいのに。
そう思いながら、激しさを増した無数の水滴が窓ガラスを殴る様を眺めつつ、うとうとと眠りについた。